ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
2 愴
 午後三時を回った。のんびりとした鐘の音が、茜色の空を突き抜ける。
 それにしても。熟れた柿を薄くのばして、そのまま貼付けたような夕焼け空だ。
 いつもなら、今頃は青子と一緒に帰っているはず。でも、今日は一人で教室を飛び出した。『さっさと用事を済ませてくっから先帰るぜ。じゃーな』と、尤もらしい理由を付けて校舎を後にした。

 晩秋を知らせる冷たい風が、頬を掠めていく。快斗は、目にかかる前髪を手の甲で払いのけた。そして今一度、鮮やかな橙の空を睨み上げた。
「仮に、あのクソ気障ヤローがロンドンにいたら……、向こうは朝の六時過ぎか」
 白馬探は、朝五時零分零秒に起きる。そして、白馬フィルハーモニー管弦楽団とやらが、白馬探のために演奏した『我らが愛しき白馬探に捧げるパヴァーヌ』を全バージョン聞きながら優雅に英字新聞を読み、唯一の友ワトソンと戯れるのが日課だ、とかほざいていた。
 きっと起きている。

 もし探が、青子からキッド探索の依頼をされれば、協力すると言うだろうか。
 言うに決まっている。そう言う奴だ。
「先手必勝で行くしかねぇな。だったら……まず、時間稼ぎでもしとくか」
 白馬探を足止めしておくこと。これは必須事項である。

 ざっと四百メートルは歩いたと思う。江古田公園が見えてきた。と言うことは、駅まで後十分くらいか。ふと、公園で遊んでいる子供達が視界に入った。 五、六歳くらいの男の子四人と、彼らを見守るような形で三十歳くらいの女性が三人、近くのベンチに座っていた。数分後、母親の手に引っ張られた男の子三人が皆、ブランコに座ったままの男の子に手招きをしている。見るからに活発そうな少年だ。やや吊り上がった二重瞼の大きな瞳に、丸刈りを一ヶ月放っておいたような黒い短髪。その男の子は、何度も首を横に振りながら、
「先帰ってよ。パパと待ち合わせてるから」
 と気丈に言い放ち、後ろめたそうに歩く三組の親子を目で追っていた。
 そして、誰もいなくなった。
 男の子はサッカーボールを足で転がしながら、携帯電話をいじっていた。長細い自分の影を見つめる眼差しは、どこまでも遠く、まるで捨てられた仔犬のように弱々しかった。

「となり、空いてるよな」

 はっとして男の子は左隣を見た。そこには、ブランコに座り、軽くそれを漕ぎ始めた快斗がいた。

「別にいいけど」
 可愛いげのない子供だ。
 マシュマロを頬張ったように頬を膨らまし、きつく睨み付けてくるその男の子を快斗は横目で追った。すると、男の子は首にかけていた携帯電話を突き出した。
 快斗はブランコを止めた。そして、水戸黄門の格さん気取りで印籠を突き出す男の子と向き合い、真顔と化した。

「……、何の、真似だ?」
 その冷たい声音に、男の子は一呼吸分置いて白い歯を見せた。
「ボクを誘拐するつもりなんでしょ? 無駄だよ。すぐ足がつくから」
 いきなり何なんだよこのガキは。
 快斗はとりあえず、その居丈高な口振りになる根拠とやらを聞いてみることにした。
「このケータイにはね、超高度なじーぴーぴー機能ってのが付いてて、電源を切っても機能するんだって。まだあるんだぜ? それに、ボクがこのケータイをいじらなくなってから二十四時間が経つとね、警備ガイシャに連絡が行くようになってるんだってさ。すっげえ高いんだぜ、見た目はフツーのケータイだけどな」
「バ、バーロ! 誘拐なんかするわけねーだろっ。俺がそんな悪党に見えっか?」
 このクソガキが。じーぴーぴー機能だとか知ったかぶってんなっての。
「ヒトは見た目によらないってママが言ってた。おにーちゃんみたいなフツーっぽいヒトが、実は大悪党だったってのがお決まりなんだって、しつこく言われたよ」
 快斗の瞳が死んだ魚のように曇った。男の子が快斗に向かってサッカーボールを軽く蹴ったが、何の反応も示さなかった。
「お兄……ちゃん?」
 やがてサッカーボールが止まった。

