パジャマ少女と俺
まるで時間が止まってるように俺の瞳はその姿を鮮明に捉えていた。
淡い色に、水玉があしらわれたシンプルなパジャマ。男女どちらにも片寄らず着る者を選ばないシンプルなパジャマの上下。
下は既に身に着け、脱いだ服がベンチの背もたれに掛けてある。そして、上はまだ着替え途中で片袖を通し終わったところだ。
月明かりの下でパジャマに隠されていない素肌の半分が晒されている。
眩しいくらいに白い肌。グラビアアイドルにも匹敵するクビレ。視線を上げると見える膨らみの片方はパジャマ越しでも形がハッキリと解るくらいに張り、もう片方は色形が完璧に解る。たった今袖を通した片手を天へと伸ばした姿のため、丸見えだ。
つまりは女性。俺は男性。赤の他人。
故意ではない。故意ではないが目撃してしまったことは事実であり、これから起こる未来は容易に予測できた。
俺と目があった少女は目を丸くし石像のように固まっていた状態から、ようやく脱したに要した時間は分からない。数秒かもしれないし、数十秒かもしれない。刹那の時間だったかも。
少女はハッとした表情をし、慌てて自分の身体を抱くように手で隠し、背中を向けた。やや乱雑に切りそろえられたセミロングの黒髪と肩の白さが幻想的だった。
俺はここでようやく身体を背けることができた。見取れていたなどという言い訳は通じないだろう。
背中を向け合った状態で少女の悲鳴を覚悟していたが、俺の耳に届いたのは、
「見ました?」
緊張して震えたか細い声。助けを呼ぶ声には到底足りない小さな声だった。
「…………すまん」
見てなかったことにする言葉は出なかった。声色、雰囲気から糾弾するようには思えなかったからだ。
「誰にも言わないでくれますか?」
懇願するような少し強い声に、俺は不思議に思った。むしろ、その言葉は俺の側が使う選択肢の一つじゃないか? 何故、少女が言うのか俺には理解ができなかった。
「それは言わないが……」
言い回したら俺は社会的に終わり、バイトもクビになり、人生が終わるかもしれない。
「ありがとうございます」
少女の安堵した声。俺は当初より気になっていた疑問を口にした。
「一つ聞いていいか?」
「はい?」
「なんで、公園なんかでパジャマに着替えてたんだ?」
これが俺と少女の不思議な出会いだ。
初秋の夜空には満月が煌々と輝いていた。
「私、夜はここにいるんです」
ベンチに座った少女は言った。パジャマに着替え終えた少女は、病院から抜け出して来たと言われたら信じるようなか弱い印象を受ける。
「いや、そうじゃなく」
ベンチから少し離れた位置に立つ俺は苦笑して言った。
少女は先ほどのことなど微塵も気にしてないような、澄んだ瞳で俺を見上げ小首を傾げた。
「何でここで着替えてたんだ?」
高校生くらいの少女が一人出歩くには遅い時間帯だが、別段気にすべきことではない。
「いつもはあそこで着替えてたんですけど」
と、少女が指さした先には公衆便所がある。狭い、汚い、臭い、の3Kを満たしたトイレを利用する者は、余程我慢が限界の人しかいないだろう。人が来ないという意味では着替えるには適しているかもしれないが……
「今日は月が綺麗だったんで。まん丸ですよ?」
顔を上げてにこやかに微笑む少女に釣られて俺も見上げてしまったが、聞きたいことはそこじゃない。だが、それよりも、
「着替えるなら人目に付かない場所でしたほうがいい。特にキミみたいな子は……危ないから」
「大丈夫ですよ。この時間は滅多に人は来ませんし、入り口からは茂みで見えませんし」
危機意識というものが欠落している。俺は頭痛がするように片手で頭を押さえる。
「現に俺に見られたんだが」
少女は「あ」とたった今気付いたかのような反応を見せ、
「そうでしたね。でも、言わないって約束してくれましたから」
頬を赤らめることもなく、少女の表情は以前微笑みを崩さない。痴女なのかとも一瞬頭を過ぎったが、ないだろうと振り払い、話を戻す。
「どうしてこんな公園で着替える必要があるんだ?」
「私、夜はここで寝てるんです」
僅かな間も挟まず答えた少女の言葉を理解するのに、数秒かかった。それでも納得はできない。今は初秋なのもあるが、こんな少女が何故。
「……ホームレスなの?」
躊躇いつつも俺は質問を重ねた。
少女は答えに迷うようにしばし小首を傾げ、
「えっと、家は近くにあるんですけど……夜しか来ませんし……それってそうなんでしょうか?」
「俺に聞かれてもな」
本当にここで寝るつもりなのかは分からないが、訳アリなのは少女の言いよどむ様子から察することはできる。
「家に居られない事情でもあるのか?」
あまり踏み入るべきではないと思ったが、少女を放っておくことはできない。
「……はい」
少女は重々しく頷いた。
俯いたまま沈黙が続く。これ以上のことを聞くのは止したほうがいいか。
「ここで寝るのは寒いんじゃないか?」
