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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第十一章 王宮

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王宮(10) アンヌ

 鐘の音が、響いている。

 あの鐘の音は、ついに好きになれなかった。ぼんやりとそれを聞きながら、アンヌは考えた。
 王宮の裏庭に建てられた、小さな塔にある大きな鐘だ。アンヌが嫁ぐ前からここにあり、朝夕に一度ずつ鳴らされるのが慣例だった。アンヌが王妃になって、王宮の中でかなりの発言権を得たとき、いの一番にしたことが、あの鐘を鳴らす習慣をやめさせることだった。
 陰鬱な音。何かまがまがしささえ感じさせるような、気の滅入る音なのだ。
 アンヌがエリオットの寵愛を喪った後も、誰も再びあの鐘を鳴らす習慣を復活させようとはしなかったのだが――誰が鳴らしているのだろうか。
 でも、と思って、アンヌはちょっと笑った。

 確かに、ルファルファの加護を得た娘を手放すというこの夜に、鳴らすには相応しい音色だ。



 アンヌは食事が終わるとすぐに正面玄関から中に入って、しかるべき刻を待っていた。
 姫は恐らく、正面玄関を迂回して、裏口に回るはずだ。スヴェンが安全に謁見の間へたどり着ける道筋を力説していたから、そのとおりの道を通るだろう。アンヌが正面から行ってエリオットを惹きつけておけば、少しは彼女の道が開けるはずだ。

 正面玄関の石段の辺りで、話し声が聞こえ始める。恐らく姫が来たのだろう。もうひとりの声は低い。カーディスの話を思いだし、アルガスだろうか、と思う。ああ、本当に、ヴィードによく似ている。
 何を言っているかわかるほど近くではないが、アンヌは正面玄関を離れ、歩き出した。エリオットはたぶん、謁見の間にいるはずだ。

 エルギンとカーディスには、置き手紙を置いてきた。
 今アンヌは、とても晴れやかな気持ちだった。ずっと罪を犯し続け過ちを見過ごし続けてきた自分が、最期の最期にこんな晴れやかな気持ちでいいのかと、自分に呆れるくらいだった。エスティエルティナ=ラ・マイラ=エスメラルダ――アナカルシス王家を揺るがす大きな出来事の渦中にあり続けた彼女には、本当に、ルファルファに似た力があるのもしれない。そう思わずにはいられない程、彼女の存在は、その身に降りかかった真実は、アンヌにとって福音だった。

 エルギンの治世を実現するために、実の母親が死んだ。それは曲げられない事実だ。
 けれど、“もうひとりの母親”は。アンヌの死は、姫の存在によって、エルギンの治世に何ら影響をもたらすことはなくなったのだ。アンヌが死のうと死ぬまいと姫は杭を抜いて王宮を崩し、それによってエルギンの治世は完全に成立する。アンヌにはもはや何の重荷も義務もなく、それが本当にありがたかった。あの健気な“息子”は、恐らく嘆いてくれるだろう。カーディスも、アイオリーナも、ニーナもそしてビアンカも、きっと悼んでくれるだろう。けれどアンヌの死がエルギンの即位に何らかの陰を落とすこともまたないはずだ。だからアンヌはただひとりの愚かな女としての道を、全うすることができる。

 でも、懸念がひとつある。エリカが本当に、姫の友人なのか、ということだ。アンヌには、どうしてもそうは思えない。エリカにはどこか、人の神経を逆撫でするところがあり、それは姫とはかけ離れた印象をアンヌに与えた。エリカの心にあったのは、本当に、姫を心配し連れ戻そうという、親愛の情だったのだろうか。いいや、そうではない。あの娘は、なにか悪しきことを企んでいる。その印象は、アンヌにとって、既に核心の域にまで達している。

 そして姫は恐らくその嘘を、覚悟して、王宮へ赴くはずだ。――エルヴェントラが話す前に、既に、彼女は起きていたのだろう。アイオリーナの苛烈な覚悟を聞いてしまえば、姫のような娘には、国中を巻き込み血で染めてでも、王宮のそばで生き長らえたい、などと、言えるはずがない。

 エリカは得体が知れない。だから姫をひとりで、立ち向かわせるわけにはいかない。人生の乗り切り方を教えていただかなくちゃ――あの時あの子は、そう言ってくれた。まだ人生の乗り切り方を知らない、あどけなく、アンヌの言い訳を頭から信じて赦してしまうようなお人好しの娘を、このまま見捨てることなど絶対にできない。彼女の行く先にはエリカと魔物だけでなく、エリオットもいるはずだ。彼ひとりだけでも、刺し違えてでも、排除しなければならない。

