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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第十六章 草原の少女

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草原の少女(1)

 匂いを頼りに荒野を走る。まさかここに落ちるとは、というのが彼の正直な感想だった。こんなところに落ちるなんて、自殺でもする気だったのだろうか――それとも、いかに完全体といえど、行き先は選べないと言うことなのか。

 ともあれ、急いで見つけなければならない。エルヴェントラの傍にいた娘は、“剣士が捜しに行ってる”と叫んでいたが、いくら腕の立つ剣士だとて人間だ。魔物の群れに襲われたらひとたまりもない。銀狼である自分だって、この世界では魔物に立ち向かうなどとうていできない。【夜】が行きすぎ魔物が諦めて去るまで、身を守ることができるだけだ。

 ――ややして。

 ぽつりと、ふたつの人影が見えてきた。

 生きていたことにホッとする。【夜】が来なかったのは幸いだった。グリーンリは足を速め――そしてそのふたりが暢気に食事をしていたのに気づいて拍子抜けした。なんだこいつら。ここがどこだか知らないのだろうか。

 彼が来たのに気づいて若者(剣士?)が振り返る。続いて娘の方も彼に気づいた。見つけた、と、彼は思う。完全体だ。

 以前会った時と変わらず、やはり完全体だった。速度を緩め、近づいていきながら彼はふんふんと娘、それから剣士の匂いを嗅いだ。嗅ぎ覚えがある。剣士の方も、やはり以前、完全体と一緒に、あのアンヌという女を迎えに来た人間だった。匂いは彼に視覚よりも遙かに多い情報を伝えてくる。金臭い匂いに紛れて、清涼な水の匂いを感じる。その瑞々しく荘厳な残り香は、人魚の加護の香りだ。

『……人魚に会ったのか』

 思わず訊ねる。娘は食べ終えたあとを手早く片付けているところだったが、驚いたようにこちらを見た。

「わかりますか?」
『そりゃわかる。そうか。だからこんな場所に落ちて無事だったんだな。……こんな場所に長居をしない方がいい。命のある間に見つけられて良かった。お前には借りがある。あの封じの建物を崩した人間に、銀狼は最大限の敬意を払う。完全世界へ送っていくから、背中に乗れ』

 彼はそう言った。長は完全体に箱庭への帰還を望むかどうか訊ねろ、と、彼を含めた兄たちに指示していたが、それは省略した。まさか、完全世界への帰還を望まない完全体がこの世に存在するなどと、夢にも思っていなかったからだ。だからその段階は省略しても構うまいと、思ったのだが。

 しかし完全体はふるふると首を振った。はっきりとした拒絶の匂いに彼は困惑する。

「私は、元いた場所――あなた方の言う“箱庭”への、帰還を望んでいます。雄大なる獣の王、彼と私を、“箱庭”へお連れいただけないでしょうか」

 そう言って娘は左手をひらひらと閃かせた。人魚の使うその仕草は相手への敬意を示すものだと、年若い彼もきちんと教わってきていた。娘の動きに従って、えもいわれぬかぐわしい香りがふわりとあたりに漂う。
 その香りは否応なしに彼をちょっといい気分にさせた。人魚のものは、なんだって忌々しい程いい匂いだ。頷きそうになって、慌てて彼は威厳を取り戻す。

『完全体よ。それは勧めない。“箱庭”の歪みは、お前の身体に毒だ』

「はい、聞いています。でも人魚が魔法をくれました。“箱庭”に戻っても、ふた月ほどは命が保つだろうと――そしてあなた方銀狼に、私の身体が“箱庭”でも生きていけるようになる方法を、尋ねるようにと」

 彼はちょっと意外に思った。
 人魚と訣別してから長い。彼、グリーンリは、人魚と訣別する寸前に生まれた、銀狼の中で最も年若い個体だった。兄たちは、もはや人魚は話が通じる相手ではないと言った。感情的で、論理的でなく、頑固で頑なで意固地で、もはや共に生きるに値しない存在だと。銀狼は人魚に腹を立て距離を置いた。あちらも、銀狼に対する敬意などもはや捨てただろうと。

『俺たちにか。完全体が――箱庭で生きられるような方法を? それは知らぬ、と、長がお前たちの若き王に話したはずだが』
「そうなのですか。私たちを助けてくださった人魚は、その方法はあると――でもそれは人魚の摂理に反する事柄だから、教えてあげることはできない。でも、銀狼ならば、教えてくださるはずだと」
『人魚が、教えられぬ知識……?』
「完全な身体で生まれて生きた存在をわざわざ不完全にすることは人魚にはできない、と」

 ――人魚の骨。
 ――どこにあるか、知ってるわよね?

