鮮血ノ月(23/111)PDFで表示縦書き表示RDF


体中の血が、一気に沸騰するような、
灼熱した感情の、坩堝。
鮮血ノ月
作:天海リョウ



[弐拾参] 狂おしいほどの


 朝から少女は不機嫌だった。
 何故なら、せっかくの学校の創立記念日で一日休みだというのに、最愛の姉は転校先で最近出来た友人と遊びに行くとのことだった。
 しかも、学校をサボって。

「不公平だ……朱里がいくら言っても休んでくれなかったのに」
「まだむくれてるのか。いい加減機嫌を直してくれ」
「ずるいー、ずるいー」

 ソファから恨めしげな視線を送りつけてくる妹に千夜は出かける前から疲れてきた。
 行くなら、日曜の昨日でもよかったのだが、蒼助に猛反抗を喰らった。



『日曜出かけると高速は混んでんだよ。それに俺は単車に男を乗っける気はねぇっ!』

 
 などとケチ臭いこと言って譲らないので、仕方なく平日の今日、女に戻ったこの状態で行くことになった。
 無論、学校をサボるわけだが、一日サボったところで学校での『顔』なら病欠だと言っても何の支障も無いはずだ。
 普段の在り方から見て蒼助の方はそんなわけには行かないとは思うが、本人もそれを承知していると思われるからこの際気にしない。

「朱里も行きたい………」
「それは昨日からダメだと言ってるだろう。頼むよ」
「がうー」

 いつもは大抵のこちらの言い分は聞き入れてくれる姉が今日は譲ってくれないことに少女は違和感を感じた。
 何か自分が居ては都合が悪い理由でもあるのだろうか。
 少女の中の大人びた感がピカーンと光った。

「さては……姉さんったら朱里に内緒で新しい恋人作ったわねっ!? あれで懲りないなんて……信じられない!」
「今や人生の殆んどを女として過ごすことを釘打ちされた身でどうやって彼女をつくるんだ………だが、その心配は無用だよ朱里。―――――もう、誰ともそういう関係にはならないと決めたんだ」

 少し哀しげに笑うその表情を見て少女の中の熱は一気に冷めた。
 夢中になっている間知らずのうちに最愛の人の古傷を抉っていたことに遅ればせながら気付き、唇を噛む。 
 その決意の裏にどれだけの哀しい思いが詰まっているか、一番わかっていたのに。
 千夜はそうして勢いを失くした少女の頭を撫でた。

「それじゃぁ、留守番出来るな?」
「イヤ」

 少女は己の頭を撫でる手にがっちり両腕で縋りついた。
 それはそれ、これはこれと主張する妹に千夜は再び肩を落とした。
 ここのところ心配かけるようなことばかり起こしている為、強く出れないでいる最近だった。
 そこへ二進にっち三進さっちも行かない状態となってしまった千夜に地蔵菩薩の救いの手が差し伸べられた。

「あらあら、朝から白熱する姉妹愛ね」

 突然の第三者の声に辺りを見れば、たった今まで無人だったダイニングテーブルで用意した朝食に手をつける存在が二人。
 新たな要因で頭痛が走る。 

「お前ら……」
「おはよう。このベーコン美味しいわね、また腕を上げた? あ、でも卵がちゃんと固まってないわ。私、半熟ってご飯で食べにくいから嫌いなのよね……」
「おはようございます姫様。私としては日本人たるもの朝は和食の方がよろしいと思うのですが……」
「やかましい。和食は洋食より低カロリーと思われがちだが、実際は和食の方が塩分過多で高カロリーなんだ………ってそんなことはどうでもいい、お前らいい加減不法侵入はやめろ玄関から入って来い」
 
 能々と人の家の朝食にケチをつける無礼者二人を睨みつける。 
 しかし、今回ばかりは好都合かもしれないと考えを改め、放とうとした文句を押し込める。 
「お前らそれ食ったらからには相応に働いてもらうからな。これから出かけるからお前ら一日朱里のお守してろ」
「む、しかしその格好は………今日は平日だったはずですが学校は……」
「急用が出来た。それじゃ頼んだぞ」

