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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第十章 戴冠式

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戴冠式(12)

     *


 歩くうちに、海の匂いが近づいて来た。

 何だか足がふわふわして、現実味がなかった。耳なりが聞こえているような、耳に何か綿のようなものが詰まっているような、不思議な感じだった。熱はない、と思う。けれど体中をちくちくと刺激する不快な感触はどう頑張っても追い払えない。ゆっくり歩いているのに、息が切れるような気がして、もしかして自分は踊っているのだろうかという不思議な疑問が兆した。歩いている気分になっているだけで、本当は踊っているのかも。だから足がふわふわするし、息が切れるのかも。

 集落を抜け、森に入った。この先は海に面した崖だ。潮騒は今夜はとても静かで、崖に砕ける音もほとんど聞こえなかった。潮の匂いをふんふんと嗅いでから、舞はよっこらしょ、とゆるやかな坂を上がる。よいしょ、こらしょ、よっこらしょ。うんとこしょ、どっこいしょ。まだまだかぶはぬけません……いつしか懐かしいお話の節を呟きながら上った。のぼりきると汗が出た。こんな程度で、と思うとぞっとする。半日走り回っても、息が切れなくなって久しいのに。

 膝に手をついて、しばらく呼吸を整えた。

 もう崖が近い。木の密集した辺りを回って、崖へのゆるやかな坂を慎重に下る。と、ぽかっ、と月が出た。半分の月だ。ぼんやりとしているが、青く、白い筋状のものが渦を巻いている。

 綺麗だった。もっとくっきり見えればいいのに、青の月はいつもぼんやりしている。それでも舞は見えたことに満足して、汗ばむほどに暑くなっていたから、とりあえず毛布を畳んだ。それを地面において、崖に腰をかけようと、身をかがめた時だ。

「――待ってくれ」

 出し抜けに背後から声をかけられて、あんまり驚いて、振り返った瞬間に足が滑った。やば、と思ったときには崖の上から落ちそうになっていた。真下に泡立つ黒い水が見えてぞっとした。こんなところから落ちたら――

 でも気づいたら、アルガスの腕が舞をしっかり支えていた。引きずり上げられて、舞は、アルガスの腕の中にいた。暖かくて狭くて、広い。舞は叫んだ。

「あ……っぶないじゃないか! 落ちるかと思った……!」
「そうするつもりなのかと思った」

 静かに言われて、舞は、顔を上げた。

「何で!? こんなとこから落ちたら死んじゃう――」

 ――落ちたら。
 塔の上から落ちたとき、【穴】が開いた。あの先は、地球だった――

「帰るなら……帰りたいなら、邪魔する気はないんだ」

 アルガスが静かに言った。呻くような声で。

「ただ……」

 ニーナのぎこちない様子とか、マーシャの悲しそうな様子とか、起きた時の、あのみんなの沈黙とか、そういうものもろもろがどっと押し寄せて来て、舞は、ふに落ちた。落ちてしまった。

「……そう思ってたの?」
「……」
「みんな……そう思って、たの?」

 なんてことだ。
 舞は、しばらくの間、そのまま、動けなかった。アルガスも動かなかった。抱き締められているような体勢だということにようやく気づいて、身じろぎをすると、腕が離れた。舞はため息をついた。また泣きそうだった。嗚咽の予感を遠ざけようと努力しながら、呻いた。

「……違うよ。ただ、月を見ようと思ったんだ。家では森に隠れて見えなかったから」
「月……青の月をか?」

 意外なのだろう。それはそうだ。青の月なんてぼんやりしていて、光量も弱いし、双満月の時くらいしか注目されない。舞はもうひとつため息をついて、毛布を拾い上げた。肝が冷えたからか、また寒さを感じ始めていた。ぱたぱたと土を払って、体に巻き付けて、今度は誤解されないよう、崖の手前でしゃがんでからにじり寄った。崖に足を出して腰をかけ、右隣りの空いている場所をぺしぺしと叩いた。

