光あれ
彼女は、光みたいなピアノを弾く。小夜は、それを聞くのが好きだった。
モーツァルト? ショパン? ドビュッシー? どのピアニストの曲なら貴方は弾きたくなるの。
矢継ぎ早の質問に気持ちが追いつかない。小夜は硬直して、先生の話が終わるのを待っている。
先生は決まってため息をつく。小学生のときから惰性でピアノを習っているけれど、どうしてやっているのか、自分でも分からない。先生も分からないのだろう。
あたしばかなのかなぁ。
ピアノ教室を出て、街路樹の前を通って住宅街へ抜ける。
ピアニストの名前なんてどうでもいいし、彼らがどこの国の人か、なんてこともどうでもよかった。
曲には大抵名前がなかったし(第五番とかは名前の範囲に入らない!)だったら流れる音が全てだった。
鼻歌を歌うのも曲を聞くのも好き。携帯端末にはクラシックやCM曲がたくさん履歴に残されている。
でも、音楽をする人と、何かが違っているらしい。
近所の洋館(小夜は、ここをお屋敷と呼んでいる)の木戸をくぐる。表は雑草が抜いてあるが、裏は草が多くて野原みたいだった。
「ひいよちゃん」
呼びかけると、日向ぼっこできそうなガラス張りの部屋に、人影が現れた。長い黒髪が太陽を背負ってつやつやしている。
「なぁに。小夜さん」
「小夜でいいってば」
「小、夜」
彼女が名前を呼ぶときの甘やかな口調が、小夜をつかの間ぼんやりさせる。
「あたしさぁ」
小夜はいつも、口を開いて後悔する。ばかみたいな、高い声を出してしまった。ひいよちゃんには不釣り合いだ。
でも、ひいよちゃんは、小夜に微笑む。
貴方が元気よく話してくれるから、私、生き返ったみたいよ。胸に、風が通る気がする。
胸に風なんか通ったらすうすうしそうだが、いいものに例えてもらったみたいで、それは分かる。猫だって、話が分かってるみたいな顔をすることがあるけれど、言葉が全部は分からなくても、雰囲気が分かるのだ。ひいよちゃんは微笑みだけで小夜を温かくする。
「へへっ、遊びに来たよっ」
「どうぞ」
ひいよちゃんが、ガラス窓を一枚開ける。電動式で、ゆっくりと開く。
ガラス張りの部屋の外は、明るく開けた庭になっている。中庭、と、ひいよちゃんは呼ぶ。けれど、高い壁に囲まれたお屋敷の中で、森みたいに見える庭木、広い原っぱがあるのは、中庭とは呼ばない気がする。
春先に出会ったときは、二人で庭に寝転がってみたこともある。
小夜、と優しく名前を呼ばれるのが好きだ。この庭は、広くって、世界に二人しかいないみたいに思える。
今日は庭に薄紫の花が咲いていて、ガラス越しでもきれいだった。
みんな、歌でも歌っているみたいだ。
小夜は、履きなれたスニーカーを窓の外に脱いできたけれど、スニーカー氏は場違いな感じで肩身が狭そうに転がっている。
「小夜は、ピアノ教室の帰り?」
「そう」
ピアノ教室に通っているけれど、小夜の家にはエレクトーンのお手頃な機種しかない。鍵盤の重さが違うから、家で練習しても、どうしたって手が軽く動く。
それに。自分みたいなのがピアノを習っていると言うのは、音楽大学を目指す人に笑われそうだ。
「あたし、まだバイエルやってるんだよ」
かっこわるいったらない。
小学生がやっているような教本を、小夜はなかなか卒業できない。
「バイエルだって、きれいな曲よ」
「でも、分かんないもん。何ていうか、歌じゃないし」
「そうかしら」
昔のドレスみたいな、裾の長いスカートをさばいて、ひいよちゃんがピアノの前のイスに座る。
「今日は、何にする?」
「何でも!」
ひいよちゃんは、小夜の答えが分かっていたみたいに、微笑んで、鍵盤に手を滑らせる。
ピアノを弾いてくれるのを、小夜は、じいっと見つめている。ときには、お行儀悪く寝そべりながら。
ひいよちゃんは、指がうまく動かない。精神的なものだそうで、「あんまり難しい曲ばかり試して遊んでいたから、指が壊れたの」と、彼女は言う。
そうかな。
彼女が失敗した、という箇所は、小夜の耳にはほとんど分からない。言われてみれば少しだけもたついた箇所があるかもしれない。でも、全体の美しさを損なうものではなかった。それを、彼女自身は許せないでいるのだ。
