21、野良犬と女子高生
「では、解散」
先生がジャージ姿のまま、言った。
今日の体育は、水泳で紅花は見学だ。女子生徒は他に数人見学をしていて、男子生徒より多い。空気を読めない男子生徒Aが「お前ら、サボリかよ」とつっかかっていた。余計なお世話だろう。こういう奴は、数年後、自分がもてない理由がわからないに違いない。
一応、言っておく。
紅花は女の子特有の理由で見学というわけじゃない。不死者の体質ゆえ、見学するのに望ましいと判断したためだ。
紅花は泳げない。正確には浮かべない。
呼吸は一般人より長く我慢することはできるけど、浮かべないのでクロールもバタフライも平泳ぎもできない。潜水はできるように見えるけど、正しくは水中匍匐前進だったりする。
皆が更衣室で濡れた水着に手間取っている間に、紅花はジャージからさっさと制服に着替えて戻る。
「山田さん」
後ろから声をかけられた。
振り返ってみると、ゆるふわさんこと古床がいた。
「なんですか?」
基本、紅花はクラスメイトには敬語を使う。相手との間に壁を作るためだ。
古床さんは、幸か不幸かあのときの記憶がない。正直、元は自分の夜遊びが原因でああいう目にあったのだから、それくらい反省してもらいたいものだ。
現在、彼女は対吸血鬼用の抗体をうち日光アレルギーが治っているはずだ。でも、紅花と一緒に体育を見学していた理由については、女の子だからだろう。
なんだかもじもじしている。
正直、古床についてはあまりいい印象はない。けれど、一般的には可愛い部類じゃないかと思う。吸血鬼は餌に対して面食いなので、その基準を満たす程度には可愛い。
だけど、すこぶる同性には嫌われる、そんなタイプだ。
「山田さんって、日高くんの隣の席よね」
「そうだけど」
それは見ればわかるだろう。何を今さら言うのだろうか。
「山田さんって視力いくつ?」
「2.0」
本当はその三倍くらいいいけど、嘘も方便だ。
「そうなの? でも、前の人が大きくてホワイトボード見にくいとかない?」
「別に大丈夫です」
紅花はクラスでも小っちゃいほうだけど、偶然、前の席の人は紅花よりも小さい男子生徒だったので問題ない。
古床の顔がやや引きつる。
ははーん。
紅花とて、多少は他人の機微についてわかる。
この少女はなんというか男好きのきらいがある。
少年Aはとうに見限ったと思ったら、今度は颯太郎を標的としたか。
気が利く女の子だったら、そこで彼女の意を受け取り、都合のいい返事をしたところだろう。だけど、紅花は妙にむかっときた。
たとえ、操られていたとしても、古床は颯太郎をボウガンで撃って殺そうとした。それに対してまったく記憶がないうえ、さらにそう抜けぬけとこんなことを言い出すわけか。
「ごめんなさい。今の席気にいっているんです」
紅花は単刀直入に言った。
「はあ?」
ものすごく機嫌が悪そうな声がしたけど、それに付き合うつもりはない。古床に背を向け、教室へと戻る。
後ろで、ぼそぼそと紅花の悪口を言っているようだが、丸聞こえだ。だからってそれをとやかくいうつもりはなく、さっさとお昼を食べたかった。
スポーツバッグの中にはサッカーボール大の歪なおにぎりとお弁当が入っている。
少しどきどきした気持ちで温室に向かうと、そこにいたのは、紅花と同じお弁当を持ったニートだった。
「よっ」
ニートは紅花がいつも座っているベンチでもぐもぐおにぎりを食べている。今月より、食費を山田家におさめることになったため、若ママがお弁当を作ってくれている。
「なんであんたがここにいるの?」
「ひどくない? おにいちゃんにひどくない?」
ニートは米粒がくっついた指先を舐めながら言った。
「颯太郎少年ならまだ来てないぞ」
「別に聞いてないし」
紅花と違って颯太郎は水泳の授業を受けていた。達者とは言い難いけど、沈むことなく泳げていたので紅花は感心した。
着替えに手間取っているのだろうか。
紅花は、弁当を片付け終わったニートをベンチから追い出して座った。ニートは「段々、姉貴に似てきたな」と苦笑いをしていた。
失礼だと思う。オリガ姉さんなら、靴のヒールでニートの頭を殴るくらいする。そんなに紅花は狂暴じゃない。
「ところで仕事はどうしたの? さぼり?」
「俺かてな、昼休みくらいあるわ。んでもって、これは仕事の一つ」
「なにそれ?」
ニート曰く、最近、入ってきた野良犬に手を焼いているようだ。しかも、その野良犬に餌をやっている生徒もいるという。