まだ日中は『暑い』が合う気温とはいえ、日が落ちると季節らしさを感じさせる肌寒さがある。
「それでしたら平気です。アレがありますし」
少女は土管の遊具を指さした。中に入って通り抜ける以外の遊び方を思い付かないが、俺はよく潜って遊んでた記憶がある。何が楽しかったかは今になって考えると不思議で仕方ない。
「あそこで寝るのかよ……」
雨風は凌げるがサイズは子供用だし、快適な寝床とは言い難い。出入り口の穴もあるし冬は凍死は免れないだろうな。
「慣れれば快適ですよ。住めば都……って言うんでしたっけ?」
「ハハ……」
屈託のない笑みで言うものだから、つい乾いた笑いが漏れた。この健気な少女に手を差し伸べてやりたいが、生憎俺は実家住まいだ。おまけに両親は、少女の気持ちを汲んでくれるような人ではない。事情を聞いて親へと連絡するだろう。
「どうしても家には戻りたくないのか?」
「……はい。私は……居ても迷惑みたいですから」
少女は少し潤んだ瞳になりながらも気丈に笑みは絶やさない。俺にはそれが痛々しかった。
俺は何も言えないまま、
「じゃあ、帰るよ」
「あ、はい。楽しかったです」
家に帰ることしかできなかった。
次の日。
バイトが休みだった俺は午前九時に家を出た。母親が珍しげに雨の心配をしていたが、空は晴れ渡っていた。
自転車を飛ばして着いた先は昨晩訪れた公園だ。
天気の良さも相成ってか、幽霊の集会所には最適とも思える昨夜と違い、人はまばらにはいた。
犬の散歩をしている恰幅のいい中年女性。ジョギングをしている若い男性。昨日少女と話したベンチには老人が座っている。まだ早いからかもしれないが子供の姿はなく、遊ぶ人のいない遊具は少々儚さを感じさせる。
俺はその中の一つである土管へと近づき、中を覗く。
「いないか」
ひとりごちて俺は嘆息する。安堵でもあるし、残念でもあった。土管の中は無機質な空洞でしかなかった。試しに入ってみたが、中は狭く俺の身体がはみ出る長さしかない。少女の身長ならば丁度よい長さだろう。
それから俺は街へと向かった。
時刻は九時。昨日より一時間ほど早く公園に着くと少女は既にいた。
「あ、こんばんは!」
ベンチに座っていた少女は俺に気付くと、立ち上がり頭を下げた。
俺は自転車から降りてを押しながら少女へと近寄る。少女の出で立ちはパジャマではなく、長袖のTシャツに紺のロングスカート。隣には大きめの鞄が置かれ、これだけ見て第三者が訳アリを思い浮かべる率は半々といったところか。
「今日もここで寝るのか?」
自転車を止め、俺は真っ先にそれを訊ねた。
「はい。そうですけど」
少女の反応はそれが当たり前といった様子で、あっさりとしている。
「天気予報だと夜中には降るとか言ってたが」
「大丈夫です。土管なら雨も防げますから」
俺は自転車のカゴから、来る途中に自販機で買った缶ジュースを二本取って、片方を少女に差し出すと、少女は目を丸くしきょとんした表情になり、そして困ったように、
「え、あ、私、お金持ってません」
「俺の奢りだからいらないよ」
「でも」
「遠慮しなくていい。昨日のお詫びでもあるから」
「お詫び?」
少女は何のことか知らないように小首を傾げる。トボケているのか、天然かは分からないが、わざわざ説明するのも恥ずかしいだろう。俺も少女も。
「とにかく遠慮はいらないから」
半ば押し付けるようにジュースを渡すと、少女はそれを両手で包むように持ち、じっとジュースを見つめた後、顔を上げて微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑みは缶ジュースよりも価値があると俺には思えた。
「朝はどこか行ってたのか?」
ジュースのプルタブを開け、少し気に掛かってたことを訊ねた。
「朝、ここに来たんですか?」
「あ、丁度散歩コースだったから」
日曜の朝は寝て過ごすことしかしてないのだが、ストーカーだと思われるかもしれないと不安になりつい嘘が出た。
「そうでしたか。朝は家に戻ってたんです、すみません」
と、少女は頭を下げる。俺は昨日少女が言っていたことを思いだし、
「家には居づらいんじゃなかったか?」
「あ……それは」
少女は言葉を切って言いよどむ。聞いてはいけない領域だったかもしれない。俺は別の話題に変えようと口を開こうとしたところ、少女が先に続けた。
「朝は、両親いないんです」
寂しげな表情を浮かべる少女。俺は黙って続きを待つ。止めることもできたが少しでも事情を知っておきたかった。
「なので、その間に家事をしてるんです」
「いつも?」
「はい。毎日です」
「学校は行ってるのか?」
少女は小さく首を振った。俺が気まずい顔をしていたのに気付いたのか、少女は「気にしないでください」と笑いかけて、
「私、頭悪いですから。行けないのは仕方ないです。きっと受けても落ちてました」
それって受けてないってことか。恐らくは高校受験だ。選択の自由はあるが、事情がない限りは受けるものだとは思う。
