birth
白い世界。
暴音が満ちていた。風は叫び、木々は恐怖に身をすくませるかのように、その身を小刻みに震わせた。
辺りの全てを染めていたのは、雪である。それは豪風に流されて、落ちてはこない。空から降ってくるのではなく、流れているのである。遥か前方からやってきて、後ろに流れてゆく。――かと思えば、背中を押されている。その渦中にいれば、白い濁流の中にいるかのような、錯覚を覚えるだろう。息さえまともに吸えないところなど、酷似している。
そんな過酷な白い世界の中で――。
一人の男がいた。木の根元で身体を縮こまらせて、風から身を守っている。
丘の上。目の前には、窪地がある。
そこにいるのは、五頭の巨獣だった。土色の毛を全身に生やし、四本の太い足で巨体を支えている。親子だろうか、特に大きいのが二、それを少し小さくしたのが一、さらにその半分が二。
それらは顔の中心部から伸びる、触手のように進化した長い鼻を器用に使って器用に雪をかき分けて、植物を食んでいた。
巨獣は膝を曲げて、その地面の上に生えた草に口を近づけるようなことはしない。鼻は雪をかき分けると、そこに生えた草を、ヒトが腕手を使ってするかのように、むしり取り、そのまま口に運ぶ。――恐ろしいことに、この巨獣は四本の足と尾だけでなく、もう一本、“腕”を持っているのだ。
巨獣が持っているのは、それだけではない。鼻の根元に生えた、乳白色の牙である。大きく、天空を突き刺すが如く、反り返っている。巨獣が頭を振れば、その牙も大きく振れた。巨獣はこれ故に、尋常ではなく、大きく見える。
男は丘の上から、この巨獣らを見下ろしていた。息を潜める必要はない。全ての音を、“白”が塗りつぶしてしまうのだから。
肩で息をしていた。吐く息は白い世界の中で、より一層白く見えた。男が懸命に息をしているのは、豪風の中で呼吸がしにくいからであり、また雪解け水の中に身を浸からせているかのような寒さだからであり、また――興奮が、抑えられないからである。
目の前の巨獣は、ヒトにとって最大最高の、尊敬されるべき敵であった。身体の大きさだけではない。巨獣らは、向こうから襲ってくるようなことはしない。彼らは、植物しか食べないおとなしい生物なのだ。しかし、ヒトにとって巨獣は、有益過ぎた。その皮を一度纏えば、雪風から身を守ってくれる。その骨、牙を削れば、様々な道具になる。また肉は一頭分あれば、一つの集落を雪の季節一つ分、持ち堪えさせる。
故に、ヒトは尊敬しつつ、自らが生きるために巨獣を狩る。だがそれは、容易ではない。
巨獣狩りでは、必ずと言っていいほどヒトが死ぬ。何を隠そう、この男の父も、巨獣狩りで死んでいる。勇敢であった男の父はある日、巨獣の後ろ足に致命的な傷を負わせて、その次の瞬間、踏み潰されて死んだのである。
その狩りでの収穫によって、集落はその雪の季節を凌いだ。しかし、その狩りでは五人が死んだ。その頃、まだ声が低くなったばかりだったため狩りには参加せず、集落で父の帰りを待っていた男は、父を自らの手で、集落の墓地に埋めた。あの日に誓った雪辱の相手が、今、男の眼下にいる。
男は、初めて見た生きた巨獣を長らく見つめた後、向こう側の丘の木々へと目をやった。
合図を待っていた。胸が、強く内側から叩かれた。鼻先や耳が凍るように冷たいのに、何故だか全身が熱い。
暴音が、徐々に遠ざかる。自分の荒い、息の音だけが聞こえる。白い世界が段々と眩しくなっていって、くっきりと見えていた雪の結晶の輪郭さえも、ぼやけていく。
――。
遠くで小さく、眩い夕陽色の光が、散った。
石をぶつけ合わせて出す光。
合図だ。
