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3-1 黒き飛翔


 出発の準備は、夜が明ける前から赤々と燃える松明(たいまつ)のもとで進められていた。

 やがて陽がのぼると、兵士たちは炎を踏み消していく。もはや松明を必要とすることもないだろう。ふたたび陽が暮れるまでには学園都市(アプリカ)の勢力圏にはたどり着いているはずである。そこで魔法学園(チュエリス・サリス)からの出迎えと合流する手はずになっていた。


 ナタリア姫に用意された馬車は四頭立ての立派なものだった。邪険にしているとはいえ、魔法学園のお歴々の目にふれるものである、バローズ老も一応は世間体を気にしたのだろう。


 館から出てきたリナが最初に目にしたのは、その馬車によじ登ろうとして衛兵に怒鳴られているカルの姿だった。


「よう、おはよう」


 カルは馬車の側面にはりついたままリナをふりかえる。自分の格好のことなど少しも気にしていないようだった。


「……何してるの」


 腰に吊った剣の重みを確認しながら、リナはたずねる。

 リナが静かに殺気をにじみだしているのに気づかないのか、カルは奇行について悪びれもせずに降りてくる。


「王女を守るなら屋根の上にいるのが一番だと思ったんだが」

「ほんと何やってるのよ」


 リナはあきれ顔でカルのことを見やる。

 自分も目的のために無茶なことをやる方だが、カルにくらべたらまだ常識的な部類だ──そんな認識をリナはあらたにした。

 カルもカルで同じようなことを思っているので、この二人は真逆のように見えて深い部分では似通っているのかもしれない。


「それで、中はどうだった?」


 カルにそうたずねられ、リナは不快そうに唇をまげながらも肩をすくめてみせる。表情と動作の食い違いは、リナの中で複雑な感情が入り乱れているあらわれでもあった。


 リナが館の中にいたのは王女の近侍たちに呼ばれたからである。

 出発を前にして不安をかくせずにいるのはわかるが、実務をになう者としてはできればおとなしくしていてもらいたいものである。運ばれる荷物と化してくれればなお言うことはない。


 彼らの用件は、具体的には学園都市の安全性についてであった。街の中での治安という意味ではない。問題にされたのは、ガイヴァントの侵攻にたいしてどれだけの堅牢さをもつのかということだ。

 中でも、彼らがもっとも神経質になっているのはオーバー・ワンについてである。魔法学園の敗北については彼らも実によく知っていた。

 むしろ知りすぎているのが問題でもある。その中には間違った情報や単なる噂も多い。自分たちの恐怖を種としてさらに大きな恐怖を芽吹かせている彼らには、リナも確かに辟易(へきえき)としていた。


「絶対に安全なのかなんて聞かれても保証なんかできるわけないわよ」


 カルは無責任に笑っている。王女の取り巻きが不安をおさえきれない理由について、リナとは別の角度から察しがついているからだ。


 おそらく、カルとリナの若さゆえだろう。オーバー・ワンとの一戦で魔法学園はその虎の子ともいうべき精鋭魔法兵団(イニチュエリス)の大半をうしなってしまった。まだ子供と変わらない二人が使者としてやって来たことで、学園の極端な戦力不足という現実を目の当たりにさせられた気になるのだろう。

 そのような認識はリナには薄い。リナは戦闘者である自分に誇りと自負があるだけに、自分の外見が他人からどう見られているかということには無頓着なところがある。


「適当に言って安心させてやればいいだろ」

「言ったわよ。『魔法学園一同、心をひとつにして殿下をお守りする所存にございます。いかな敵が来ようとも殿下の御身に万一のことなどあろうはずがございません』」


 カルは、くっくっと喉を鳴らした。リナの芝居がかった口ぶり身ぶりで、その光景がまるで見てきたことのように想像できる。


「連中、それで納得しなかったのか?」

「具体的対策はってうるさいのよ。少なくとも今よりは安全になるんだから何を神経質になってるんだか」

「そういう手合いはきりがないからな。まじめに取り合うだけ無駄だろ」

「だから言ってやったのよ。『魔法学園には秘密兵器がある』って」


 今度こそカルは空を見上げて馬鹿笑いした。


「その秘密兵器というのは何なんだって聞かれただろ」

「機密事項なので小官の口からお伝えすることができずに残念ですと言っておいたわ」

「それ、向こうに着いてからどうするんだ?」

「知らないわ。どうせ着く頃には忘れてるでしょ」


 オーバー・ワンへの不安はつまるところ、自分たちの生活の先行きがわからないということに起因しているのだろう。学園都市の健在ぶりをその目でたしかめた上で、学園からの歓待を受ければそれも消えるに違いない。


