1.生きたいあたし
湿った風に乗り、微かに水の匂いがした。
ゆっくりと首を巡らせてみる。
なだらかな地表は草が生えているのかどうかもよく分からないほど輪郭が曖昧だった。全体的に黄砂で霞んだ春の風景のように、向こうに見える木も、岩も、そしてその奥を流れている川ですら、薄ぼんやりと滲んで見える。
水音はしない。無音。全ての音は周囲に漂う生温かい空気に吸い取られてしまっている。水の流れだけが静かに息づくその様は、まるで無声映画のワンシーンを見ているかのようだ。
ここはどこだろう。
いつ、どうやって自分がこの場所にきたのか分からない。気がついたらここに立っていた。さっき首を巡らせてみたと言ったが、自分に首が本当にあるのかも、またこの風景を目という器官で見ているのかどうかも、実を言うとよく分からない。手で自分の体に触れてみたい気もするが、手がどこにあるのか、どうすれば動くのかも分からない。でもまあ、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。
空気が動いた気がして顔を上げると、川のほとりに誰か立っていた。
足を一歩踏み出してみる。
と言っても、顔も足も確実にその存在を把握できている訳じゃないから、そんな気がしているだけだ。足裏にふんわりと柔らかい、まるで綿を踏んでいるかのような感触を得たから、それに類するものはあるのだ。多分。
気配を感じたのか、その「誰か」は首をギシギシときしませながら、私の方に顔を向けた。
ぼんやりと霞むその姿は、どうやら老人のようだ。枯れ木のように痩せこけた体にボロボロの布を巻き付け、うろんな表情でこちらを見ている。眉間に深々と刻まれた縦皺とへの字にひん曲げられた口には、友好的感情のかけらも感じ取れない。男か女かすらよく分からない。
「あの……」
声、を出したと自分では思う。でも、それが本当に「音声」というものかどうかは例によってよく分からない。頭で思っただけのような気もする。でもまあとにかく声をかけた。
老人は黙ったまま粘つく視線を上下に動かしていたが、やがて、皮の下にある骨の形がはっきりと分かるほど痩せこけたその手を眼前にぬっと突き出してきた。
「銭」
ゼニ?
「お金、ですか」
面倒くさそうに萎びた首をギコギコと上下させる。慌てて制服のポケットを探った。
堅く冷たい手触りのそれを取りだして見てみると、三十二円だった。
……三十二円?
『三十二円のお返しです。ありがとうございました』
セピア色にくすんだ自動扉を抜けて通りに出、鍵を外して自転車に跨った時、目の前の信号が点滅し始めた。
渡ろう。
ペダルを踏み込み、白とグレーのしましまに前輪がさしかかった、瞬間。
よどんだ空気を引き裂き鼓膜を襲う、甲高い摩擦音。
「ほれ」
その声にはっと顔を上げると、視界にひらひら踊る干からびた手が映った。慌てて三十二円をその干し芋みたいな手のひらに載せる。
「ふん」
老人は硬貨を一つ一つ骨張った指でつまみ上げ、ひっくり返して確かめてから、顎をしゃくってみせる。
見ると、老婆の足下は桟橋のようになっていて、脇には小舟が一艘、川の流れに音もなく揺られている。その時初めて、小舟に人間がぎっしり乗っていることに気がついた。皆一様に押し黙っている。手元を見つめて俯く中年男性、ぼんやり向こう岸を眺める老人、何かを思い出すかのようにじっと目を閉じている中年女性、年齢も性別も様々な人々が、微動だにせず小舟に詰まっている。私を乗せて出発するつもりなのだろう。すると、この老人は川の渡し守か。
川。
渡し守。
何の?
脳裏を掠めたある予感。
「あの……」
「早く乗りな」
老人は吐き捨てるようにそう言うと、左手に持つ櫓で船底をトントン叩く。
「あの、」
これ以上何を聞きたいんだ、とでも言いたげに三白眼でギロリと睨み上げる。言いかけた言葉が一瞬引っ込みかけたが、怯んでる場合じゃない。息を大きく吸う。
「この船は、どこに行くんですか」
老婆は、落ちくぼんだ眼窩の奥にある目を精一杯見開くと、皺だらけの頬を片側だけぐいんと引き上げた。黒っぽい口蓋に張り付く、黄ばんだ前歯がちらりと覗く。
「そうか、あんたは事故死だったね」
事故死?
「だから自分が死んだっていう実感がないんだ」
死んだ?
