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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第九章 再会

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再会(12)





    *

 平穏な夜が過ぎ、朝が来た。

 王は王妃の脱出にまだ気づいていないのか、それとも、追う気がないのか――どちらにせよ周囲はとても静かだ。追手も、かかっていないらしい。

 朝ごはんが済むと、また馬車に戻った。地下街で調達したというこの馬車は、流れ者ご用達にしては優美だった。そればかりかとても居心地がよく、貴族の令嬢が乗るものだと言われても信じられそうだった。地下街で手に入らないものはない、とフェリスタが言っていたが、それは本当らしい。

 王妃は旅の同行者としてはとても素晴らしい人だった。それは今日、初めて知った。昨日は舞が手紙を書いていたから、邪魔にならないようにしていてくれたのだろう。舞の手が空いたとわかってからは、さまざまなきっかけをとらえては、いろいろな話をしてくれた。話し方はうるさすぎず、声は軽妙で優しく、話題は豊富で、全く退屈しなかった。

 ヴェガスタが、以前、言っていた。王妃は各地のお伽話や笑い話、恋の話、そういう他愛もないお話が何より好きで、フィガスタが、諜報のかたわら、そういう話を集めて王妃に聞かせるのが常だった、と。舞は王妃の話に聞き入りながら、王妃の今話してくれている物語の中に、アルガスが集めたものもあるのだろうか、と、ぼんやり考えた。

 風は少し強かったが、天気はとても良かった。窓のすぐそばをフェリスタが進んでいた。その少し前にはニコルがいた。馬にもだいぶ慣れたらしく、その姿勢には揺るぎも力みもなくなっていた。馬車の速度に合わせて進むのはだいぶ楽らしく、表情も明るかった。舞の視線に気づいて、ニコルはにこっと笑った。舞がつられて笑うと、嬉しそうに前を向いた。

「あのニコルという子は、流れ者なの?」

 王妃が訊ね、舞はうなずいた。

「そうです。ウルクディアの出身で、兵見習いをしていた時に、黒髪の娘を捕らえるのを拒んで焼いたんだそうです。つい最近」
「まあそう。骨があるのね」
「でもご家族は、」舞は声を低めた。「肩身が狭いようです。ニコルもどうやら、追放されたみたいですし、王が交代しても、ニコルが元のように暮らすにはどうしたらいいのか。難しいものですね。ご家族には、エスメラルダに来ていただくよう、伝えては来たんですが」

 ――エスメラルダに行きたい。

 またシンディの声が聞こえて、舞は一瞬、目を伏せた。事あるごとにシンディのことを思い出す。

「……お母さんが、とっても料理の上手な方で――」

 すぐに話を戻そうとしたが、王妃にはわかってしまったらしかった。
 彼女は舞を覗き込んで、一瞬、悲しげな顔をした。
 舞が言葉を切ると、静かに問われた。

「少し、言い訳をしてもいいかしら」
「……言い訳、ですか」
「言い訳というか。身の上話というか。ああ、ご存じないかしら――母が。アスタ=ラクウェラが、亡くなりました」
「え……」

 王妃は哀しそうに、微笑んだ。

「病気でね。風邪をこじらせて、肺をやられてしまったそうなの。わたくしが知ったのもついこないだだけれど、亡くなって、そうね、もうひと月くらい経つのかしら」
「アスタ、様が?」

 そんな、ばかな。
 だって、会ったのはほんのふた月ほど前だ。フィガスタとヴェガスタを『説得』してくれた。あの静かな、でも誇らしげな凱歌は、まだ良く覚えている。あの時は元気だった。すごく。なのに。

「ああ見えて、もう高齢だったから。――人の死は、ただでさえ……この世にこんなに、溢れているのにね」

 アンヌは微笑んだ。そして窓の外をちらりと見た。フェリスタの姿はもう見えなかった。ニコルも少し先にいる。話の聞こえない場所に。流れ者という人たちは、本当に、気配りに長けた人たちだ。ニコルも最近学びつつあるらしい。