『あ』

 グリーンリは思わず口を開けた。完全体が座り直す。「心当たりが?」

『あ、あ、あーあー、あー。ああー、なるほど』

 確かにあれを使い、魔力の扱いに長けた存在が手助けをすれば、完全体を“正”のみの身体にすることができる――の、だろう。銀狼はそういう小細工にはあまり頭が回らない。あの女のような振る舞いをする男が一体なぜ人魚の骨なんかを欲しがるのか、疑問に思っていたのだが、そのためならば確かに不可欠だ。グリーンリはぱたりと尻尾を振った。

『人魚の骨だ』
「人魚の、骨?」
『そうだ。それを取りに行けばいい。お前はエスティエルティナだからな。世界の中枢にいたる者、その鍵を持つお前なら、人魚の本拠地にも入っていける。俺はまだ見たことがないが、本拠地にゴロゴロ転がっているそうだ』
「……今人魚の国から逃げてきたばかりなんです」
『エスティエルティナがあれば人魚など恐るるにたるまい。お前の崩した、あの封じの建物。あの建物はそもそも、人魚の本拠地に銀狼が立ち入れなくするために建てられたものだ。あの建物の地下に川が流れている。建物のあった裏手から地上に出ている。その川に沿って地下に入っていけばたどり着けると聞く。――だがその処置を受けるまでは箱庭はお前にはあまりに酷な環境だ。肉体を切り刻まれるような痛みに常に苛まれ続ける。確かに人魚が何らかの魔法をくれたようだが、それほど強い魔法じゃない。んー』ふんふん、とグリーンリは彼女の匂いを嗅いだ。『……月が二回姿を変え終わる頃、体力が尽きるぞ』

 それでも? と彼は訊ね、それでも、と娘は頷いた。と、剣士の匂いが少し変わった。心配、懸念、といった感情が匂い立つ。恐らくは箱庭の環境が彼女の身体に良くないと言うことは知っていたのだろう。だが痛みを伴うほど過酷だとは知らなかったのかも知れない。

『ここから箱庭に戻ると、大きな森林と草原の交わるあたりに出る』

 グリーンリがそう言うと、剣士は大きな袋から、一枚の薄っぺらい何かを取り出した。折り目が付いて今にも破れそうなものだが、それを丁寧な手つきでそっと開く。グリーンリは思わず居住まいを正した。

 細い線で描き込まれた、複雑な図。地図だ、と悟って胸がときめく。初めて見た。人間は人魚から様々な手ほどきを受け、その文化を継承した存在だ。知ってはいたが、その片鱗を目の当たりにするとやはり衝撃である。
 銀狼の前足はこういうことには全く向かない。細かく自在に線を引くなんて――しかもそれを、幾重にも重ねるだなんて。

 しかし動揺を悟られてはいけない。グリーンリは見とれないように気をつけて地図に鼻面を寄せ、深い森が尽き、平坦な広々とした平原が始まるあたりに前足を翳した。

『このあたりだな。人間の足で、ここから……封じのあった建物のある場所まで、か。間に合うか』
「馬に乗ればなんとか……」
『箱庭の環境は過酷だと言っただろう。馬の背の上で身体を支えられると思うのか』
「そ……っか、そうでした。それじゃあ、馬車かな。馬車でまっすぐ王宮まで……結構時間かかりそう。ギリギリって、ところかな」

 娘がそう言った時、剣士が指で、グリーンリの前足のすぐそばにある大きな印を指した。海沿いにある、とても重要な都市らしい。ここまでなら、馬が引っ張る乗り物でも数日あれば着くだろう。剣士の指はその都市を指し、続いて、少し下ったところにある、川と海の交わるところを指した。あっ、と娘が声を上げる。

「そうだ! 同盟の会合のあと、ここから快速船でナルデ河に沿ってレイデスまで行ったんだ。十日もあればってマーティンが言ってた」

 うんうん、と剣士が頷く。娘は嬉しそうに顔を上げた。

「今から行く“入口”はイェルディアまで近いよね。一番近い集落で馬車を借りて、数日って、ところかな。イェルディアに着いたらマーティンに事情を話して快速船出してもらって、十日。レイデスからアナカルディアまで五日――充分間に合うよね!」