 腕にがっちり掴まる少女をひっぺ剥がし玄関へ駆ける。 
 黒いゴスロリ少女の隣を通る際、

「楽しんでらっしゃい、“彼”とのデート」
「…………」

 何もかも知っていると語る笑みを浮べるゴスロリ少女に千夜は顔を不機嫌で塗ったくった。
 
「お前……また」
「さぁ、早く行かないとウルサイ上弦が止めに入るわよ」
「………帰って来たら覚えていろよ、黒蘭」
 
 追求は見送りにし、千夜はすっきりしない気持ちのまま玄関へ向かった。
 その様子を見て黒い少女は楽しげに微笑んだ。
 威圧感で上弦の動きを制しながら。


 ◆    ◆    ◆



「……遅ぇ」

 不機嫌を隠さず、気分を述べる蒼助は黒塗りのバイクの上に乗って既にマンションの下に来ていた。
 見かけによらず時間に厳しいらしい。
 
「いやぁ、悪い悪い。思いのほか説得に手間取ってな」

 説得は出来ていない。
 だが、そこらへんは土産か今度の穴埋めでなんとかすることにしていた。
 今は目の前の相手の機嫌を直す方が先決である。

「それにしてもお前も四月の海行きてぇなんて物好きなヤツだよな。泳げねぇ海の何処が楽しいんだか………」
「別に泳ぎたいわけじゃない。見たいだけだ」
「……ふぅん、まぁいいけどよ。乗れよ、ほれヘルメット」
「ん。ところで、バイクって初めて乗るんだがどう乗れば良いんだ?」
「前のヤツの腰に両手回してしっかり掴まるんだよ。まぁ、密着してりゃそれでいい」
 
 ヘルメットを被り、言われたとおりにする。 
 蒼助の背中に当たり胸が潰れて少し変な気分だが、そこは走っている最中の周りの光景で気を紛らわすことにした。

「江ノ島でいいんだったっけか?」
「ああ。ただし、最初は水族館だ」

 
 ◆    ◆    ◆


 水族館なんて何年ぶりだろうと、懐かしさと虚しさが蒼助に吹き曝した。
 江ノ島に着いた蒼助と千夜が訪れたのは海ではなく江ノ島水族館。 
 海だけ見て帰るなんて面白く無いだろうという出発直前の千夜の要望があったから。
 小学校の遠足以来の水族館に決してワクワクなど出来ないが、現在の主導権は千夜にあるため従うほか無い。
 最初に立ち寄ったのは相模の海ゾーンというコーナーだった。
 食卓の魚コーナーではよく見知った海鮮物に何故か寿司が食いたくなった。
 最も長く留まった館内の水槽では最大規模となる相模湾大水槽では出来る限り自然のままの環境に近づけるように二つの造波装置を設置し、絶えず波を発生させるという凝った仕組みを成されていた。
 岩場にぶつかる波の音。波の下で雄大に泳ぐ魚たち。
 八千匹のイワシの大群が銀色に輝いて、うねり泳ぐ様は最大の見所であるだけになかなか迫力があり目を見張るものがあった。
 
「綺麗だな……本物の海の底から見た光景っていうのもこんな感じかな」

 天井の高い水槽から見える水面は陸から見るものとも違った美しさがあった。
 だが、それを楽しそうに見る千夜の方に目を奪われるのは何故なのか。
 水槽からの淡い水色の光を浴びて染まる千夜を食い入るように見てしまう。
 
「生まれ変わったら鳥になって空を飛び回りたいと思っていたんだが、魚になって気ままに泳ぐっていうのもいいな」
「そうか? 俺はそれよりも南の方の海でふよふよしてるワカメの方がいいけど」
「ははっ……それもいいな」

 他愛ない会話の中、時間が過ぎていく。
 いつしか、視界いっぱいの魚の入った水槽と波音しかないこの空間にいるのが退屈で仕方なかったこの時間が終わることが蒼助は惜しくなってきた。
 つまらないはずだった。
 こんな子供だましな場所は子供の頃の埋もれてしまいそうな思い出の一つに留めておくくらいにしかならないと思っていた。 
 なのに、