男の耳に、音が戻ってくる。風と木々の声に混じって、男達の叫び声が聞こえてくる。
男の身体が、ブルッ、と震えた。そして自らを鼓舞するかのように、声を張り上げた。
狙うは、身体の一番大きい巨獣である。逃げるため、身体を反転させようとする巨獣の頭に、石の礫が投げ込まれる。
丘の上、周囲には集落の男衆が集まっていた。各々、準備しておいた石を投げる。風に流されることのない、石の雨が窪地に降り注いだ。
巨獣が逃げる。しかしやはり、狙われている一番大きい巨獣の動きは鈍い。やがて、槍が投げこまれる。これは数に限りがあるので、皆集中して投げる。石投はいわば前哨戦、ここからが狩りの、本番である。
何本かの槍が、巨獣の身体に突き刺さった。逸れて地面に突き刺さった槍を、逃げようとする巨獣が小枝を踏みしめるかのように、簡単に折った。男もいよいよ、槍を手にした。早まる呼吸を無理矢理抑え、放った。――外した。
その後二本の槍を、男は投げた。しかし、どれも思うように飛んでは行かない。
男は、手元に残った最後の槍を手にした。父の形見の、槍だった。
集落では、どんなものも共有するのが習わしだった。しかしこの槍だけは、男は誰の手にも渡さなかった。父の眠る墓地近くの木の窪みに隠し、ここぞという時にだけ持ち出し、使ってきた槍であった。
男はたまらなくなり、丘の斜面を一人、駆け降りた。土が削れ、石が転がったが、男はうまく、斜面を走った。手負いの巨獣は、移動を始めている。窪地を離れようとしている。男は槍を手に、走る。降ってくる石や槍を無視し、まっすぐ前を、逃げる巨獣の後ろ足だけを見て駆けた。
そして、眼前に迫る巨獣の後ろ足の膝裏めがけ、逆手に槍を持ち、渾身の力を込めて――。
その鋭鋒を突き刺した。
巨獣は甲高い叫び声を上げ、膝を突いた。無論、男が槍を刺した、後ろ足である。
それを合図にしたように、男衆が丘を駆け下りてきた。皆手に槍を持ち、叫びながら。
男は地面に落ちた槍を拾い上げ、追撃を仕掛けた。
――いよいよ、仕上げである。
ここで男の興奮は絶頂に達して、記憶も吹き飛んだ。
後に思い返そうとも、男はこれ以降、獲物を引っ張って集落に帰るまでの記憶を、永遠に無くした。思い出すことは、二度となかった。
*
男の意識が正常に戻ったのは、集落に辿り着き、死んだ巨獣の解体をしている時のことだった。
見上げれば、雪風は止み、少し傾きかけた太陽が出ていた。目を眩ませて地上に目をやると、そこは白と、赤の世界だった。
男は率先して、解体に参加した。集落の男衆は、皆数刻おきに、男に柔らかな顔を見せた。
皆、男を認めているのである。今回の狩りは、死人が出なかった。父と同じくして勇敢に戦った男を、皆が今回の狩で、その力を認めたのである。危険な行為ではあったが、結果が全てだ。皆が男を見る目は、狩り以前と以後では、全く変わっていた。その皆の目には喜びが、期待が、尊敬が。込められていた。
巨獣の遺骸は、部位ごとに、ばらばらにされた。頭部、四本の足、胴という、六部位。
特に手間がかかるのは、胴と頭だった。胴は下部を大きく開き、中に詰まったぐずぐずの腑を、引っ張り出し、中に雪を詰めた。雪は保存にも、また洗浄にも役立つのだ。
頭は石で割られ、中身を腑よろしく引っ張り出す。頭からは、食肉が殆ど取れない。むしろ価値があるのは、やはり牙である。
次に、各部位からは皮が剥がされる。その皮を剥ぐものは、同じく巨獣の牙から作った刃である。切断面の肉と皮の間に刃を差し込み、皮を引っ張ると、簡単にそれは剥ぐことができた。皮を剥いでしまうと、集落で男衆の帰りを待っていた女達が、血のついた面に雪を擦り付けて洗った。そうして洗われた皮は太陽や火によって乾かされ、やがて人々の衣類になる。皮の加工は、主に女衆の仕事である。
