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花の歌、剣の帰還 作者:天谷あきの

第八章 ウルクディア

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ウルクディア(14)

残酷な表現があります。特に、お食事中の方はご注意ください。
 ギーナ=レスタナはもう、本当に、完全に白旗を揚げていた。将軍の言うままに、アイオリーナの部屋につれて来た。ここへ来たときには、すぐに面会がかなうかどうかと心配したが、第一将軍がウルクディアの周囲を軍隊で取り囲んだために、抵抗など考えることもできなくなったのだろう。アイオリーナが流れ者に頼んで舞と自分の状況を知らせたことは、本当に無駄ではなかったのだと、舞は思った。そして考えた。将軍はアイオリーナを意に染まぬ場所から救い出すためにずいぶん思い切った手段に出たものだ。良く似た親子だ、と。

 ヒルヴェリン=ラインスターク第一将軍は、アイオリーナと舞を見ると、一瞬だけ、心底安堵した顔をした。それはラインディアの館で見たときと同様、ひどく優しい内面を覗かせる表情だった。けれど、彼はすぐにその表情を消した。無言でずかずかずかと入ってくると、アイオリーナの前に立った。ルディアスが相変わらず将軍を避けるように窓辺に避難した。

 将軍は、静かに言った。

「――アイオリーナ」
「お父様」

 アイオリーナは長椅子のわきに出て、ドレスの裾をつまんで膝を折った。

「ご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした」
「うむ」

 将軍の後ろから、ルーウェン=フレドリックがやってきていた。やはり黒づくめの旅装で、フレドリックは舞に頭を下げた。舞も無言で会釈をする。将軍はアイオリーナから目をもぎ放し、卓を回って舞のところへやってきた。目の前で膝をついて、頭を下げた。

「ご尽力に誠に感謝申し上げます」
「恐れ入ります」
「我が娘のためにお怪我をなさったとうかがいましたが」
「かすり傷です。ご心配なく」

 やりとりの間に、レノアとモリーとエニスが場所を空けていた。使っていた食器を下げ、モリーは慌てて新たな茶器と茶と菓子を用意するべくその場を下がった。モリーの残した車付きの台に、レノアとエニスが食器を下げ、卓の上を清めている。その場がきちんと整うと、レノアが一礼した。

「旦那様」
「せっかくだが、ウルクディアの椅子に座る気はない」

 将軍の声は冷たかった。後ろに控えていたレスタナが平伏した。将軍は立ち上がり、舞とアイオリーナを見比べた。

「我が娘の救い主にまで、窮屈な思いをさせて申し訳ない。どうか赦していただきたい」
「いえ――」
「しかしご無事で何よりであった。御身に何か不都合が降りかかったとしたならば、私はもはや顔を上げて表を歩けぬ。せかせて申し訳ないが、即刻外へ出ていただかねば。このような場所にこれ以上一刻たりとも留まるべきではない。わが娘を拐かした輩の懐になど!」

 どうかお慈悲を、と、レスタナの必死の目が、将軍の後ろで訴えている。舞はどうするべきか迷った。どうするのが一番いいのだろう。けれど何も言う必要はなかった。アイオリーナがドレスの陰で、そっと、舞の手を掴んだので。

「お父様。ウルクディアもわたくしの拉致に関わっていましたの?」
「そう思われる節はある」
「まあ――本当ですの、代表殿」
「とんでもない。滅相もない。ウルクディアは【最後の娘】の要請を受けるまで、事件が起こっていることすら存じませんでした」

 レスタナが心情のこもった声で言う。将軍は一瞬目配せをした。舞にではない、アイオリーナにだ。そしてレスタナを振り返った。

「【最後の娘】? いったい何の話か。ここにおられる令嬢は我が娘ふたりの親友であられる」
「は――」

 アイオリーナの手が再び舞の手をぎゅっと握った。

「そうですわ。妹が本当にお世話になった方なんです。ねえ、そうですわね、ルーウェン?」
「左様です」

 フレドリックまで頷いた。舞はまだ事態が良くわかっていなかったが、成り行きに任せることにした。レスタナもだ。

「は、申し訳ございません。それではわたくしの勘違いでございましょう」
「そのとおり。何か【最後の娘】がこの街に滞在した証拠となるものでも?」

 将軍に訊ねられて、レスタナは、懐から手紙を取り出した。

「エスメラルダのエルヴェントラより、【最後の娘】が到着するかも知れないとの知らせが」
「渡してくれ。――失礼」

 将軍は舞に目礼を投げて手紙を開いた。読んで、そして、苦笑した。ずっと怒っていた表情が少し和らいだ。

「これはこれは。成る程、確かに、【最後の娘】が兵を伴われずにどこかの街に滞在なされたとしたならば、これほどの恫喝を加えても不思議ではないな。だがこれは事実ではない、エルヴェントラの懸念は杞憂であった」
「恫喝」