「しかしまあ、実際のところ、オーバー・ワンが襲ってきた時の対応くらいは上も考えてるんだろうがな」

「手順書があるという噂だけどね」

「噂? リナも知らないのか?」

「生徒には数人にしか知らされていないという話だけど、ティアも聞いたことないって言ってたわね」

「それだと単なる噂かな」


 生徒数人という中にリナもティアも入っていないというのが噂の信憑性をいちじるしく下げている。

 しかし、リナの見解はどうも違うらしい。


「私たちのこと買いかぶってくれてるみたいだけど、学園の上の方は研究者の社会だから貴族の肩書きが通用しにくいのよね。学園が生徒の代表として私たち以外を選んだとしても不思議じゃないわ」


 リナたちは身分だけでなく、実力も生徒の中で抜きんでている。当然、名声もである。その三つの他に選択基準となりうるものがはたしてあるのかどうか。何にせよ、手順書の話はカルに興味をいだかせるようなものではなかった。


「そうか……」


 一瞬、カルの表情に落胆のようなものが()ぎるのをリナは目にした。

 冗談めかしてはいたが、もしかしてカルがこの話をふってきたのは何らかの情報を期待してのことではないだろうか、という疑問がリナの内にわいてくる。


 カルは視線に気づき、おどけたように肩をすくめてみせる。


「まあ、いざとなれば学園塔がゴーレムにでも変形するんだろ」


 予想にしても適当すぎるが、学園都市の住人にとってオーバー・ワンの襲来というのはそのくらい現実感に乏しいものであることは確かであった。




 馬車の屋根は無理だったが、カルとリナは馬車後部の立ち台に陣取ることを許された。

 馬車の中にはナタリア姫と、クロエをはじめとした侍女たち、馬車の外には前方に御者、後方にカルとリナのみである。


 隊列はよどみなく進み、王女の実家であるバローズ家が遠ざかっていく。

 幸いなことに、身内からの追撃はなかった。ひとつ屋敷に二つの勢力が(つの)をつきあわせている中で一方が屋敷を去るにあたり、それをせいせいすると感じるのか、復讐する最後の機会と捉えるのかは意見が分かれるところだが、バローズ老の使用人たちは前者であったのだろう。


「移動するなら夜の方がよかったんじゃないか?」


 立ち台の柵に肘をのせながら、カルはリナにむかって言った。

 ひとたび馬車が走りだせば、馬蹄と車輪の響きで大抵の音はかき消される。話している内容が王女たちに聞かれる心配はないし、馬車の前方に乗っている御者にも届かない。


「王者が逃げるみたいにこそこそと移動するわけにはいかないでしょ」


 そんなものだろうか。白昼堂々とくり出す危険を思えば、せめて夜明け前か日没の薄闇にまぎれるべきではなかったのか。


 田舎のあぜ道から山間の街道に出ると、馬車の揺れもいくぶんましになった。その分、会話を聞かれる危険も増し、二人は自然と口数が少なくなる。


 馬車の中の会話が漏れてきたりしないだろうか? などと思いながら、カルはふと背後の窓を振り返った。

 そこには、目を皿のようにしてこちらを見ている子供がいた。

 ナタリア姫だ。窓のガラスに張りついている。

 カルのことをじっと見つめたまま、ゆっくりと窓の下に沈んで消えていく。

 子供は知らない人に興味があるものだ。

 カルは一計を案じて、同じように窓の下へ身を隠した。


「何やってるの?」

「しっ」


 リナの視線を手で追いやる。

 カルは頃合いを見て、顔ごと窓に張りついた。

 案の定、のぞき込むようにしてカルの姿を探していたナタリア姫は、のけぞるほど驚いて座席からころがり落ちる。床には毛足の長い絨毯が敷かれているから怪我をする心配もない。