完璧な演奏ができていたひとは、それができない自分を責める。
最初っからバイエルを抜け出せないでいる小夜にとっては、ひいよちゃんは不思議な世界にいる。
あんなにきれいなのに。
うとうとしていると、曲が終わってしまった。
ひいよちゃんが、演奏会が終わったピアニストみたいに、両手を膝上に戻して、観客である小夜を見ている。
「退屈だった?」
「ううん! すっごく、気持ちがよかった」
心があったかくって、ふかふかになったよ。
小夜が答えると、「そう、よかった」と、ひいよちゃんが、優しくため息をついた。
こういう手放しの賞賛がなかなかないのだろう。他の人だって、ひいよちゃんのピアノを聞いたら、すごいって思うんだろうに。
「どこかで、演奏会とか、しない?」
「しない。私のピアノはね、目的のためにあるの」
「目的って、なぁに?」
「……たった一人をね、射止めるための道具なの。私がきれいにしているのも、ものを覚えるのも、お話をするのも。すべては一つの目的のため。私の、意志ではないの」
何だかとても悲しい話を聞いているような気がして、小夜はひいよちゃんに駆け寄った。
「大丈夫だよ! ひいよちゃんは、家に閉じこめられすぎてるんだよ。ひいよちゃんのこと好きになる人は、きっと外にもたくさんいるよ。外に遊びに行こうよ」
「外は、だめ」
りりん、とベルが鳴った。ひいよちゃんがイスから立ち上がる。
「お父様が戻ってきたから。見つかったら、私のかわいいお友達が、叱られてしまうかもしれない」
「分かったけど、ひいよちゃん、」
「また、ね?」
小首を傾げて言われると、小夜には反論が難しい。渋々、小夜は来た道を引き返して、外へ出た。
*
雨の日もあった。晴れの日もあった。
おまんじゅうを持ち込んだ日もあれば、保温ポットに入れた紅茶を、庭で並んで飲んだ日もあった。
学芸会で伴奏曲を弾くことになった、と言ったら、ひいよちゃんは、あら、いいわね、と柔らかく答えたけれど、羨ましい気持ちが少し見えたから、大したことじゃないけどね、と小夜は卑下してしまった。
ひいよちゃんは外に出ない。出ようとしない。ひいよちゃんは、小夜と年齢がそれほど違わないだろう。頭がよい人だった。試験前でふてくされている小夜の前で、きれいに、微分を解いてみせた。微分が何の役に立つのか、小夜には分からなかったけれど、ひいよちゃんが解くと、きれいでかっこよく見えた。小夜の、三歳上の兄とはえらい違いだ。コンデンサを爆発させて遊んでいた兄は、気づけば工学系か何かの大学に進んでいる。微分とか分かるんだろうか。
学校でもつかず離れずの友達はいる。ひっきりなしに、お互いの位置を確認しようとする友達もいる。携帯端末が鳴るのがうるさくて、ここへ来るときは電源を切る。一度、返事を書き込んでいたら、ひいよちゃんがさみしそうな顔をしていて、あっこれは悪いことをしたんだ、と小夜は反省したのだ。小夜だって、ひいよちゃんが目の前で本を読んで振り向いてくれないときは、さみしい。
「ねぇ、ひいよちゃん」
「なぁに」
「何読んでるの」
ひいよちゃんの後ろから、小夜は聞いたりする。本の表面には、水の流れみたいなくるくる、ひらひらした文字が並んでいて、たぶん英語だった。知らない名前。
「読んであげましょうか」
ときどき、ひいよちゃんと、そうしていろんなことをした。
学校帰りや休みの日に、ピアノ教室がないときでも、たまに、ひいよちゃんのところに足を運んだ。
楽しかった。小夜の気持ちの十分の一でも、ひいよちゃんが楽しかったなら、よかったのに。
ある日、お天気がよくて、窓を開け放していたから、中庭からは花の香りが吹き込んできていた。小夜は床に転がって、イスに座っているひいよちゃんを眺めていた。
ひいよちゃんがピアノを弾いている途中、ドアが突然開いた。ひいよちゃんが素早く、近くにいた小夜の腕を引っ張って、自分のロングスカートの中に押し込んだ。反論する暇なんてなかった。
「お前は、また何にもならないものを弾いているのか!」
男の怒鳴り声がして、小夜は身を縮こまらせる。ひいよちゃんが、柔らかい口調で応じる。
「申し訳ありません」
「どういうつもりだ!」
「申し訳ありません」