 思わず呟いてしまった。エルヴェントラが、舞のために、ウルクディアを恫喝することがあるなんて。将軍は優しい目で舞を見た。

「【最後の娘】に手を出したらお前の都市の将来はないと思え、女神の御手がウルクディアを撫でることも二度とないだろう、ウルクディアばかりでなく周囲の街までそのために多大な不利益を被ることになるから心せよと、やんわりとではあるがはっきりと書いてある。もし今後【最後の娘】がこの街に訪れることがあったなら、代表も【最後の娘】にいかような要求もするまい。だが今現在は不要のことだ。ルーウェン、」
「はい」

 フレドリックは将軍から手紙を受け取ると煖炉へ行った。そしてその手紙を焼き捨てた。

「これで【最後の娘】がこの街へ来て、ウルクディアへ兵を要請したという、事実無根の噂をウルクディアが広め、エスメラルダへ代価を要求することもあるまい。【最後の娘】がウルクディアへ対し何らかの借りを作ったことも、尽力に対してその故郷や、まして高貴なその身を差し出す必要もないというわけだ。我が娘のご親友殿、娘を救うのに流れ者を雇われたとか。その報酬はいかほどであった」

 腑に落ちた。舞はまだ呆然としながらも、答えた。

「十二人に、ひとり、棒一本です。代表殿が、立て替えてくださいました」
「さようか。それでは代表殿に私からお返しするとしよう。ああ、何も言われるな。何もお返しできないのだからそれくらいはさせてもらわねばラインスタークの名が廃る」
「お父様。その内ひとり分は、この方が、支払う必要があるのだということでしたわ」

 アイオリーナが言い添えてくれた。将軍は頷いた。

「事情はわからぬがその分も払わせていただかねば。おや、何か言いたいことがおありのようだが、まだ荷物をお返ししていない故、あなたはまだ支払うべき金を持っておられぬ。ルーウェン」
「――はい」

 フレドリックは頷いて、足下に置いておいた荷物を開き、中からずしりと重い革袋を取りだした。革袋の中から棒を十二本、数えて、それをレスタナのところへ持って行った。

「お納めください」
「……は」
「あなたの荷物は外へ出てからお返しするぞ」

 将軍が笑みを含んで言い、舞は苦笑して、頭を下げた。

「恐れ入ります」
「なんの。さて――では用は済んだ。これ以上一刻たりともこのような場所へ留まる必要はない。アイオリーナ、マーセラの大神官が兵を挙げた」

 将軍の視線を受け止めて、アイオリーナは静かに、頷いた。

「……聞きました」
「陣中見舞いに行けば大神官もお喜びになるだろう。ルーウェンがそなたを連れて行く。馬車も用意した。親友殿と共にすぐ向かうがいい」

 舞はアイオリーナと、目を見合わせた。
 アイオリーナが一瞬で決意を固めたのがわかった。アイオリーナはもうずっと長いこと、この瞬間を覚悟していたに違いない。将軍がどのような立場を取るにせよ、アイオリーナが与するのはカーディスの側だと。父に背くことになっても、と言いたげに、彼女は舞の手をまた握った。

「お父様は……どうなさいます」

 掠れた声で訊ねた。舞も将軍を見つめた。
 将軍は頷いた。

「加勢せよとの命は下されておらぬ。私はそれどころではないのだ。すぐ動かせる兵だけ率いてウルクディアへ来、この街を包囲しておる。残りの兵も全てこの街へ向かっている。ウルクディアが我が娘の拉致に関わっていなかったという証拠を見つけるまで――だいぶ長いことかかると思うが――我が兵はこの街を包囲し続けなければならぬ」