「母は厳しい人だった」アンヌは静かに続けた。「本当に、――厳しい人だった。わたくしはね、姫、物心付いて以来、一度も、あの人に褒められたことがないの」

 まさか、と思う。アンヌは舞の目を見て、頷いた。

「本当よ。一度もないの。わたくしは、本当に、母に褒められたくて……認められたくて、たまらなかったわ。まだ幼いうちは……思い出すと自分が可哀想になる。ただ、良くやったわね、偉いわ、と言われたいばかりに、さまざまな努力をしたわ。どの学問でもより好みせずに努力した。お裁縫も、踊りも歌も、お作法も、全てにおいて……怠けることもなく、嫌気がさしてほうり出すこともなく、毎日毎日礼儀正しく、自分のしたいことを探すこともなく。ただお母様に、褒められたいばかりに。彼女の望むような令嬢になれた暁には、お母様はわたくしを抱き締めて、誇りに思うって、言ってくれると信じていたわ。……でもね」

 アンヌは、哀しげに微笑んだ。

「わたくしは十五になる頃に悟ったの。どんなに努力をしても、母の望むような人間になれはしないって」

 舞は口を挟まなかった。王妃は完璧なお方だ、とビアンカは言っていた。国民の全てが王妃を慕っていると、暴君エリオットの治世がそれでもこれほど長く続いたのは、第一将軍と、何より王妃のお陰だと、国民全員が思っていると、言うのは簡単だ。アスタの言動の端々からも、娘を誇りに思う気持ちが感じられた。それは真実だ。けれど。

 王妃はきっと信じない。そんな気がする。

「たとえ母の望むような人間になれたとしたって」王妃は囁いた。「それでも母は満足しないって、悟ったの」
「……そうですか」
「そうなの。わたくしはだから、十五の頃から、自分の好きにしようと思ったわ。もう母の称賛を得ようとは思うまい。その時から自分の頭で考えた。自分に何ができるかを。それでひょんなことから知り合ったヴィードを……ヴィード=グウェリン。ご存じでしょう。今あなたのそばにいる、アルガス=グウェリンの養父よ。彼はアルガスとは全く違って、乱暴で粗野で、飲んだくれで、まあ……ろくでなしだったわ」

「そ、そうなんですか?」

「まあ、それでも、筋の通った男ではあった。その後ヒル兄様……ヒルヴェリン=ラインスタークと出会ったこともあって、アルガスを拾った頃には、だいぶましになっていたんじゃないかしら。でもわたくしが出会った頃は、まさにろくでもない男だったわ。戸籍をまだ持っているのが不思議なくらいだった。焼いていないのが不思議なんじゃなくて、ふふ、酔ってどこかへ無くすとか、酒代の足しに売り飛ばすとか、そういうことをしそうな男だった。ご実家が彼を勘当したときね、それはわたくしのせいでもあったのだけれど、罪悪感を感じるどころか、却って驚いたほどだったわ。まだ勘当されていなかったのかって。出会ったのは十五の時。イルジットともうひとり、わたくしよりだいぶ小さな――ええ……少女と、一緒に、観劇に出かけたときにね、ヴィードに会ったの。彼は、ふふ、腹が減ったと言って、馬車を護衛していたふたりの兵をたたきのめしたの。あまりに鮮やかな腕で、怖いと思うより先に見とれたわ。それで、馬車のそばにうずくまってね、危害を加える気はないから食べ物をくれ、と言ったのよ。観劇の予定をやめて、近くの食堂へ連れて行って、たらふく食べさせてあげた。イルジットも、同行の少女も怒っていた、少女は特にね、あんな大人になっちゃいけないと思うって、後で憤慨してたわ。でもわたくしには面白かった。悪い男じゃないと思った。どうしようもない男だとも、思ったけれどね」

 それは確かにどうしようもないような。
 舞は違う意味で憤慨した。本当にアルガスの養父だろうか。

「それで、十六の時に再会したの。博打で身ぐるみはがされて、それはもう、無惨な有様だった。そこで借金を払ってあげてね、それをカタに脅したのよ。これから草原へ乗り込むから、護衛をしなさいってね」

 なんだか、不思議な気持ちだった。ヴィード=グウェリン。アルガスの養父だ。養父なのだから、当然血のつながりはないし、アルガスも言っていた。粗野で乱暴だった。酔っぱらうとさんざんな目に遭った、と。それでも、アルベルトの言葉――最期になっても揺らがなかった、あなたは養父にそっくりだ――を聞いていたからか、舞はヴィードという人物について、かなり違った想像を組み立てていた。

