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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第十四章 人魚

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人魚(1)

 アルガスが消えたのは巨大な木のうろの中だ。

 自分の目にだけは自信があったので、ニコルはそれは疑わなかった。しかし駆け寄ってみたら、うろの中にも外にも、アルガスの姿は見えなかった。うろの中は暗くよどんでいて、いかにも何かが潜んでいそうな雰囲気だが、大人の男ひとりが完全に姿を消せるほどの大きさはさすがにない。

 エスティエルティナも、アルガスも、周囲のどこにもいない。声をかけても返事もない。見失った――そう思ってニコルは、ゾッとした。
 ニーナに何て言えばいい? 姫の帰還をあれほど待ち望みながら気丈に振る舞うけなげなニーナに、何て言って謝れば。いや、ニーナが許してくれたとて、ニコル自身がとうてい自分を許せそうにない。

 その時だった。
 うろの中から、風が吹いたのだ。

 鉄臭いにおいがかすかに混じった風がふわっと中から吹き付け、ニコルはその瞬間、うろのなかに飛び込んだ。ぐるん。視界が回って、気がついたら、ニコルはだだっ広い草原のまっただ中に立っていた。少しくすんだ色合いのちくちくする草が一面に生えた野っ原だ。空は灰色だった。鉄臭いにおいは、空気に混じっているようだった。広い――地平線がぐるりと見える。アルガスが見える、その背中が予想より近かったのでニコルは驚いた。もうだいぶ前に、この中に入ったはずなのに、と考える間にもアルガスは走って行く。ニコルも慌てて後を追った。

 アルガスが向かう先に、折り重なるようにして倒れている人がいる。長い黒髪が周囲に散らばっている。ニコルはいっそう走る速度を速めた。姫だ。


 姫だった。
 見間違いようがなかった。
 案内を終えたエスティエルティナが彼女の元へ飛んでいくのが見える。


 彼女は仰向けに倒れて、微動だにしない。回りに瓦礫がたくさん散らばっている。その瓦礫から彼女を守るように誰かが覆い被さっている――ように、見えたが、アルガスが駆けつけた瞬間、その誰かは風圧によってさらさらの灰になって散った。

 アルガスが姫に屈み込み、ニコルはやっと追いついた。細い手が草の上に投げ出されている。血と粉塵にまみれて汚れた頬を、涙が幾筋にも流れた跡があった。その胸がかすかに上下しているのを見て、生きているのだとようやくわかった。

 服装も、彼女がいつも着ていたような旅装だった。背嚢を背負ったまま倒れているのが少し窮屈そうだ。

 周囲に散らばる瓦礫も、恐らく、王宮を形作っていた物なのだろう。もしかして、彼女はあの夜以来、一度も動いていないのかも知れない。ここでは時間が止まっているのだろうか? さっきずいぶん前にここに入ったアルガスに追いつけたことを考えると、そうなのかもしれない、と思えてくる。ニコルは、そこまで考えて、へたへたと座り込んだ。「いきてる」呟くと、アルガスが頷いた。

「そうだな」
「姫――あの、」
「ニコル。立て」

 アルガスが言い、姫を抱き上げた。ひょいとばかりに背負って、立ち上がる。

「――なに?」
「エスティエルティナを持ってくれ。何か来る。――走れ!」
「は――、い?」

 姫を背負ったアルガスが走り出す。ニコルは腰を浮かせた。地平線の向こうが、黒い。何か――確かに、何かが来る。黒い靄のようなものが、次第に膨れあがりながらこちらに向かってくる。
 ニコルはエスティエルティナを掴んだ。その剣は、小刻みに震えていた。しっかり握って、走り出した。振り返るとあの木のうろは絶望的なほどに遙か遠くに見えている。

 ごおっと後ろから風が吹き付けた。きいきい、きゃあきゃあという、金属音のような何かが混じった冷たい風だ。ニコルは全身が総毛立つのを感じる。何か――何か得体の知れないもの。怖ろしくて陰惨で激しい怒りと憎しみに満ちた何か。絶対に掴まえて殺して食う、それが楽しみで楽しみでたまらないという、厳然とした意思と感情を感じさせる何かが、膨れあがりよじれあい踊り昂ぶりながら、怖ろしい勢いでこちらに迫ってくる。振り返ることはできなかった。しかしまるで春の鉄砲水のような勢いで迫ってくるのを肌で感じる。

