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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

番外編 養父の剣を取り戻せ!

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レイデス(1)

 明け方まで働くから、起きるのは昼を過ぎるころだ。

 そして彼女は、他の娘たちよりも早く起きて、掃除や洗濯と言った仕事をこなさなければならなかった。それはシンディが一番年下だというせいもある。でもなにより、シンディの返さなければならない借金が、他の娘より遥かに多いからだ。その上返しても返しても、借金は減るどころか増える一方だった。それはあの父親が、売り飛ばした娘の身を抵当に入れて、借金を重ねているからだ。

 ――よくやるよ、あんたのおやじもさ。

 奥様は苦笑混じりに言ったものだ。

 ――いつまで自分のもののつもりでいるのかねえ。

 そう言いながら、奥様はその借金を拒まない。その方が都合がいいからだ。毎月奥様はシンディを呼んで、収支を言い渡す。シンディが体で稼いだお金と、雑用をこなす小間使いとしてのお金と、娘たちの化粧や髪結いをこなすお金を足して、そこから食費を抜いた金額が、借金返済に回される。残高がわずかに減る月もあった。そういうときは、自由の身を目指して頑張ろうと思えた。けれどたいていは増えている。父はもう働いて自分の食いぶちを稼ぐ気がないからだ。毎日毎日遊び暮らして、そのつけが全部シンディに回ってくる。シンディはもう諦めていた。王の暴威は国民全体に不安を与え、治安が悪化している。一番割りを食うのはこういう最下層の売春宿で体をひさぐ娘たちだ。でもすべてを諦めてしまえば、こういうところでも生きていける。何より他の娘たちの髪結いとお化粧が、シンディの仕事になっているのが嬉しかった。その時が一番楽しい。平凡な娘がシンディの手管によって美姫に生まれ変わる時間は、シンディにもまだ少しは世界を変える力があるということを教えてくれる。

 今も、この宿で一番綺麗で金額の高い姉様に、化粧を施していた。シンディはみそっかすだったから、小間使いとしてはおおむね罵声を浴びたが、化粧と髪結いだけは奥様でさえも文句をつけなかった。奥様は厳しく恐ろしく、残忍な性格の割に、そういうところは平等な方なので、毎月言い渡される収支で、化粧と髪結いの金額が少しずつ上がっている。そのうち近所の宿からも出張の依頼がくるかもね、と奥様が機嫌よく話しているのを聞いたことがある。どんどん来ればいい、とシンディはひそかに思っていた。どんどん依頼がきて、化粧と髪結いだけしていればいい身分になるといいのに。

 そのひそかな夢だけが、最近のシンディの心を支えている。
 この姉様は、こんな最下層の宿にはもったいないほど、素っぴんでも綺麗なのだが、鼻が少しだけ大きい。目尻も少し垂れぎみだ。一度化粧をしてあげてから、姉様はシンディを手放さなくなった。もう自分で化粧をするなんて無理だわ、と言うほどだ。姉様は心の中は奥様と同じく残忍で意地悪だったが、娘たちの中では一番発言力があるので、お陰でそれ以来、シンディは他の娘たちから苛められることが少なくなった。

 化粧が終わった。奥様は窓辺で帳簿をつけていたが、シンディが姉様の後ろに回ると、姉様を見て満足そうにうなずいた。シンディは内心だけで微笑んで、姉様の、長く豊かな髪に手をかけた。

「髪はどうしましょうか、姉様」

 たずねると姉様は鏡から顔を上げて、シンディを見た。

「そうねえ」

 奥様がまた顔をあげた。

「先日結い上げて、エメラルドの髪飾りをつけただろう。あれがいいよ。レイヴン様がたいそうお気に入りだったからね」
「でも奥様、先日と同じでは飽きられるのではないかしら」

 姉様が口答えをした。口答えしても無事な可能性があるのはこの姉様だけだ。奥様は長々と姉様を見る。その目に怒りが宿る。今日は虫の居所が悪いらしいと、シンディは悟った。姉様も身をすくめた。姉様が叩かれては、後で八つ当たりをされるのはシンディだ。シンディは慌てて、声を上げた。