 うんうん、と剣士がまた頷く。それを見て娘が嬉しそうに笑う。なんだこいつら、とグリーンリは思う。とても複雑な匂いである。つがいになったわけではないらしい。しかしお互いに好意を、それもとても強い好意を抱き合っている。しかしお互いに相手の自分への好意を希っていながら、確信が持てず、拒絶されるのを恐れている、という関係であるらしい。バカなんじゃないのかとグリーンリは思う。相手の気持ちなんか匂いでわかるだろう、バカじゃないのか。
 少々やさぐれた気分になりながら、グリーンリは前足を地図から外して座り直した。

『それならば箱庭につれて戻ろう。銀狼はあの封じの建物を崩した人間に最大限の敬意を払う』

 厳かな言い方に、娘が居住まいを正した。左手で、先ほどよりずっと複雑な印を空に描いた。キラキラと光が散ったかのようなかぐわしい香り。グリーンリは思わず目を細めた。
 娘が描いた印は“感謝”だ。いい匂いだ。

「私はエスティエルティナ=ラ・マイ=エスメラルダ。どうぞよろしくお願いいたします。そしてこちらはアルガス=グウェリンです。訳あって今は言葉を発することを控えてくれています。自分の口で名乗らない無礼は私のせいです。どうぞご理解をお願いいたします」

 彼女は、まるで初対面であるかのように丁重な挨拶をした。グリーンリは頷いた。
 娘は少し待ち、それから、訊ねた。

「……お名前をうかがえますか?」
『な』また口があいた。『忘れたのか』
「……」娘はまじまじとこちらを見た。「……もしかして……こないだの、グリーンリという名の……」
『そうだ。……今までわからなかったのか?』
「……大変失礼いたしました」
『全くだ! 匂いでわかるだろう匂いで!』
「えっと……すみません」

 娘は苦笑する。グリーンリは憤然と立ち上がった。人間というのは全く下等な存在だ。相手の匂いを覚えてもいないだなんて、無礼にも程がある。



 人間の足で歩いても、【夜】が来る前に入口にたどり着けたのは幸いだった。全く危なっかしい者たちだ。

 扉を開ける前に、本当にいいのかと確認しないではいられなかった。完全世界に生きる権利を捨て、わざわざ牢獄の中で生きたいだなんて、なんて物好きなんだろう。
 はい、と娘は頷く。グリーンリも頷いた。まあ、それはグリーンリにとっても好都合ではある。

 グリーンリはどうしても、銀狼から盗んだ技術をその身に刻み、孵化を迎えた人間を、野放しにしているのが落ち着かなかった。長や兄たちがなぜあんなに鷹揚に構えていられるのか、理解ができなかった。盗んだこと、それを利用していることは百歩譲って黙認するとしても、身体は人間で能力だけ銀狼になるなんて、そんな不自然な存在がこの世に在ると思うだけで落ち着かない。

 箱庭の外には荒野が広がっている。その荒野を彷徨う魔物の群れは、銀狼だって太刀打ちできないほどの脅威だ。もしあの魔物の群れが箱庭になだれ込んだら、寿命のある正の生き物たちなどひとたまりもない。

 銀狼は“出口”の匂いを嗅いで、その向こうに魔物がいるかどうかを知ることができる。だからこそ、“番人”としての役割を担っている。しかし人間にはそんな芸当はできまい。箱庭の扉を開けたとき、その向こうが【夜】だったなら、それでこの世は終わりだ。破滅である。人間など信頼できない。番人の能力は、人間には過ぎた力だ。
 若い王にも、エルヴェントラにも、断られたのが解せなかった。なぜ理解できないのだろう、その危うさを。

 しかしこの娘を箱庭に連れて帰ったら、エルヴェントラも協力する気になるだろう。あの女のような男は“借りを返せ”と言ったが、この娘を連れて帰ればその借りを充分に返したことになる。そうであれば、銀狼に守護された箱庭で繁栄を楽しむ人間風情に、番人への協力を拒む権利などない。

『開けるぞ』

 警告をして、箱庭への入口を開く。中から木々と草と土と水の清浄な匂いが溢れ出し、娘が息を詰めた。

『辛いか』
「……大丈夫です」

 グリーンリは娘の匂いを嗅いだ。

『あまり長いのは良くないな。俺が背に乗せて行ってやろうか。あの建物の跡地まで、ここからなら三日もあれば着くぞ』

 人魚の骨を身体に組み込み箱庭で生きるというなら、早いほうがいいに決まっている。無用な痛みなど耐えないで済むならそちらの方がずっといいだろう。娘は驚いたようにグリーンリを見た。