 謁見の間に続く大きな階段を、一歩、一歩、昇っていった。
 そうしながら、オットーのことを考えた。彼が王太子だと知った時の、驚きと歓喜は、今もまだまざまざと胸に思い起こすことができる。
 不思議なことに、アンヌには、社交界でエリオットを見たときの記憶がほとんどなかった。アンヌが十四歳、初めて社交界に出た時に、会っているはずだった。まだアスタの教えに忠実だった時だ。彼は王太子で――王太子で――王太子と挨拶を交わしたのは覚えているのだが、他の記憶が全くない。優しそうな人だった、というような印象さえない。周りは似合いのふたりだと誉めそやした気もするが、緊張のせいだろうか。それとも母の教えを守ろうとするあまり、自分の目で見ていなかっただけかもしれない。昔から母は常々、あなたは王の妻になるのだと言っていたから、その後も顔を会わせるたびに、ああこの人か、と思いはしたと思う。

 十五になった時、アンヌは社交界に出るのをやめた。それからの二、三年は、家出同然の暮らしだった。イルジットと、時折マクゴガル家の嫡子をつれて、いろいろな場所へ行った。そう、ヴィードを初めに見つけた時はオーレリアと一緒だった。ヴィードの腕と、その後食事を取り、酒に溺れる様を見た。オーレリアは八歳で、子どもの、しかも少女らしい潔癖さで、あんな大人になってはいけないと思うと、まじめに憤慨していた。今の彼女をあの時の彼女に会わせてやりたいものだ。【アスタ】を任せたイルジットから、オーレリアが現れた時の話を聞いた。それを思い出して、アンヌは口元をほころばせた。ビアンカが『汚らわしい』と憤慨していたことも。オーレリアとビアンカに、きちんと別れを告げなかったことが心残りだった。

 デボラにはルードがいるから大丈夫だろう。
 フィガスタがちゃんとヴェガスタを遠ざけておいてくれるといいのだが。

 オットーとヴィードと共にしたいくつかの冒険が、恐らく、自分の生涯で、一番幸せな時だった。それから社交界で再会して、オットーが王太子だったと知った時。オットーを忘れなければならないと思っていた矢先に、何の障害も問題もない立場で、求婚された時だ。

 一体どこで歯車が狂い出したのか、本当に良く分からない。

 細かな歯車がひとつひとつこぼれていくような、ゆるやかな破滅だった。砂時計の砂が落ちていくような。両手一杯にすくった砂が、指の透き間から少しずつこぼれるような。慌てて砂を止めようとしても、両手を動かしてはもっとこぼれてしまいそうで動かせず、どうしていいかわからず、ただおろおろとその砂がこぼれて行くのを見つめ続けるしかない――

 なじるのは良くないと、思っていた。母に叱られ続けた日々を思えば、同じ轍を踏むことはできなかった。かといって、どうすればいいかも分からなかった。寄り添えば良かったのだろう。わたくしはあなたを見捨てていないと、告げ続ければ良かったのだろう。レスティスを必要とした気持ちが良く分かる。自分はただ、エリオットにとっては息苦しいだけの存在になってしまったのだろう。ルファルファを攻めた時に、アンヌは何も言わなかった。そうするしかないと、分かっていた。非難はしなかった、協力も、した、はずだ。でも最近、カーディスを見て良く分かった。あの時アンヌがするべきだったのは、王妃として、重圧を共に背負うことだった。自分の手を汚して、王にだけその責を背負わせはしないと、きちんと見せることだった。カーディスが生まれて以後、王はアンヌにはもう見向きもしなくなっていたから、ということは、言い訳にもならない。

 求婚の時。
 あなたが共にいてくれれば、私は何でもできると思うと、丁重な口調で言った。

 ――申し訳ないことをした。

 謁見の間の扉を開きながら、アンヌは考えた。

 ――あなたの期待に沿えなくて、本当に申し訳ないことをした。



 謁見の間は静かだった。ここに入るのは久しぶりだ。

 人けがない。がらんとして、静まり返っていた。天井の高い広々とした大広間。王座へ続く道は、ゆるやかな階段状になっている。アンヌは辺りを見回した。人の姿は全くない。魔物の姿も、見えなかった。けれどそこに蹲る、ひとりの男がいた。アンヌのすぐ近く。抜き身の剣を抱え、階段の一番下の段に背を預けるようにしている。

 あの目が、アンヌを射貫いた。
 どうしてだろうと、彼女は泣きたい気持ちで考えた。

 どうして、どうして。
 どうして賭場で会ったオットーと、今も変わらない目をしているのだろう。

 やつれ果てて。疲れ果てた顔をしている。痩せて、苦悩の数だけ皺が増えて。憎まなければならない。この顔で大勢の娘を切り刻んだ。シルヴィアも。あの美しい、けなげな可愛い娘のことも。