 それが王妃の口によってはっきりと『ろくでなし』という評価をされてしまった。
 勝手だとわかっているが、なんだか裏切られた気分だ。

 アンヌは舞の気持ちに気づいて、笑った。

「悪い男じゃなかったのよ。ただ単に、生活能力というものが、全くなかったんだと思う。それから彼の剣の腕は、本当に、なんというのかしら……褒めているのよ、わかって頂戴。獣のような……多分彼にも操縦できないほどの、ものだったんじゃないかしら。しかるべき場所、その才能を存分に使える場所さえ与えられれば、彼はすさまじかったわ。でも、平和な場所では、ただその力を、持て余していたんだと思うの。彼の不幸は、その力を認めてもらえる家に生まれなかったこと。神官の家ですからね、剣の腕よりも素養の強さを重視されたの、彼は、自分を出来損ないだと信じて育った。あれほどの才能をもちながら――本当に、不幸なことだと思うわ」

 確かに不幸なことだと、舞は思った。王妃は優しく微笑んだ。懐かしむような笑顔だった。

「……その後第一将軍と出会って、将軍は彼にすぐ、あの頃一番荒れていた南方の辺境を平定するのを任せた。そこでは本当に、見事な働きをしたそうだから、ヒル兄様もきっとすぐ分かったのね、彼がただ、居場所を求めていた、力を持て余していただけだ、ということに。
 ……話を戻すわね。それでわたくしは、ヴィードともうひとり、護衛をつれて、草原へ乗り込んだ。今思えば自棄になっていたのだと思う。お母様から教えられた手管を使わずに自分に出来ることは何かって、いつも、なんだか、必死になっていたようだわ。ふふ――やっぱり子どもだったわ、わたくしは。お母様の呪いから逃れようとあがきながら、それでも、お母様の敷いた道からは、出られなかったのだから。
 その後もいくつか冒険をした。ヴィードともうひとりと一緒にね。イェルディア湾の海賊を捕まえて改心させてみたり、まあ……人が聞いたら呆れるようなことをいくつかやって……そしてわたくしは、王妃になったの」

 王妃。ちくりと、胸が痛む。
 エリオット=アナカルシス。舞にとって何よりも憎い仇であり、あの可憐なシルヴィアさえをも手にかけた。
 目の前にいる女性は、あの男の、妻なのだ。

 アンヌは舞の内心には気づかぬ風に、優しい声で先を続けた。

「しばらくして、レスティスに出会った。彼女は愛らしくて美しくて、とても自由だった。わたくしは彼女のようになりたかったのだと初めて気づいた。何も考えず、何にも縛られず、ただ自分の興味の赴くままに行動している彼女は、なんと愛らしかったことかしら。王が彼女に夢中になった気持ちが良くわかったわ。国庫を傾けるほどのお金を注ぎ込む気になったのも、当然だと思ったわ。でも――彼女のために国が傾きそうになったとき、そこで、わたくしは、初めて――母がわたくしを褒める言葉を聞いたの。間接的にね。遠回しに。母は誰か他の者に向かって、レスティスがもし自分の子だったなら、エルギンのために、あの女をこの手で、殺してやるところだわって、言ったの。わたくしはそれを聞いて、ああ、ではまだ生きているわたくしは、レスティスよりはましなのだわって、思ったのよ」

 言いかねない、と舞は思った。
 確かに、アスタならば、それくらいのことは言いそうだ。
 そして幼い頃のことを思い出した。お母さんは褒め上手だった。舞、良くできたね。舞、上手だね、という言葉を、毎日毎日聞いていた。舞はお母さんと一緒に料理をするのが好きだった。かなり小さい頃から包丁も使っていたようだ。みそ汁だって自分で作れた。お母さんは舞の隣で、上手に舞を励ましてくれた。そうそう、良くできたね。あら、いいお味だね、上手だね。あまりに慣れすぎて、考えたこともなかった。もしあの優しい言葉が、ひとつも、お母さんの口から出なかったなら?
 そしてローラもそうだ。ローラもいつも、さりげなく舞の手助けをしながら、上手に褒めて、励まして、優しく導いてくれていた。

「わたくしは、たったそれだけの言葉でも、本当に嬉しかったの。わたくしがああなりたいと思った可愛らしい女性よりも、今のこの、わたくしのほうが、母には望ましいのだと。わかって、救われた、気がした。――それなのに」

 それなのに。そうだ。それなのに、だ。
 この人は、きっと、知ってしまったのだ。

 腑に落ちた。エルギンでさえ知らなかった、アスタとレスティス妃と、ごくわずかな召使いだけしか知らなかった秘密を。アスタがうっかり口を滑らせなかったら、舞も知るはずがなかった秘密。晩年のレスティス妃が、ほんの数年だけまともになったのは、アスタの教えのお陰だった。

