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短編シリーズ

みそぎのゆき

作者: だいふく

 私はそこにいた。

 何の理由も目的もわからず、気が付いたら、ただそこに立っていた。唯一あるのは自分が何者であるか分かりそうで分からない、そんなもどかしさだけ。

 記憶の始まりが存在としての誕生だと言うのならば、まさに私は生まれたての小鹿であった。だというのに不思議と知識はあって、今自分がどこにいるのかもなんとなく理解できた。

 数年間毎日眺めてきたような、そうでないような光景。それは生まれたての私には珍妙な感覚でしかなかった。

 辺りはうっすらと白くて、その中にいる私は、まるで妖精にでもなったような気分だった。

 空を見上げて初めて、光が差していないことに気が付いた。

 幾重もの雲に覆われた空。私の立っている地上とは対照的に、禍々しさをたたえていた。


 静かに、雪が降り始めた。

 白い雪は、誕生を祝福していた。


     ***


 空は、一筋の光も通さないと言わんばかりの雲に覆われていた。しんしんと雪が降っている。この地域にしては珍しい、重々しい雪であった。

 雪の量は葉の上や車のボンネットの上に積もる程度でしかない。せいぜい、冷たい土の上に少し積もるのが関の山だ。しかしそれでも、年にそう何度も見られない景色である。下校中の小学生たちは車の上や葉っぱの上から雪をかき集め、雪玉を投げ合う。


 僕は少し湿ったアスファルトの上を歩いていた。踏み締める度、冷たさが足から身体全身に流れ込んでくるかのようで、歩きにくい。最低気温は、朝の天気予報では氷点下二度だと言っていたが、今はそれ以上に低いのではないだろうか。ブレザーの中に着たセーターすらも貫いて肌に突き刺さる寒さに身を震わせていた。

 手袋をした手のひらを口もとに当て、はぁ、と息を吹きかける。繊維を通してじんわりと暖かさが広がる。しかし、それは身体の芯まで暖めることは不可能だった。


 いつも通る公園の前に差し掛かった。ちょっとした広場と、遊具やベンチが設置されている場所に分かれているこの公園は、毎日のように学校の終わった子供が遊んでいる。広場のほうはちょっとした球技が出来る程度にはスペースがある。いつも、やんちゃそうな小学生がそこでサッカーをしている。

 今日は違和感があった。

 誰もいなかった。

 滅多にない雪が積もっているのに、誰も公園の中で遊んでいなかった。それは考えようによっては、別に何もおかしいことではない。今日は寒いのだから、子供が外で遊びたがらないだけかもしれない。広場のほうはここからでは見えないのだから、向こうには誰かいるかもしれない。なのに、僕はそのなんでもない違和感が気になった。

 公園に足を踏み入れる。

 ブランコの隣を抜け、滑り台を回避して、いつの間にか、広場の方へ吸い寄せられるように進んでいた。


 広場はうっすらと白く染まっていた。

 中心にたった一人。

 少女が佇んでいた。

 純白の中に同化するワンピースを着た少女。その美しさに、僕は息をすることすら忘れていたように思う。時間の流れすら感じることが出来なかった。今、この一瞬だけはここは別世界となっていた。その少女がこの世界に存在することに何の違和感もなく、ごく当たり前のことのようであった。