 ガラスに張りついて平面になったカルの顔を見上げ、ナタリア姫はきゃっきゃと笑った。


 そんなナタリア姫の顔が青ざめていく。真上から頭をがしりとつかまれている。

 つかんでいるのは向かいの座席にいるクロエだった。彼女は微笑みを少しもくずさず、ナタリア姫を床から引っこ抜くように持ち上げ、自分の方に向かせて座席に戻した。

 それから何ごとか話し始めたのはお説教なのだろう。ナタリア姫の身が縮んでいく。

 クロエの表情は終始にこやかなのだが、目はわりと笑っていない。


 カルもまた姫と同じように頭をつかまれ、窓から引き剥がされる。そちらはリナだった。


「何やってるのよ」

「ちょっと子供の相手を」

「ずいぶんとお優しいことね」


 先ほど邪険に手で追い払われたせいか、リナの言葉はどこかとげとげしい。


「俺は元から子供好きだぞ。学園では小さい子がいないだけで」

「そうなんだ、カルは小さい子が好きなんだ」

「……悪意がないか? その言い方」


 馬車が急に速度を落とした。使用人の乗る馬車も荷馬車も一斉にである。

 先行していた騎兵が引き返してきて、子爵の関所がすぐそこであることを知らせる。


 いよいよ正念場だ。

 それはつまり、リナの出番でもある。

 ダマ家の威名とリナ個人の実力は、関所を押し通るうえでの衝角となるだろう。相手をひるませて戦いを避けることができるのならそれに越したことはない。




 だが、関所の通過は呆気のないものだった。

 問題が何ひとつ、まったく、これっぽっもなかったという意味では、肩すかしと言ってもいいくらいだ。

 リナの口上が済むと、それを待っていたかのように一行はあっさりと通された。馬車の中をあらためられることもなかった。

 はったりを利かせる暇もない、その必要すらなかったのである。


 関所が見えなくなり、追ってくる兵もいないとわかると、従者たちはほっと胸をなで下ろした。

 さすがは大公家のご令孫だ、いいやいや王家のご威光が、などと口々に賛辞が飛び交う。みな上機嫌であり、張りつめていた空気はすっかりゆるんでいた。

 この場で宴でも始めかねない中で、カルとリナだけは別の解釈をしていた。


「気づいてる?」

「ああ」


 街道にはナタリア姫ご一行のほかには誰もいない。

 それが問題だった。

 後ろから来る者がいないのはわかる。見るからに身分のある馬車を追い越す危険を避け、先に行かせようとするのは無理もないことだ。

 しかし、すれ違う者すらいないのはどうにも不自然だった。

 耳ざとい隊商が何ごとかを聞きつけて出発を遅らせているのだとしたら、まだ事は終わっていないと見るべきだろう。


「罠かしら」

「かもな」


 この先、子爵が待ち受けているとしたら、一行が開けた場所に出るその時だろう。

 じきに街道は山間を抜ける。


 しかし、そこでもカルたちの懸念は外れ、襲撃はなかった。


 街道の右手には緑色を敷きつめた大小の丘がかさなり、左手にはよく手入れされた田園風景がのんびりと広がっている。このあたりはガイヴァントも出没しないらしい。というより、そういう場所を選んで新街道が拓らかれたのだ。


 しばらく行くと、目につく集落も増え、やがては町と呼べる規模にまで大きくなっていく。

 建物の集まったあたりからは何やら人のにぎわいが伝わってきた。祭の準備か、もしくは(いち)が立っているのだろう。


「ここまで来ればもう待ち伏せはないわね」


 街道の左右には、まとまった軍勢が隠れることのできる地形はない。せいぜい、丘の隆起くらいだが、一行の不意をつくには街道から遠すぎる。どうやら、子爵の追撃は取り越し苦労に終わったようだ。