 それなのに――疲れ果て、やつれ果てたオットーに、駆け寄って抱きしめたいと、思う。

「……来たのか」

 どうでも良さそうにエリオットは言う。

「来ました」

 アンヌは、囁いた。わたくしはまだこの男を愛しているのだと、思い知った。



 不思議だ。
 エスメラルダで、エルギンを久しぶりに見た時、ああ、やはりエリオットに良く似ていると、思った。レスティスにもどうしようもないことだが、それでも、あの美貌を息子に遺してやれば良かったのにと、恨み事を言いたくなるほどに。

 それでも、先程見たエルギンと、今目の前にいるエリオットは、あまり似ていると思えなかった。茶色い巻き毛が伸び放題になっているからだろうか。頬がこけて血色が悪いからだろうか。不精髭も生えているからだろうか。最近風呂にも入っている様子がないからだろうか。いろいろと考えたが、それでも、風呂に入ってきちんと身なりを整えて、髭も剃って髪も切って、血色が良くなったとしても、もうあまり似ているとは思えない。

「魔物はどこです」
「さあ」

 エリオットは嗤った。

「昨日から姿を見せぬ。近くにいることは確かだが。――座れ」

 身振りで示された場所は、彼のすぐとなりだ。彼の抱える剣のすぐそばだ。アンヌはためらわずにそこへ行き、座った。彼は自分で呼んだくせに、少し身を引くようにした。

「相も変わらず肝の座った姫君だ」
「わたくしはあなたの妻ですから」

 エリオットは、鼻白んだようだった。さらに身を引き、アンヌに向き直った。

「……いつからだ」

 揶揄を。
 恨み言を、言うつもりなのだと、初めは思った。重荷を分かち合わなかったくせに。それで妻を名乗るつもりなのかと、言うつもりなのだと、思った。
 けれどその口調はあまりに驚きに満ちていて、アンヌは少し首を傾げた。

「二十四年前。あなたが即位をした翌年、わたくしに求婚してくださったときからですわ」
「二十四年――」エリオットは、呻くように言った。「もうそんなに経つのか」
「ええ」
「……長いな」

 そうねと、口の中だけでアンヌは答え、再びエリオットを見つめた。老いた。

 二十四年の歳月。この間、この人の妻でいられた時間は、どれくらいだったのだろう。最近はほとんど顔を合わせもしなかった。レスティスが王宮に上がったのは二十三年前、アンヌが、王妃となった次の年だ。たったの一年。あれほど熱烈な口調で求婚しておきながら、たったの一年で、別の娘を王宮に入れた。

 恨み事は言えなかった。レスティスはアンヌの目から見てもとても可憐で、美しくて、エリオットがひかれた理由はよく分かったからだ。恨み事など言っては、さらに疎ましく思われるのではないかと、怖くて怖くてたまらなかった。

 ――でも。一時期。

 一時期、レスティスを寵愛していたさなかに、ほんの三月ばかり、エリオットがアンヌに通ったときがあった。初めは無理やりだった。急に夜中に踏み込んできて、殴られるような勢いで抱かれた。次の日も、次の日も。乱暴さは日を追うごとに失せ、初めの頃のような優しい愛撫に変わって、あの時アンヌは幸せだった。痛みも苦痛も気にならないほどに。エリオットは理由を語らず、レスティスのこともおくびにも出さず、ぎこちないけれど幸せが、戻ってきたように思えた。
 アンヌはけれど、その幸せを、外に出せなかった。再びレスティスに戻る日が怖くて、殻を、創っていたような気がする。

 その日々はカーディスを妊娠したことがわかってすぐに終わった。エリオットはまた黙ってアンヌから離れ、アンヌは、正妻であるわたくしに子どもを授けるためだったのだと納得して、また傷ついた。

