埋めたかの熱日
ざわざわと喧騒が聞こえる。蝉の声がして、電車の音が遠くから届いた。線路の向こうに顔をやると、反対の路線に姿を現した。袖をわずかずらして腕時計を見ると、あと十分は待たなければなりそうだ。
雑に入れた紙袋から、花を包んでいたビニールを避けてタオルを取り出す。汗がひどく流れ出る。それなのに袖をまくることも出来ないまま、より日陰に足を引く。昔はここで過ごしたのに、冷房の効いた待合室がないと考えてもいなかった。首筋をぬぐうと皮ふがひきつれるようで、サングラスの下で眉根を寄せた。向こうの電車が発車する。
制服をなびかせ階段を登ってきた少女が、きょろきょろと線路を見て、時計に目をやり手の甲で汗を拭ってから階段の奥に移動した。続いて、同じ制服の男女が数人続いた。少し見てから、ああ、うちの学校の制服か、と思った。もう二十二年もデザインは変わっていないようだが、素材が変わったのか、気づかないどこかが変わっているのか、印象が違う。
あまりじろじろ見るわけにもいかないので、すぐに視線を線路に戻す。ホームの下に落ちたペットボトルのごみや、濃い影を。私の後ろに女子高生が三人並んだ。
「マジあのクソ教師むかつくよねー」
「ほんとほんと。熱血は一人でやってろって感じ」
「アイツさえ居なきゃもっと休めんのに」
制服の丈が膝まであっても、女子高生の声の高さも大きさも、それから粗雑さも同じらしい。背中の声をひっそり聞いて笑ってしまう。部活動だろうか、補習だろうか。良い思い出のない場所でも懐かしさに輝いている。真っ黒いズボンが日光を集めているようで、おおげさにならないよう動かした。筒の中で空気がねっとりまとわりつく。
背中がびしょびしょに濡れている。もう一度タオルを取り出して、首回りを拭いた。夏の暑さに、女子高生の声も尖っている。
「つーかまじエンマ様に頼みたくない?」
「えー?」
「エンマ?」
「名前書くあのウワサの」
「あっは! それエンマじゃなくエンミ様!」
「エンミ? エンマじゃん?」
「あたしそれ知らないんだけど何?」
振り向きそうになってこらえた。私にとってもなじみ深い名前だった。エンミ様、エンマ様、言い合う彼らに正解を教えてあげたくなる。正しいのはエンミ様だ。少なくとも私の時代にはそうだった。けれどこんな紛らわしいものがよく今まで正しく続いている、とも思った。
女子高生らは自信満々の正しいひとりに推されて、「エンミ様」に落ち着いたらしい。それよりも「結局何ソレ?」という声に応え始めた。
「うちの学校の怪談。七不思議ってやつ?」
「他の不思議知らないけどね」
「そんなんあんの?」
「あたしも先輩に聞いたんだけどさ」
ああ、ほかにあった不思議は消えてしまったのか。あのころは鏡や花子さん、階段なんかもあったのに。
それだけきっと、「エンミ様」が際立って色濃い。
最盛期に通っていたことを思い出して、俯いた。電車はまだ来ない。押しつけるような風が吹いて、サングラスの下を汗が垂れた。
「紙人形に嫌いな人間の名前を書いて、エンミ様のとこに埋めると、その嫌いな人間が怪我したり病気したりするんだって」
「呪いじゃん、怖っ」
「でも一週間くらい動けないだけって言ってたじゃん? うわマジやろっかな、エンミ様ってどこ?」
「さあ」
「一番重要なトコ!」
きゃはは、と明るい声。失伝していることにいささかほっとした。当時エンミ様の前はたくさん掘り返されて、埋められた紙端が見えていたものだ。
それで生徒も教師も、実際何人も学校を休んだ。呪い返しやバリアの方法がいつも更新されて、アクセサリーに数珠を巻いた生徒も居たくらいだ。今じゃたどり着けないけれど、エンミ様の前、地面がじっとり湿っていたことを覚えている。
私は彼のノートを勝手に一枚破き取り、ことさら丁寧に切り取って、名前の漢字を間違えないよう練習までして、そうして深夜に家を抜け出し埋めに行った。カエルが鳴いていた。空は晴れていて、蒸し暑い、いつもの熱帯夜だった。