「あの、奥様。もしよろしければ、この、真珠の髪飾りでも、同じように華やかにできると思います。あの、ここに紅玉のピンを散らせば、ほら――」

 シンディはあっと言う間に姉様の髪を結い上げて、真珠と紅玉で飾り立てた。奥様の機嫌を直すのにも充分な出来栄えだった。でも奥様は本当に機嫌が悪く、ふん、と言った。

「まあまあだね。それにおし。……ここの房を編んで金糸で飾りな」

 それはゴテゴテし過ぎる、と思ったが、シンディは抗わずに言うとおりにした。機嫌の悪い奥様は、何か口出しをしないと収まらないのだ。姉様は一瞬だけ不快そうな顔をしたが、さすがに叩かれるのは嫌なのだろう、何も言わなかった。出来栄えを見て、奥様も不快そうな顔をした。自分の口出しで、看板娘が下品になったからだ。でもそれをおやめとも言えないようなので、シンディはまた声を上げた。

「奥様、もしよろしければ、今編んだここを、くるっと持ち上げて、耳の後ろで――こう、止めてはいかがでしょう」

 奥様はほっとしたようだった。これで全部が丸く収まった。姉様も満足して、奥様も気に入って、シンディも叩かれずに済んだ。それでも、姉様がしゃなりしゃなりと出て行くのを見送るうちに、シンディは唐突に――馬鹿馬鹿しくなった。何がエメラルドだ、紅玉だ。真珠だって金糸だって、全部まがい物だ。

「あんたは本当に感性がいいね」

 姉様がいなくなって、次の姉様が来るまでの間に、奥様はそう褒めた。滅多にないことだ。普段ならばその言葉には、シンディの冷えきった心を暖める力があったはずだ。自分の境遇と立ち向かう力をもらえたはずだ。でもシンディの心は今日は動かなかった。毎日毎日働いて、髪を結って、叩かれて叱られて、体を売る。他の娘なら、少しずつ減って行く借金の額に、自由を夢見ることだってできる。事実、借金を返し終えてこの宿を出て行った娘だっているのだ。でもシンディは無理だ。あの父親がいなくならない限り、無理だ。この窓から突発的に飛び降りたい気分になった。ケガでもすればその間は客を取らずに済むのではないか。否、それではあの『レイデス様』がお喜びになるだけだと思うと、飛び降りる気も失せる。日々を黙ってただやり過ごすことだけが、シンディにできる唯一のことだった。ならば、わずかな褒め言葉に一喜一憂してもしょうがない。

 それに褒めることも奥様の手管のひとつだと分かっていた。自暴自棄になって自殺でもされたら大損だからだ、そして、自殺する可能性が一番高いのは自分だと、よくわかっていた。生きていてどうなるのだろう。ここにいても父親の影からは逃れられない。父に殴られることは確かになくなったが、代わりに奥様や姉様たちに叩かれるだけだ。おまけに妊娠でもしたら流れるまで叩かれる。毎日が同じ、屈辱と絶望に満ちたもので、それが永劫に続くというのに、わずかな褒め言葉だけをより所に生きながらえてどうなるというのだろう。

 と、窓の外で、怒号が聞こえた。
 シンディは窓の外を覗き、そこに、髪を痛々しいほどに短く切った少女が走っているのを見た。後ろから、屈強な男が何人も追いかけてきていた。皆剣を抜いて、何かわめきながら、夕暮れの町をひとりの少女を追いかけ回しているのだ。

 ――何があったのかしら。

 と、少女と目があった。藍色の瞳がきらきらしていて、綺麗な子だ、と思った。さっきの姉様より、もっと綺麗だ。

「放っておおき、シンディ」

 隣からのぞき込んだ奥様が言った。

「足抜けだろ」
「でも奥様、殺されちゃうわ!」
「殺すにゃもったいないような上玉だけどさ、足抜けを助けたりしちゃ沽券にかかわるからね。髪をあんなに切っちまっちゃあ、伸びるまで売り物にゃならないし、でも逃がすわけにゃいかないだろ? 面子ってものがあるからねえ。シンディ、覚えておきな。一度身売りした娘はね、二度と表に出ようなんて考えちゃいけないんだよ」

 奥様はそう言って、シンディを無理やり窓辺から遠ざけた。次の姉様が入ってきた。窓からはまだ怒号や足音が聞こえる。あの子がつかまったらどうしよう、後ろ髪を引かれるような思いで、でも逆らうこともできずに、シンディは化粧に取り掛かった。

 でもいつもなら大好きなその仕事も、その後は全然身が入らなかった。
 シンディの頭の中を占めていたのは、ふたつのことだった。
 せめてあの子には自由になってほしいということと――
 髪をあんなふうに切ってしまえば、もう売り物にならなくて済むのだろうか、ということだった。




