空、光明の訪れよ
大学には、アドバルーンのバイトが休みの日だけ、時々顔を出す生活がつづいた。
夏になり、母を見舞いに行った後、俺は籍だけ置いている大学の剣道部の部室に顔を出した。
「こんっちゃあッ!」
詰め襟の学生服に身を固めた下級生の集団が一斉に立ち上がり、いつもの奇妙な格好で頭を下げた。
「変な挨拶は止めてくれ。何度いったら分かるんだ…。そういうのが嫌で、俺はこの大学の剣道部に馴染めなかった」
「先輩は試合にだけ出てくれればいいんですよ。今年もよろしくお願いいたします」
俺はポケットから封筒を出して、窓際のソファーに座っている四年生達に差し出した。
「退部届?」
部長は封筒を受け取り、中を確認すると、
「三年間、世話になった。無理を言ってすまなかった」
深々と頭をさげた。
母の病状がいよいよ切迫しつつあり、また、アルバイトに明け暮れなければ学費すら捻出できない窮状を、部長はよく理解してくれていた。
「お前にこれ以上、試合で無様な思いはさせたくなかったんだ」
「稽古、さぼってばかりだった。迷惑かけた。申し訳ない」
俺は部員全員と、一人一人、握手を交わした。
送別会の相談をはじめた後輩達に、
「馬鹿野郎。大学までやめる気はないんだ。なんとか、卒業だけはするつもりなんだから、…廊下で会っても、もう、変な挨拶はするな」
体育会のサークル棟を出ると、七月の太陽が西の空に傾きつつあった。建物の影が学園の広場に幾つか長くのびていた。
影の中で警備員が伸びをしていた。
おれは飯を食っていなかったことに気がついて、学食にむかった。
思い立って、商業高校の裏手の定食屋に進路を変えた。
「一平」は老夫婦が切り盛りする、古びた食堂であった。
耐用年数をとっくに過ぎている木造二階建てを、騙し騙し、使い込んでいる様子の店であった。
暖簾をくぐり、窓際のテーブルに座った。
客は俺一人だった。
窓の外から、ギターの弦を爪弾く音が聞こえてきた。
網戸越しに見た。
商業の寮の裏庭で、オンちゃんが、少し前まで高校で使われていたであろう木製の勉強机の上に座り、倒れた椅子に組んだ足の片方のスニーカーを置いて、膝に載せたフォークギターを演奏しながら歌いはじめていた。
透き通った音色でありながら、腹式呼吸のよくできている、呟くような歌声であった。
子守歌を歌うように抑揚の少ない曲を、ゆっくりゆっくりと囁くみたい発声していた。
天地を包む雪の色
その寂バクの冬去りて
緑の大野見るごとく
暗より明けし北海の
空光明のおとずれよ
まるでそのまま、彼女自身が詩の中の風景に置かれたような歌い方であった。
彼女の目線は確かに、闇から明けたばかりの厳しい北の海を見渡していた。
俺は網戸を開き、
「隣りの男子校の校歌だろ」
「お兄さん!」
オンちゃんはギターを勉強机に立てかけるや、組んでいた足を跳ね上げて、こちらに飛んできた。
「男子校の体育館から、しょっちゅう聞こえてくるのよ。もういい加減覚えちゃった」
「有名な人の作詞らしいなァ。確か…」
「土井晩翠さん」
「野郎の声でしか聴いたことなかった。女の子が歌うと、ぜんぜん雰囲気ちがう。
実際より、かなりスローテンポだった。聴きほれていたよ」
「去年、初めて聴いた時は、恐ろしさばかりだったけど、こんなにいい詩だとは思わなかった。信じられる? この歌うたう時、私、本当に天売島の断崖に立っているのよ」
俺はカツ丼を喉にかき込み、
「どうしてそんなに歌うまいの?」
彼女は遠ざかりながら、声だけで、
「爺ちゃんがね、…」
足音につづき、自転車をこぐ音が聞こえた。
オンちゃんはスポーツタイプの自転車に乗ったまま暖簾をくぐり抜け、自転車の前輪を店の中まで侵入させてきた。
「天売の爺ちゃんがね、江差追分の名人なのよ。私も爺ちゃんから習っていたの」
たしなめる店主の言葉に自転車を後退させて外に停車した。
店の中に入ってくるなり、俺の向かいに座って、
「私のランボルギーニで爆走しようぜ」
「だんだん、男の子じみてきたなァ。卒業する頃には、口髭たくわえてるんでないの?」
老夫婦が店の奥で笑っていた。
どうしても自分がペダルを踏むというオンちゃんを遮って、おれはランボルギーニを疾駆させた。
荷台にまたがるオンちゃんは、俺の頭を何度も叩いて、
「運ちゃん、もっと飛ばしてくれや」
オンちゃんの大声が風で切れ切れになって聞こえていた。
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