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1 走
 夜遅くなっても父・銀三が帰って来ない。いつもは全く耳に入らない秒針の音が、青子の胸に刺さり始めた。
 そして一通のメールが届いた。青子は送信者名を確認した瞬間、ためらいなく携帯電話を折り畳んだ。今、ちょうど二十二時を回ったところだ。内容を見なくても分かりきっていた。だから、見なかった。見る必要がなかった。
 『今夜は帰れない。飯は冷蔵庫に入れといてくれ』
 それは、父と娘との間に生まれた常套句だった。別におかしくもないのに、笑みを浮かべる。これもお決まりの流れだった。

「頑張って作ったのにな。今日のおかずは、お父さんの大好物だったのに……」

 誰に聞かせるわけでもなく、青子は声を出して言った。今にも押し潰れそうな、儚げな声音だ。
 数秒経ってから、黙々と茶碗と箸を二セット閉まった。もちろん鯖の煮付けや肉じゃがも、冷蔵庫にしまった。二人用のこじんまりとしたテーブルには、台拭きだけが置き去りになっていた。
 朝刊の一面記事が頭に浮かぶ。髪が乱れるほど強く首を横に振っても、頭の奥深くに纏わり付いて離れないのだ。シルクハットを目深に被り、気障なポーズを決める『大悪党』の映像が。
 聞こえてくるのはテレビの音だけだ。どうやらお笑い番組のようだ。だが、テーブルの上に配膳した夕食の背景音としては失格だった。銀三が絶対に帰ってこないと確定した以上、それは青子にとって耳障りとなっていた。
 十七歳と言ったら、もう立派な大人だ。一人ぼっちで寂しい。そんな感情は卒業した。でも、母の遺影と向き合うと、急に目頭が熱くなり、唇を噛み締めるのだった。

 青子は自室まで行き、母の遺影を手に取った。料理が上手で、おおらかだった母。笑うとえくぼが浮かんで。思い切りひっぱだかれたこともあった。叶うならば、また叱って欲しい。けれど。
 写真嫌いだった母親が、急に写真を撮ると言い出して写真を撮った。確か、亡くなる三ヶ月くらい前だったと思う。無理して笑っているのが見え見えで、シャッターを押す指が震えていた。撮っても撮っても撮り足らなかった。

 ねぇ、青子。約束して。 私の代わりに、出来る限り一緒に晩御飯を食べてね。
 ふふふ。青子は私とそっくりだから。鬼に金棒、私の味付けと青子。あの人はまだ、寂しい思いをしなくて済むんじゃないかし、ら……。

 そう言い終えた母は、ゆっくりと瞼を閉じた。瞼が、再び開くことはなかった。

 青子と亡き母との約束は、それからずっと続いた。銀三はなるべく早く仕事を切り上げ、父子二人だけになった団欒の時間を大事にした。それが痛いくらいに伝わってきたから、青子の心はまだ満たされていた。

 怪盗キッドが再び現れるまでは。


 翌朝、教室内は怪盗キッドの固有名詞があちこちで聞こえた。青子は、後ろの引き戸から入り、踏ん反り返りながら新聞を読む快斗の後ろ姿を見た。その後ろ姿は、まるで手柄を上げた人間が優越感に浸っているように誇らしげだった。肩が笑っている。何がそんなに嬉しいのか、訊いてもまたいつものようにはぐらかされるだけだ。
 青子の目には、今回も余裕で警察を出し抜いた怪盗キッドが目の前にいるかのように見えた。

「よ、おはよー青子。今回も大敗だったな、トイレの個室で悔しがってる中森警部の姿が浮かんでくるぜウケケケ」
 最近便秘気味だとぼやいていた銀三なら確かにありえそうだが、青子は口元が緩みっぱなしの快斗から目を逸らした。快斗は二、三大きく瞬き、新聞を雑に折り畳んだ。
「どーしたんだよ。いつもならぎゃんぎゃん噛み付いてくるくせによ。朝変な物でも食ったのか?」
 青子は教科書類を机の中に入れる作業を始め、その質問を無視した。快斗の口元が歪む。握った拳の中から次々と紅い薔薇を出していくが、青子は一瞥すらしなかった。過去に二度、時計台の前で出した深紅の薔薇と全く同じだったのに。
「おいおい、どーしたんだよ。キッドが圧勝すんのはいつものことじゃねぇか」
「快斗は、晩御飯どうしてるの?」
「へ?」
 唐突な質問に、快斗の動きが止まった。机に両肘を付き、ほぼ直角に首を垂れた青子の姿が、快斗の瞳の中心に映った。
 快斗と青子の周りだけ、喧騒が消えた。沈黙が入り込む。快斗は方々に伸びる横髪を鷲掴みにしながら無造作に掻いた。