「まあお座りよ。立って月見もないでしょう」

 言いながら、確かに、誤解されても仕方ないのかも、とは思った。ひとりで窓からこっそり出てこんなところまでやってきて、毛布を畳んで崖に向かってかがみこんだのでは。でもそう思っても、悲しさは去らなかった。

 アルガスが隣に座った。舞は、呼吸を整えた。
 誤解されるのが嫌なら、話さなければ。
 奇異に思われるのも嫌だが、誤解されるよりましだ。

「最近思ったんだけどね。あたしの故郷って、多分、……あそこ」

 指さしたのは青の月だ。アルガスはこちらを見た。

「――丸いが」

 思いがけない反応だった。

「へ? 丸いよ? ああ――あたしたちが今いる場所も、多分丸いよ。大きすぎて、わからないだけで。お父さんがそういうの好きでね、家に図鑑とか学研まんがとか、神話の本とか星座の本とか、宇宙の本がたくさんあったから……宇宙に存在してる星は大体みんな、丸いものらしいよ。丸、が、一番安定している形だからだって。しゃぼん玉、やったことあるでしょう? あれも丸くなるのは、そういう理屈」
「うちゅう、とは?」
「そこ」

 空には満天の星だ。アルガスは難しい顔をした。

「つまり、あたしたちはね、丸い大地の上に立ってるの。その大地は、宇宙の中に浮いてる。近くには月とか太陽とか、木星とか土星とかがあって、そこを出るとまた他の星があって――あの星ひとつひとつが、全部太陽みたいに大きくて明るいの。遠くにあるからあんなに小さく見えるけど」
「遠くに……」
「もし馬に乗って行ったとしたら、銀の月にたどり着く前に人間の寿命は終わる、ってくらい遠いかな。太陽はもっと遠い。光の速さで八分かかる。光はね、一秒で、地球の回りを七回半回れるくらい動きが速いのに、それでも太陽まで八分。あたしたちが見てるお日様は、だから八分前の姿なんだ。他の星はもっとずっと遠いよ、ずっとずっと、ずっとずっと。光でも、何年もかかるくらい」

「気の遠くなる話だな」

「うん。あたしがいた大地は、地球って呼ばれてた。あれね」舞は、青の月を指さした。「どんどんどんどん近づいて行けば、海があって大地もあって、山も丘も湖もあって、いろんな生き物が住んでるのがみえる。人間も。こことそっくり同じ。あっちからはあたしたちのいる場所は見えないんだ、どうしてか、わからないけど。でも、月――銀月がね。地球の月と同じなんだ。兎さんがお餅ついてる。星座も同じ。オリオン座がある。北斗七星も見える。だから、多分、そういうことなんだと思う。もう一つの地球、なのかな。普通のやり方じゃ来られない――あっちからじゃ見えもしない――存在することさえ、わかってない」
「大地が丸かったら、反対側にいる人はどうなる?」

 アルガスが言い、舞は笑った。

「重力は下にじゃなくて、中心に向かって働くの。ええとね」握りこぶしを作った。「この真ん中に、あたしたちを引っ張る力の源があるって考えればいいんじゃないかな。反対側に立っている人はこう立つけど、引っ張ってるのはここだから、やっぱりその人の足元にあるでしょう。だから平気。落ちない」
「……わかった。フェルドという人の説明より分かりやすい」
「フェルド? って……」
「大地が丸いと聞いたのは今が初めてじゃない。カーディス王子から既に聞いてた。十年前、フェルドという人に……」
「首飾り、くれた人?」
「そう、その人だ。大地は丸い、反対側にいる人からすれば俺達が反対になるんだから大丈夫だ、と言われたとか。ずっと考えてた。意味が分からなかったが」
「へー……フェルドという人は……じゃあ未来からきたのかもね」

 ひどく精巧な、その上安物の首飾りを持ち、大地は丸いと教えるなんて。
 未来からだなんて、お伽話のようだが、それを否定してしまうと自分の存在はなんなのだ、と思ったりもする。でもやはり、アルガスは呆気に取られたようだった。