「だから家事を?」
「私はそれしかできないので」
少女の声は哀しげだった。
それ以上俺は質問を重ねることはせず、話題を変えた。他愛ない会話だったが、少女は微笑みを絶やさずに聞いてくれた。
「今日もここで寝るのか?」
話題が止まり、昨日少女と会った時間になって俺はベンチから立ち上がって聞いた。
「はい」
「風邪引かないようにな」
俺は自転車に空き缶を二つ入れて、ストッパーを外す。
「大丈夫です。慣れてますから」
「そうか」
自転車押して公園を出ようとすると少女が、
「ジュース、ありがとうございました。美味しかったです」
振り返ると少女は柔らかい笑みを浮かべて立っている。
「また来る」
俺はそう一言だけ告げて公園を出た。
それから、俺はバイト帰りには公園に寄るのが日課になった。
そして毎日、少女の姿はあった。22時にはパジャマに着替えるらしく、タイミング悪くまた現場に遭遇することがあり、俺はキツく場所を選ぶように言っておいた。
話をしていく中で俺は少しずつではあるが、少女の事情を知った。
中二から不登校になったこと。
両親が不仲で父親は滅多に帰宅しないこと。その原因が自分だということ。違うと俺が言っても頑なだった。
母親に嫌われてるから、最近になって夜はここに来ているということ。
俺はある言葉が浮かんではいたが、口に出すことはしなかった。少女は両親を憎んではいないし、自分を責めていたからだ。
どれを話しても最後には「私が悪いから」と哀しげに笑う。言ったとしても否定して、またそう言うだろう。俺はそれを聞きたくはなかった。
少女と出会ってから二週間が過ぎた。
いつもの時間、いつもの場所と呼べるくらいにお馴染みになったベンチにやってきて、既にパジャマに着替え終えていた少女と挨拶を交わし、早々に切り出した。
「…お、俺の部屋に来ないか?」
緊張のせいか俺の声は上擦っていた。
少女の返事はすぐには来なかった。当たり前だろう、最悪嫌われるかもしれない。
俺は黙ったまま少女を見据えていた。葉を小さく揺らす夜風が、冷たさを増してきている。
「え?」
時間が止まったかのように固まっていた少女は、コトリと小首を傾げた。
俺は変な風に思われないよう、言葉を選びながら言った。
「これから寒くなってくるし、いつまでもここで夜を明かすわけにはいかないだろうし……それに家には居辛いんだろ?」
「はい」弱々しく少女は頷く。
「俺、最近一人暮らしを始めたから、誰にも迷惑掛からないし。俺の部屋に来ないか?」
「でも、貴方に迷惑が掛かってしまいます」
「俺は全然迷惑じゃないよ」
少女は俯いて黙った。夜風がさらさらと身を撫でて体温を奪う。
「私は、貴方に迷惑は掛けたくないです」
もう一度繰り返すように言う少女に、俺は怒鳴り気味に言う。
「だから迷惑じゃないって。むしろ、ここにずっと居られる方が迷惑だ」
「どうしてですか?」
純粋な目で聞いてこられ、俺は言葉に詰まった。……どうしてだろうな。
「冬は、どうするつもりなんだ?」
質問を逸らすように俺は返した。
「分かりません」
少女は首を振る。
「家は?」
「居たくは、ないです」
「他に行くあては?」
「ないです」
「ここだと冬は死ぬかもしれないんだぞ」
「それもいいかもしれませんね」
少女はそう言って笑みをこぼす。
「それが迷惑なんだよ!」
思わず俺は叫んでいた。少女は目を白黒させて俺を見ている。
「自分を責めて、死んでもいいかなんて言わないでくれ。迷惑だ」
「私が死んでも貴方には関係ないです」
少女は目尻に涙を溜めながらも、はっきりと俺の目を見て返す。
「関係ある。俺は死んでほしくない」
「どうしてですか?」
俺は答えに迷った。そりゃ、放って置いたら死んでしまうかもしれない人間を放っておくのは夢見が悪くなるが、それを理由としていいのは世の中のそういう人を全員救う覚悟がある奴だけだ。
今はただ目の前にいる少女をこのままにしておきたくないだけ。自分勝手な理由だが、それしかない。
そして、見捨てられない理由。それは。
俺は少女をじっと見据えて、意を決して口にする。
「好きだから」
「……本当にいいんですか?」
「ああ、構わない」
自室への帰り道。少女は少し離れて着いてきている。
告白は上手く伝わらなかったが、必死な気持ちは伝わり、少女は来てくれることとなった。……当然、ただ寝場所を提供するだけのつもりだ。
「あのさ、一つ聞いていいか?」
「なんですか?」
「どうしていつもパジャマに着替えているんだ?」
少女は不思議そうな表情をしてこう答えた。
「寝るときはパジャマに着替えるんじゃないんですか?」
当たり前のようにいう澄んだ瞳の少女に俺の口元がゆるんだ。
「ああ。そうだな」
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