 見ないでもわかる。それは、何千、何万という魔物の群れだ。鉤爪や触手が地面を揺るがす。ぎいぎい、ぎゃあぎゃあ、という雄叫びや悲鳴に混じって、意思のある音も聞こえる。【正だ!】彼らは高らかに叫んでいた。【正だ!】【正がいる!】【探し求め追い求めた正が!】【取り込め!】【喰らえ!】【私のものだ!】【俺の!】【私の!】【わたしの!】【私のモノだ!!】

 アルガスの背中で、姫が目を覚ましていた。彼女は自分を背負って走っている男を見、振り返ってニコルを見、背後に迫る“何か”を見た。

「……ガス! ガス!? 下ろし――」
「絶対に嫌だ」

 アルガスがそう言った時、ニコルの背負う背嚢を、魔物の鉤爪がかすめた。

「ああああああ!」ニコルは喚いた。「わああああああー!」

 どうん、ひときわ巨大な魔物が周囲の魔物を蹴散らし、ニコルの足元を狂わせた。闘技場ほどもありそうな大きさだった。【おれのだ】意思が地響きのようにニコルに降り注ぐ。ニコルは既に自分が転んでいるのを感じる。「ニコル!」姫の悲鳴。――ずしん、巨大な魔物がアルガスと姫の前に手のひらをついた。

 闇が、
 降ってきた。

 巨大な魔物が顎を開ける。愉悦の滴る幸せそうな笑顔。ニコルは戦慄した。毛むくじゃらの巨大なその魔物の笑顔は、人間を思わせる。

【正だ――!】

 開けた口が既に小屋ほどもある。ニコルは思った。喰われる。

 と。



 ざぶん。



 出し抜けに足元の大地が、ちくちくの草の生えた野っ原が、水に変わった。

 気がつくとニコルの身体は既に水の中だった。もはや周囲全てが水だった。すぐそばに姫とアルガスがいる。ふたりとも沈んでいく。沈んでいくのだ。ニコルはもがき、浮かび上がろうとしたが、水は三人を包み込んだまま離さなかった。さっきの巨大な魔物とそれを取り囲んでいたおびただしい数の魔物たちは、反対にどうしても沈むことができなかった。悔しがり、暴れ、ののしり、何とか水をこじ開けようとのたうち回っている魔物たちを上に見ながら、三人は沈んでいく。

 ――なんだこれ。

「息ができる」

 アルガスが言う。ニコルは限界が来た息を吐き、しこたま水を吸い込んで、噎せないのに気づいた。本当だ、息ができる。身体の中にその水が入り込んでも、ちっとも苦しくないし、咳き込みたくもならないし、沈んでも沈んでも重さや圧力を感じない。どうしてだろう、ものすごく居心地がいい。

 しかし、どこまで沈むのだろう。

 姫の身体が浮かび上がりそうになり、アルガスが掴まえる。姫は軽いからなのか、それとも別の理由があるのだろうか。呼吸に問題がなく、またあの巨大な魔物に食われそうになった恐怖からも少し解放されて、ニコルは沈み続けながら水をかいてアルガスと姫に近づいた。エスティエルティナをまず姫に差し出す。それからずっと握りしめていた、ニーナが縮めたアルガスの背嚢を、アルガスに差し出す。それからそっと姫の袖口を取った。やはり彼女には少し浮力が働いているようで、このままではニコルだけ先に沈んでしまいかねなかった。

「……ええと」

 姫が困ったように言う。その仕草も声も反応も、姫のもので。姫そのものだったので、ニコルは思わず、声を上げた。出たのは笑い声だった。「あはっ」場違いな程大きな笑い声が水を震わせ、慌てたけれど、その慌てる感情までもがおかしくて、大声で笑った。あははははは、という大きな笑い声が水を揺らす。

「姫、あはっ、生きてましたね! 生きてましたね! あははは! 俺も! アルガスも姫もっ、皆生きてましたねー!!!」

 我ながら何を言っているのだ。そう思いながらも止まらない。あの巨大な魔物とおびただしい数の有象無象の群れに追われて逃げた、あの不可思議で怖ろしい時間に比べて、ここは何て静かで清涼なのだろう!