「未来?」
「あたしの故郷でも、大地は平らなんだって、昔は信じられてたんだ。勉強家な人たち、学者とかね、そういう人たちが長年かけていろいろ観測とかして、丸くないとおかしいってことになって、そのうち丸いというのが常識になったの。あ、マーティンはすぐに信じたよ。船乗りだから、感覚として知ってたみたいだね。遠くからやってくる船は、初めから全部見えるんじゃなくて、最初にマストの先っぽが見えて、どんどん上にあがってくるように近づいてくるんだって。だから丸くないとおかしいですねって、言ってたよ。――それで、あたしの故郷では、実際外から確かめて来た人がいて、本当に丸かったって分かったの。だからここでも、そのうち分かるんじゃないかな。信じられないほど精巧な首飾りだって、そのうち作れるようになるだろうし」
「ふうん」

 アルガスは舞を見た。

「じゃああなたも未来からきたのか」
「……違うと思うな」舞は青の月に視線を戻した。「時間の流れがどうなっているかなんて、わかんないけど。少なくともこの世界に住んで、長い時間が経てば、あたしのいたところにたどり着くかどうかという意味では、それはないと思う。あたしは、ねえ……初めからずっと、もう帰れないって、思ってた。帰り道を探そうとも思わなかった。二つの月をみた時に、ああここは全然別の惑星なんだって、すぐ思った。だから……あたしは、七年前、あなたのこと恨んでた」

 話が飛んでしまった。舞はもう少し論理的に話せないかと脳を探って、すぐ諦めた。無理だ。
 アルガスは黙って聞いている。舞は咳払いを、した。

「十年前もね、大変だったんだ。言葉が全然わからないし、月が二つもあるし、歪みとか、紋章とか、契約とか、今まで全然知らなかったし。みんな優しかったけど、ローラが辛抱強く根気強く教えてくれて、やっと……やっとのことで、ああこっちでも生きて行けるかもって、思った矢先にね、あんなことになって。住んでた世界が、めちゃくちゃになっちゃって。あなたに逃げろって、言われた時に……何を言ってるんだろうって、思った。ここで生きて行けるようになるまでに、どんなに大変だったかも、知らないくせにって。当たり前なのにね。でも恨みたかった。ローラがいないのに、また全然別の場所に行って、また一からやり直すくらいなら、ローラと一緒に死にたかった」

 ――そう。
 それが、真実だった。

 あの時のままで、あの気持ちのままでいられたら、憎しみを解放してしまえたのだろう。

 けれど、それでは、ローラが死んでからの決して短くはない歳月を、すべて否定することになる。だからしょうがないのだと、思った。みっともなくても。情けなくても。憎しみと、ローラを殺された恨みを、解放することができず、生涯ずっと背負っていくことも。エスメラルダに拾われてからの生活を守るためなら、ちっとも構わない。

 アルガスは、穏やかな声で言った。

「……そうか」
「でもね、ファーナにも、会えたし。ニーナに会って、エスメラルダに来て……つらいこともいろいろあったけど……でも……楽しいことも、いっぱいあったんだ。あたし、」

 ――あんた、結構、幸せだよな。
 舞は、うなずいた。

「あたし、幸せなんだよ。こっちで。ここに、ずっと、いたいんだ。もうどこにも、行きたくなんかないんだ。帰り道は見つかったけど、でも……家にはできれば一度、帰ってみたいけど、もう十年経っちゃったし。考えたんだよ、よく。あっちに帰るって選択肢もあったんだなって、考えた。……でも。
 何度考えても、あたしの家は、もうこっちみたい。月が二つあっても、もう平気だし。親不孝だけど、申し訳ないけど、でもしょうがない。あたしの会いたい人は、一緒にずっといたい人は、みんなこっちにいるんだ。
 ……だから今は、あなたに感謝してる」