「二人、のせて、走れるのですか?」
『人間の重みなどないも同然だ』
「……でも、そこまで、ご迷惑をかけるわけには」
『乗りかかった船だ。別に大した手間でもない』

 下心もあることだし。
 彼女の行く先にはエルヴェントラもあの若い王もいるだろう。彼らのところに直接送り届けてやった方が、恩を売りやすい。娘が『そうしてもらえばとても助かる』と思っていることなどグリーンリにはお見通しである。
 ふたりを先に箱庭に入れ、最後に自分が入り、出入り口をきちんと閉める。それを確認してから、グリーンリは彼女を見た。

『……その代わり頼みがある。お前、あの若い王と懇意だろう。口を利いてくれないか』
「若い王……エルギンに? 頼み事ですか」
『頼み事というか、要請だ。受け入れるよう口添えを頼みたい。俺は全身に紋章を刻み、孵化を迎えた人間を捜している。その捜索を頼みたいんだ。あの若い王と、エルヴェントラの協力があれば、いぶり出すことなど簡単だろう』

 剣士の匂いが変わっていた。警戒。憤り。懸念。理不尽に思う気持ち。グリーンリは剣士に視線を移した。
 心当たりがあるらしい。
 と、娘が言った。

「いぶり出すって……その人を見つけて、どうするんですか?」
『殺す』

 何度も同じことを繰り返して説明しなければならないのが億劫である。そもそも匂いで意思疎通ができないのが面倒である。しかしグリーンリはこと分けて説明した。相手は下等な存在なのだからしょうがない。

『銀狼の紋章を身体に刻み、その上で孵化を迎えた人間は、このまま野放しにしておけない』
「……どう……して……?」
『番人の能力を悪用されてはたまらないからな』

 娘が座り込んだ。やはり立っているのも辛いのだろう。グリーンリは彼女の前にきちんと座って、幼子に話しかける時のような忍耐と思いやりでもって話した。

『箱庭の外で魔物を見たか? あのような魔物が蠢く世界に箱庭がなかったら、真っ当な生き物が生活を営むことなど不可能だとわかるはずだ。箱庭はそれほどに重要なものだ。巨人の手によってとても頑丈に作られている――だが、不用意に出入り口を開けたらどうなる。その入口に魔物の群れが殺到したら、どうなる? 想像するのは容易いだろう。番人は箱庭全ての生命を守っている。
 人間という脆弱な肉体と脆い精神を持った存在が、その重圧に耐えられるわけがなかろう』

 娘はまじまじとグリーンリを見ていた。あまりに目を見開きすぎて、瞳がこぼれ落ちそうだった。彼女は女性であるが故に銀狼にとってはとてつもなくいい香りをさせていて、その香りのせいで感情がわかりづらいが、今の話によって衝撃を受け、哀しみを感じていることがわかった。グリーンリは注意深く彼女の香りを嗅いだ。この娘にも、その人物に心当たりがあるらしい。

 ややして。
 彼女は、感情を立て直した。懸念と、哀しみと、衝撃と、決意。彼女が絶対にその存在を守り抜こうと決意を固めたのがわかる。

「……お申し出には感謝します」静かな声で彼女は言った。「でも、送っていただくには及びません。私たちは当初の予定どおりイェルディアを目指し船に乗ります。……ガス、行こう」

 ガス、と言う名らしい剣士が頷く。娘への心配が匂い立つ。剣士が諦念を抱いたのをグリーンリは感じる。彼は本当ならばグリーンリの背に乗って今すぐにでも王宮に目指したいと考えている――しかしそれができないこともわかっている。グリーンリは驚いた。

『当初の予定どおり……って、この歪みの中を半月かけて人魚の本拠地を目指すと?』
「あなたのためにエルギンに口添えをすることはできません」
『なぜだ。……なぜだ!?』
「失礼します」

 娘は頑なにそう言い張り、足を踏み締めて立ち上がった。よろめくように森の中を歩き出す。剣士が彼女に追いつき、自分が背負っていた大きな袋を身体の前に回し、娘に背を向けた。娘は少し迷った。でも、「……ごめん」呻くように謝罪して、素直にその背に乗った。華奢な娘を担ぎ上げて、剣士は淀みない足取りで歩いて行く。そこまで見届けて、グリーンリは叫んだ。