「母はレスティスを導いた。かつてわたくしにしたように。母の薫陶を受けて、レスティスはみるみる変わっていった。母の望むように――理想の、貴婦人に。わたくしは」

 アンヌは囁いた。呻くように。

「……わたくしはそこで、初めて、自分の醜さを知った」
「そんな」
「今まで王に彼女が愛されていても、何とか平静を保って、いられたのは――、わたくしが内心で、レスティスを見下していたからなのだと。わたくしの高慢が、わたくしを支えていたのだと。本当に、悪夢のようだった。わたくしがそんな醜悪な心根の持ち主だったということが、何よりも衝撃で、苦しかった。わたくしが心のよりどころにしていたもの、全てを、レスティスが、奪っていく。王の愛も、母の関心も、わたくしの心根の正しさも、ひとつ、ひとつ。少しずつ、でも着実に。じりじりと、身体を灼かれるような日々だった」

 舞は王妃の手を握った。わかる、なんて、簡単に言ってしまっては失礼だろう。本当にわかるとは思えない。けれど、想像することは出来た。あの船の上で、アスタの話を聞いたときでさえ、それはあまりにひどい、情がない、と、思った。
 アンヌは微笑んだ。静かに、そっと。

「だからわたくしは、気づかなかったのよ。気づいてあげられなかった……気づいてあげるべきだった。レスティスが毒を仰ぐ前に。そうまで、追い詰められる、前に」
「気づく……何に、ですか?」
「わたくしは本当に自分のことだけで精一杯で……レスティスに自分の居場所を奪われることを、恐れてばかりで……あの子がどんなに苦しんでいたか、気づいてあげられなかったの。あの子はわたくしと、同じ立場だったのに。母の……正しさをこの世に具現化したかのような、あの母に、教え導かれることの苦しさを――自分を否定され、母の求めるように、望むようにだけ、ふるまうことを要求されることが、どれほど息苦しく、辛い日々なのかと言うことを、わたくしだけが知っていたのに」

 母は極端なのだと、アンヌは言った。あの人は正しい。いつでも正しくて、自分の正しさを心の底から信じている。
 だから他の人も、そうあるべきだと、信じて疑わない。他人の弱さや愚かさを許さないし、人間として真っ当な情でさえ、正しさの前には何の意味もないのだと、言い放って躊躇わない。

「レスティスは追い詰められていった。今までの自分の“過ち”を何とか取りかえそうと母に縋った。幼い頃のわたくしにとって母がそうであったように、レスティスにとって、母は絶対だった。母が……母がレスティスに教えた。エルギンの地位を僅かでも向上させるために……必要な、ことを。ドレスや宝石をお金に換えて、エルヴェントラに託すこと。慈善事業をして、民たちの好意を、エルギンのために集めること。そして……自ら、毒を仰いで……エルギンの身の上に、民たちの同情を、集めることを」
「……」
「母はきっとできるのでしょう。王位継承権を持つ我が子のために、自ら毒を仰ぐことなど、母には……迷い、苦しみ、悩みはしても、その“正しい”道を選び取ることができる、それがアスタ=ラクウェラという人間なのよ。けれど……けれど、レスティスに、そこまでする必要があったのか。わたくしはそうは思えないの。
 気づいてあげるべきだった。母が何と言おうと、そんなに思い詰める必要はないのだと……教えてあげるべきだった。母は確かに正しいけれど、この世に存在する正しさは、それだけじゃない。もっと別の道を模索してもいい、って、教えて……あげれば……レスティスの支えがあれば、王も……あそこまで、堕ちずに、済んだのかも、知れない」

 唇が震えて、王妃は身震いをした。
 彼女が何かの覚悟を決めた、それが舞にはわかった。王妃は舞の手をそっと放して、座り直した。舞をまっすぐに見て、言った。

「ヒル兄様を、――ヒルヴェリン=ラインスターク第一将軍を、どうか責めないでください、【最後の娘】。王を見限らないように、彼に約束を強いたのはわたくしなの」

 舞は瞬きをした。ルーウェン=フレドリックの声が思い出された。将軍はおつらい仕事をお引き受けになりました――。

「親しくて、いらっしゃるんですね」
「ええ。イェーラ家とラインスターク家は、もともと仲がいいの。アイオリーナもシルヴィアも、わたくしの姪のようなものよ」

 それを聞いて、舞は、考えた。
 第一将軍、ヒルヴェリン=ラインスタークは、ヴィード=グウェリンと、親友同士という話だった。
 アンヌ王妃は、ヴィード=グウェリンと、もうひとりの護衛をつれて、草原へ乗り込んだ。
 アイオリーナは王妃の独身時代の紋章を知っていた。あの剣の存在を。