距離は離れていたし後姿しか分からないが、少女は僕と同じくらいの歳に見えた。薄く敷かれた白い世界に長い黒髪が映えていた。

僕は白銀の国に足を踏み入れた。

きゅっ、きゅっ。雪を踏み締める度に、世界が僕を拒絶する音が鳴る。何も考えず、僕は少女を目指していた。先程まで感じていた寒さはいつの間にかなくなっていた。

近付けば近付くほど、少女の美しさがより明確になる。

少女が振り向いた。目が合った。僕は思わず立ち止まった。

宝石のような瞳をしていた。輝いているとか、そういう陳腐なものではなく、まさにダイアモンドの如く美しかった。

その桃色の唇が動く。僕はただ見惚れていた。

「貴方、誰?」

 鈴の音のような声だった。少女の方から話しかけてくるとは思わなかった僕は驚きで返事をすることができなかった。

「貴方、誰?」

 もう一度聞かれて、ようやく我に返った。躊躇う理由もなかった。

「僕は、サトウ。君は、誰?」

 少女は少し考え込んだ。そして、さも当然のように言う。

「私は、分からない」

「分からない?」

「うん、私は自分の名前を知らない」

 それはどういうことなのか。記憶がないと言う意味? それとも名前が存在しないと言う意味? どちらなのか、僕には分からない。でもそれ以上追求しようとも思わなかった。

「じゃあ、君の名前はユキだ」

 そう言うと、少女は不思議そうに首を傾げた。

「なんで、ユキ?」

「雪が降っているから、ユキ」

 我ながら単純なネーミングだと思う。けど、白銀の国の妖精には、ぴったりの名前だと思った。

「そう……ユキ……」

 少女は繰り返し呟いて、それから僕の目を見た。

「名前くれて、ありがとう」

 嬉しさとは違う、何か満たされるような気分だった。

 ふと、僕はここに長い時間いてはいけないような気がした。ここは、本来僕がいていいような世界ではないのだ。

「そろそろ帰るよ」

「そう、さよなら」

「うん、さよなら」

 互いに別れを告げて、僕はユキに背を向けた。振り向くことはせず、もと来た道を引き返した。ユキはきっとここにずっといるのだろうな、と思った。


 いつの間にか、雪は止んでいた。

 重苦しい雲の空だった。


     ***


 始業のチャイムが鳴って、それと同時に担任の杜山先生が教室に入ってきた。先生は出欠を確認し、諸連絡をしている。僕はそれを窓際後ろから二列目の席で聞いていた。

「よし、じゃあ今日も頑張れよ」

 そんなエールを残して先生は教室を出て行った。僕は右腕で頬杖をついて、窓の外を眺めていた。二階だが、教室の位置の都合でグラウンド全体を見渡せる。昨日の雪は解け残ったままで、水はけのいいはずの土はところどころぬかるんでいた。野球部やサッカー部は練習が出来ないだろう。僕には関係のない、どうでもいいことだった。




 六限目の授業は退屈だった。

 教科書の内容をなぞるだけで、それ以上のことは決してしない。この数学教師の授業はただそれだけのワンパターンなもので、面白みなど皆無だった。いや、そもそも僕にはこの高校生活自体が退屈極まりないものだ。そういう意味では毎日が拷問のようであった。

 誰かと関わろうと思ったことはない。僕が近寄り難い雰囲気を出しているのもある。しかしそれ以上に、僕は他と関わらないことに積極的だ。僕はそもそも関わってはいけない種類の人間だから、最低限の人間関係すら構築していない。それで困ったことはさほどないので、あまり気にはしていなかった。

 教壇に立った少し前髪の薄い教師が、延々と教科書の例題を説明している。この教師はノート提出を求めないので、僕は板書を写すのを止めて、窓の外に目をやった。


 雪が、降り始めていた。

 相変わらずの曇天だった。


     ***


 純白の雪は昨日と同じで重苦しさがあった。

 帰路はいつもと同じであったが、その雪が、全く違った雰囲気を醸し出していた。少し先のほうで昨日と同じように、子供たちが雪玉を作って投げ合っている。昨日と同じ光景だった。

 息を吐くと、それは真白で、氷に一人閉じ込められたような気分になった。

 公園の前を通る。

 昨日と同じ違和感があった。

 雪を被った誰もいない公園は、僕を少しだけ期待させた。あの少女に会えるのではないだろうか――そう思った。僕はその可能性に負けて、公園へ入っていった。

 世界から隔離されたそこに入ると、真っ先に少女の姿が目に入った。

たった独り、純白の世界の少女がそこにはいた。昨日と同じ白銀の少女は空を見上げていた。

僕はその光景に嬉しさを感じながらも、心の中に、どこか言い知れぬ不安があった。ぽっかりと空いた穴のようなそれの正体は分からない。だけど、僕に引き返すという選択肢はなかった。