肉は細かく切り分けられ、家々の代表である男衆に配られた。余った肉は雪の下に保存され、少しずつ食される。そして最後に骨は加工され、槍の先端や刃、針といった道具となるのだ。
男は最後に、集落のまとめ役である長に、肉を分けてもらった。それは明らかに、いつもより大きな量であった。さらに長は、自らの首に回していた幾つかの首飾りのうち、一つを外し、男に差し出した。
長は、柔らかな表情をしていた。男は恭しく、それを受け取った。
辺りが暗闇に包まれる中、住処であり、生まれた場所でもある洞窟に戻ると、中では男の妻が、火と土器で水を沸かしていた。洞窟内は仄明るく、暖かかった。水の沸く音が小さく響き、また、たまに火種の爆ぜる、高い音が鳴っていた。
女は帰ってきた男を見ると、柔らかな表情を見せた。そして男が、持って帰ってきた肉を地面に置くより早く立ち上がり、男を優しく、強く抱きしめた。
待つ女は、男が狩りに出る度に、男の死を覚悟しなければならない。持ち帰られた獲物を見ると同時に――特にそれが大きければなおさら――誰かが死んだことを、想像させられるのだ。
男は知らないが、今日、女衆は村に持って帰られた巨獣を目にして、皆青ざめた。――今日は、誰が死んだのか。それは、幼い頃から染み込まれた、習慣のようなものだった。死人が出なかった今日は、特に喜ばしい日となった。
女は肉を骨で作った刃で切り分けると、細かいものを湯の中に入れ、大きな骨付きの物を、火で炙るべく、地面に刺した。
男と女は、肉と、お互いを、交互に見た。――話すことは、なかった。そもそもこの時代、言葉なんてものは挨拶程度、文字も、ないのだ。存在していないのである。
女は、肉が焼けたことを目で確認すると、男に差し出した。男は受け取り、湯気立つそれを何度か振ると、かぶりついた。
歯を肉に食い込ませると、顎に力を込め、食いちぎる。巨獣の肉の繊維は、ぶちぶちと音を立てながら切れた。口に含むと、それをほぐすように、噛む。噛む度に、うまみを含んだ肉汁が溢れ、唾液と、肉と混ざり合う。呑み込むと、暖かなものが身体の中を通って行くのを感じた。自然と、顔が柔らかくなってしまう。
女は男と同じような顔をして、男の顔を見つめていた。男はそれに気付くと、地面に刺さったもう一本を取り、女の方へ、ゆっくりと差し出した。
女は男の真似をする様に、何度か湯気立つそれを振ると、男のそれとは全く似ても似つかない小さな口を懸命に開け、肉にかぶりついた。
女が、もぐもぐと口を動かす。男は、それを見る。
男は、あたたかさを感じていた。火によるものではなかった。身体の内側から湧く、むず痒くってたまらない、あたたかさだった。
男は考えた。この気持ちは、なんなのだろう。なんというものなのだろう……。
火の光を受けた女は、夕陽色に光っていた。皮膚は巨獣のそれとは違い、なめらかだった。肉の脂が、淡い肉色の唇を、てらてらと濡らしていた。大きな両目が、星より、雪より眩しく、清らかで……男はその気持ちを、表現したかった。しかし、できない。言葉を、文字を知らないのだから。
男は、自分の気持ちを、女に、完全に伝えたかった。でも、どうしようもなかった。もどかしかった。わかって欲しいのに、どうやって伝えればよいのか……。
パチンッ、と、火種が鳴った。女は、ビクッ、と身体を震わせた。
男はたまらず、肉のついた骨を放って、咄嗟に動いた。
女の頭を右手で支えると、自らの唇を、女の唇に合わせた。
無意識に、目を瞑っていた。
伝わりますように、と、願い事をするかのように。