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冬の惑星
作:松尾大生



哀しきバルーン


小屋を出て、カローラのエンジンをかけた。

気がついて、小屋に戻り、台所の流しにバケツを置いて、薄く水をはった。

薬缶のお湯をバケツに注ぎ込んで、頃合いの温度にした。


手を伸ばし、天井の物干しの針金から日本手ぬぐいを取って バケツの湯に浸してぎゅうっと固く絞った。

日本手ぬぐいで健太の顔を拭いて、歯も、ぎゅっ、ぎゅっ、と手ぬぐいで磨いた。

同じ手ぬぐいで、俺も同じように、顔を拭いて、歯の裏までタオルごしに中指を器用に使って、磨いた。


もう二人とも、一ヶ月以上、風呂には入っていなかった。

カローラの助手席の子供用の椅子に、健太を座らせた。



車は平和霊園を抜けて、福井から盤渓の山の中に入った。

目的地は昨日からオープンした真駒内の玩具屋であった。


アイスアリーナを左手に見ながら、車を走らせて、ほどなく、現場についた。


三階建ての建物の駐車場に車を止めた。
「すぐ戻る」

と健太に言って俺は滑り止めのついた軍手を履いて、車からおりた。


備え付けのタラップで屋上まであがり、網を掛けて青い正方形のテントの上に据え置かれてある、赤と青のアドバルーンの様々なロープを手慣れた仕草で解いていった。


アドバルーン全体に掛かっている固定する為の止め網は、四隅をそれぞれ、屋上の床に張り巡らせてある土台のタイガーロープに固定されている。

網の四隅のうちの一カ所だけ解いてやると、直径ニメートル以上あるアドバルーンは、みずからの浮力で、くるくると回転しながら、止め網をはだけた。


アドバルーンの根元をタイガーロープからほどき、上げロープに看板を取り付けて、するすると空にあげると、出来上がりである。


俺はこの仕事を大学一年から卒業するまで、続けた。単純なようだが、奥の深い仕事であった。

消防条例でアドバルーンには必ず見張りがついていなければいけない決まりにもなっていた。

作業を終えると、カローラに戻り、車の中から空を見上げた。


赤玉と青玉が、高く綺麗に空に上がっていた。

赤玉には、にっこり笑っている女の子の顔がバルーンいっぱいに描かれていた。
青玉には、表情のない男の子の顔が同じように描かれていた。

二本のバルーンにはそれぞれ、

「オープン・おもちゃの館」

と縦に看板がついていた。


「なんで男の子の顔もニッコリさせなかったんだべ」


親方らしくない仕事ぶりを不思議に思い、俺は平和の小屋で親方に訊いた。


親方は背中を俺に向けて作業しながら、肩だけで、くっくっと笑って、


「健太をモデルにしたからだ。笑わせるの忘れちまった」


「……」


「母親の恋しい年頃なんだから、はやく見つけてやらないとな」


と言った。


健太の顔をモデルにしたという男の子の顔の絵は、無表情なところ以外、けして健太に似ていなかった。


小学校低学年の年頃に見えた。

顔つきは無表情というより、極めて虚ろで、


「僕なぜ、ここで浮いているのだろう?」


そんな戸惑いの表情であった。困っているわけではないのだけれど、ここにいる意味もわからない…焦点の若干ぶれた両目からは、そんな呟きも聞き取れた。


感情がない。


突風に打たれても雪に吹かれても、なんのことか分からない。


俺は青玉の男の子に、言い知れない滑稽さと哀しみを感じた。


そうして、自分もまた、感情を鈍摩させつつ、無表情な生き方をしてきた人間に違いないと思った。

泣いても笑っても怒ってみても、それらはしょせん、ふりをしているだけで、その場その場に応じて喜怒哀楽の仮面を使い分けてきただけの四十年間だったのではないか。


そうして、妻もまた、赤玉のアドバルーンに描かれた女の子のように、はっきりと自分の役割を認識しているように見せつけながら、その実、誰に対しても最適な自分を演じてきただけの空虚な半生だったのではなかったろうか。


アドバルーンと同じように、中身は空っぽで、風に流されてきただけの人間であったような気がしてならなかった。



昔、そんな二人は恋に落ちた。
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