「残念そうだな」


 カルから言われて、リナは気恥ずかしそうに頬を染める。


「そうじゃないけど……肩すかしではあるわね」

「子爵はなんでまたあきらめたんだろうな」


 十歳の少女に求婚したことが今さら恥ずかしくなったのだろうか。それなら証拠隠滅のためにも関係者を皆殺しにしそうなものだが。


「こちらの動きにまだ気づいていないだけだったりしてね」

「それだと後で実家が報復を受けたりしないか?」

「そう思うなら彼らもついて来たでしょ。難を逃れるだけの算段はついているんでしょうね、きっと」


 それが事実であれ楽観であれ、誰に強制されたわけでもない。彼ら自身の選択だ。

 手はさしのべた。それを払いのけた者の面倒までは見きれない。


「魔法学園からも迎えが向かってるはず、このまま街道をいけば日没には合流することになるわ」


 魔法学園が表立って動けないのはよその領地をおかす場合である。勢力圏のぎりぎりまでなら兵を動かしても周辺諸侯にあたえる衝撃は限定的だ。


「結局、景色をながめてひとの家で飯を食って帰るだけだったな」

「たまにはいいんじゃないの、こういうのも。いつも悪い方に予想がはずれるばかりなんだし」


 もし、この世にバランスというものが存在するのなら、できればどちらの方向への予想外も勘弁してもらいたいものだが。


 カルとリナは急に手持ちぶさたとなった。

 いくら護衛が不要になったからといって、まさか隊列を離れるわけにもいかないから、あとは景色をながめるくらいしかやることがない。


 やがて、リナはナタリア姫のお召しで馬車の中に入っていった。中でも退屈をもてあましていたのだろう。リナの武勇譚は誇張をまじえなくとも王女や侍女たちの胸をおどらせるものであるし、リナの凛々しい姿はながめているだけでも侍女たちにときめきをおぼえさせるのだろう。


 馬車の中からは笑い声のさざめきが伝わってくる。

 カルは馬車に背を向け、後方に遠ざかっていく景色をながめた。隊列の中には、カルと同じようにすぎゆく地を見つめている者もいる。彼らはもう二度と戻ることのない故郷に思いをはせているのだろう。


 カルの指がふところに入り、折りたたまれた紙をとりだす。それは手紙であるが、カルの目はそこに書かれた文字を追っていない。景色と同じく、ただながめているだけだ。そのまなざしは紙面ではなく、もっと遠いどこかに向けられているようでもあった。