「あんたはねえ水谷彩南、都立芝沢高校2年C組29番」
喉の奥で乾いた音をくつくつとたてつつやけに詳しい個人情報を口にすると、老人は言葉を切った。
粘つく唾液を攪拌して乾いた口中を潤してから、徐に口を開く。
「死んだんだよ、ついさっき。右折してきた軽トラックにはねられて」
空白になった頭の中に、決壊した堤防の水さながらに流れ出す、あの瞬間。
アスファルトとタイヤが擦れ合う甲高い音が鼓膜を貫いて、
気づいた時にはもう車のバンパーが眼前に迫っていて、
自転車が引き潰される鈍い音が響いて、
くるりと空が一回転して、
フロントガラスに頭から突っ込んで、
痛覚が脳に到達する前に視界が暗転して、
そして。
「……死んだ?」
「そう。死んだ」
渡し守はひとしきりくつくつと肩を震わせてから「さて」と言って体を起こし、櫓を握り直した。片足を船に乗せ、早くしろと言わんばかりに顎をしゃくる。
「分かったら早く乗っとくれ。全く、飲み込みの悪い亡者ばかりで参っちまう。あんたらの後死んだ奴らの船はもう出たよ。早く行かないとあたしが怒られちまうんだからさ」
慌てて周囲を見回してみるも、他に船らしきものの姿は見あたらない。
「何もいないけど……」
「次元が違うからね。あんたたちには見えないだろうよ」
「次元?」
「ああ」
渡し守……言葉遣いから察するに、老婆だろうか……は面倒くさそうに頷いた。
「ここにいるのは、四月二十七日午後三時四十分から四十五分までの五分間に死んだ、同一言語を話す一定地域にいた同一種族の亡者たちだ。時間がずれたり、種族が違ったりする奴らはこことは少しずれた次元で川を渡っている。でなきゃおかしいだろ? 毎日一体どれだけの命がこの世を離れてると思ってるんだ。全く、人間って奴らは特別意識が強くて困るよ」
「あんただって人間みたいな格好しているくせに」
「合わせてやってるだけさ。種族が違えば、その種族に合わせた姿になる。その方が仕事がスムーズだからね」
やれやれとでも言いたげに肩を上げ下げすると、笑いを収めて向き直る。
「さて、いい加減無駄口は終わりだ。分かったらさっさと船にお乗り。出発するよ」
手にしていた櫓を握り直すと、川の中に真っ直ぐ突き立てる。
櫓の先端が水面をえぐる、とぶん、という音があたしの意識を大きく揺すぶった。
「……じゃない」
「あ?」
渡し守の眉間に、深々とした皺が数本刻まれた。
「何だって?」
「冗談じゃない」
小舟に乗っている人々が、戸惑ったように互いの顔を見合わせ始める。
「何であたしが死ななきゃならない訳?」
渡し守はやれやれとでも言いたげに首を振った。
「だってそれは、決まってることだからさ」
「決まってること?」
「そうさ」
ボロボロの胸元に手を突っ込んで小ぶりの巻物を取りだすと、口で止めてあるヒモを解き、片手一本でしゅるりと開く。
「ほら、お前の名も、ここにいる奴らの名もみんな記されてる」
大きく一つ息を吸い、とうとうと読み上げ始める。
「下嶋直美四十才、自宅の火災で焼死、森本正代七十九才、脳出血により搬送先の病院で死亡、佐々木正造九十六才、老衰のため死亡、佐藤重則五十六才、心筋梗塞で勤務中に倒れ搬送先の病院で死亡、松原達郎五十五才、乗っていたトラックが横転して死亡、そしてあんた、水谷彩南十六才、自転車で道路を横断中軽トラックにはねられ、搬送先の病院で死亡」
船に乗っている人々は皆、自分の名が呼ばれたと同時にびくりと肩を震わせた。無言のまま手元や船底に目線を落とし、何とも言えない表情で俯いている。
巻物から顔を上げた渡し守の口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「最初から、十六年と八ヶ月分しかあんたの砂時計には命の砂が入っていなかった。そういう運命なんだよ。ここでどんなにがんばってみたところで無駄さ」
「そんな……」
言いかけた言葉を飲み込むと、必要以上にうなだれて視線を落とす。
渡し守の言葉以上に、船に乗っている人たちの視線が痛かった。
運命に逆らってもどうしようもない。
さっさと諦めて船に乗るべきなんだ。
そう言いたげな彼らの眼差しが、頭や腕に容赦なく突き刺さる。
震える足を一歩桟橋の方に踏み出したあたしを見て、渡し守が口の端を緩めた、その時だった。
突然何かに背中を強く押されたあたしは、叫ぶ間もなく思い切り前につんのめった。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。