 アルガスを見上げて、何とか、笑みを作った。
 これを言えるだけでも、あの男を殺せなくてよかったと思う。

「七年前、あたしを助けてくれて、どうもありがとう。アルガス=グウェリン」
「そうか」アルガスは、微笑んだ。「よかった」

 舞は自分が見とれそうになったのに気づいて、慌てて目をそらした。何だか、苦しい、かも。

「あ、あ……あのね。あたし今まで、変だった。余裕がなかった。だから、王が交代したらどうするかって、みんなに聞かれるのがなんか、怖かった、自分が、変なんだって、思い知る、から。でも、ここに来るまでに考えた。エルギンがちゃんと戴冠したからかな、考えられるようになったみたい。いろいろ思いついたよ、やりたいこと。世界のへそ、見にいかないかって、オーレリアに言われたんだ。行ってみたいな。でもその前に、温泉行くでしょう? それから、モリーの丸め焼きを食べるでしょう。モリーのケーキも最高だったよ。あれも、もう一回食べたいし。マーシャの手料理も、またいっぱい食べたいし」

「そうか」

「ウルクディアって屋台で有名なんだよね? 復興したらぜひそこで食べ歩きとかしてみたいし、地下街の串肉も食べたいな。牛がおすすめなんだよね? フェリスタはヤギって言ったっけ。いろんな種類があって、面白そうだよね。それから、イェルディアにあたしの大好きな、美味しい唐揚げをね、だすお店があるんだ。あそこのはちょっと甘酸っぱいたれがかかってて美味しいんだよ。あれもまた食べなきゃいけないし……」

「食べることばかりだな」

「え? ……ほんとだ。や、違っ、ら、ラク・ルダの大瀑布の裏側にも行きたいな! ほら! 食べることだけじゃないよ!」
「はは」

 笑った。舞は、仰天してアルガスを見た。月光を浴びて、声を立てて、楽しそうに笑った! あんまり驚いてまじまじ見ると、アルガスがこちらを見た。

「なんだ?」
「笑った……」
「あ、悪い」
「悪くないよ! わあ! もう一回!」
「……もう一回?」
「もう一回笑って! わあ、初めて見た……!」

 アルガスは困ったような顔をした。

「俺だって笑う」
「嘘お! 今までずっと苦しそうに横向いて堪えてただけだよ! なんで堪えるんだろうってずっと不満に思っていたのですよ! わあそっか、そうなんだ……」
「……どうなんだ?」

 可愛い、かも。
 笑顔は何度も見た。でも声を立てて笑うのなんて、本当に初めてだ。
 そういえば一度、顔をくしゃくしゃにして微笑ったことがある。カーディス王子の自室でだ。舞は、頬に手を当てた。何か、熱い。

 熱い、かも。
 寒い、はずなのに。

 本格的に熱でも出てきたのだろうかと思ったが、体調はさっきと変わらない。舞は必死で気をそらそうとした。

「あ、あの、十年前にね」
「ああ」
「こっちに来た時にね。ほんとは、覚えてるんだ。車に轢かれそうになったの」
「くるま?」
「馬のない馬車みたいなもの。すごい勢いで、あたしの……ところに、突っ込んで来た」早口になった。全部はやっぱり、話せなかった。「ああ死ぬ、って、思ったんだ。ああ、このままじゃあたしは死ぬって、思った。そうしたら足元の地面が消えた。落ちて、それで――気が付いたら、こっちにいたんだ。だから」

 昨日と、同じだ。

「塔から落ちた時もそう思った。ああこのままじゃ死ぬって。だからこれからも、ああ死ぬって、思ったら、違う場所に行っちゃうんだとしたら――それがあたしの……力、みたいな、ものなんだとしたら。護衛を、拒んでる場合じゃなくなっちゃったな。もうどこにも行きたくなんかないもの」
「そうか」

 雇われてほしい、とは、言えなかった。雇うと言ったって、期間が分からないのだ。一生ずっと、そばにいてもらうわけにはいかない。いくら庇護をもらったとは言え、そんなことまで頼んだら、さすがに迷惑だ。

 ―― 一生!