 事態は未だ深刻だと思うのだが、どうしても、悲壮な気持ちにはならなかった。とにかく未だにあの怖ろしい魔物たちからは遠ざかり続けていて、その事実自体は歓迎だ。そしてアルガスもいて、何より、姫もいる。生きていたのだ。危ないところだったけれど、彼女は生きていて、そして今も生きている。

「……ニコル」

 姫が笑い、アルガスも笑った。沈むにつれて辺りは、明るくなってくるようだった。



 少し経って、笑いの発作も治まった。ニコルはしみじみと姫を見た。瓦礫のせいでだろうか、細かな擦り傷なんかはあるようだったが、水の中をひたすら沈む内に汚れが取れ、大きな外傷はなさそうだということがわかる。ただ、とても疲れているだけらしい。そう思ってホッとして、また笑いが出た。あはっ、と笑ってから、何とか顔を取り繕った。

「……姫、半年経ちましたよ」

 そう言うと姫は、目を見開いた。「半年? 何が?」

「だから。姫が王宮に行っちゃってから、半年です。もー、さんざん捜したんですよ。大変だったんですよ」
「え、半年? ……本当に?」

 姫は目を丸くしている。アルガスを見て、彼が頷くのを見て、えええ、と言った。

「そうなの? でも……」
「エスティエルティナがね、アルガスを呼びに来たんですよ。巡幸と一緒にいたときです。北の大森林を抜けるか抜けないかって時でした」

 姫はさすがに毎年巡幸に同行していたと言うだけあって、それだけで、季節を把握した。そうなんだ、と、呟く。

「半年……そっか……」
「ニーナが俺を雇ったんです。アルガスと一緒に、姫を捜すようにって。その……姫は帰っちゃったんだと思っていたから、捜してどうなるんだろうって、本音は思っていたんですけど。でも、帰っちゃったんじゃなかったんですね。大丈夫ですか。ここでは、苦しくないんですか?」

 姫は普通の人とは少し身体のつくりが違ったそうで(昔どこか違うところからやって来たからなのだそうだ)、彼女の身体を守っていた何かが消えてしまった今は、王宮の傍で生き長らえるか、それとも元いた場所へ帰るしかない、と聞いていた。彼女は帰ることを選択した――しかしこちらに住めるような方法を捜して、いつか帰ってくると、約束して行ったのだと、聞いていた。

「ニーナがオーレリアさんとかデクターさんとか学者をいっぱい雇って、総出で文献調査してるんですよ。姫がこっちで住めるようにって、だから、」

 アルガスも姫も何も言わないから、必死で言葉を継いだのだが、「……そうなんだ」少し遅れた姫の反応を見て、ニコルは口をつぐんだ。疲れ切っている。

 よく考えたら当たり前だ。ニコルとアルガスにとっては半年前のことだが、姫にとっては、あの王宮の崩壊は、ほんの昨夜のことなのだ。

 ニコルが黙ると、沈黙が落ちた。こぽこぽというかすかな音が、辺りに満ちていた。辺りはほんのりと明るくて、寒くも暑くもなく、とても居心地が良かった。

 姫の目が閉じる頃、水底に着いた。そこは大きな岩礁に囲まれた場所だった。手を離しても姫の身体が浮き上がらないことに気づいて、ニコルは姫の袖から手を離した。アルガスも手を離す。

 と、姫が言った。かすかな声で。

「……ガス」
「なんだ?」
「ごめん……」
「……いや」

 ニコルはもじもじした。ニーナはついて行け、ひとりで行かせるなと言ったけれど、もしかして俺、お邪魔虫じゃないだろうか。
 特に確証があるわけではないのだが、そんな気がする。すごくする。

「背嚢ここに置いてってもいいですか」

 できるだけ落ち着いた口調でそう言って、自分の背嚢を下ろした。

「ちょっとその辺、見てきます。目印ないと迷いそうだから」

 背嚢を岩礁の入口に置き、ニコルは水底を歩いた。さらさらの砂の感触が柔らかくて、気持ちが良かった。岩礁を回って、周囲を見回した。どうやらここは海底らしい。見上げると遙か上に水面が見える。ちらちらと光が踊っている。あの上に魔物がいるとは思えない、美しい景色だった。
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