「玖珂、次はカクレクマノミを見に行くぞ。ニモだ、ニモ」

 一生忘れない気がした。
 他の思い出に決して埋もれず、大事に宝箱の中しまわれてふとした拍子に思い出すだろう。
 千夜と訪れた、二人でいた時間を過ごした場所として。
 どんな記憶よりもずっと輝き続けて。
 他の人間と来たんじゃ、こうは思ったりしなかった。

 千夜と来たから、こんなにも心が弾んでいる。
 
 そう気付いた時、蒼助は一瞬垣間見えた答えから目を逸らした。
 今は余計なことを考えたくなかった。 
 
 今はただ、この時間を全身で感じていたかった。

 
 ◆    ◆    ◆


「なかなか美味かったな」  
「俺はしらすの乗ったピザなんて初めて見たけどな………」
「まあな」

 昼食を軽く済ませてそろそろ出ようと出口に向かっていた。
 その途中、通りかかったショップで千夜の足が止まった。
 
「ちょっと待て。土産が買いたいんだが」
「誰に買うんだよ」
「妹。出てくる時、結構渋い顔されたんでな……ご機嫌とりに何か買う。安心しろ、自分の金で買うから」

 そう言うなり、千夜はショップ内に入って行った。
 一人残された蒼助は、「女の買い物は時間がかかるからな……」など、「あ、でもアイツ元男だからそうでもないか」などと考えながら他の客の邪魔にならないようにとテキトーに端っこの商品棚を眺めていた。
  
 それから少しして千夜は思ったより早く買い物を終えて戻ってきた。
 右手には買ったものが入った水族館仕様の可愛らしい絵柄のビニール袋が握られていた。 
 普通の女のように余計なものまで買わない辺りが、元・男の気質が影響しているのかもしれない。

「何買ったんだ?」
「腹を押すとキューと鳴くイルカのイルタンとイルカの取っ手付きのクランチチョコ缶。これだけ買えば充分だ」

 妹の好みは熟知しているのか、千夜は満足げに土産を上げて見せた。
  
「待たせて悪かったな、さて……そろそろ出」

 再び進行を再会しようする千夜の前に“ある物”を差し出す。
 
「……何だ、それ?」

 目の前に差し出されたイルカのキーホルダーに千夜は目を丸くしている。
 痒い気持ちが顔に出ないように気をつけながら蒼助は仏頂面で告げた。

「やるよ。お前、自分の土産は買ってねぇだろ」
「……くれるのか?」
「こんなもん自分のために買うかよ……」

 千夜は蒼助の手の上のキーホルダーをじっと見つめた。
 よく考えてみれば今は女でも心はまだ男。こんなものを貰って嬉しいはずもなければ、欲しくも無いのでは。
 ハズしたか、と蒼助は冷や汗をかいた。 
 が、ふと伸びた手が蒼助の手の平から僅かな重みを攫う。
 
「……ありがとう」

 イルカを指に引っかけて千夜は笑った。
 その笑顔は、蒼助のフィルターがかった視界のせいかもしれないが。

 確かに嬉しそうに見えた。
 そう思うと何故か胸が熱くなった。

 
 ◆    ◆    ◆

 
 大きな寄り道をしてようやく当初の目的地に到着した。 
 朝の九時に出発したのに、もう二時くらいにはなっていた。
 水族館で聞いた波音とは比べ物にならない壮大な波音と潮の匂いが湘南海岸公園で止まった蒼助と千夜を迎えた。
 関東地方の海など何処行っても汚いと思っていたが、去年の夏の終わりに掃除でもされたのか綺麗になっていた。 
 
「にしても……春になっても結構肌寒いな、海って」
「水はもっと冷たいだろうな……泳ぎに来たわけじゃないから一向に構わないが。あ、ここらで座ろう」

 ボードウォークまで歩いてきて、段に腰を下ろした。
 
「晴れてて良かった。これで曇ってたら海なんか見ても面白くなかったろうに」

 海など夏来て泳ぐくらいの場所としか思っていなかった蒼助は、晴れてても見て面白いのかと疑問を湧かせた。
 水面が太陽の光でキラキラして目がチカチカする。 

「なぁ、何で水面ってあんな風に光るんだ?」
「太陽の光が水面で反射しているんだ。鏡で光が反射するみたいに」
「よく知ってるなそんなこと……お前、化学とか得意?」
「昔、ここに来た時に私がある人に同じ質問して教えてもらったんだ」

