花火
気がつくと、健太が畳にうつ伏せになって、フォークを握りしめたまま、寝息を立てていた。
俺はそっと健太を抱いて布団に寝かせた。
電気を消して、俺も布団に横たわった。
健太は、闇の中、
「ママ」
と寝言をいっていた。
あの光り輝くような少女が今ではあの蜘蛛男の店で働いている事実に、時の流れの残酷さを感じざるを得なかった。
あれから二人は、ススキノの高いビルの屋上に登り、豊平川の花火を眺めていた。
胸の高さのフェンスにもたれて、彼女は黙って花火を見ていた。
花火の音は、夜空の闇に反響して、暖かく心地よい風の流れすら、かすかに振動させているようであった。
俺は彼女の横顔ばかりみていた。赤い光の花が、緑色の瞳の中で燃え上がり、花弁を垂らすようにして消滅しては、また咲いた。
その不思議な映像を見ているうちに、再び涙がとまらなくなった。
先程、病院で散っていった愛しく哀しい命に思いを馳せていた。
健太を抱き寄せた。
上向きに寝て、目を見開き、闇の中に意識を集中させていると、漆黒の空間に遠い昔の花火が再び打ちあがっていた。
鼻づまりを起こしているらしい健太の寝息が、シューシューと耳元で聞こえていた。
それは夜空に花咲く寸前の花火の音を連想させた。
小屋の外から、何台かの車の、けたたましいエンジン音が響いてきた。
マフラーを改造しているのか、轟音は部屋の空気の闇を切り裂き、花火を消した。
健太が寝返りをうった。
エンジン音が静まると同時に、大人になりきっていない若い女の嬌声が聞こえてきた。
お化け屋敷かよ
マジかよ、おい、
と若い男の声も聞こえた。
声の背後で、何人もの男女の声がざわついていた。
お化け屋敷に決まっているわよ
したらお前、入ってみれや
闇の中に再び花火が打ちあがった。
俺は十六歳の少女に涙を見られまいとして、腕で両目を拭った。
飲みかけの缶ビールを口に含んで、夜空に舞い上がった光の牡丹に向かって思いきり、ビールを吹きかけた。
ビールの飛沫は夜の闇に大きく散った。
隣のビルの電飾に照らされながら、白く薄れて消えていった。
少女は驚いて俺の顔をみた。
涙が再び溢れてきた。
涙の理由も尋ねずに、少女は真っ直ぐに俺をみていた。
表情を消していた。全てを見通しているような彫りの深い双眸に触れたとき、俺はもしかすると母の死を彼女につげていたのではないかという錯覚にとらわれた。
彼女の顔が近づいてきた。
誰か人が住んでるわよ
なしてこったら墓場の奥に人が住んでるのよ
この小屋、きっと昔、何かあったと思うわ
花火があがった。
彼女の唇が、おれの唇に触れようとしていた。
彼女は躊躇するように顔をそらせた。
そうして思いきったよう顎を引いて、また唇を近づけ、苦しそうにまた俯いた。
「ファーストキスなのよ。やっぱりお兄ちゃんに決めた」
それまでの動揺が嘘のように、彼女の唇は素早く俺の唇にふれた。
そうしてくるりと後ろを向いて、両手で顔を覆った。
幽霊小屋だ
探検するべや
だれが一番、根性なしか、これでわかるわね
怖い怖いという少女達の艶めいた声が、少しずつ俺の耳から遠ざかりつつあった。
花火の音が、夜空の真上から落ちてきていた。
俺にとっても初めてのキスの体験であった。
男子高校から、これもまた、男子学生ばかりの大学に入って以来、異性との交際の機会に恵まれていなかった。
それは俺の気質によるものでもあった。
俺は体験豊富な年上の男を装って、彼女を後ろから抱きしめた。
高鳴る心臓の鼓動が俺の手のひらに伝わってきていた。
俺の心臓もまた悲鳴をあげて素早く動いているのが、彼女の暖かい背中にから、自分の胸に伝わってきていた。
俺は心臓の音を気取られまいとするかのように、彼女の乳房をティーシャツの上から、揉みしだいた。
柔らかい乳房の中には、何かコリコリとした痼りがあった。
「お兄ちゃん、…痛い」
「好きだ。結婚したいくらい大好きだ」
彼女は振り向いて、俺の背中に両手をまわして、さっきよりずっと長く、唇にキスしてくれた。
歓喜と悲嘆とが、俺の胸の内で、交互に点滅していた。
夜空に乱舞する光の花を背景にして、唇を寄せ合う二人のシルエットが闇の中に、いつまでも見えていた。
その映像は、広間の引き戸を無理に開けようとしている音で消えた。
鍵かかってるぞ
ガラス破れや
おれは布団から起き上がり、ハロゲンピーターの電源をさして、スイッチを入れて首ふりボタンを押した。
赤い光が、広間の闇の中を、移動しながら照らしていた。
うわあああッという幾人もの悲鳴が外から聞こえてきた。
ばたばたと逃げ惑う雪道を踏む足音遠ざかり、立て続けに車のドアの閉まる音がした。
エンジン音を轟かせながら、スポーツカーの群れは墓場から去っていった。
ハロゲンヒーターの電源を抜いて、布団の中に戻った。
|