(5) 書評「大修院長ジュスティーヌ」
お盆休みの間に、藤本ひとみの
「大修院長ジュスティーヌ」を読んだ。ラノベ出身でありながら、本格的歴史小説も執筆しているというこの人の作品は、ずっと読む気が起こらなかった。しかし、今回ばかりはタイトルに惹かれて、ついに読んでみた。
私が読んだ版はハードカバーで、標題作を含めて三つの中編が入っている。で、今回はこの作品を取り上げてみる。
ジュスティーヌと聞けば即、サドの
「美徳の不幸」のヒロインを思い浮かべる人は多いと思う。といっても、それはフランス文学に明るい人達の間での話であって、一般の日本人はサドといえばサディズムのサドしか想起しないであろう。いやまあ、サドという言葉自体、この18世紀フランスの文学的怪物サド侯爵の名前に由来するのだから、別にいいのだが。しかし、おそらく藤本ひとみ氏の、この作品のタイトル及びヒロインの名前はサドのジュスティーヌから取られたのに違いない。この作品及び同収録の二作品は、サドの生きた18世紀フランスを舞台にしているからである。
標題作は、異端信仰の疑いのある女子修道院で、愛と自由を求める若い修道院長の話。パリから来た狂信的な偉い坊さんがジュスティーヌを異端の罪で告発しようとするところは少々ひやりとするが、折りから勃発した大革命によって意外というか安直な結末に終わってしまう。
私は最初、ジュスティーヌというからにはきっと、えらく悲惨な目に遭うに違いないと期待、いや心配していたのだが、全くそんな事はなく、むしろ異端調査にやって来た若い修道士を誘惑し、狂信者の坊さんと対決しても難無く言い逃れ、それどころか、相手の過度な性的抑圧の矛盾を突き、幼少期のトラウマを抱えた坊さんを半狂乱に追い込み宗教ディベートを破綻させ、自ら奉ずる異端思想をベラベラと勝ち誇ったように述べ始めるのである。
もっとも、このくだりで難解な神学的理論が展開される事はない。平野啓一郎あたりならいざ知らず、今どきそんなものを書こうという作家はまずいないし、またおおかたの読者にとってもそんなものははた迷惑に過ぎないであろう。
ジュスティーヌは、さしずめ現代女性なら当たり前のせりふを、無邪気といってもいい調子で繰り広げるだけである。
ただ、このジュスティーヌ、時折異端の大天使が乗り移って、神憑りというか恍惚状態になるという設定は、作者もなかなかよく勉強している事がわかって感心した。現代の精神医学で説明可能なものだと思うのだが、聖女を始め修道女達の中には何故、時としてこういう現象が起こるのか―それは教会、王制と身分制度、女性への抑圧から、と考えてもいいし、神秘主義への女性ならではの直情径行かもしれない。
とにかくサドのジュスティーヌとは違って、こちらのジュスティーヌは意気揚々と修道院を飛び出して、何やらドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』のような事をしているらしいという噂を振り撒いて終わる。この場合、貴族出身という事もどうやらばれなかったらしく、革命様々の結末であった。ハッピーエンドではあるが、何だか首を傾げたくなる安易な結末なのである。まあ、そう思うのは私が修道院偏愛主義者だからであって、それはさて措き、修道院に留まったままでいると革命政府に首を剄ねられてしまうから、仕方あるまい。次に行こう。
「ドニッサン侯爵夫人」はタイトル通り、貴族のマダムの話である。こちらは悲劇的結末で、ラストは結構な血みどろが展開する。何となく、三島由紀夫が好きそうな話である。逆に作者はその辺りを狙ったのかもしれないが、猟奇的な物が好きな現代人には受けるかもしれない。私としては、自我に囚われたヒロインがただただ哀れに思うばかりである。
第三話の
「娼婦ティティーヌ」は、この本の中では最も完成度が高く、よくまとまっていた。ラノベの大量生産で鍛えた職人技が遺憾無く発揮されているとも言えるし、細かな描写はやはり勉強の賜物だという事が伺える。これはいわゆるキャリアウーマンの物語で、ハッピーエンドの予感で終わるから、一般受けしそうでもあるが、この話にも性的トラウマが出てくる(かなり恐いよ)。
まことに性というものは厄介な代物で、私などそんなものはうっちゃって、さっさと修道院に入りお祈り三昧の生活をしていた方が余程マシであるようにも思うが、実際はそううまくゆかないのが世の常であろう。破戒僧、堕落した修道女も嫌だが、異端告発、拷問火焚りフェチの狂信坊主に怯えて暮らすのも、しんどい話である。
話が横道に逸れてしまったから元に戻すと、三作品のヒロインの中で一番しっかりしてまともな感覚の持ち主が娼婦であるのは、皮肉である。
考えてみれば、娼婦から娼館経営者になったティティーヌは、市民の中に生き、王族貴族だけではなく一般市民までを相手に商売をする女であるからして、市民感覚を持っていなければやってゆけない。
また、読者である我々現代人はほとんどが一般市民であるから、共感もし易い道理である。ついでに言うならば、ティティーヌは自分が抱えている娼婦達を非常に大切にした。何もティティーヌが聖女のような女だからではなく、商売上そうした方が結局得になるからだが、その辺りも読者の好感度をいや増す事になる。
それにしても、フランスの売春文化!?は、それほど進んでいたのだろうか。
だとすれば、日本の遊里システムとはえらい違いであるという事になるが、実際どんなものであったのか、筆者は不勉強にして知らない。
コレットの作品などを読むと、古代ギリシアのヘタイラーの伝統が脈々と生きているようにも思うが、どうなのだろう。勿論、これは高級娼婦の世界における話であって、場末の娼婦の悲惨きわまりない世界も当然の事ながら存在するのは言うまでもない。こればかりは、どうやら万国共通である。
さて、一般的には馴染みの薄い18世紀フランス、革命の嵐の足音から終焉と混迷の時期までを舞台にしたこの小説集は、何だかだで結果的にはかなり楽しめた、と言えようか。もしも、読まれる方がいらっしゃるなら、クープランやラモーのクラヴサン曲を聴きながら読む事をお勧めする。酔っ払わない程度に、ワインなど飲むとなお、雰囲気に浸れます。
しかし、標題作だけは期待外れだったなあ…。 |