 誰に、と自然と芽生える疑問。
 しかし、何の権利があってそれを問い出すことが出来ようか。 
 喉から飛び出ようとするそれを無理矢理飲み込み、何とか堪えた。

「なぁ、話の話題にといろいろ考えてみたがあんまり長続きしそうなのが出てこない」
「……で?」
「少し不躾な質問をするが構わないか?」
「言ってもらえなきゃわかんねぇよ、ンなこと」

 そうか、と千夜は一息つき、

「……お前はどうして退魔師になろうなんて思った?」

 ズバッと切り出されたその問いは確かに不躾な類に入る質問だった。
 
「お前な…………まぁいい、何でそんなこと聞くんだ」
「将来の選択としてはあまり適切な道ではないと思ってな……」

 散々言われた台詞が出てきたことに蒼助は少々落胆する。
 この女は万人とは違うと期待していただけに。
 いつものように適当にはぐらかそうかと思った。 
 しかし、何故か今に限って蒼助はそうはせず、

「……お前は何だと思う?」
「最初に考えつくのは周囲を見返してやりたくて家を継ぐ為、とかかな。違うと思うが」
「何でそう思うんだよ」
「お前はそんなみみっちぃことに拘る奴じゃないよ」

 言い切るようで、何処か試すようなその言葉が蒼助の心を動かした。

「正解だぜ、終夜。別に家を継ぎたくて退魔師になったわけじゃねぇよ。そもそも家とかの為に俺の人生使ってやる気なんか更々ねぇしな。ま、見返してやりたかったってのはあながち外れちゃいねぇよ」

 ほぉ、と千夜が興味深そうにくっきりした眉を動かした。

「見返してやりたかったんだ、お袋を」
「母親を? こう来るとこの場合父親じゃないか、普通」
「ウチは親父よりお袋の方が強いんだよ、冗談抜きで。考えてみればとんでもねぇ話だよな、剣神の一族を束ねる当主より強いってのは」
「尻に敷かれるとかの次元じゃなくてか?」
「ああ、あの女は剣神もを負かした超一流の剣士だったんだ。そんで、俺はそのお袋を師匠に子供時代は散々鍛え扱かれた。それはもう、下手すりゃ軍隊の訓練よりもキツかったかもしれねぇ。谷底に子供蹴り落とすライオンも真っ青だろうよ」
「……顔、引きつってるぞ」
 
 それは過去の母の行いを思い出してきたからだろう。
 
「だぁっ、今思い出しても腹が立つ………性格悪くて、口も悪くて、ドSで、骨の髄まで俺様で………アレは人間の皮被った悪鬼だ、ちくしょう!」
「…………で、お前はその悪鬼の申し子か」
「……とにかく、口先だけなら良かったもののマジで強ぇから尚更ムカついてよ……ガキの頃いつか見返してやりたくて岩に齧り付く勢いで修行してたんだ。周りが何言おうと、お袋と同じ舞台に立った上で負かしてやりたかった。それだけが俺の夢で、目標だったんだ………昔はな」

 昔は?と千夜の表情が訝しむ。

「まさか、諦めてしまったのか?」
「諦めざるしかないだろ、目標に死なれちまったら………」

 千夜の表情が凍り付く。
 そして、伏せるように視線を下げるを見て蒼助は続けた。

「お袋死んだ後は、もうむちゃくちゃだった。最後まで勝手なことして俺の夢奪ったお袋に対するやり場のない怒りをそこら中にぶつけて、喧嘩三昧。周りなんか全然見えてなかった。ただ、もうどうしたらいいかわからなくなっちまって…………」
「だが、今は……」
「まぁ、一応この通りあの頃よりいくらかはマシになったみてぇだけどな。………だけど、何の為に闘うのか、何の為に強くなりたいのかわからなくなっちまってよ。ちょっとしかキッカケ貰って《降魔庁》に所属してみたけど、やっぱり新しい理由は見つからなかった。元々俺は世界の為とか、人の為にとか言われて熱くなれる熱血系じゃねぇからな、やっぱり具体的な理由が欲しいんだわ………もっと、一つのはっきりとした理由がさ………」