 一番最後に、自分の化粧と髪結いを済ませ、シンディは暗くなった表に出た。夕暮れの騒ぎなどなかったかのように、レイデスの売春街は普段どおりの喧噪に満ち始めていた。そろそろお客が来る。シンディを名指しする客が来るまで、表を掃除し続けなければならない。ここには若い娘がいるということを、道行く男たちに知らせるのもシンディの仕事だった。襟刳りと背中の大きく開いたひらひらの服を着て掃除だなんて、馬鹿みたいだ。

 掃除道具を取りに裏口へ向かった。夕暮れの少女のことをまたぼんやり考えた。奥様は足抜けだと言ったが、シンディには信じられなかった。あんな――なんというか――獰猛な雰囲気の子が、生命力に溢れた子が、客を取るなんてできるだろうか。綺麗だったが、閨の中で客を食い殺しそうな雰囲気だった。そういう趣味のお客もいるのだろうか。

 でもあの子は、こことは全く違う世界で生きているような気がする。

 だって、自分はいろんな綺麗な人の外見を整えて、もっと綺麗にするのが大好きだが、あの子にはそうしたくなかったからだ。化粧をして髪を結うなんて、あの子には全然似合わない。
 無事に逃げてほしいと、また思った。

 自分はみそっかすで、臆病で、何にもできない。これからお客を取るのが厭で厭でたまらないが、逃げ出すことも、髪を切ることさえできない。だから自分の代わりに――と考えながら物置を開けた時だった。

 すぐそばの塀を、飛び越えて来た。あの子が。

 シンディはすぐには対応できなかった。今の今、考えていた当の相手が、塀を飛び越えて自分のすぐそばに降り立ったのだ。塀の向こうでは彼女を追いかけて来ていた誰かの足音が響いている。シンディは何も考えずに身を引いた。物置から掃除道具を出すと、開いたところを指さした。
 その子が滑り込むと同時に、塀を乗り越えて、男が顔を出した。

「おい、今、小さな娘が来なかったか」
「き、来ました。あっちへ――走って行ったわ」

 箒を抱き締めて、何とかそれだけ言った。男は塀を飛び降り、続けて三人の男が飛び越えて来た。彼らは何も言わずにシンディの指した方に走って行った。シンディはため息をつき、まだ開いていた物置の中をのぞき込んだ。
 闇の中で、ふたつの瞳がきらきら光っている。

「あの――」
「シンディ! 掃除はどうしたんだい!?」

 奥様が二階の窓から顔を出して怒鳴った。シンディは慌てて戸を閉めた。

「はい奥様、ただ今!」
 玄関の方へ向かいながら、シンディは考えていた。閉じる寸前に見た、あの藍色のきらきらした瞳のことを。




 掃除中にすれ違いざまに体を撫でて行く男たちが、シンディは一番嫌いだ。客になるでもなく、でもシンディの体をなめるように見て、遠慮もなく手を伸ばして体を撫でる。シンディが怒らないのを分かっているからだ。それどころか嬉しがって身をよじる演技までしなければならない。反撃したくてたまらない、箒を振り上げて散々打ちすえてやりたいと思うのに、シンディにはできない。奥様が怖くて。怖くて怖くて、たまらなくて。

 だから思考を遊ばせる。何をしてもいい相手というのが、ああいう男たちには必要なのだろうと思う。鬱屈した毎日、上がり続ける税、先行きに期待の持てない現王の統治。王はまだ若い。その統治はまだまだ続くだろう。生活はずっと悪くなる一方だろう。そういう毎日へのうっぷんを晴らすために、彼らは道端の売春婦の体をただで撫で、罵声を浴びせ、からかい、貶める。そうして気が向けば、いくばくかの金を払って買いに来るのだ。

 その夜、珍しくシンディは、一晩の間に三人を相手にするはめになった。まあ金を払ってくれるのだからと思うことにする。道端の男よりはましだ。

 この一晩で、シンディの借金は少しは減るだろう。
 明日になったらまたあの父が、それを元の木阿弥にするだろうけれど。
 明け方、へとへとに疲れ切って、シンディはめそめそしながら、出しっ放しだった箒を戻しに物置へ行った。このまま倒れて寝てしまいたかったが、そうしては朝になって箒を見つけた奥様に叩かれるだろう。物置に匿った少女のことは忘れていた。だから物置を開けた時、シンディは息が止まるほど驚いた。悲鳴は辛うじて飲み込んだ。少女の足が投げ出されている。