「そうかも、しんねぇな。俺は、オメーの言う通り大悪党だよ。それも、救いようのねぇ……、な」
 男の子は咄嗟に身構え、携帯電話を開いては110を押した。でも、自称大悪党の黒羽快斗は、口を半開きにしたまま紫がかる西空を眺めている。酷く遠い目だ。
 『わっ』と驚かしても反応しないような、隙だらけの快斗を男の子は黙って見つめた。そして、携帯電話を音を立てずに閉じた。

「早く帰んな。ここで待ってても、母ちゃんは来ねぇんだろ」
 男の子は一瞬目を大きく見開いた。その後すぐ動揺をごまかすように、ブランコを漕ぎ出した。

「何で、分かったんだよ」
「分かるさ。さっき帰った母親達がびっくりしてたからな。いつもは一緒に帰るのにどうして、って顔してたぜ」
「そう見えただけだよ」
「フツー、この状況でそのケータイで早く迎えに来るように電話するだろ? でもそんな素振りすらしなかった。電話しない、つまり、だ。電話しても母親にかからねぇって分かりきってたから、電話しなかったんだろ?」
 男の子の漕ぐブランコが、もう少しで一回転しそうだった。子供でも危険だと分かるのに、それでも彼は漕ぎ続けた。
「もう暗くなるってのに、まだまだ小さい我が子をほったらかしにする母親の顔を見てみてーよ。無責任にもほどがあるだろーが。ったく、どうしようもねぇ母親だな」
「ママの悪口を言うな!」
「迎えに来るまでここに残ることにした。いいだろ?」
「お前なんかどっかいっちゃえ!」
「ここは公共施設だ。俺がいても、誰にも文句は言われねぇ」
「――出てけ、ここから出てけよ!」
 子供相手に何、むきになってるんだか。快斗は大人げないと思いつつも、男の子の次の言葉を待った。
 その時だった。
 ブランコを『漕ぎ過ぎてしまった』のだ。ブランコの描く孤が頂点に達した瞬間、無重力になった。幼い少年は、対処の仕方が分からず、大きく体勢を崩した。一直線に張っていた二本の鎖が歪む。地面との距離は約三メートル。打ち所が悪かったら、大怪我どころでは済まされない。死んでもおかしくはなかった。
「危ねぇ!」
 快斗は短く叫んだ。
 それより早く、身体が反応していた。あと一秒遅かったら、後頭部から落ちていた。その寸前で、快斗は男の子を両手でしっかりと抱えた。方向性を失ったブランコが、快斗の背中へもろに当たった。食べた物が口から出そうな感覚に陥ったが、それはあくまでもそうなった気がした程度で、実際は打撲程度で済んだ。


「大丈夫か?」
 男の子をおぶさり、公園を出た快斗は低い声で言った。
 男の子は、さっきから頻繁に鼻を啜っている。
 家はどっちだ、と聞いたが答えなかったので、快斗は江古田駅前の交番に向かうことにした。背中が部分的に熱いのは、ブランコをぶつけたせいだ。明日朝起きたら、間違いなく痣になってそうだ。いやその前に、今晩は仰向けで寝られないな、と思いながら、快斗はゆっくり進んでいく。
 いつのまにか、辺りには闇が落ちていた。西空に浮かぶ一際目立つ星が見える。これは珍しい。薄汚れた東京の空でも金星が見えるなんて。

