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昇降機

作者: 山田さん

昇降機事故の中に堕胎、出産というキーワードを絡めたような作品です。

 その日おかあさまは、春物のお着物を揃えましょうと、私を従えて近辺の百貨店に向かわれました。

 百貨店は二つの階と地の階から成り立っております。

 昨今の風潮なのでしょうか、人の目を忍んで秘境に入り込むが如く、足や腰を折り曲げ、屈んだ構えでないと通過を許されないはいり口になっております。

 さて、おかあさまを先に、私は、屈んだ構え故に、ゆとり無く突き出されたおかあさまの臀部を眼前に、そろりそろりと百貨店のはいり口を通過いたしました。

 一の階をそのまま奥へと進みますと、階の半ば辺りに二台の昇降機が設けられております。

 左手の昇降機は一の階から二の階へ、右手の昇降機は二の階から一の階へ移る為と、それぞれに役割が定まっております。

 左手の昇降機の傍らには、操舵輪を思い起こさせる大きな輪と、それを操る屈強な殿方が、表情筋を渋面に整えて客人を出迎えております。

 百貨店が定めた衣服なのでしょうか、臍から上を鮮やかな葡萄色の半袖襯衣に、下を臙脂色の短袴と灰褐色の巻脚絆に包まれたその殿方は、大きな輪をくるりくるりと輪転させ、昇降機を一の階から二の階へと移し動かすお役目を担っておられます。

「さあさ、早速ですが、私どもを二の階へ持ち上げて下さいませ」と、おかあさまが用件を伝えると、殿方は渋面もそのままに、がらりがらりと昇降機の引き戸を開き、まずはおかあさま、そして私をと、鉄で囲まれた小部屋のような昇降機の中に導き入れて下さいました。

 葡萄色に包まれた大木の様な腕でもって、引き戸を思い切りよくがちゃんと閉められますと、その空間はおかあさまと私のみが幽閉された地下牢のようでもあり、固い鉄板で堅固に組み合わされた棺に迷い込んだようでもあり、それはそれは落ち着くことがないのです。

 天上に装置された排球大の照明器より発光される深紅の光線が、私の落ち着かぬ様をせせら笑うかのように照らし出します。

 私は慰めを請うように隣のおかあさまに顔を向けますと「何も面倒は御座いません。しばしの忍耐です」と、まるで滑らかな血の液で丁重に塗りたくったが如く、深紅色に染まったお顔に、おかあさまは微笑みを浮かべて下さいました。



「やいほー。やいほー。我らが輪転。いざ立ち向かわん万象真理」

 昇降機を操る殿方の力強いお唄が始まりました。

 ききき、という響きと共に空間の全部が前後左右に小さく揺さぶられます。

 おかあさまのお顔をちらりと伺いますと、先ほどまでの微笑みなどは跡形も無く、両のまなぶたをかっちりと閉じ、紅をさした上下の唇をきっと結び、気を引き締めているご様子がぴりぴりと伝わってまいります。

 前の月に都の百貨店で起きた悲惨極まりない事故を思い出されたのでしょう。

 常に手を入れて、よい状態を保持すべき、という至極当然の行状を怠ったが故に起こり生じた事故であったとのこと。

 万有引力に逆らうべく昇降機を上に上にと持ち上げるはずの綱が、その役目を無事に果たすことに嫌気が差したのかぷつりと断ち切られ、母体から切り離された胎児さながらに、万有引力の導くままに下に下にと堕ちていったのです。

 その百貨店の一の階に勤務しておられる、昇降機を操る殿方が事に気が付き、瞬く間に床に仰向けになったかと思うと、その体躯の上から半分を昇降機の通りとなっている筒の中まで迫り出させ、近くのもう一人の殿方に向かい「おおい、俺の足をしっかりと持っていておくれ」と頼んだのだそうです。

 堕ちてくる昇降機の底面を、その屈強な腕力と腹部及び背部の筋力でもって、押し留めようなどという、道理に逆らう行いに打って出たのですが、憐れ道理には勝てるはずはなく、底面は殿方の臍から上の体躯もろとも一の階をあっさりと通過、地の階の底にどーんと辿り着き、やっとのことで万有引力の呪縛から解放されたのでした。

 殿方の変わり果てた体躯は、煉瓦と煉瓦をひと所に定めておくための漆喰かと見紛うように、昇降機の底面と地の階の底の狭間に、隙間無く押し潰され埋まっていたかと思うと、一の階に取り残された臍から下の体躯からは、十二指腸、小腸、大腸が順序正しく地の階へとぴんと直ぐに伸び、その一本のぬめりとした淡紅色の表面に、赤い細かな血の管が絡まりつく様は、まるで昇降機と殿方とを結ぶ臍帯を思わせる程に、妙にしっくりとするありさまだったそうです。