『なぜだ!』

 娘も剣士も答えなかった。剣士は足を踏み締めるようにして道なき道を歩いて行く。匂いによれば、人魚のかけた魔法は剣士の体力の一部を娘にわけるというもののようだ。グリーンリは呆気にとられていたが、我に返ってその後を追った。すぐに追いつき、隣に並んで娘を見上げた。彼女は目を閉じていたが、掠れた声で言った。

「……お願いです。殺さないで」

 その感情に胸を衝かれる。なんて悲痛な感情だろう。
 いっそのこと、無理矢理にでも背中に乗せて王のところへ連れて行ければ、と思った。しかしそんなことができないことはわかっていた。銀狼はそういう身勝手な振る舞いができないようになっている。箱庭の番人たる存在だ、身勝手で利己的な感情で動けるようなら、番人の資格などない。人間に番人を任せられないというのと同じ理屈だ。

 しかし、憤りは感じる。それは自然なことだ。唖然としている間に娘を背負った剣士はまた少し先に行っている。娘よりは剣士の方を説得した方が良さそうだと、グリーンリはまた足を速めた。

『こんな速度で――今日中に一番近い集落にたどり着けるかどうかと言うところだろう。お前、娘に体力を分けてるんだろう。お前も無理が効かないはずだ。俺の背に乗ればそんな苦労などせずに済む。何も捕らえるのに荷担しろとは言わない。ただ口添えをするだけでいい』

 そんなことができるか、と、剣士が思ったのがわかる。恩人。友人。親しい存在。幸せを願う相手を売るなど、絶対に。

『……お前たちの親しい存在なのか』
「そうじゃない。全然心当たりもない。ただ……もう誰も……これ以上、……殺されないで欲しいだけです」

 娘の声は弱く掠れている。グリーンリは憤った。まるで、銀狼が、この俺が、理不尽なことを強いているようじゃないか!

『嘘だな。銀狼には嘘は匂うんだ。嘘をつくなら体臭までごまかさなければ意味がない』
「……」
『剣士に問う。お前の友人であり恩人である存在が、紋章を身体に刻んだ若い人間だ。――そうだな?』

 剣士は少なくとも動揺を表には見せなかった――のだろう。しかし銀狼である彼にはその動揺が匂い立つようだった。『匂う』グリーンリは言いつのった。『お前の考えていることは全部匂いに出る。強情を張っても無駄だ。銀狼をまけると思うな。お前たちの行くところで俺の行けないところなどどこにもない。だから強情を張らずに俺の手を借りろ!』

 ――何て理不尽な。銀狼というのは高潔で崇高な唯一無二の獣じゃなかったのか。

『何が理不尽だ。番人の存在で守られた箱庭の住人には、銀狼の要請を尊重する義務が――』

 ――銀狼の能力を得た、それを悪用する前に殺す、という考えには賛同できない。悪用するような人じゃない。

『それはお前の勝手な意見だろうが!』
「あの……」

 娘が不思議そうな声を上げた。

「誰と……話していらっしゃるんですか」
『そこの剣士とだ! 銀狼はそもそも意思疎通に必ずしも言葉を必要としない。お前たちの考えていることなど全部匂いに出る。俺をごまかせると思うなよ!』
「ふうん……銀狼ってこんな獣だったんだ。今日はなんだか……人魚といい……銀狼といい……幻滅することばっかりだな……」

 娘が暴言を吐き、剣士がうんうんと頷き、グリーンリは激昂した。

『銀狼を愚弄するか!』
「愚弄するつもりはないんだけど……人魚も銀狼も、自分の都合ばっかり。番人の能力……持っているだけで危険だというなら話は少し違うかも知れないけど……いつか悪用するかも知れないからそれ以前に禍の芽を摘んでおこうって……後ろ向き……事なかれ主義……弱腰……銀狼ともあろうものが……」

 ぶつぶつ呟くのが聞こえ、グリーンリは苛立って前足を踏みならした。王といいエルヴェントラといいあの女男といいこの剣士といい娘といい、どうしてどいつもこいつも銀狼の崇高な意思を尊重し協力しようとしないのだろう。こんなことが赦されて良いのだろうか。世界の番人は、もっと尊重されて然るべきではないだろうか。せっかく乗せて行ってやろうと言っているのに、本当に礼儀というものがなってない。なんだこいつら。
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