「ユキ」

 歩み寄って声を掛けると、少女が振り向いた。黒髪が揺れた。

「あ、サトウ」

 名前を覚えてくれていたことに安堵する。たぶんきっと、これが彼女と僕の細い糸のような繋がりなのだ。

「どうしたの?」

 ユキが尋ねてきた。

「君に、会いたかったから」

 そう言うと、ユキが笑った。

「変なの」

 ちょっとむっとした。

「なんで?」

「だって、もうサトウ、私に会ってる。ちょっと不思議」

確かにその通りだ。僕の目的は彼女に会うことだった。でもそれはもう達せられていて、僕はここにいる理由がない。考えてみれば、可笑しな話だった。

「帰ろうか?」

 聞くと、ユキは頭を振った。

「いいよ、いて。サトウ、あったかいから」

 悪い気分ではなかった。だから僕は、もう少しここに残ることにした。昨日より、この世界は僕を受け入れてくれていた。

「あったかいって、どういう意味?」

「分からない。けど、サトウは一緒にいるとあったかいよ」

 ユキは微笑んでそう言った。

「直接触れている訳でもないのに」

 僕は可笑しくて、少し笑った。雪のような少女も笑った。

 唐突に、きゅ、と雪が軋んだ。それはこの国が僕の存在を許す時間が過ぎ去ったことを示す合図だ。

「帰るね」

「うん」

 ユキの返事を聞いて、僕は立ち去ろうとした。するとユキが待って、と言って僕を引き止めた。

「また、来てくれる?」

 はにかむ彼女の言葉は透き通っていた。僕は首を縦に振った。

「うん、また明日来るよ」

 少女は嬉しそうに笑った。

 最後にそれを見て、僕は広場を出た。


 丁度雪が止んだ。

 空は昨日より少し明るい気がした。



     ***


 それから毎日、僕は学校の帰りにユキと会った。彼女が広場にいない日はなくて、ずっと他愛のない話をした。日が経つごとに、僕はあの世界に受け入れられていった。

 どうでもいい話は本当にどうでもいい話だった。食べ物は何が好きか、とか、趣味は何か。とかその程度の話題。でもそれだけで十分だった。僕にとって、ユキと話すことが重要だった。

 ユキは自分のことを話さなかった。何を聞いても「知らない」とか「分からない」ばかりだった。彼女が一体何なのかは分からないままだ。けれどもそれでいい気がした。

 彼女は触れると、解けて消えてしまいそうなくらい、儚いから。


     ***


 少年と会った。

 その少年は不思議だった。何もなかった私に名前をくれたし、毎日私に会いに来てくれた。少年と一緒にいるだけで、あたたかかった。

 少年は毎日私に何かを聞いてくれたけど、からっぽの私は何も答えられなかった。だけど少年は嬉しそうだった。私はそれが苦しかったけど、顔には出さなかった。きっと、これは、私の気持ちではないから。苦しいのは、少年なのだ。


 ああ、そうか。

 私は、この少年のために生まれたのだ。

 だから、私はこの景色を知っていた。だから、知識だけがあった。

 全てを悟った私は、白銀の世界に立ち尽くすしかなかった。

 けどそれは、仕方のないこと。

だって私は、私ではないのだから。


 きょうもまた、ゆきがふる。

 たゆたうわたしは、そらにとける。


     ***


 僕はその頃、元気な子供だった。雪が降れば一番に外に飛び出して遊ぶような、そんな子供。やんちゃと言えばやんちゃだっただろう。友達はたくさんいたし、親友と呼べるような存在もいたような気がする。

僕は母さんが好きだった。いってきます、と言うといってらっしゃい、と言ってくれる。ただいま、と言うとおかえり、と言ってくれる。ご飯もおいしかったし、よく怪我をしていた僕に、絆創膏を貼ってくれた。そしてなにより、とても優しかった。

僕は父さんが好きだった。よく遊びに連れて行ってくれたし、おもちゃも買ってくれた。弟や妹がいなかったから、家では父さんとばかり遊んでいた。そしてなにより、とても優しかった。