首の汗を拭う。サングラスをずらして、額の汗も。顔に近づけると、タオルから線香の匂いがした。湿っている。なにもかもが、湿っている。
エンミ様にお願いするときのルール。
埋めるとき、人に見られてはいけない。相手の名前は自分で書かなくてはいけない。自分で埋めなければいけない。相手が怪我や病気をしなくても、一週間以内に掘り返しにいかなくてはいけない。掘り返した紙は、土を払い、燃やさなくてはいけない。
後ろの少女らも、しかつめらしく気取った間で同じルールを話している。正しい伝言ゲーム。他が正確なだけに、やはり場所を伝えないのはわざとなのだろうと思った。もしかしたら、エンミ様はもうアパートや道路の下になっているかもしれない。
すぐ近くで突然蝉の声。びくりと肩を揺らして見上げるも、姿は見えない。女子高生はちっとも気にしないまま、蝉と張り合う高い声。
「燃やさなかったらどうなんの? 埋めたままにしたら?」
「怪我どころじゃなく死んじゃうんだって」
「うわっ、怖っ」
試したひとが居たってことでしょ。
そうだよ、と心の中で返事。そうだよ。居たんだよ。
私が名前を書いた彼は、一週間何事もなく過ごした。彼を殺したいほど恨んでいたかと言われればそんなことはない、でも埋めてから効果がなかったからエンミ様なんてデマだったのだと思って放っておいた。
じっとりと汗をかく。皮ふの間に汗が染みてゆく。あのときと同じ夏なのに、記憶のそれは色を失っている。埋めてから一週間経った翌日、彼は突然倒れた。原因不明の重態だった。
突如意識を失ったまま、ぴくりとも動かない。はじめはただ驚いて心配したものだが、誰かが呟いた言葉にはっとした。エンミ様だ。
「しかもね」
少女がもったいぶって、重々しく、裏の喜悦を隠さずに手で口元に壁を作った。喉が渇いて紙袋に手をつっこむ。横たわったペットボトルは小さくないくせなかなか出てこない、束ねた紙をはずしてしまった線香が散らばって指に触れる。口の開いた袋から出た緑がぼこぼこ質感を伝えてくる。
朝に買った清涼飲料水は、もうすっかりぬるい。ひとくち。ふたくち。「こっからが怖いんだけど」少女が続ける。
「埋めた生徒は恐ろしくなり、すぐ掘り返しにいった。まだ間に合うはずと信じて。……しかし掘り返した場所には、紙人形がふたつ。どっちが自分の埋めたものか? 生徒は二枚の名前を見る。片方はもちろん自分が書いたもの。そしてもう一つには、……なんと生徒自身の名前が書かれていたのだった!」
「うわー」
「突然の怪談調」
「まだいいとここれからだから。……恐ろしくなった生徒は、自分の名前が書かれたものも持ち帰り、急いでライターで火を付けた。その瞬間!」
口が渇く。まもなく列車が参ります、とアナウンスが再生される。
盗み聞きをやめる気になれなくて、軽い口調の彼女らに、どうか最後まで話してくれよ、と思った。汗は拭いてもじっとりと伝い、服にいびつな波を浮かばせている。
「ボッ! と自分の体が燃え上がり、生徒は悶え、救急車で運ばれた。病院はくしくも呪った相手と同じ場所で、二人は紙人形が燃え尽きると同時に命を落としたという……。」
がたん、がたたん。電車の姿が見えて、女子高生らが笑っている。アレと心中すんのはまじゴメン、と。
「でもちょっと涼しくなったんじゃん?」
「いやー微妙?」
「そう? あたしちょっとぞっとするわあ」
清涼飲料水を飲みきってしまい、あたりを見回すもゴミ箱はない。キャップを締めて持って帰るかと思ったのに、汗ばむ手はキャップを取り落とした。そのまま転がって、線路に落ちる。
噂話というのは、いつも少しだけ大袈裟だ。
キャップが入ってきた電車の下敷きになる。口の開いたペットボトルを手に提げる。張り付く袖の隙間を汗が伝い、焼け爛れた皮ふをなぞって手首から落ちた。
次にここを訪れるのは、四年後になる。そのときも、きっとまだ少し大袈裟な怪談が伝わっているだろう。もしかしたらエンマ様と言われているかもしれない、と思って少し笑った。ほんの二十二年前の、あの熱さはもう夏に上書きされている。