「カル」


 声はリナのものであった。どうやら王女たちから解放されたらしい。走っている馬車の上で、身軽に立ち台へ戻ってくる。

 カルは手紙を広げたままである。リナの視線は自然とそこに吸い寄せられていく。


「手紙?」

「ああ」


 短くこたえるカルの姿が、一瞬、かげろうのように薄れていきそうで、リナは不安をおぼえた。

 まれにカルはこうなる。その理由も察しがつく。過ぎた日々に想いをはせているのだろう。

 それだけに、リナには手紙の内容が気になった。しかし、他人の手紙を読ませてほしいなど、そう尋ねることからして不作法というほかない。


 その手紙が思いがけずリナの方へと差し向けられる。


「二度手間になって悪いが、馬車の中にでもまぎれこませておいてくれないか。荷物の方にしまい忘れたから。もう戦闘がないとも言いきれないし」

「……見てもいい?」


 思わずそう口走ってから、リナは慌てて言いなおした。


「いや、ほらさ、もし殿下の目にふれるようなことになって問題になるようなものだったらまずいし」


 口実としては微妙だったが、カルはあっさりとそれを許した。

 リナは貴重な古文書でもあつかうように手紙をうけとる。その手触りにはかすかなおぼえがあった。


「あの時の……?」


 カルは視線を地平線にむけたままうなずく。

 あの時。

 王都が消えた日。

 あの何もかもが赤く染まっていた夕暮れ時に、カルが日よけとして顔にのせていたのがそれであった。


 本人の前で手紙を読むのはためらいがあったが、背中をむけるのも何か隠しごとをしているようでもある。結局、リナはカルが見ている前で手紙をひらいた。

 最初の数行を目で追ってから、手紙の最後へと目を移す。差出人はアイリスとなっている。おそらくカルの妹だろう。


 リナはふたたび頭から読みはじめた。

 内容の方はというと、ほぼカルへの小言である。


  『カル、魔法学園での生活はどうですか。元気にやっていますか。

   といっても、丈夫なカルのことだから病気ひとつしていないことでしょう。

   その点については私も母さんも心配していません。


   目上の人から気に入られていますか、というのも聞かないことにします。

   カルはいつもぼんやりとしているのに、ひどく頑固になることがありますね。

   でも、アイリスはそれを叱ったりしません。

   なぜなら、カルが誰かにむごいことをするわけがないと知っているからです。

   だって、カルが怒るのは誰かがむごい目にあっている時だから。


   ただ、世の中の人にはそれが伝わりにくいのです。

   これはカルにも責任があります。自分のことをまるで説明しようとしないから。

   でも、責めたりしません。

   それもカルのいいところのひとつには違いないのだから。

   きっと、カルはいつまでもカルのままなのでしょう──』


 かの有名な魔法学園に身ひとつでとびこんだというのに、兄を案ずる言葉はひとつもない。それは裏を返せば、自分の兄が肉体的にも精神的にも無類の頑丈さをほこるということにこの口やかましい妹は絶対の信頼をよせているのだ。


 そのくせ、兄のことが心配でたまらないらしく、つい戒めのような言葉をつらねてしまう。それというのも兄の性格をよく知っているからだろう。欲がうすく、のんびりとしているくせに、突然とんでもないことをやらかす。


 リナの頭の中で、カルと同じ黒髪の少女の姿がぼんやりと浮かんでくる。

 その瞳は理知的な光をたたえている。冷たそうなのは見た目だけで、きっとおせっかい焼きなのだ。自分の行動の理由をろくに説明しない兄のことをよく理解し、その上で追い回してお説教をするのである。


 手紙はなおも続く。


  『たまにはカルからも手紙をください。

   母さんがさみしがっています。言葉にはしないけど。


   それではまた。愛を込めて。アイリスより。

   何ごともやりすぎないように』


 手紙はそこで終わりではなく、裏にも続いた。


  『追伸。


   ところで、例の消し去るあれは、ほどほどにしているでしょうね?

   人前でなくても油断してはいけません。

   家族で約束したことを忘れないで。父さんのお墓の前で誓ったことを。決して。

   あれはきっとよくないものです。

   父さんはカルの好きにすればいいと言っていたけれど──


   アイリスはよくないことが起こる気がしてなりません。

   カルのことを思うたび、いつも胸がしめつけられます。

   どうか、カルの行くすえに光が満ちていますように。

   アイリスはただただ祈るばかりです』


 口やかましさは愛情の裏返しでもある。

 リナは目尻に透明な液体が浮かんでくるのを感じ、必死にこらえる。

 感情を揺さぶられたのは、失われた幸福を思ってのことだけではなかった。


 リナにも兄がいる。アイリス・ナイトウォーダーの場合とは違い、二人。しかし、そのどちらとも、このようなおせっかいだがぬくもりのある手紙を交わすことはなかった。

 兄だけではない。リナにとって家族とはひどく冷え切った人間関係を意味していた。血のつながりは関係の修復には何の役にも立っていない。むしろ、血縁であることが原因といってもよかった。リナがにじませた涙のいくらかは、自分にはおとずれなかった幸福を思ってのことでもあったのだ。


 手紙から顔を上げると、深い瞳がリナのことをただ見つめていた。

 リナは自分でも思わぬことを口走っていた。


「これ、私が持ってていいかな……!」


 声がうわずってしまう。慌てて底意を否定する。


「いや、変な意味じゃなくて、その方が安全だと思うから。私、何があっても絶対にやられないようにするし……」


 王女の護衛としては問題のある発言だが、そんなリナの反応にカルは苦笑をもらす。


「ただの手紙だ」


 しかし、特に異議もないらしい。

 リナは手紙をていねいに折りたたみ、ふところに入れた。

 服の上からもその存在をたしかめてから、カルにむきなおる。


「あのさ……座らない?」


 この機にカルのことについて聞きだそうという下心がリナにはあった。普段のふるまいすら噂として流れてしまう彼女たちと違い、カルに関する情報は王都の下町育ちであることと家族構成、あとは同郷の者たちからの又聞きがわずかにあるくらいだ。今なら二人きりで逃げ場もない。どうせ暇なのだし、カルも口が軽くなるかもしれない。