毎日が楽しかった。毎日が幸せだった。

けどそれは突然終わってしまった。


 毎朝僕より早く仕事に行っていた父さんが、いつの間にか僕よりも遅く家を出るようになった。そしてそのうち、父さんは仕事に行かなくなった。母さんは父さんを励ました。父さんも、最初のうちは頑張っていた。けど、だんだん父さんは壊れていった。

 あの優しい父さんはどこかへ行ってしまった。

 僕は毎日、顔をぶたれた。顔よりも、心が痛かった。父さんは母さんも殴っていた。僕は毎日、それを見ていた。



 そこには父さんと母さんがいた。

 父さんの手は母さんの首に伸びて、血管が浮き上がっていた。太い父さんの腕に、とても力が入っていた。

 ふと自分の手を見てみると、そこには母さんがいつも料理に使っている万能包丁が握られていた。これをあの背中に突き立てれば、どうなるのだろう。肉の代わりにあの身体を引き裂くと、どうなるのだろう。靄のかかった思考は、ただそれだけを考えていた。僕の心はどこかへ行ってしまった。

 何かに気付いたように父さんが僕のほうを振り向いた。僕の手を見て、父さんは立ちあがった。下敷きになっていた母さんはぴくりとも動かなかった。

 僕の首に父さんの手がかかった。頬に衝撃が走って、僕は思わず倒れこむ。どうしてか、手に持った包丁は磁石のように離れなかった。

 父さんが僕の上に乗ってきて、繰り返し殴った。痛みは不思議となかった。得体の知れない高揚感が沸きあがってきて、全身に染み渡ってゆく。その感覚はとても心地よかった。

 父さんの手は僕の首に巻きついていた。父さんの顔はとても怖かった。今まで見たこともない顔だった。

 ぶすり、と包丁が肉にめり込む感覚がした。

 父さんの腹には包丁が刺さっていた。

 誰がやったのだろう、と一瞬考えたが、包丁の柄を逆手に握っているのは僕の右手だった。

 生ぬるい液体が包丁を伝う。父さんの服に赤黒い染みが広がってゆく。父さんが呻き声をあげて、それと同時に僕を上から押さえつける力が緩んだ。僕は精一杯の力で大きな身体を押しのけた。思っていたよりも父さんの身体は軽くて、小さい僕の力でもなんとか押し倒せた。

 父さんはまだ息をしていたが、あまりの痛さに身動きが取れなかったのだろう。僕が立ち上がっても、父さんは床に倒れこんだまま苦しそうに声を漏らしていた。

 僕の身体が勝手に動いて、父さんの腹に刺さっている包丁に手を掛けた。父さんの手が僕の手首を掴んだが、殆ど力は入っていなかった。握った柄をぐっと押し込むと、また父さんが呻いた。僕は構わず包丁を引き抜いた。鮮血があふれ出し、床に血だまりができてゆく。