「ああ、なんと美しき光景か」というのが、この殿方のお足を動かぬようにと、しっかりと抑え留めていらした、最も近い位置で事の始めから仕舞までを、夢見心地で見守っておられた、もう一人の殿方の、感嘆と共に漏らしたお言葉だったそうです。

「やいほー。やいほー。我らが輪転。いざ立ち向かわん万象真理」

 前後左右に小さく揺さぶられていた空間が、殿方のお唄に拍を併せるように、上に上にと引き寄せられる気配を伴ってまいりました。

 上に上にと引き寄せられる気配は、一つに連なっている様子ではなく、やっとこせと些か引き寄せられたかと思うと、そのようなそぶりはふいと失われ、前後左右の揺ればかりの静寂ののち、再び上に上に引き寄せられるという、秩序正しい反復なのです。

 殿方のお唄にこの上なく巧みに操られた、押しては返す波のような反復の恩恵により、深紅の光線に照らし出されたおかあさまと私は、ちょっとづつではあるものの、一の階を遠ざかり、万有引力なにするものぞと、二の階を目指して引き寄せられて行くのです。

「やいほー。やいほー。我らが輪転。いざ立ち向かわん万象真理」

 心成しか、お唄が遠ざかったように思えたその時でした。

 どうしたことでしょう、お唄がふぅっと私の耳に届かなくなりました。

 訪ねるべき上に上にの波が、それまでの実直な拍を無残に遮られたかのように、前後左右に揺れる波を最後に、訪ねて来なくなったのです。

 昇降機はおかあさまと私を、外に出られない囲みに残し留めたまま、前に、後ろに、右に、左にと、振子で丸を表すかのように揺れるのみなのです。

 その丸も一つのぽちに納まるかのように、活動の源を喪失しては、いよいよ万有引力の意のままに、網膜に映ることにさえ応じない、下に下にとぴんと張られた綱のような物で、ひと所に固められては、もはやその揺れ動く作業をすら、投げ捨ててしまったのです。



「おおい。痛いよう。痛いよう。物凄く痛いよう」お唄の代わりにあの殿方の悲痛な大声が聞こえてまいりました。

 足下から落ち着かない様子が騒騒と伝わってまいります。

 私は、今までに試したことがない程に、表情筋を気掛かりにと固めては、おかあさまのお顔をお伺いしますと、ちらりと見た所では、先ほどまでとは別段変化無く、まなぶたをかっちりと閉じ、上下の唇をきっと結んではおられるのですが、よくよく拝見いたしますと、幾粒もの汗が不揃いのままに、お顔のあちらこちらにあるのです。

 深紅の光線によって、光を浴びた汗は、まるでおかあさまのお顔から、幾粒もの血が滲み出ているようにも映ります。

 私は目の方向を動かすことも儘ならず、不意の邂逅に打たれたかのように、ただただじいっとおかあさまのお顔を、目を凝らして拝むことしか出来ないのです。

「おいおい。いかがなされました」何方かが、殿方にお声を掛けて下さったようです。

「裂けたのです。わたくしの大切なこの腕の筋が、ぷつりというおぞましい響きを伴い、裂けたのです」

「それはそれは困難なことでしょう。お医者にお連れいたしましょうか」

「痛いのです。物凄く痛いのですが、この場を離れることは出来ないのです。わたくしは今、支えております。この輪転を、まだまだ筋が裂けてはいないもう片方の腕で、支えております。両の腕が揃わぬと昇降機を持ち上げることは出来ないのです。せめてもと思い、もう片方の腕で、輪転がさかさまに転がらぬよう支えているのです」

「それでは、昇降機を操れる、他の殿方を呼んでまいりましょう。それまでは辛抱が肝心です」

 その何方かはそう言い残しますと、喘ぎ声を漏らす殿方を後に、昇降機を操れる他の殿方を捜しに向かったようでした。

「おおい。痛いよう。痛いよう。物凄く痛いよう」

 殿方の悲痛な大声が足元から響いてまいります。

 昇降機はもはや、上にはおろか、前後左右にも揺れはしないのです。

「駄目です。駄目です。もう片方の腕の筋も裂けます。痛いのです。とてもとても痛くて堪らないのです」

 おかあさまと私に申し訳を立てているのでしょうか。

 殿方の力の無いお声が聞こえてきたかと思うと、それまで微動だにしなかった昇降機が、くくくと、ほんの僅かではありますが、下に下にと引っ張られた気配を感じました。

 私は初めて落ち下るという感情に慄き始めました。

 思い出すのは、あの都での悲惨極まりない事故のことです。

 臍から綺麗にふたつに死に別れたあの殿方の体躯。

 下に下にぴんと直に伸びる腸。

 あの時の昇降機には、どれくらいの数のお方が乗っておられたのでしょうか。

 おかあさまと私のようにお二方だったのでしょうか。

 そのお方達はどのような心境だったのでしょうか。

 いえいえ、そもそも何方かが乗っておられたのでしょうか。

 ただの空の箱ではなかったのでしょうか。

 あのふたつに死に別れた殿方のお話だけが、面白おかしく伝えられているのみで、まさかその昇降機の中に人様が乗っていようなどとは、きっと何方もお気にはしなかったのでしょう。