 舞は愕然とした。そして、真っ赤になった。そこで、初めて気づいた。アルガスには。アルガスなら。アルガス、だったら。

 一生ずっと一緒にいることを考えても、フェリスタの時のように、落ち着かない気分にならない。それどころか、離れることを思うと胸が痛んだ。流れ者の仕事はもう終わりだ。無事にエスメラルダについたから、アルガスももう仕事を終えた。これ以上舞に付き合う義理も理由も、アルガスにはないのだ。

 ――この人抜きで、生きていけなくなったらどうしよう。
 ファーナの角を渡された時にそう思った。なんてことだ。もうそうなりかけている。危険だ。非常事態だ。


 ――あたしは、この人のことが好きなんだ。


 隕石のようにそのことが舞の中に降って来た。どうして今まで気づかないでいられたのだろうと、不思議に思うほど、圧倒的な存在感で。
 胸が痛い。呼吸が苦しい。抗わなければ、と焦って思った。抗わなければ。逃げなければ。どうにかして。

「そ……ろそろ、戻ろうかなっ」
「そうだな。冷えるし」

 答える声は憎らしいほど落ち着いている。舞はよろよろと立ち上がり、毛布を羽織り直して、よろよろと歩きだした。すぐにアルガスが追いついた。剣をもって、普段着に、上着を重ねただけの、姿だった。寒くないのだろうか。

「……が、ガスはどうしたの。散歩、してたの?」

 今更だ、と思いながら訊ねると、いや、と言われた。

「眠れなくてぼーっとしてたら、あなたが窓から出たのが見えた。最初はそっとしておこうと思ったんだが、どうしても気になったので」
「そ……そっか」

 気になったので。気になったので。気になったので。
 気になったので。気になったので。気になったので。

「気になったのか……」
「そう」

 少なくとも、気にしてもらえてよかった。
 泣きたい気分で考えた。

 少なくとも、それが職業的なものでも、無関心というわけではない。眼中にないわけではないのだ、と思って、いやないだろう、とすぐに思い直した。ないも同然だ。【最後の娘】なのだから、それが窓から抜け出すのを見たら、気になるのは当たり前だ。責任感の強い人だし。

 八歳以来、こういう経験を積んでこなかった自分が恨めしかった。どうしたらいいのだろう? まずは流れ者にならなければならないだろう。そして、それからどうすればいいのだろう? フェリスタのように指輪を渡せばいいのだろうか? でも恋人は? 王妃宮で思ったとおり、【アスタ】でも大人気だったし、恋人くらいいるだろう。それも綺麗で、触って楽しい体格の、背の高い美人な人が。

 ――でも特技なんて別にいらないんじゃないの?
 ――いりますよ。

 ニコルの気持ちが、今よく分かった。確かに必要だ。何かが。自分の背中を押すために。でも何にもない。何もないどころか、無鉄砲で聞き分けがない、後先も考えない困った奴だと思われているはずだ。その上、オーレリアには中途半端で恋人できても嘆かれるって言われた――

 嘆かれる、なんて。
 なんて、絶望的なことだろう。

 いけない。だめだ。これ以上近づかない方がいいかもしれない。今なら取り返しがつくかも。傷が浅くて済むかも。拒絶が怖い。怖すぎる。一歩も前に進めない。

「……どうした?」
「なんでもないですよ?」

 反射的に返しながら、本当に止まりかけていた足を何とか動かして、呼吸を整えた。とにかく今戸籍を焼いたらエルヴェントラが発狂するかもしれない。王宮の明け渡しが済み、王が、前王が、しかるべき処遇を受け、【最後の娘】の責がちゃんと済むまで、この件に関しては保留にしよう。考えちゃいけない。考えちゃ。

「左手の」

 考えちゃいけないのに。

「……指輪は、どうしたんだ?」

 舞は泣きそうになった。考えちゃいけないのに!