 ――それは。
 舞は息を詰めた。

 カーディス王子がどちらに与するにしても、王を裏切ってエルギンの手を取ったとしても、将軍はこの街から兵を動かさないと、そう、とってもいいのだろうか。

「命が下されたら」

 アイオリーナの問いに、将軍は微笑んだ。少し、哀しげに。

「下されれば動かさざるを得まい。――下されれば、の、話だが」
「ありがとう……ございます」

 舞は呻いた。
 道が、拓けた。

 第一将軍はウルクディアを包囲したまま動かない。カーディス王子がエルギンに与しても、王が孤立し、退位が目前に迫っても、王のために兵を動かさない。命が下されてもその命は将軍へは届かない。ただひとつ残っていた大きな懸念が、今この瞬間に消えた。胸が詰まって、舞はあえぎそうになった。将軍は哀しそうな、でも優しい目で舞を見ていた。そして苦笑した。

「親友殿に礼を言われる筋合いはない。将来の婿殿がどのように動くかもわからぬし。彼は少々気迫が足りぬ、お前が選んだにしては。なあ、アイオリーナ」

 知っているのだと、それでわかった。
 アイオリーナは、泣き出しそうに顔を歪めた。でもそれは、一瞬だけのことだった。アイオリーナはすぐさま平静な顔を取り戻し、つんと顔を背けた。

「わたくしの夫になる方への悪口は、たとえお父様だとて許しません」
「それはすまなかった。取り消そう」
「外へ出ましょう。……ね、お父様。ヒリエッタ=ディスタのことですけれど。身柄はお任せくださるそうですわ」
「ありがたい。とにかく外へ。城門のすぐそばに天幕がある」
「ご案内致します」

 フレドリックが進み出た。舞はアイオリーナと一緒に、その後に続いた。
 まだ夢見心地で、足下がふわふわしていた。



     *



 薄暗い塔の中で、彼女は目を開いた。外が騒がしい。
 第一将軍が着いたと、あろうことかウルクディアを包囲していると、見張りが話しているのを、先程聞いてしまった。彼女は寝台に横たえていた体をそろそろと起こした。将軍が来てはすべて終わりだ。出来る限り時間を稼ぎたかったが、ここでもう限界のようだった。

 この部屋に入れられて、ひとりになるとすぐに吐き出した。それからもう三晩が過ぎたというのに、体調は一向に良くならなかった。それでもと、彼女は寝台の枕元、骨組みの隙間に隠しておいた、黒い鈴を取り出して微笑んだ。飲み込んでいたお陰でこれを手放さずに済んだ。クレインから手渡された時の高揚感を思い返せば、吐き気と倦怠感など取るに足らない。

「クレイン様……」

 鈴を抱き締めて、ヒリエッタは、陶然と呟いた。

 冷たくて、残酷で、美しい美しい存在。

 わたくしはおかしいのだろうと、ヒリエッタは考える。そう知るくらいの分別はある。けれども後悔などひとかけらも、ひとしずくも、浮かんではこない。何度やり直せるとしても、同じことをする。それは彼女にとって、既に事実だった。

 ――愛しい我が娘よ。

 クレインがそうアイオリーナのことを呼んだ。そしてあの娘のことも。あんな狂おしい表情を、ヒリエッタにはついぞ見せたことがない。そう思うと黒い暗い憎しみが胸の奥に渦を巻いた。それでもと、ヒリエッタは再び考える。クレインの役に立てるのは、クレインに必要なのは、あのふたりではなくて自分だ。

 もう三晩経った。
 下々の人間を喰らって、少しは回復しただろうか。

 ヒリエッタはそっと鈴を鳴らした。ちりん、という鈴の音は、ヒリエッタにはもはや天上の音楽のように聞こえる。

 空間が歪む。
 周囲がクレインの存在にたわみ、悲鳴を上げ、耐え切れずに裂けたのが、ヒリエッタにははっきり分かった。裂け目の向こうから、まだ獣の姿のままのクレインが覗いた。そして裂け目を広げて、首をヒリエッタに近づけた。ひとつしかない瞳が複雑な色を宿して、大理石の模様のように渦巻いた。