 元よりカルの方には否もない。二人は横にならんで立ち台に腰をおろし、柵の縦格子から外に両足を出す。


 しかし、リナはそれきり静かになってしまう。

 話のとっかかりに困っているわけではない。それなら妹からの手紙がある。

 むしろそのことが障害になっていた。自分の境遇をかさねて感情移入してしまったせいで、今、手紙の話題をだそうものならリナの方が号泣してしまいそうなのである。


 馬車からぶらぶらとさせている二人の足の下を、けばだった茶色いものが通りすぎていった。生まれたての馬糞である。

 また来たら話をふる、とリナが心に決めたそばから次の馬糞があらわれる。四頭立てなので脱糞のペースは速い。

 今のをノーカンにしてまた次を待つ。

 今度はでっぷりした大物が真下を通りすぎていく。そのサイズにぎょっとして、結局は話しかけるタイミングをのがしてしまう。


「実家の方はどうなんだ?」


 リナがぐずぐずしているうちに、カルの方から話を切りだしてくる。

 内容の方は別段きわどいものではない。王都消失以降、魔法学園において毎日のように聞かれる話題である。


「あっちはいいのよ。お爺さまもいることだし」

「でも、手紙は何度も届いてるんだろ?」


 有力な生徒の去就は学園全体の問題でもある。リナほどの有名人になると日常において秘密をもつことは難しい。

 彼女が実家から帰郷をうながされていることは、カルならずとも耳にしていることだった。秩序もへったくれもないこんなご時世である。遠くにいる家族が身を案ずるのは無理からぬことだろう。


 事実、魔法学園を後にした生徒は多い。今も学園に残る生徒の大半は、帰るべき故郷がなくなったか、帰る方法がない者であり、リナたちのように自らの意思でとどまった者はごくひと握りにすぎない。


「いいのよ、私がいない方があっちはうまくいくんだから……」


 話の勢いで、リナは家族についての愚痴のようなことを口走っていた。

 これでは白状させられているのは彼女の方だ。


 カルは聞き上手というわけではないが、一見、ぼんやりとしていそうなところが女性にとってひどく話のしやすい相手であった。自然と聞く側にまわるのは幼少の頃からまわりに女性が多かったためだろうが、その習性はリナという主張のはげしい少女と行動をともにすることで一層、磨きがかかっている。リナには自業自得でもあった。


 カルはなおも聞く姿勢をくずしていない。すでに話しすぎたと思っているリナにとってはつらい沈黙だった。しかもわざわざ並んで座り、自分から逃げ場をなくす形になっている。


 やがて、カルの方からぽつりとつぶやく。


「そうか。まあ、変な噂もあるしな」


 カルはどの噂なのか明言していない。

 が、リナには一通りの解釈しかできなかった。自分でも気づかずその前提で話し始めたのは、リナ自身、それを誰かに聞いてもらいたいと思っていたからなのだろう。


「お爺さまは何も仰っていないのに、まわりが勝手に勘ぐるのよ……」


『大公殿の跡取り殿はまこと()()()がよろしゅうございます』

 宮廷でそうささやかれるとおり、ダマ大公の嗣子(しし)ダルラスは人あたりのよい人物として知られていた。政治的な立ち回りも悪くない。外面(そとづら)だけでなく、貴族には珍しいほどいたわりのある家庭を築いていた。およそ人として致命的な破綻をもたない、それがダルラス・ユリウス・ダマという人物である。


 宮廷での人物評といえば毒針がしこまれているものである。

 彼にとっての不幸は、稀代の勇将であるルフス・ユリウス・ダマの長子として生まれたことにあった。彼は天綬(ギフト)の才をまったくといっていいほど持ちあわせていなかったのである。