 そこで会話にコンマを打ち、蒼助は目の前の波音を奏でる海を見た。
 輝く水面が眩しく、目を細める。
 ふと思う、何故こんなところまでぺらぺら喋ってしまったのだろうと。
 理由を考えても、深いそれは見つからず、ただ話してしまってもいいと思ったとしか出てこない。
 少なくともわかるのは、相手が千夜だったからということ。

 ………だんだんシャレにならなくなってきたな、俺……。

 朧げだった“それ”は今ではしっかり輪郭を持ち始めている。
 あの夜以来、無視できなくなってきていた。

「玖珂」
「……あ? 何だ、突然」

 沈黙を破った千夜の声に蒼助は我に返った。

「さっき、闘う理由が欲しいと言っていたが………あまり焦る必要はないと思うぞ」
「別に、焦ってなんか……」
「そうか? 私には、何でも良いからこの業界に居続ける理由が欲しくてしょうがないように聞こえたが」
「あのなぁ………」
 
 確かに中途半端に踏み込んでしまって今更抜け出せないという部分は否定は出来ない。
 今になって日常で普通に暮らすというのはかなり無理な話だった。
 しかし、何だか悔しい気分なので蒼助は逆に訊ねた。

「ふんっ……そういうお前は何で退魔師になろうと思ったんだよ」
「なろうなんて思わなかった。逃げ道も他の道もなく、それ一つしかなかったからなるしかなかった、それだけだ」

 蒼助はそのあまりにも感情の籠もっていない言葉に目を丸くした。

「玖珂、お前は退魔師としての才に恵まれた人間を羨ましく思うか?」

 違うかと聞かれればそんなことはない。
 当初氷室が気に食わない理由はそこにあったから、答えはイエスだろう。

「正直、な」
「そうか………だが、逆にそういう連中の中にはお前のように周囲の期待と強要という縛鎖から逃れているお前のようなヤツを羨ましがる人間だっているんだよ」

 まさか、と言いかけた蒼助に千夜は微かに笑う。

「人が皆同じ夢を見て、同じ望みを抱くとは限らない。人の数だけ想いがあるように。あえて言うなら、私はお前が羨ましいよ玖珂」
「なんだよ、突然」
「お前には今のところ日常と非日常、どっちを選ぶことも出来る。その選択肢があるところがが私には酷く魅力的だ。私には、選択肢がないだけにな」

 それはまるで弱音を吐いているようだった。

 あの、終夜千夜という人間が。

 蒼助は言葉を失って、波の音も周囲の声も忘れてただ彼女の言葉にだけに耳を傾けた。

「戦闘センス、戦う術、退魔師の才……今持っている非日常のモノを全て捨ててそちら側へ行けるなら、きっと迷わず飛び込む。きっと……な」

 だが、と遠くを見るような眼差しがそこできつく鋭さを持った。

「生憎無いもの強請りというヤツだ。一度この世界に踏み込めば、簡単には抜け出せない……底なし沼に足を取られたように、足掻けば足掻くほど深く沈んでいく」

 まただ。

 あの夜見えた“壁”が千夜と自分の間に立ちはだかる。
 まるで世界を分ける境界線のように。

「夢は現実に成り得ないように、私のこの無謀な望みも………」

 もうダメだ。
 辛抱強く耐えていた蒼助の中の何かが切れて、勢い良く立ち上がった。
 目を丸くする千夜に、蒼助は無理矢理表情を作り、

「お前、ここ来た事あんだろ? ダベんのはこれくらいにしていろいろ面白そうなトコ案内してくれよ」  
「あ、ああ……そうだな。いつまでも海ばかり見ているのも時間が勿体無いか」