学校側公認で餌をやるニートならともかく、他の生徒がそれを真似されると困る。
「一応、去勢手術受けさせて、タグつけてんだよ。慣れたところで、引き取り先探してんのに、勝手に餌やって仲間呼ばれて繁殖しちまったら意味ねえのに」
「へえ、ちゃんと仕事してんのね」
意外だあと紅花は思う。
別にニートは無能というわけじゃない。ある程度のことは器用にやれるし、周りとの人間関係の築きかたは家族の中で一番上手いだろう。アヒム兄さん曰く、山田家の血筋の中で一番人間に近い性格だっていう。
でも、働きたくないらしい。
お父さんやお母さんが起きていた頃は、外を遊び歩いて、お金がなくなったら家族にせびりにくるどうしようもない奴だった。
ゆえに、できるのにやらない、一番たちの悪い奴だった。
「そりゃしねえとな、最近いる野良犬がどうもでっかくてな」
下手に生徒に噛みついたら、今まで世話してきた意味がなくなる。人に慣れた犬たちまで保健所に引き渡す羽目になる。
「つまり、ここらへんで野良犬探してるわけね」
「無断で餌やりしてる奴もな」
はふうっと息を吐くニート。
紅花はおにぎりを食む。
「そうだ、あんたここの庭園の手入れしてる?」
「んあ、ンな暇ねえよ」
だいぶ伸びてきた芝生の上に横になり欠伸をするニート。紅花は立ち上がると、拾ってきた木の枝でニートをぐりぐりした。
「やめっ、いたい。地味にいたいから」
やっぱりオリガ姉さんに似てきたかもしれない。
お弁当を食べ終えて、しばらくしても颯太郎は来なかった。
紅花は一個だけ余ったおにぎりをどうしようかと思った。もう蒸し暑い季節なのでずっと持っていたら悪くなる気がする。
すると、じーっとこちらを見る視線に気が付いた。
ニートがこちらを見ている。おにぎりを食べたそうにしている。
紅花はむうっと顔を歪めると、仕方なくニートの目の前に置いた。
「施しよ、それで餓えを満たしなさい」
「ねえ、妹よ。もっと可愛くいえないの?」
そう言いながらおにぎりをむさぼるニート。
「言うに値する相手ならそうする」
紅花はスポーツバッグを抱え、教室に戻ることにした。
いや、その前に。
もう少し昼休みは残っている。
ちょっと暑いので、どこかで涼んでいこうかと思ったら、図書館が目に入った。あそこはけっこう快適な温度で保たれている。
あそこにするか。
紅花は足をすすめた。
図書館を裏側からまわって入口へと向かう。
そのまま、スルーすればいいものを、紅花の視界の端になにかがうつる。視力6.0を恨まねばならない。木陰の隙間から見えた。一般人なら気が付かない死角にある区画だ。
高等部の生徒がいた。
ここは中等部と高等部の間に位置するので、それがどうというわけじゃないけど。
女子生徒がいて、その生徒の前に大きな犬がいた。ご丁寧にお皿を用意して、山盛りのドッグフードが盛られている。
紅花は額に手を置いた。
ニートがてこずっているのはあの人だろうか。
それにしても大きい。
紅花は犬をみる。確かに、あれに噛みつかれたら、ひとたまりもないし下手すれば死んじゃうかもしれない。
このまま無視していきたいところだけど、紅花はそっと近づいていった。一応、生徒の学年とクラス、できれば名前を確認できないかと思った。
女子生徒はセーラー服を着ていた。この学園には女子生徒には二種類制服がある。昔ながらのセーラー服と、有名なデザイナーさんによるブレザーだ。セーラー服は、昔から愛着があるから変えないでくれという要望が、制服を変えたあとに殺到したため継続しているらしい。
生徒は好きなものを着れるが、大体、セーラーとブレザーの割合は三:七くらいだろか。
紅花は、二つとも持っていたが、転校初日にブレザーに粘性生物の体液がかかってしまってから、あまり着ようと思わない。結果、今日もセーラー服である。
そっと、相手に見つからないように覗き込んだつもりだった。
でも、女生徒はともかく、大型犬は反応した。紅花のほうを向き、小さく「わん」と鳴いた。
女生徒はすかさず紅花を隠していた木の枝を跳ね除ける。
「……こんにちは」
「こんにちは」
大人びた声だ。身長は百五十五センチくらいだろうか、そんなに大きくない。色白で目がぱちくりして可愛い人だった。
「ええっと、犬に餌を……」
なぜか紅花がしどろもどろになってしまう。
「見つかっちゃったか」
女生徒は悪気なさそうに言ってのけた。