 クレインはヒリエッタから目をそらさないまま、こちら側にやって来た。彼の後ろできゅん、と音を立てて空間が閉じる。閉じてしまった、と、ヒリエッタは頭のどこかで考えた。閉じてしまっては、誰かが別の場所で鈴を鳴らすまで、自分の足で逃げるしかないのに。先程みた向こう側、クレインの今までいた場所は、どうやら王宮のようだった。あちらに連れて行ってくれれば済んだのに。

 でもヒリエッタは、それを指摘することはできなかった。
 クレインが、ひどく狂おしい、熱っぽいと言ってもいいような目で、自分を見ていたので。

 【最後の娘】を、そしてアイオリーナを、見ていたのとはまた違った熱っぽさだった。クレインの巨大な口が半開きになって、牙が覗いた。しゅううう、と音を立てた。彼はヒリエッタをつくづくと見、さらに吐息を漏らした。うっとりと見ほれている、と悟って、ヒリエッタは泣き出しそうになった。ああ、と、思った。ああ、わたくしのことを、こんな目で見てくださる日がくるなんて。

 許してあげよう、と思う。
 あの時、ヒリエッタをぞんざいに扱い、その目の前で、アイオリーナを愛しげに抱き締めたことを。
 あの時、ヒリエッタを押しのけて、【最後の娘】だけを攫おうとしたことを。

 感じた哀しみも悔しさも嫉妬もすべて消える。この熱っぽい目を見ただけで。

 クレインはいつも冷めていた。冷酷で残忍で、優しさなどかけらもなかった。ヒリエッタの体に触れ、ご褒美ですよ、と愛撫してくれている時にも、ヒリエッタを狂わせている時にも、クレインの目に感情の揺らぎは見えなかった。ヒリエッタが感じている甘美さなどに用はないと言いたげだった。ちっとも楽しくなさそうで、愉悦も官能も、否なんらかの感情も、興味をもすら、ヒリエッタにたいし、持っていないのは明らかだった。そうだ、【最後の娘】が憎いのは、すべて【アスタ】の夜のせいだった。ヒリエッタが待ち望んでいたあの甘美な時間にのこのこと現れた。のみならずクレインは、今までヒリエッタには一度も見せたことのない執着を、あの娘に見せた。ヒリエッタの目の前で。

 ――ああ……彼女が来ました。

 彼は、出て行こうとした。でも、恐れるように足を止めた。一体あの守りはなんなのだと、呟いたのが聞こえた。信じ難い強い守りだ。ああ、悔しい、あの娘が目の前にいるのに。

 手に入れたくてたまらないのに。

 どうしてと、言いたかった。どうしてわたくしのことはそんな目で見てくださらないのか。どうして。どうしてあの娘のことを、そんな熱っぽい目で見つめるのか。わたくしが目の前にいることも、忘れてしまったかのように。

 ――行きなさい。今彼女を手に入れるのは無理だ。行きなさい、踏み込まれてはまずい。

 行けと、言うのか。このわたくしに。
 この状態のわたくしに――

 屈辱だった。クレインはヒリエッタに何の思いやりも持っていないと思い知った。情事のさなかの女性は隠されてしかるべきではないか、それは、最低限の礼儀ではないか。王妃宮でヴェガスタはあの娘を上着に隠した。もちろんそれはヒリエッタに顔を見せないための方便だったと分かっている、でも、もし本当にお楽しみの真っ最中に誰かに踏み込まれたなら、ヴェガスタの行動の方が真っ当だ。潤んだ瞳、上気した頬、桜色に染まった肌のすべては、相手の男性によって注意深く隠されなければならないのに。他の誰にも見せたくないと思われるのが、本当なのに。どうでもよかったのだ、クレインには。ヒリエッタが乱れていても気にする必要などなかった。誰でもよかった。自分に協力する身分ある女性ならば誰でもよかった。ヒリエッタ=ディスタという存在の価値など、クレインにはなかったのだ。

 それが、今。

 クレインは性急な動きでヒリエッタを抱き締めた。獣のままなのでヒリエッタよりはるかに大きく、力も強く、ヒリエッタはあっけなく寝台の上に押し倒された。獣はしゅうしゅうと荒い息を漏らしながら、あの、静かで冷酷で涼やかな声に、紛れも無い情熱をにじませて、囁いた。

「少し見ない間に随分おいしそうになりましたね――」

 ――おいしそう?

