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冬の惑星
作:松尾大生



病者の祈り


床に脱ぎ捨てられたドカジャンにカップ麺のしるが飛び散っていた。


広間に降りて新しい雑巾を天井に張り巡らされた物干しの針金から一枚おろして、薬缶の温い湯を染み込ませた。


ドカジャンをハンガーに掛けた。

ポケットから、青色の紙屑が畳に落ちた。

おれは染みにならないようにドカジャンの汚れを雑巾で押すように何度も拭いた。

ハロゲンンヒーターはまだ首を回していた。

おれはハロゲンンヒーターを蹴り倒し、電源をぬいた。

「くたばったか、ババア!」

というなり、ハロゲンヒーターに唾を吐き捨てた。

唾は傾いた反射版に落ちて、シュッと音をたてた。

老婆の顔は消えていた。

「なんだべ」

畳に捨て置かれたクチャクチャの紙屑を拾い上げた。卓袱台の上に広げてみると、ワープロで英文がしたためられてあった。

その後に和訳がついていた。「病者の祈り」と題された詩であった。





病者の祈り



大事を成そうとして
ちからを与えて欲しいと求めたのに

慎み深く従順であるようにと

弱さを授かった

より偉大なことができるように

健康を求めたのに

よりよきことができるようにと

病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに

賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして

権力を求めたのに

天狗にならないようにと、

弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに

あらゆるものを喜べるようにと

生命を授かった


求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた


本当の自分自身の意にそぐわぬ者であるにもかかわらず

心の中の言い表せない祈りは

すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ






詩の後に解説がついていた。

ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩であり、作者は不明である旨が記載されていた。

長々と解説の文章が続いていたが、飛ばして読んだ。

最後に「翻訳解説・虚無僧」と印字されていた。
英文の、神を、本当の自分自身と意訳していた。

「意訳にも限度があるぞ。卑怯な」

そうして、

「本当の自分自身って、なんだ?」

と、首をひねった。
見覚えのある詩だな、と考えつつ、どこで読んだか、おれは記憶の糸をまさめぐらせて、卓袱台に頬杖をついて、感慨を過去へと張り巡らせていた。



母が死んだ時、病院の廊下に張り出されていた詩であった。

母は俺が大学四年生の夏、癌で死んだ。
四十五歳であった。
父は俺が高校一年の冬、やはり癌で死んでいた。今の俺の年と同じ、四十歳であった。

夜の病院の薄暗い廊下の風景が、胸の痛みとともに、青白い光芒を曳いて、脳裏に浮かび上がってきた。





夕方、病院から電話で母の危篤の知らせを受けて、俺は平和の自宅から、タクシーを拾い、中央区の病院へと駆けつけた。

病室に入るのと同時に、綿花と割り箸を持った看護婦が、黙礼しながら部屋に入ってきた。

背の高い痩せぎすの若い医師から臨終の告知を受ける前に、俺は一足遅れであったことを悟った。

看護婦は母の顔に白い布をそっとおいた。

俺は詫びながら布をゆっくりとおろして、母の死に顔をあらためて凝視した。痩せて黒ずんだ骸骨みたいな死相であった。

目は見開いたままであり、口も半分開いていた。俺は何度も母の瞼を指で撫でて、ぎょろりと空中を見つめたままの目玉の入っている二つの眼ヵを閉じさせてやろうと試みた。

その作業は幾度やっても徒労に終わった。

「あと、頼みます」
布を母の顔に戻すなり、頭を下げて、病室を飛び出した。しばらく、廊下でうずくまっていた。

突き当たりの窓ガラスから、向かいのビルの電飾版の光が、磨きこまれた廊下の床を青く赤く、交互に点滅させていた。
廊下に照り返り瞬くその不思議な明滅を見つめているうちに、俺は正気を取り戻して、エレベーターへと歩きはじめた。
母の死は予期していたものであった。俺が打撃を受けたのは、むしろ、母の死に顔の醜さであった。
立ち止まり、廊下の壁に何度も頭をぶつけながら、母の醜悪な死相を反芻していた。

目をひらくと、張り紙が貼ってあり、そこに「病者の祈り」があった。

消毒液のにおいが鼻をついた。病者の祈りから、おれは何ものも感得することなく、

「ふざけるな」

と呟いて病院を後にした。

俺はススキノの方向を向いていた。母の死を知らせねばならない身内が自分には一人もいない事実に愕然としていた。

とうてい自宅に戻る気持ちになれず、歓楽街の雑踏を求めてススキノまで足早に歩いた。

ヨーク松坂屋の正面玄関の石段に一人で座っていた。街の光彩に包まれながら、何人ものチラシ配りが、俺の周囲でうろうろしていた。

道に捨てられた無数のチラシが、夏の乾いた風に巻き上げられて、砂埃と一緒に宙を舞っていた。豊平川の方向から花火の音だけが聞こえてきていた。














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