 果たして、おかあさまと私のことを、お気になさる方がいらっしゃるでしょうか。

 腕の筋を裂きながらも、限りを尽くして昇降機をお守りした殿方の、それはそれは勇敢なお話のみが、美談として風に乗り、皆様のところに届くだけではないでしょうか。

「申し訳御座いません。申し訳御座いません。申し訳御座いません」

 もはや必死に申し訳を立てることで、己の気根を持ち堪えさせているかのような、殿方の悲痛な声が木霊しております。

 くくくと、再び下に引っ張られたようです。

 昇降機はそこで前後左右に少なく揺れると再び静寂を取り戻したのですが、今度はなにやら小刻みに、今までに覚えが無い揺れに見舞われています。

 私は縋るようにおかあさまに顔を向けますと、どうしたことでしょう、先ほど以上の汗にお顔はてかてかに濡れ、まなぶたをその周りがくしゃくしゃになる程に思い切り閉じ、歯をこれでもかと食いしばり、お手を血の気が失せるほどに握りしめ、ぶるぶると震えておられるのです。

 今までに覚えが無い揺れというのは、そんなおかあさまの震えが、外に出ることを許されないこの囲み全体に、伝わってくる揺れなのです。

 深紅に照らされたそんなおかあさまのお姿は、まるで地獄の焔の中、ひとむきにその高い熱に耐え忍んでいるようでもあり、あるいは、お体の内部から、必死に何かを搾り出しているようでもあり、自身の不安もそこそこに、どうしていいのやらと、私はただただ狼狽えるだけなのです。

 くくく、またひとつ、下に引っ張られたようです。



「やいほー。やいほー。我らが輪転。いざ立ち向かわん万象真理」

 あと少しで観念の覚悟を固めましょうとした矢先、先ほどとは同じではない殿方のお唄が聞こえてまいりました。

 それと供に昇降機は再び前後左右に揺れたかと思うと、上に上にと引っ張られる気配に包まれたのです。

 どうやら昇降機を操る新しい殿方が、腕の筋が裂けたしまった殿方と入れ替わったようです。

 昇降機は前のように、上に上に引き寄せられると、前後左右の揺ればかりの静寂に包まれ、再び上に上に引き寄せられていくのです。

 おかあさまに目を向けますと、襟の辺りまで汗で湿ってはおられるのですが、ぶるぶると震えることも無く、静かにまなぶたを閉じておられるのです。

 ごとん、という大きな響きと供に昇降機の揺れも収まりました。

「二の階到達。二の階到達。万象心理に我ら打ち克つ」

 がらりがらりと昇降機の引き戸が開かれますと、眩いばかりの光と供に、そこは薬品売場なのでしょうか、消毒剤の用な香気が昇降機の中まで漂ってまいりました。

 昇降機の中を照らし続けた、血の色のような深紅色の光が、外からの白色光に負けじと、自我を張るように外を照らす様は、消毒液のような香気と相まって、まるでたったの今、昇降機の患部を切開し、外科的処置を施すことを始めた、治療施設を思わせるのです。

 すると、おかあさまは何も仰らずに、すっと昇降機から外に出られますと、私の方にお顔をお向けになり、にこりと微笑むのです。

 百貨店の方々なのでしょうか、おかあさまの周りには、上も下も真っ白なお着物を着られた、十名程の殿方がおられます。

 目を凝らし、よくよく拝見してみますと、その中にはご婦人も混ざっておられるのですが、皆、にこやかなお顔をしておられるのです。

 その中のお一人が、不意に手をぱちりぱちりと叩き始めました。

 それを待っていたかのように、他の方々もぱちりぱちりと手を叩き始めるのです。

 激励や祝意に包まれたかのような、ぱちりぱちりの大合唱は、まるで「早くこちらに出ておいで」と仰っておられるように響きます。

 私はどのようにすれば良いのか、皆目見当が付かずにおりますと、にこやかなお顔のまま、おかあさまが私に両の手を差し伸べ、こう仰いました。

「さあさ、いらっしゃい。ここがあなたの生なのですよ」

 その言葉を聞いた私は、怖くもあり、嬉しくもあり、昇降機を抜け出すと、おかあさまの胸の中に飛び込んでいったのです。

 そして、私は、赤子のように、慟哭しました。

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[良い点]  幻想的な雰囲気漂うお話で、読み進めながら何とも不思議な気持ちになりました。  いわゆる恐怖心を強く煽るようなホラーではなく、奇妙な世界へと導くようなホラーだと思いました。  舞台となる…
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