大型犬は紅花に警戒しているのか鼻をひくひくさせている。雑種だろうか、ハスキーに似ている気もするが、妙に小汚い色をしている。これは、飼い主絶対見つからないわ、と思う。
「ごめんねえ、黙っておいてくれる? この子さあ、こんなに可愛くないから用務員さんに追いかけまわされてるのよね」
「ああ、わかります」
ばっちいし、大きいし餌もよく食べる。大型犬は紅花をちらちら見ながらお皿のドッグフードを貪っている。
「ほら、この子、不細工だけど、こんなに可愛いんだよ。ほら、お手、お手」
女生徒が犬にむかって手を見せる。
犬が何か固まったかと思うと、その手のひらに右前脚を置いた。
紅花はじっとそれを見る。
「ほら、おかわり。ええっと、服従のポーズ」
犬はおかわりをしたあと、すごく緩慢とした動きでお腹を見せた。ドッグフードを持つ女生徒には敵わないらしい。
女生徒はそのお腹を触る。
「かわいいでしょ?」
「うーん」
躾はされているようだけど、むき出しになった下半身をじっと見る。雄だ。
「未去勢だから追いかけまわされてるんじゃないですか?」
「そうか。手術すれば問題ないわけね」
犬は話の内容がわかっているのだろうか、跳ね起きるとじっと女生徒を見ている。
これがもっとつぶらな瞳の小型犬ならともかく、どうにもこの大きな犬がやってもあんんまり可愛くない。
「手術して大人しいってわかれば、けっこう許容してもらえると思うんですけど」
「そうかあ、女の子になりなよ、君」
ぽんっと大型犬の肩に手をのせる女生徒。大型犬はさすがに耐え切れずにそのまま走り去ってしまった。
「逃げちゃいましたね」
「うん、残念。今度説得しておかないと」
残念だが、あの逃げ足の速さでは、ニートはしばらく捕まえられないだろう。ご愁傷様と紅花は心の中で手を合わせる。
そんな感じでやっているうちに、五時間目の予鈴が鳴った。もう昼休みは終わりだった。
「あっ、いけない。戻らないと。悪いけど、今の黙っていてくれるとうれしいかな」
女子生徒は、そういってドッグフードの入った器を片付けて、高等部の校舎の方へと向かっていった。
「えっ」
んなこと言われても、一応身内が用務員なのどうしようかと思う。
だけど、もう去ってしまった女子生徒が何年生なのかわからなかった。制服につけるはずの襟章が見当たらなかったからだ。
あれ、よく付け忘れるんだよね。
ピンバッチのようになっているので、洗濯するたびに外さないといけない。
どうしようかと悩む暇はなく、さっさと教室に戻らないと紅花こそ授業に遅れてしまう。
とりあえず、高等部の生徒が餌をやっているみたい、とだけ報告しておくか。
それが、紅花のできる譲歩だった。
教室のもどると紅花の席に、古床が座っていた。眠たそうにしている颯太郎にしきりに話しかけている。紅花の机に、古床のお弁当箱が置きっぱなしになっているのを見ると、ずっとお昼の間、ここに座っていたと推測できた。
「……」
紅花はスポーツバッグを少し乱暴に後ろの棚に入れると、古床と颯太郎の間に入る。
「あっ、かえってきたんだ。山田さん」
「うん、ごめんなさいね」
ちらりと颯太郎を見る。
欠伸をしながら、煮干しを食べている。
机の上に置いてあるお弁当箱を見ると、いつも三段重ねなのに一段しか置いてなかった。
たぶん、教室で食べることを強いられたので、食べる量を控えたのだろう。いくら食べ盛りとはいえ、颯太郎の食べる量は半端ない。
「それにしても颯太郎くんってけっこう食べるんだね。私、その半分も食べられなーい」
と、言われる程度に。
どけよ、と言いたくなるのを我慢して、机の隙間から教科書を取り出す。ようやくそこで、古床がどいてくれた。
うん、そうだな、この子、嫌い。大嫌いって紅花は思う。
きっと紅花が同じ量を食べていたら、「信じられなーい、何? 胃袋、ブラックホールついてるのー」とでも言われそうだ。
「古床さん」
「えっ、なに? 颯太郎くん」
「先生来たよ」
颯太郎が無駄にいい笑顔で言った。古床がしぶしぶと自分の席に戻っていく。
紅花は半眼になって、颯太郎を見るとやや乱暴に座った。
颯太郎はクッションにうずくまって寝息をたてはじめたけど、横から顔が見えた。
猫って寝てるとき笑って見えるよな。
そんな表情をした寝顔だった。
それはそうと、やはりご飯って大切だと思う。
本当に思う。
授業中、響き渡る腹の音で何も集中できなかった。