「草原の護衛のもうひとりは、第一将軍だったのですか?」

 訊ねると、アンヌは微笑んだ。

「そう考えるのが当然だわ。でも外れ。ヒル兄様には言えなかった。言ったら絶対に止められて、座敷牢にでも放り込まれるところだった。ヴィードの同行を取り付けられたのもただの幸運だった。莫大な借金を肩代わりするという僥倖を経て初めて可能になったのだもの。ふふ――もうひとりはね、ヴィードを見つけた賭場で出会ったの。立ち居ふるまいの、洗練された男だった。わたくしの計略を知って、何とか止めようとして、それが適わないと知ると同行を申し出た。何度突っぱねても駄目だった。連れて行かないなら第一将軍に知らせると、それからイェルディアの実家にも連絡するって脅されて、やむなく同行を許したのよ。
 彼はオットーと名乗った。普段の言葉遣いはもちろん、物腰も優雅で、どうして賭場なんかにいたんだろうって、本当に不思議だった。言葉遣いも丁寧で、指先には剣だこさえあったけれど全然荒れていなくて、これは貴族だな、とすぐにわかった。彼は――草原の民に包囲されて、連行されても、草原の民に少々、乱暴な扱いを受けても。わたくしが、自分が、殺されそうになっても、わたくしを見限らなかったわ。
 ――わかるかしら。それが、わたくしが今の王に、出会った、出来事だったのよ」

 舞は愕然とした。言葉が勝手に、口から零れ出た。

「エリオット、王、だったんですか……?」

「そう。昔は名君だったと、聞いたことがあるかしら。あの時はまだ王太子の身分だったけれど、賭場にいたのも、最下層の生活を知りたかったからだそう。売春宿だとか、賭場だとか、そういう場所に行ってみて、国民がどういう問題を抱えているかを、知りたかったのだそう。エルギン王子はあの頃の王に、よく似ていると思うわ。そうじゃなくて? 彼の噂もいろいろと聞いていてよ。あなた方が巡幸へ行っている間、若いお供をふたりだけ連れたエルギン王子そっくりの人物が、いろいろなところへ――大きな声では言えないような場所にさえ、出没したという噂をね」

「そう……ですね」

「王が変節したのはいつからなのか。もうはっきりとは覚えていないわ。初めはごくごく些細な齟齬だったと思うの。ルファ・ルダを攻めた時にはまともだった。信じられないでしょう? でも、あれは仕方のないことだった――アナカルシスの王として、やらなければ、ならないことだった。だからヒル兄様も、軍を出したのだから。
 ひいき目に考えて、そうね……あの出来事を決意したことで、歯車が狂いだしたのじゃないかと思うわ。世界を創ったとされる偉大な女神の懐を蹂躙することに対する、罪悪感。やらなければならないことだったとは言え、その罪の意識が彼を狂わせたと、わたくしは思いたい。だからずっと、ずっと、信じていたわ、いつか戻ると。いつか我に返ると。賭場で出会ったオットーが、ずっとわたくしを縛っていた。あのオットーが、そう簡単に狂うはずがない。今はただ、少し道を踏み外しているだけだって……。もう変わってしまった、別人になってしまったのだと、思いたかった。でも無理だった。どう見ても、いつ見ても、彼は、オットーと同じ目をしていた。
 命の危険があっても、王太子としての自分がここで死ぬかもしれないという瀬戸際にさえ、彼はわたくしを見限らなかった。だから――ヒル兄様は、話でしかそれを知らない。だから、お辛かったと思う。わたくしと約束したことを、本当に後悔したと思う。ティファ・ルダの時に、七年前に、既に、ヒル兄様はわたくしの前に膝をついて頼んだわ。どうかどうか、あの約束を解いてはもらえないかと。今はあの時とは事情が違う。王がもはや戻らないと、あなたも悟っていいはずだと。――責められるべきはわたくしなの。わたくしはヒル兄様を、自由にしてあげなかった。七年前ばかりでなく、黒髪の娘を集め始めたときにも――その罪をあなたにかぶせて、大義名分を得ようとした愚かさを見たときにも――シルヴィアが、姿を消したときでさえ」