 窓の外を見ると、雪が降っていた。

 空は真っ暗で、この世界の残酷さを再現していた。


     ***


 嫌な夢を見た。

 手のひらを見ると、真っ赤に染まっている気がした。

 吐き気がして、朝から構わず吐いた。何年振りかの感覚に少し懐かしさを感じた。

 おばさんに学校を休むかどうか聞かれたが、僕は登校することにした。別に病気ではないのだから、休む理由もなかった。


 今日はあまり雪が降っていなかった。

 積もっていた雪も殆ど解けていて、小学生たちは、微かに葉っぱの上に残った雪をかき集めていた。

 公園も、もう既に雪は殆どなかった。一瞬不安になったが、今日も誰もいなかった。きっとユキはいると信じて、僕はゆっくりと中に入っていった。

 広場には不自然なくらい雪が残っていた。とはいえ、それでも昨日までと比べてかなり少ない。黄土色の混ざった白い地面。その真ん中にユキは立っていた。

「サトウ、来たんだ」

 今日は珍しく、ユキの方から声を掛けてきた。僕はうん、と相槌を打った。

「ちょっと、ユキに話したいことがあって」

 そう言うと、ユキは首を傾げた。

「話したいこと?」

「そう。僕の話」

 ユキの透明な瞳が僕を見つめた。好奇心旺盛な猫を目の前にしている気分になった。

「サトウの話、聞きたい。話して」

 ユキが自分からこうして何かを求めてくるというのは初めてだった。僕の中にあった悩みはかき消された。

「僕はさ、昔、罪を犯したんだ」

 ユキは何も答えない。だから僕は話を続けた。

「何歳のときかもう覚えてもいない――というより、忘れたかったんだと思う」

「忘れたかった?」

「うん。でも、忘れられなかった。僕は――――」

 言ってしまえばもう後戻りは出来ない。ユキにこの事実を打ち明けるということは、僕らの関係が崩壊することに繋がるかもしれない。けど僕は、もう止まることはなかった。


「――――父さんを、殺した」

言ったことに後悔はなかった。むしろ溜め込んでいたものを吐き出せて、清々しい気分だった。今朝の夢。それこそが、僕の犯した罪の形。償わなくてはならない過ちだ。

ユキはまるで、もう知っていた、というような素振りだった。むしろ僕よりもその事実を知っているような、そんな感じだった。僕は不思議と安心した。だから話を続けることにした。

「昔はさ、父さんも母さんも優しくて、僕は二人が大好きだった。でもある日、父さんがリストラされたんだ。それからだ、僕の家族がおかしくなったのは。父さんは僕や母さんに暴力を振るってさ、小さかったから僕はどうしようもなかったし、母さんも何も出来なかった」

 空から降る雪がその勢いを増した。けれどもそれは儚くて、触れるとすぐに解けて消えてしまう。

「そして父さんは母さんを殺した。僕は目の前でそれをじっと見ていた。父さんは僕も殺そうとしたんだけどね、そのとき持っていた包丁で、僕は父さんの腹を刺した」

「それが、サトウの罪?」

 尋ねるユキに、僕は頷いた。

「うん。今でもあの光景と感触だけは忘れられない。辛くて、苦しくて、忘れたいのに忘れられない」

 自分でもびっくりするくらいに、僕は自然に話していた。一人語りをするような気分で僕は話していた。

 ユキと目が合う。僕は視線を逸らさなかった。

「サトウはもう、忘れていいの」

「どうして」

「だって貴方の償いは、前を向いて生きることだから」

 白銀の少女はそう言った。

――違う、それは違う。僕は忘れてはならないのに、忘れてしまってはいけないのに。

なのに、そうして目の前の少女は、こんなことを言うのだろう。

言い返そうとして、それと同時に地面がきゅっと音をたてた。

「また、明日だね」

 ユキが言う。僕はそれに、頷くしかなかった。


 雪は、もう殆ど降っていなかった。

 空は薄暗く、闇を内包していた。


     ***


 学校で、僕はずっと昨日のことを考えていた。ユキの言葉の真意はなんだったのか、それがわからなかった。

当然そんな状態で授業に集中できるわけもなく、ただ机に座っているだけであった。

今日は、窓の外には視線をやらなかった。


「どうした、佐藤?」

 帰り際に声を掛けてきたのは杜山先生だった。赤ぶちの眼鏡はよく似合っていた。

「いえ、なんでもないです」

「そうか?」

 どうしてこの人は僕に声を掛けてきたのだろう……と考える。すると彼女は、意外なことを口にした。

「最近元気そうだったけど、昨日からちょっと変だったからな、お前。なんかあったら言えよー」

 女性らしからぬ口調でそんなことを言って先生は教室を出て行った。彼女は僕の異変に気付いていたのだと知った。ずっと僕のことを気に掛けていたのか、と思うと少し変な気分になった。僕からは全然先生とは関わろうとしなかったのに。