 疑問は湧いた。でも、すぐに考えられなくなった。クレインが、爪の先で、ヒリエッタに着せられていた簡素なドレスを引き裂いた。コルセットも引きちぎられ、クレインの放つ冷気の前に、ヒリエッタの白い裸身がさらされた。いつもお願いしなければ手を触れてさえくれなかったのにと、組み敷かれることに対するかすかな恐怖と、圧倒的な歓喜に震えながらヒリエッタは思った。やめてと懇願してもやめてはくれないだろう。そう思うことがうれしかった。抗ってもやめないだろう、どんなに暴れても、この腕を放しはしないだろう。

 だから安心してヒリエッタはうっとりとした声を上げた。

「いや……」

 クレインの動きは止まらない。クレインが望んだことだからだと、ヒリエッタは思う。ご褒美や義務感のためではなく、クレインがこうしたいからだと、わたくしにたいして狂おしいまでの執着を抱いているからだと、確かめるために身をよじった。逃れるように。けれどクレインにヒリエッタを放す気はなく、簡単にひっくりかえされて、背に残るドレスを引きはがされた。背後から抱き締められる体勢になった。胸元に毛むくじゃらの腕が差し入れられ、鋭い爪が首元を撫でた。

「あ、待って、やめて……ください、」

 首筋に、背中に、クレインの冷たく柔らかな舌が触れた。いたるところを丹念になめられて力が抜ける。体が冷えていく。なんて冷たいんだろう。あまりに冷たくて陶然とする。このまま凍死できたなら、クレインと同じ存在になれるだろうか。人間の身分など問題ではない。存在そのものが人間より上位だ。クレインの目的が何なのか知っても、ヒリエッタは、王に伝える気はなかった。王よりもクレインの方が高貴だ。ルファルファのふたり娘よりもなお。この世にクレインほど高貴な存在はない。

 再び引っ繰り返された。今までにない乱暴さがクレインの必死さを示すようで胸が震えた。鋭い爪が、首もとから、胸を通って、腹部、更にその下まで、つうっと撫でていった。かすかな痛みが走る。長い舌が口から出て来て、今爪がたどった場所をゆっくりとなぞった。ヒリエッタは湧き上がった官能に身を震わせ、これから始まるだろう甘美な出来事への期待に潤み始めた瞳でクレインを見上げた。人型になってくれないだろうか、と思う。

 ヒリエッタは、クレインの外見は獣の姿の方が好きだ。人間である自分よりもはるか上位にある、力も魔力も感情も、存在そのものがはるか上位である存在だと、思い知らされるのは快感でさえあった。圧倒的な力の前にひざまずかされ、哀願させられ、屈服させられるのは屈辱的で、そして既に快楽だった。けれどやはり人の手の方が濃やかに動ける――

 首元に小さな、でも鋭い痛みが走った。それさえも甘美だった。思わず高い声を上げた。

「あ、」

「ああ……もう……」

 クレインの狂おしい声が耳元で聞こえる。ああ、と、ヒリエッタはあえいだ。ああ。

 ――幸せだ。

「おいしい」

 クレインはそう言い、ヒリエッタの首に立てた爪を引いた。ぶしゅ、と、血しぶきが上がった。クレインはヒリエッタの首を引き抜いて、差し上げ、吹き出した血を口に含んだ。それから首を投げ捨てて、白い体に覆いかぶさった。噴き出る血の勢いにか、それともいまだ残る生命の残滓にか、びくびく震える体に牙を立てる。引き裂く。噛みちぎる。おいしい、と、血と肉片を口の端からこぼしながら魔物は言った。おいしい。ああ、ああ、おいしい……




 しばらく後。

 体はすべて食べてしまった。頭もひと噛みで消えた。長い黒髪さえも美味だった。落ちている細かな肉片をひとつずつ拾い上げては飲み込み、周囲を見回し、たりない、と呻いた。もっとたべたい。もっと。

 おいしいものをもっと。
 こんなにおいしいものを、もっともっともっと。

 寝台の上におびただしい血が残っている。魔物はそこに覆いかぶさると、丹念になめ始めた。もっと、もっと、もっと、と、喉からうなり声を漏らしながら。
+注意+
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