 “壁”はまたいつの間にか消えていた。
 そして、蒼助は自分が千夜と世界を共有している感覚を取り戻した気がした。

 潮風が蒼助の前で千夜の髪を緩やかに弄んだ。

 
 ◆    ◆    ◆


 日が暮れ始めた頃に、蒼助と千夜は江ノ島から離れた。
 東京に着いた時には完全に日が落ちてしまった。
 マンション前で来ると、蒼助は愛車を止めた。

「着いたぜ」
「ああ、ありがとう」

 千夜は返事の後、蒼助の腰に巻きつけていた腕を解いた。
 走行中絶えずあった緩い締め付けと温もりがなくなったのが、惜しく感じた。
 ヘルメットを脱ぎ、千夜はバイクから降りた。

「初めて乗ったが、気持ちよかったぞ。風を切って走るのってあんなに楽しいんだな」
「だろ? また機会があったら乗っけてやるよ」
「良いのか? 一人で走るのが好きなんだろう?」
「背中に胸押し付けられて走るのもなかなか悪くなかったから、たまには良いぜ」

 意地悪く笑ってみせると、千夜は渇いた笑みを浮かべた。

「元男の胸が気持ちいいのか。とんだ変態だな、玖珂蒼助よ」
「……そう来たか、この野郎」
「残念だが、今は女だから野郎じゃない。じゃあな」
 
 ヘルメット押し付け、千夜は背を向けてマンションへ歩き出した。 
 その背中が見えなくなるまで、と見届けようとしていた蒼助に対し、千夜が突然振り返った。

「なんだよ、何か忘れたか?」 
「いや、昼間言い忘れたことがあったのを忘れていた」

 くるり、と全身をこちらに向けて、

「闘う理由なら、きっと見つかる。お前なら、いつか誰かに誇れる理由が見つかるはずだ。だから、諦めるなよ……玖珂」

 極上の微笑が月明かりに照らされて、蒼助の視界に映り込んだ。
 
「おやすみ、また明日学校でな。二日間、いろいろありがとう」
 
 今度こそ千夜は振り向かず、マンションの中へと入って行った。
 蒼助はしばらく、その場で金縛りになったかのように動けなかった。 

 
 ◆    ◆    ◆


 がちゃり、と鍵を開けると電気が消えた暗い部屋が蒼助を迎えた。
 そのまま片手にヘルメットを抱え、そのまま靴を脱ぎ捨て、玄関に上がる。
 薄暗く短い廊下を歩き、蒼助はダイニングが一緒になったリビングへ行き、電気をつけた。
 見慣れ、朝も見たはずの家の中は何故か寂しく、何か物足りない。
 蒼助はGジャンを床に脱ぎ捨て、そのままベッドに背中から倒れこんだ。 
 手に持ったままのヘルメットを蒼助は掲げ、眺めた。
 ついさっきまで千夜が被っていたものだが、温もりも痕跡もとっくに消えているはずだったが何故か手放す気にはなれない。
 ふと、気付く。このベッドも一昨日の夜には千夜が寝ていたのだと。
 そう思った途端、身体が熱くなった。

「……っくそ、マジかよ」

 身体が欲情していた。
 一昨日の夜にここで寝ていた千夜に残像に。
 蒼助はそんな自分に苛立ちが髪を乱暴に掻き毟った。

「そーとーな悪趣味だぞ、俺………何だって、あんな面倒でおっかない女なんかに……」

 目を閉じれば、駆け巡る出会ってからの千夜の表情の一つ一つ。
 やっとわかった。
 初めて出会った後、その後も千夜の顔が忘れられなかった理由が。 
 神崎の腕に抱かれていることに、感情が異常なまでに逆立った理由が。 


 もう限界だ。
 今日のが留めだった。
 これ以上誤魔化すことなど、目を逸らし続けることなど出来ない。
  


「………かずや」




 
 狂おしいほどのこの想いを。  
 もう自分から隠し通すことなど出来なかった。





主人公、恋の自覚。
あっはっは(渇いた笑い)
つーか、ベッドに欲情ってお前………。











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