 今日も、ユキのところへ行こう。

 きっと今日が最後だろうな、となんとなく思った。

 今朝の天気予報では、明日からようやく晴れるそうだ。


 今日初めて窓の外を見ると、少しだけ雪が降っていた。


     ***


 僕はまた、広場にいた。

 もう雪は殆ど解けてなくなり、地面がすっかり顔を見せているところさえあった。ただ一箇所、まだ雪が解けていない場所があった。円状のそこには、少女が立っていた。

「ユキ」

 声を掛けると、少女は振り向いた。

「サトウ」

 名前を呼ばれると、身体が浮いたような不思議な気分になった。

「サトウ。お願い、聞いてくれる?」

「うん」

 ユキの真剣な眼差しを受け、僕は頷いた。答えはきっとこの先にある。

 ユキが僕に歩み寄る。ひんやりとした空気が全身を覆う。少女の芯から冷えきった手が僕の右手を掴んだ。

「ねえ、サトウ」

 その鈴のような声が心地よかった。このまま解けて消えてしまってもいいか、と思ってしまった。

「ユキ」

 彼女の名を呼ぶ。少女は頷く。そして言う。

「私を――――殺して」


 拒否は出来なかった。しようとも思わなかった。

 僕はただ頷いて、彼女の華奢な首に手を回した。透き通るように真っ白な肌の感触を感じながら、ゆっくりと力をいれてゆく。彼女の口から息が漏れる。

「んっ……」

 喘ぎにも似た声をあげながら、ユキは僕の頬を両の手のひらで触った。冷たい彼女の指の感触を感じながら、僕は更に指に力を込める。彼女の首に指が食い込んでゆくのがはっきりとわかる。

「ねぇ……サトウ……」

 ユキの今にも消え入りそうな声が聞こえる。僕は彼女の瞳を見た。美しかった。

「これで……貴方は……」

 その言葉を最後まで聞きたくなかった。それを聞いてしまえばもう終わってしまう気がした。僕は指に力を込めた。少女の美しい顔が、よりいっそう白くなる。

 少女の口が、微かに動いた。

「――――救われ……る」

 耳を澄ましてようやく聞こえる程度の声。それを僕が認識したと同時に、ユキの手が僕の頬から離れた。

力なく垂れ下がる腕。僕は少女の首から手を離し、その軽い身体を抱きしめた。冷たさとやわらかさを肌に感じた。

周りにあった雪は、不思議なことに消えてしまっていた。


空からは雪が降っていた。

雲間から差し込む光が眩しかった。


     ***


 今日はこの冬最後の雪が降ると、今朝の天気予報は言っていた。

 僕は授業中、ずっと窓の外を見ていた。けれども、雪は全然降らなかった。


 ホームルームが終わってから、杜山先生に声を掛けられた。

 最近変わったな、と言われた。

 確かに、自分でもそう思う。僕はこの頃、クラスメートと話すようになった。雪が降り続いていたひと月前に比べて、本当に変化したと思う。もうすぐ進級で、受験生になるので遊ぶことはできないが、周りと打ち解け始めたのはいいことだ、と先生は言っていた。そういえば、もうすぐ三年生は卒業だった。


 通学路を小学生の集団が横に広がって歩いている。ごめんね、と言って間を通って追い抜く。

 今日もすごく寒かった。息を吐くと白く染まり、少しわくわくした。マフラーに顔を埋めて、寒さをしのぐ。それすらも貫通してくる寒さはどうしようもなかった。

 いつも通る公園の前に差し掛かった。

 中を覗きこむと、今日は珍しく誰もいなかった。何かに引っ張られるように、僕は中へ入っていく。僕の足は広場へ向いていた。

 広場に入る。

 そこに、白いワンピースを着た少女が立っているような気がした。

「……ユキ」

 名前を呼んでも、誰も笑いかけてくれない。けれどそれが本来の光景だ。


 ――――サトウ。

 呼ばれた気がして振り返る。誰もいる筈がない。落胆して空を見上げた。


 雪が降り始めていた。

 やわらかく、あたたかいゆきが僕の頬に触れた。


Fin.

 いままで書いた中で一番長いのではないかと思える作品。本来ならもっと長くなるはずだったのですが、そちらは一万字書いた時点で諸事情あって話の大筋だけをこれに引き継いで没になりました。そちらではヒロインは作中で五回ほど死ぬ予定でした。

 作中に出てくる杜山先生は、身長高め(一六五センチ)、眼鏡、ポニテ、化学教師という設定です。本来ならこの人は話の根幹に関わる筈でした。


 とにかくまあ、完成したのでよしとします。

 次回作は長編ファンタジーがいいな、なんて。

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