「おい、ボウズ、見てみろよ。一番星がはっきり見えてんぞ」
 鼻を啜る音が止まった。快斗は見やすいようにと、道路の端に止まって一番星を指差した。
「願い事を唱えると叶えてくれる星なんだぜ? 昔っからそう言われてんだよ」
「パパとママ、リコン? しちゃったんだ。ボクのパパ、警察で一番偉かったんだよ。それなのに、アイツのせいで……アイツのせいで!」
 男の子が憎しみを込めて言う『アイツ』とは誰なのか、快斗には分かっていた。
 白馬警視総監が就任してから半年経った。前任の佐渡渡さどわたり警視総監は、数多くの失態が重なって引責辞任した。
 幸せだった家族をバラバラにした犯人は、怪盗キッドだった。
 以前、我が父が日本警察のトップになった経緯を誇らしげに話していた探を快斗は思い出した。
「母ちゃんとあのブランコでよく遊んだんだな」
 男の子は小さく頷いた。
「キッドがいなかったら、今より幸せだったのか」
 そして今度は大きく、力強く頷いた。
「ホラ、早くしねーと沈んじまうぞ? 一生懸命願ってみな、キッドがいなくなりますようにって。そうすれば、あの一番星より先に、確実にその願いが叶うぜ」
 少年は、快斗の意味深な言葉を言及しなかった。小さな手を合わせ、ひたすら沈みかけの一番星に祈りを込めるその姿に、快斗は弱く笑った。
「近いうちにな」
 快斗はゆっくり歩き始めた。

「キッドはいなくなっから。母ちゃん……、帰ってくるといいな」

 快斗らしからぬ小さい声音は、響くことなくすぐさま溶けた。


 駅前の交番に少年を預けた後、快斗はポケットから携帯電話を取り出した。右手には携帯電話を持ち、そして左手は右肩を触った。別れ際にあの男の子が、学ランの肩部分を強く引っ張った余韻がまだある。何の意志表示なのか。深く考える必要はなかった。
 叶うよね、と必死に同意を求める幼い子供の、純粋な意志表示だった。
「ああ、きっと叶うぜ。きっと……、な」

 快斗は、何も考えずに白馬探の番号を押していた。呼び出し音一回で出た。まるで、快斗からかかってくるのを予測していたかのような対応だった。
「やあ。珍しいね、君から電話してくるなんてさ。どうしたんだい、僕の声が聞きたくなったのか?」
 いつもならここでバーロだの、ありえねぇよなどと反論するはずだ。だが、今の快斗には全くその気はなかった。
 快斗は左手でかき集めた前髪を掴み、ゆっくりと両目を閉じたのだった。

「ああ。聞きたかったよ。オメーの声、めちゃめちゃ聞きたかったんだ」

 その言葉は、自分でも驚くほどすんなりと出ていた。そしてこの事実を、素直に認めた。  墓場まで持って行きたかった最大の秘密を暴いた者、暴かれた者の間に生まれた奇妙な共有感。それにすがる快斗は、弱々しく首を横に振り続けた。
「よお白馬、俺は、オメーの声が聞きたかった? そうだ、聞きたかったんだよ」
 更に、もう一度言い聞かせるようにして言う。
 受話器越しにいる最強のライバルは、笑い飛ばさなかった。と、その時。

 雨が、降ってきた。 

 それもスコールだった。歩行者が建物へ避難していくのに、快斗だけ直立不動のまま探の応答を待っていた。水分を充分に含んだ前髪が、顔の半分以上を隠した。ずぶ濡れになった黒髪の尖端から、大粒の滴が次々と滴れ落ちていく。笑っているのに、口角が震えていた。
 最初、少年の父親の職業を警備会社の社長にしたんですが、試行錯誤の末警視総監に変更しました。その方が応用が効くし、今後白馬が取る行動の幅が広がるんで。快斗の、白馬に対する感情が百八十度変わっています。まず原作では言わない台詞、お年頃の快斗は複雑なんです。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。