「家で食べてるぜ。ホラ、俺ん家って親父がいねーだろ、お袋が寂しがんないようになるべく一緒に食べてる」
「青子もそうだったよ」
 青子はだった、の部分を強調して言った。窮屈そうに学ランの詰め襟を外した快斗は、椅子に胡座をかいてけだるそうに続けた。
「親父の遺言みてーなもんなんだけどな。若い頃の親父と俺が似てるらしくてさ、もし自分が死んだ時にはお袋が寂しがんねぇようになるべく一緒にご飯食べてくれって言ってさ。縁起でもねーこと言うなよ、とか言ったけどまさか……、本当に死んじまうとはな」
 快斗の語調が急に弱まった。だが、青子はそのあからさまな変化も受け流した。
「だから、さ、俺はなるべく一緒に食うようにしてる。親父の代わりにな」
「青子もね」
 辛うじて聞き取れる声音だった。快斗は少しだけ目を細めた。
「青子もね、そうだったんだよ。いつもお父さんと一緒に晩ご飯食べてた」
 青子は両手でプリーツスカートを握り締めた。寄り合った皴を集める小さな手は、微かに震えていた。

「キッドが現れる前まではね」

 快斗は口角を持ち上げ、長い息を吐いた。
「キッドが再び現れてから、お父さん目の色変えちゃって。予告状が届いた日から警察に泊まり込んでるの」
「そうだと思うぜ」
「でもね、前は違ったんだよ。青子が作った料理を食べに、家に帰ってきてくれた」
「クソキッドだな」
 快斗は唾を吐き捨てるように言い捨てた。
「逆恨みだけどね。でも。キッドさえいなければ、キッドさえ現れなかったら……、お母さんの約束、守れたの……に。キッドなんかだいっきらい。キッドなんか、キッドなんか……」
 最近、母の遺影が変わったように感じる。絶対にありえないことだが、悲しそうに、そして寂しそうに見えてくるのだ。
 キッドのせいで、母の約束が果たされていない。約束を、破ったままになっている。
 不可抗力だなんて言い訳だ。最愛の母を、裏切り続けている。それが、現実。
「悪い奴だよな、キッドって。早くいなくなればいいのに」
「いなくなる? 逮捕されればいいのに、じゃないの?」
 前髪に隠れ、顔の半分以上が見えない快斗を青子は見つめた。
「アイツがいなくなれば逮捕する必要がなくなるだろ? 全てカタがついて、キッドがキッドをやる必要がなくなれば、中森警部は前のように家へ帰ってくるだろ」
「じゃあ一緒に捕まえよう!」
「はいぃ?」
 青子の威勢いい声に、快斗は椅子から滑り落ちた。彼女の両目尻は、まるでセロハンテープで固定したかのように突っ張っていた。
「俺の話聞いてた? キッドがいなくなればいいのにって言ったけど捕まえたいだなんて俺ひとっことも言ってねーぜ?」
「グズグズしてる青子なんて青子らしくないでしょ?」
「そりゃまあ、そーだけど……」
「いなくなるのを待ってるより、積極的にこっちが捕まえた方が早いし確実でしょ、快斗もキッドが嫌いなんでしょ、だったら一緒に捕まえよう!」
 青子は、口元が引き攣る快斗の吐息がかかる距離まで近付いた。
そしてすぐに、快斗の学生鞄に目を光らせた。鞄の中を漁り、最新機種の携帯電話を掴み取った。
「な、なな何するつもりだよ?」
「白馬君の連絡先教えて。青子、必要ないと思ったからアドレス帳に入れてなかったし」
「ぎゃわああぁっ! ち、ちょっと待て青子、プライバシーの侵害だぜ? 勝手に見るなーっ」
「見られちゃマズイ番号とか入ってるワケエェ?」
「そんな、んなもん入ってるワケねーだろ!」
 青子にとっては運悪く、そして快斗にとっては運良く、青子は最新機種の携帯電話を上手く扱えなかった。動作にもたついている一瞬の隙を見て、快斗は青子から黒光りする携帯電話を分取った。快斗の、脂汗だらけの端正な相貌は、新品な携帯電話よりてかっていた。更にどさくさに紛れて、アドレス帳から白馬探の名を消した。
「何よもうっ」
「白馬の連絡先さ、前のケータイには入ってたと思う。そーだ、そーだそーだそーだ、そうだったそうだったそうだった! せっかくの新しいケータイがけがれると思って奴の名前を消したんだった。そーだよ、そーなんだよアハハハッ」
「気持ちは分かるけど……、じゃあ、家に帰ったら青子に白馬君の連絡先教えてよ?」
「あ、ああ! ソッコー教えるしな」
 このタイミングで鐘が鳴り、それとほぼ同時に前の引き戸が開いた。猜疑に満ちた青子の視線から逃げるように、快斗は一時間目の用意をし始めた。




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