 ダルラスの長男と次男もまた容姿や性格だけでなく、天綬においても父親に生き写しであった。父大公の落胆にたいしては複雑な思いもあるが、似ないものはしかたがない。


 だが、三人目の娘が誕生したことにより事情は大きく変わる。

 ダルラスの子に、砂漠の血(デューン・カーマイン)を色濃くうけつぐ者がついにあらわれたのだ。


 大公ルフスは息子夫婦をおしのけるようにして孫娘の教育に心血をそそいだ。師としてふさわしい者がいると聞けば領外にも出かけていって招き、そのかいあってか女児はみるみる頭角をあらわした。女児が少女となる頃には、武芸、魔力の双方で師をしのぐようになり、大公が手ずから教えをさずけるようになる。

 その時から少女の成長はめざましいほどに加速した。幼い頃はあえて他人の手にゆだねることで基礎を固めるという大公の方針が図に当たったのだろう。将来は祖父ルフスすらしのぐのではないかとさえ囁かれ、その噂はルフス自身をも喜ばせた。


 大公の溺愛は家族にとっておもしろいものではなかったが、少女自身が家族を敬愛していたことが救いになった。年端もいかない娘から「悪い奴が攻めてきたら私が命にかえてもお守りします!」と大まじめに誓われ、父親も苦笑するしかなかった。その言葉に裏などないことは明らかであったからだ。


 家族の間に亀裂が生じるようになったのはいつ頃のことなのか、正確に言える者はおそらくいないだろう。気がついた時には、疑いはそれぞれの胸に深く根をはっていたのだ。

 あるいは、最初からあった種が単に芽吹いただけなのかもしれない。大公が長子であるダルラスとその息子たちを差しおき、お気に入りの孫娘に婿をとって生まれた子に跡を継がせるのではないか、という噂を耳にした時、心のどこかでそうだろうと納得する気持ちが確かに彼らの胸によぎったのだ。


 すでに少女も愛らしいばかりではなく、凛々しさをともなう年頃になっていた。大人から憎しみをむけられても泣きじゃくったりはせず、それに耐えるだけの強さをそなえている。だが、彼女の沈黙は裏目に出てしまった。じっと耐えている彼女の姿は悪意をもつ者の目にはふてぶてしいと映り、より一層の憎しみをまねく結果となったのである。


 父や兄たちの態度は日に日に冷えていき、母や姉たちも家の男たちを気にして少女を避けるようになっていく。

 大公ルフスも当事者であるだけに、この件に関しては無力であった。ひとつには、それも選択肢として大公の胸中に事実存在していたからなのかもしれない。大公は年齢の上では老境に達していたがなお壮健であり、あと二十年は死にそうにないと周りからも思われていたのである。

 皮肉なことではあるが、大公領における少女への期待が高まるにつれて、家族内での孤独はより深刻なものになっていったのである。


 少女が魔法学園に入学する直前の事情はおおよそのところそういったものであった。

 少女の名をメッサリナという。親しい仲からはリナと縮めて呼ばれている。


「跡取りのことなんて知らない、お爺さまに直接きけばいいのよ。私はそんなこと興味ないのに」


 失う者と得る者では物の見方も変わってくるが、最初から望んでなどいないリナにとっては文句のひとつも言いたくなる。


「どうしてこんなことになったのかな……」


 つぶやきは疑問の形をとっていたが、誰かにむけられたものではない。

 こんなはずではなかったのに、という気持ちがリナの胸に広がっていく。

 家族が幸せな時期もあった。なぜあのままではいられなかったのか。


「私はただ……」


 私は、ただ?


 そうだ。最初はこうじゃなかった。


 あの頃は……そう……。


 ただ、うれしかったんだ。


 みんなが喜んでくれるのが、ただうれしかった。


 だから私は……。


「あ……」


 幼いメッサリナのままでいられたら、何かが違っていたのだろうか。

 そう思うとリナの頬をつたうものがあった。

 熱い滴はあとからあとから溢れてきて、リナは両手でまぶたをこすらねばならなかった。


「砂ぼこりが目に……」


「そうか」


「入ってない」


「そうだな」


 馬蹄のとどろきが響き渡ったのは、まさにその瞬間だった。





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