「ま――まだいたの」

 目を覚ましたのだろう。彼女が起き上がった。明け方の、辺りが一番暗くなるころだ。それでも藍色の瞳はきらきらと光って、シンディは、この子が自分とは掛け離れた世界に生きていることを思い知った。

「……あの、お腹、減ってる?」

 返事はなかった。でもシンディの問いに、胃袋が空腹を思い出したかのように、ぐーっ、と鳴った。シンディは情けなくなった。聞いてもどうしてもあげられないのに。

「……ごめんね、食べ物出してあげる権限はないの。でも姉様がね、機転のご褒美にって、お菓子をくれたの、まだ食べてないんだ。持って来てあげるから、待ってて」

 シンディは急いで部屋に戻った。姉様たちは皆ぐっすり眠っていた。こっそりと、姉様がくれたほんのぽっちりの焼き菓子を取り出して、また表に戻った。裏口を出る時、階段が軋んだ気がしたが、少女が待っていると思うと気にならなかった。

「はい、どうぞ」

 物置の中に座り込んだまま、彼女は頭を下げてそれを受け取った。そして半分に割って、片方をシンディに差し出した。シンディは笑って、首を振った。

「あたしはいいの。仕事の後って気持ち悪くて、一度寝てからじゃないと食べる気しないもの」

 彼女はじっとシンディを見て、それから、うつむいて菓子を食べた。少しは空腹が癒えただろうか。

「食べたら、早く逃げた方がいいよ。もう夜が明けるよ」
「ここは……売春宿なのか?」

 小さな声が聞こえた。シンディはうなずいた。

「そうよ。見つかったら大変よ」
「ここに、黒髪の子はいないか」

 思いがけない質問だった。戸惑っていると、彼女は言葉を重ねた。

「あなたより少し年下くらいの、黒髪の、この辺りではあまり見かけない顔立ちの……」
「さあ……? 黒髪の子は何人かいるけど、みんなあたしより年上だし、顔立ちが違うってこともないと思うけど」

 彼女は目に見えて落胆した。気の毒になって、ごめんなさい、と言ってしまった。彼女は首を振って、立ち上がった。物置から出ると、彼女はシンディと同じくらいの背丈だった。きらきらした藍色の瞳でまっすぐシンディを見て、頭を下げた。

「ありがとう」
「どう……いたしまして」

 心が、暖かくなった。ありがとう、なんて言われたのは、何年ぶりだろう――

 がたん。

 家の中で、音がした。

 がたん、がたん、と誰かが動き回っている。シンディは青ざめた。

「大変、抜き打ち点呼だわ。町の出口はあっちよ」

 シンディはそっと、彼女の手を握った。

「気をつけて。捕まらないでね」

 彼女の手は温かい。シンディはその暖かさから体を引きはがすように裏口から入った。でも、遅かった。奥様がそこにいた。恐ろしい形相なのが闇の中でもよく見えた。手に鞭を持っている。刺のついた、痛みと、何より跡を残すことだけを目的に作られたかのような、あの恐ろしい鞭だ。

「シンディ……?」

 猫なで声を出されて、シンディは立ちすくんだ。上ずった声が出た。

「違うんです、奥様、あの、野良犬が」
「髪を短く切った、足抜けをした、売春婦の裏切り者。確かに野良犬だね」

 奥様は嗤って、歩みよって来た。足がすくんで動けない。ああ、どうしてあたしはこうもみそっかすなんだろう。やすやすと捕らえられて、後ろをむかされた。ひらひらの衣装は背が大きく開いていて、奥様の打擲からシンディを守るにはあまりに薄く、頼りなかった。

「係わるなといったのに……!」

 鞭がしなった。激痛が走って、悲鳴をあげてしまった。奥様は顔だけは打たないように、でもいつも、体にまんべんなく跡がつくように打つ。明日あたりきっと来るんだ、と諦めとともに思ったときだった。

 裏口から飛び込んで来た人がいた。

 あの子だ、と思った時には、奥様が突き飛ばされて尻餅をついていた。シンディは自分の体が宙に浮いたのを感じた。仰天する暇もなく、抱えられたまま夜気の中に飛び出していた。まだ明け方の光もなく、暗い暗い、真っ暗な町を、彼女はシンディを抱えたまま走って行く。

 シンディは、我ながらおざなりな口調で、一応抗議だけはした。

「駄目よ。あなたまで捕まるじゃないの」

 彼女は答えなかった。そして、シンディは、根本的な勘違いに気づいた。
 ああ、この子、男の子だ。きっとそうだ。
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