 ここで死ぬのは避けられないだろうと、思う。
 わたくしはこのまま、この人に自分の気持ちをぶつけないまま、悔いに満ちた生涯を終えるのだろうか。

 ――レスティスが王宮に上がった時と、カーディスを授けられた時と。

 二回も、機会があったのに。

 ――わたくしは、努力をしなかった。

 失うのを恐れるあまりに、自分の気持ちをぶつける努力をしなかった。愛していることを悟られては、余計に疎まれるのではないかと恐れていた。

 アンヌは隠し持っていた小刀を取り出した。
 エリオットが、笑みを浮かべた。

「私を殺すか。――ついに」
「ついに……?」
「そなたはいつも正しかった。道から外れず、感情を荒立てることもなく、いつも平然として」
「……わたくしが?」

 それは一体、誰のことなのだろう。

「私のような暗君の妻となったことは、そなたの輝かしい生涯の、最大の汚点であるだろうに。自らの夫を殺してその麗しい手をさらに汚すとは」

 その言葉が、自嘲のように聞こえて、
 アンヌは、エリオットの前にひざまずいた。

 どこでどう、こんなにもこんがらがってしまったのだろう。

 彼の持つ抜き身の剣を自分の肩に乗せて、その刃を首筋に当てた。彼は驚いたように剣をどけようとしたが、アンヌは剣にすがりついた。鋭い刃が手のひらを傷つけたが、痛みさえ感じなかった。

「……ご存じなかったのですね」

 あの賭場で出会ってからずっと。
 こんなにも長い間、ずっとずっと、ずっと。

 知らなかったのだ。きっと、思いもよらなかったのだろう。『平然と』しているように見えたからだ。アンヌが彼を愛し、彼の心が離れていくことを、どんなに恐れ、悲しみ、苦しんでいたかを、この人は今まで、全然知らなかったのだ。

 それはわたくしの落ち度というものだと、思った。何と罪深いのだろうと思うと、涙が溢れた。エリオットは驚いたように、反射的に手をあげて、濡れたアンヌの頬に触れた。優しい感触に、胸が詰まった。

 ――わたくしは、何を恐れていたのだろう。

 心がこれ以上離れるのが怖いばかりに、わたくしは、自分の夫に、妻が生涯自分を愛していたことを、教えてさえあげなかったのだ。

「わたくしはずっと、あなたを愛していたのです。あなたがオットーであったときから、今まで、ずっと――今も、これからも」

 鳶色の瞳が見開かれ、アンヌをまじまじと見た。ああ、と思った。

 ――ああこの人は、恐らく今初めて、本当にわたくしを見たのだ。

 アンヌは呆然と自分を見つめている彼に顔を寄せ、その唇に口づけた。

「愛しています。レスティスを王宮に上げた時、わたくしがどんなに泣いたかも、カーディスを授けられた時、どんなに幸せだったかも、ご存じ、なかったのですね」
「……アンヌ、」

 アンヌは、彼の首筋に、自分の持つ短刀を押し当てた。

「愛しています。ね、一緒に逝きましょう。大丈夫、ひとりで逝かせたりはしませんから」
「それは困るわ」

 唐突に背後で声がした。
 鋭い音を立てて振り下ろされた何か。アンヌは振り返ることさえできなかった。その彼女の身を守るように動いたものがあった。エリオットだ。彼はアンヌの構える短刀が自らの皮膚を傷つけるのも構わずアンヌに覆い被さり、その鋭い何かを肩で受けた。呻き声さえ上げなかった。若い娘の声が、嘲るように言った。

「どういうつもり」
「この女は私のものだ。手を――出すな」

 エリオットの苦しそうな声が耳のすぐ傍で聞こえ、アンヌは、エリオットによって、今自分が抱き締められていることを知る。エリオットの腕の隙間から顔を出すと、そこに、若い娘の顔が見えた。エリカだ。

 その右腕を見てアンヌは息を呑んだ。
 エリカの右腕は、今、黒々とした毛むくじゃらの獣の腕に変わっていた。その手には漆黒の鉤爪を生やし、鉤爪の先端には、今流したばかりのエリオットの血が付いていた。アンヌを見て、エリカは蔑むように嗤った。あはっ、明るい笑い声が漏れた。

「やっぱり来たんだ。バカみたい」

 アンヌはエリオットの腕をそっとどけ、その傷口を見た。血が出ている。脈々と、あふれ出てくる。つまり――乏しい知識をかき集めて、結論を出す。毒が入っていない、ということだ。魔物に傷つけられたのに。魔物は、自在に毒を出したり出さなかったりできるのだろうか。

 エリカは、魔物だったのか。驚きながらも、どこか納得している。

 ドレスの裾を裂いて、彼の傷口を縛り上げる。エリオットが笑った。その笑みの意味がわかって、アンヌも笑いたくなった。確かに、さっきまで殺そうとしていたのに傷を縛るなんて滑稽だ。

 エリオットとアンヌの雰囲気が和んだのが気に入らなかったらしい。エリカは憎々しげに言った。

「やっぱり貴女って、いけ好かない女だわ」
「わたくしを、知っているの?」

 アンヌは立ち上がる。エリカは唇をゆがめて笑った。

「おお、知っておるとも」口調ががらりと変わっていた。「十年前の屈辱を、こんにちまで―― 一日たりとも忘れたことはない。そなたのせいで儂の本体は、蓄えた毒もろとも焼けてしもうた。赦さぬ。赦さぬ、絶対に赦さぬ!」