 ――シルヴィアが。

 胸が痛んだ。シルヴィアは、あの気高い姫君は、一言さえも言わなかった、けれど。
 辛かったはずだ。苦しんだはずだ。自分が命を落としてさえ、第一将軍が王を見限らなかったと知ったとき、どんなに苦しかっただろう。

 けれどそれを言うことは、出来なかった。それをなじるべきは舞ではなく、アイオリーナだろう。舞はただ黙って、王妃の懺悔を聞いた。そう、それは、懺悔だった。許しを乞う、舞にだけではなく、この世の全ての人間に、たぶんそれは、神と呼ぶべきような存在に対する、魂を削るような告白だった。

 ウルクディアで、舞は悟った。アンヌはもしかしたら、王を愛しているのではないかと。信じられないけれど、でも、それは舞の記憶があるからかもしれない。王は昔は名君だった。そしてエルギンとカーディスの父親だ。元々は、それなりに、魅力のある人物のはずだ。だから見限らないのではないかと、気づいた。そしてそれは、正解だったわけだ。たぶん。

 王妃は、舞がティファ・ルダの生き残りであると知ったとき、手のひらを返すように牢に入れた。それはエリオット王を、王妃が本気で守ろうと考えている場合にだけ、考えられる行動だった。【最後の娘】の存在は許せても、【魔物の娘】の存在は許せなかった。エルギンに協力しているのが、王の非道の象徴であるティファ・ルダの生き残りだったなら、王が交代するときに、王はしかるべき代償を――命を、支払う必要があるからだ。

 そうだ。【アスタ】があったときには、王妃はエルギンの手を取ろうとした。王を交代させたときに、その命乞いをすることが出来る材料が、王妃にあったからだ。あの時ならば遠くの島にでも流すだけで済んだはずだ。【アスタ】を指揮していた王妃が、王の命乞いをすれば、エルギンもエスメラルダも、その声を無視することは出来なかった。

 けれど【アスタ】が喪われ、その材料を失ったとき。
 王妃にはもう、王と心中する道しか、きっと遺されていなかった。

「わたくしは――母のように、振る舞うことができなかった。道を誤って……その過ちを、取り返すこともできなかった。王妃として取るべき道を取らず、ただのひとりの女として、過ちを犯し続けてきたのです。……ヒル兄様を……あの高潔な人を道連れにしたわたくしの罪を、あなたに……あなたには……知っておいて、いただきたかった」

 アナカルシスというこの国よりも、かつて出会った、オットーという若者の方を、王妃は選んだ。これはたぶん、こういうことだったのだ。
 納得してしまったことを、頭のどこかで悔やんだ。王に同情し、守ろうとする存在は、舞にとって許せるはずのないものだった。そのはずだ。――けれど。
 納得してしまった。だからもう、この人を憎むことが、舞には出来ない。

「あなたは今はここにいてくださいます」

 舞は囁いた。王妃の手を再び握った。呻き声に聞こえるかもしれない、と自分で思った。

「エルギンには、新しい国には、あなたが必要です。エルギンは、中身だけでなく、姿も顔も、王にそっくりなんです。今は。アナカルシスの国民全てに慕われているあなたに、エルギンの戴冠を、支持していただかなくてはなりません」

 王妃は、頷いた。たぶん、エルギンの成長した姿のことも、きっと知っていたのだろう。

「……私には、あなたのお気持ちが、まだ良くわかりません。王を、あなたのために、赦す気にもなれません。でも今こうして、ここにいてくださるから……それだけでも私は、嬉しいです」

 この人はきっと、償いをしに来たのだと、それは理解した。

 ティファ・ルダの人たちを。大勢の国民を、【契約の民】を、彫師を、クロウディア伯爵を、ロギオン=ジルベルトを、黒髪の娘たちを、シルヴィアを。そしてたぶん、シンディも――。苦しめて殺した、王の代わりに。たぶん王の傍らにあって、王が狂っていくのを目の当たりにし続けた日々も、きっと、王の代わりに償い続けていたのだろうと、思う。

「優しい方ね」

 アンヌは舞の頬に触れて、微笑んだ。

「お人好しだわ。大丈夫なの、そんなに、人の言うことを簡単に真に受けて。心配になるわ。賭場に行ったらすぐに、身ぐるみはがされて路頭に迷うたちだわね」
「じゃああなたに、人生の乗り切り方を、教えていただかなくちゃ」

 言うとアンヌは笑った。泣いているような、笑顔だった。
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