「フェリスタに返した。偶然、理由を知って……そういう理由なら、……受け取れないから」
「……そうか」

 アルガスの声はあんまり静かで、内心が全くうかがえない。辺りが暗いから、瞳の色も見えない。考えちゃいけないのに、考えが浮かんで来た。アルガスが舞にそういう好意を少しでも持っているなら、フェリスタが指輪を渡した時に、何か言ったりするのじゃないだろうか。今までずっと黙ってた。それはつまり、舞が誰と結婚しようと構わない、そういう関心が全くないと、いうことではないだろうか。

「全然気がつかなかったよ……今まで。呆れたで、しょ」
「……いや」

 嘘ばっかり。
 胸が痛い。胸が痛い。すごく、痛い。

 八歳のときは、こんなに痛く、なかったのに。
 ドキドキするのかと思っていた。でも実際には、ずきずきする。血が出そうだ。手遅れだった、と舞は思った。気づいた時にはもう、手遅れだった。気づいたのはあんまり唐突だったけど、でも、思えばずっと前から罠にはまっていたようなものだ。ずっと前から――いつからだろうと、さかのぼってみて、それがあの王妃宮で牢から出してもらった次の朝、くしゃっと微笑った時にまでさかのぼることはもう明白だった。あんなに前からではもう、避けようというものがない。罠があるってわかっていれば、どのみちはまる罠だったにせよ、もう少し、心の準備もできたのに。

 あんまり無防備で、純粋にずきずき痛んで、蓋をするしかなかった。蓋をしてやり過ごして、少し傷が癒えてから、そっと覗いて見ることにしよう、と思う。今はだめだ。痛みが強すぎる。ニーナにさえ話せるとは思えなかった。もう少し傷が癒えるまで。

 ――もうちょっと痛くなくなってから、告白とか、してみようかな。

 集落に入った。ゆるやかな斜面を上り始めながら、考えた。
 でも何て言うんだろう。今まで気づかなかったけど、ずっと好きだったみたいですって? 間抜けすぎる。でも必要だ、という気がした。それほどに、痛み方が激しかった。ちゃんと告げて、ちゃんと拒絶してもらって、その段階をちゃんと経ないと、葬れない痛みのような気がする。
 でも、今は無理だ。どうしても。

 ――拒絶に耐えられるくらいの時間が経ってから――それからにしよう。

 その時舞は知らなかった。拒絶に耐えられるほど痛まなくなる時は、すぐ来るのだと、思っていた。




 家のそばに戻って来た。アルガスに平静な声でお休みと言ってから、舞は斜面を上がって行った。アルガスは下で、そのまま、舞が家に入るまで見ていてくれるつもりらしい。息が切れそうなことを悟られないように気をつけて、窓を開くと、

 明かりがついていて、ニーナが泣いていた。マーシャもいた。ふたりで肩を寄せ合って、ひそやかに泣いていた。

「ただいま。……どうした、の」
「ま……いっ」

 ふたりがかりで引きずり込まれて、寝台に座らされて、ニーナに抱きつかれた。マーシャは前掛けで顔を覆っておいおい泣いて、ニーナが舞の体にしがみついてしゃくり上げていた。その背中に手を当てて、舞は思った。あったかい。

「どこ行ってたのよ……バカ……!」
「故郷にお別れして来た」

 言うとニーナが顔を上げた。涙に濡れた、ぐしょぐしょの顔を。舞は苦笑した。ニーナはもうずっと長いこと、いつか舞が故郷に帰ってしまうのではないかと、恐れていたのだろうか。
 悪いことをした、と思う。

「あのね、ニーナ。あたしね、ずっと、一生、こっちにいたいんだよ。何か傷つくなあ。どうしてあたしがどこかに行くと思うの? あたしの家ってここじゃないの? あたしが別の場所で生まれたからって、ここに住んじゃいけないの?」
「舞……っ」
「マーシャ、スープが飲みたいな」

 言ってみるとマーシャはすぐに反応した。前掛けで顔を拭って、咳払いをした。

「ちょっとお待ちください、すぐお持ちしますから」
「ありがとう」
「ま……舞……舞のバカ……っ」

 ニーナは泣いている。舞はニーナの背をなでて、よしよし、と言った。

「大丈夫だよ。もしどこかに行くことがあっても、ここにちゃんと帰ってくるよ。大丈夫だよ……」

 あたしの帰る場所は、もうここなんだから。
 舞はささやいて、にっこり笑った。
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