 十年前。本体が焼けた。そう聞いてアンヌは思い至った。
 そう、十年前――エルギンがエスメラルダの統治権を得た、あの狩りの時。エリオットを始め、王宮の主だった人々が留守にしたとき。アンヌは近衛を使って、王宮の大掃除をした。アナカルシスに巣くう魔物を退治し、後顧の憂いを絶とうとしたのだ。王座の下に潜んでいた魔物を追い出し焔で焼いた。そして、その子供のような小さな方も。

 アンヌは絶句し、後ずさった。

「そんな。だって――完全に焼いたはずよ。大きな方も、小さな方も――」
「人間ごとき卑賤な存在に、完全に魔物を滅ぼすなどと言うことができるものか。のうアンヌ――国民の母、完璧な貴婦人、か。エリオットが道を誤ったはそなたのせいじゃ。儂がエリオットを狂わせた、そなたへの、復讐のために。そなたの大事な大事な王が道を誤り転落していくのをなすすべなく見守った、この十年はどうじゃった? 絶望と失意のうちに死ぬがいい」
「はは」

 唐突に、笑い声が聞こえた。どこから出たのかと一瞬いぶかしんでから、アンヌは気づいた。自分だ。
 驚いた。――わたくしは、笑っている。今も笑いがこみ上げる。抑えようにも収まらない。腹の底にあるその感情の固まりは、歓喜だ。――そう、歓喜だった! この期に及んで何という罪深さかと、自分を嘲り罵りながらも、その歓喜の情を抑えることができなかった。アンヌは笑った。心から。貴婦人にあるまじき笑い方で。大きな口を開け、高らかに。

 エリカが憎悪の目でアンヌを睨む。

「――何を笑う。何がおかしい?」
「あはっ、だって――だって、だって、魔物だった! わたくしの大切なオットーは、やはり心から狂ってしまったのではなかった! そなたに撓められ、歪められ、無理やりその道を選ばされていただけ――」

 アンヌはエリオットを振り返った。彼は、立ち上がっていた。傷ついた肩を押さえて、痛みに顔をゆがめていたけれど、彼はもう、疲れ果てているようには見えなかった。

「オットー」敢えてアンヌは、そう呼んだ。「まだやらなければならないことがあるわ。草原に乗り込んだときのように、わたくしに力を貸して。あの魔物をこれ以上、放ってはおけない。あの魔物は王宮に巣くい歴代の王を狂わせてきた。ここで断ち切らなければ! エルギンにあの魔物を、遺すわけには――」

 ずしん。
 出し抜けにひどく、重い、地響きを感じた。

 あんぬ。
 エリオットの口が、そう動いた。斜めに、傾いで、エリオットの顔が離れていく。と、ずるり。アンヌの胸から生えていた何かが引きずり出された。内臓そのものを、引きずり出されたような気がした。アンヌはいぶかしんでいた。体に力が入らない。どうして。動かなければ。戦わなければ。エリオットに暴君を強いたあの魔物を、今度こそ、排除し  な   け れ   ば。

 あんぬ。

 エリオットの顔が間近に見える。声が聞こえない。アンヌは手を持ち上げようとした。動かない。声を出そうとした。出ない。今何があったのだろう。背中が冷たい。まるで氷のよう。ああ、と思う。ああ、ああ――そうか。

 魔物の腕と毒が、わたくしの背を貫いたのか。

 あんぬ。エリオットの口が動いている。暗くて、目が見えない。あの人の顔も見えない。どんな表情をしているのかもわからない。ここにいるのは暴君なのか、それとも、オットーなのかもわからない。姫を。あの子を。アナカルシスどころかこの世界の生まれでもなかったあの子、なのに立ち向かおうとし続けたあの子に。エリカの嘘を。杭を――

 杭を抜かせる気などないのだという、事実を。

 どうか。誰か。力を。

 あんぬ。

 耳に届かぬその声が、優しい吐息となって降りかかる。アンヌは悲しかった。姫の道を開く一助になれればと思ってここに来たのに、何もできなかった、自分の非力さが哀しかった。この人を遺していくのが哀しかった。わたくしのようなものを妻にしなければ、この人はひどい目に遭わなかったかも知れない。レスティスを正妃にしていたら、心安らかな治世を築けたかも知れない。

 この人に遺せたものは何だろう。何をして、あげられたのだろう。


 殺してさえ――あげられなかった。
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