「だいたいお前は何だ、」
ぶつぶつと、男が怒りをぶつけてくる。
ひいよちゃんはひたすら謝る。
(何これ)
小夜は苛立って、立ち上がろうとした。隠れていたくなかった。叫びながら飛び上がろうとして、でもすぐに異常に気がついた。ひいよちゃんの足が、さりげなく、小夜のスカートを踏みつけている。これでは小夜は立ち上がれない。立ち上がろうにも、中腰になってから転んでしまうではないか。
困惑して、小夜が座り込んでいる間に、男は行ってしまった。
スカートから這い出した小夜に、ひいよちゃんがさみしそうに呟いた。
「ごめんなさいね、小夜。私のわがままに、つきあわせてしまってごめんなさい」
「どうして? どうして、そんなこと言うの? あたしは、あたしの気持ちがあって、ここに来たのに、どうしてそんなふうに言うの!」
ひいよちゃんは首を振る。
「ひいよちゃんは、いっつもそう! あの人誰? お父さんなの? ひどくない? あたし、ひいよちゃんの代わりに、あのおじさんに怒りたいよ!」
「いいの。いいのよ、小夜。あの人は、いいの」
「よくなんてない! ひいよちゃん、結局、あたしに、何にも教えてくれない! ひいよちゃん、ほんとは、」
違う、そんなことが、言いたいわけじゃない。
「ほんとは……あたしのことなんて、」
「ごめんなさいね」
ひいよちゃんが、小夜の背を押す。早く帰らないと、またあの父親が来るかもしれない。見つかったら、どれほど怒られるだろう。お友達、と、ひいよちゃんは言ってくれた。でも、父親には逆らえない。家から出られない。小夜のことも隠している。
小夜が、普通の子だから? みすぼらしくって、不釣り合いだと小夜だって分かっている、でも、ひいよちゃん。
ひいよちゃんは、かすれた声で囁いた。
「さようなら」
小夜の気持ちなんて聞かずに、勝手に何かを謝る声だった。
*
それから、小夜は何度もお屋敷に行った。裏の木戸はきれいに直されていて、セキュリティタグがないと通れなくなっていた。抜け道が他になくて、でも、どこかでひいよちゃんに会えるのではないかと思って、小夜は屋敷の周りをぐるぐると回っては、ため息をついて家に帰った。
友達、だと、思っていたのに。連絡手段もなくて、友達なんてあっけないものだった。
ある日、お屋敷の前の、大きな扉が開いていた。門も開放されており、広い庭では笑い声が響いている。人が、たくさん並んでいた。
小夜が、ぽかんとして見ていると、真っ白いドレス姿の若い女が、祝福の声を貰いながらこちらに歩いてきた。隣の、黒いスーツ姿の男と手を繋いで、門の近くに停めてあった黒塗りの車に向かっていく。
その、女のことを、小夜はよく知っていた。たぶん。
「ひいよちゃん」
「小夜……」
名前をやりとりして、ひいよちゃんが、目を見開いた。
「ひいよちゃん、結婚するの?」
「そう」
「……おめでとう」
他に言いようがない。小夜の言葉を聞いて、ひいよちゃんが、苦く笑う。
「ありがとう、小さな、私のお友達」
「小さくないよ」
「小さいのは、私よ。誰かと結婚するために躾られただけの子ども。打算ではなくて、普通の友達を手に入れることを、夢に見て、貴方を振り回したわるい子なの……ごめんなさいね」
「だからっ、そういう言い方っ、」
美しい花嫁姿で、ひいよちゃんは日差しを受けて、輝いているようだった。
優しくて、柔らかくて、きれいなピアノを弾く人だった。そのすべては、お屋敷で決められて作られたもの、かもしれない。それを使って、政略結婚なんてものをするのだろう。
今みたいに。
「ごめんなさいね」
ひいよちゃんが呟いて、小夜の頬に唇を当てた。
それから、
「近所で、ピアノを教えていた、かわいい友達なんです」
そつなく、その場にいた人達に話して、「そちら側」に戻ってしまう。
「今日はありがとう、小夜ちゃん」
今までに呼ばれたことのない言い方で線を引かれて、小夜は泣いた。
おめでとう、おめでとう、そればかりを呪文みたいに繰り返して。
貴方を救うことができなかった。
それとも。自分を救うことができなかったのだろうか。
小夜は、おめでとうを繰り返した。新婚夫婦が旅立ち、門扉が閉じられるまで。
せめて、外へ出た彼女に、光あれ。