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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

自殺が脳裏に浮かぶ

 【注意】 この随筆は愚痴と不平に満ちております。覚悟してお読みください。

 「死にたい」、「消えたい」、「楽になりたい」――そういう思いに捕らわれた人間の、切実な、そして苦痛のために楽になりたいと吐き出した文章です。

 自殺を考えたことのない健全な方々には、その思い汲み取るのは難しいと思います。しかし、その一片でも推し量ること出来ましたら、幸いです。

 十年ほど前からでしょうか、初めて自殺という物事について考えるようになってしまったのは。

 深く落ち込む原因は、何かあったのかもしれないものの、今ではもう、原因が意味をなさなくなってしまったようにさえ思えます。

 思い当たる節がないのに、少しずつ気分が塞いでゆきます。が、その過程が無自覚なのです。自分で気づくことが出来ないまま、ハッとしたら自殺のことばかり考えている状態になっている。駄目だ、ダメだ、……と、こういう感じなのです。


 自分は、ほとんど引きこもり同然のような生活をしているかもしれません。まとも会話するのは家族だけです。友人は一人もいません。それも、何か関係するのだろうかと考えたり、です。

 しかし……自分は人見知り、もっとはっきりえば人間嫌いだったのです。人間関係わずらわしいと感じます。小学生の頃からだったか、友達の必要性を感じられず、人付き合いをしなくなりました。もう二十年近く前のことです。

 今振り返ってみれば、それは不味かったろうか、と思わなくありません。が、仕方ありません。そういう判断をしてしまう人間だからです。


 今に至るまで、生きがいをあまり感じず、時折、精神状態が悪いと、「生きている状態そのもの」が苦しく、もうどうにもなくなります。そのときは、唯々《ただただ》、突っ立っているか、横になっているか、くらいしか出来ません。


 ここ数か月は、身体の異常も起き、死を考えること多くなりました。

 ここ数日で、何とか気分を持ち直し、小康状態であるため、創作を生きがいに出来ないか、と、気を紛らわしつつ、これを書いております。癖のある、アクの強い上に拙い文体かとは思いますが、書いてゆきます。


 今まで自殺未遂はなかったはずです。その理由は単に、死ぬ時の苦痛が怖かったからです。

 生きる苦痛にジリジリ精神力を削がれますと、勇気や度胸がなくなってゆくのです。

 今では、強風の音にすら、怖がり、疲れ、参る状態です。

 健全な方の中には、「死が怖い」と仰る人もいますが、私のような人間は、云ってみれば「生が怖い・苦しい」のです。死に対する恐怖より、生きる苦痛が上回っているのです。そうすると、死後どうなるか分からない、未知なものである死は、一転して最期の希望となるのです。

 死んだらば、意識は完全に消失して、何も感じることも考えることも出来なくなるかもしれない。それが、苦しんでいる人間によっては、救いになるのです。


 私は、自殺とその幇助を合法化し、「生きる権利」のみならず「死ぬ権利」が欲しいと思いました。安楽死を求めたら、それを手伝って欲しい、と。

 なぜ自分で勝手に死ねないのか。苦しむのが、もう嫌だからです。そして行動力がもう損なわれているからです。

 苦痛を感じずに死にたい、というのが希望です。しかし、苦しませずに上手く死ぬ・死なせる技術や経験というのを持ち合わせておりません。

 ネットで調べても情報だけです。安楽死の薬の情報も、本当に苦しまないのか、半信半疑です。

 ですから、いっそのこと公的サービスにして欲しいなという望みが生まれました。

 そして、安楽死させた後、ドナー提供元にもすれば良いです。死が叶うのみならず、誰かを救うことにもなるならば、最期に、いくらかでも自分の人生が報われた気になります。

 でも多分、実現は無理だろうな、とは思います。


 自殺、自死、自害、云い方は色々です。死にたいという思いは、長年、家族にはつぐんでおりました。

 しかし、もう間もなく、突発的に自害するかもしれないと感じてきました。

「今度、激痛などの大きな苦痛が発生したら、もう死んでしまおう」

そう考えておりました。


 ネットで調べた情報によって、首吊りを候補にしました。首の前ではなく側面を圧迫することで、血流を止めるのだそうです。そうすると割と苦しまずに意識を失い、そのまま死へ向かうようです。前を圧迫すると、そこは気道なので苦しいようです。まだ試していません。


 自殺の準備を緩やかに進めるにつれ、ふと気がかりがありました。

 自分の遺体を、家族が見たとき、のことです。ショックを受けるのは容易に想像できます。自分の家族は良い人です。恨んでおりません。全面的に感謝しています。自分が自殺するような人間であったとしても、そしてそれが悪いことだと判定されても、家族は悪くありません。両親の育て方が悪かった、ということもありません。

 原因は特にないのです。自分がそのような性質の人間であったことと、そのような人間が、このような世界に生まれてしまったこと、それが原因と云えば原因です。だから、どう仕様もないのです。仕方ないことなのです。


「いきなり死ぬのはダメかもしれない。予め、その思い、なんとか伝えよう」

 とてもとても、云いづらいことでしたが、何とか、母に、「最近、いつもいつも死ぬことを考えている」と、胸と喉を締め付けられるような感覚の中、云いました。

 母、泣きました。「やめて」と。私も涙を流しました。(――と云いますか、今これを書いているときにも涙が垂れました) そして母は抱きしめてくれました。私は、何度となくティッシュを取っては、自分の涙を拭いていたことを覚えています。

 幼い頃、私は泣き虫だったなぁと思い出しました。あのとき泣いていた理由は、恐怖がほとんどでした。大人に怒られたりなどです。

 二十代も後半になると、また、涙もろくなりました。今度は、哀しみや感動――ホロリとすることに泣いていました。子供のときは、恐怖以外で泣くこと、皆無と云っていいほどでした。


 とにかく、これをキッカケとして、

「まだ死んではダメだ。生きていよう」

と、一度は考え直しました。

 しかし、生きる苦痛は改善されていないのです。結局、その、生きている間、続きっぱなしの苦しみに、耐えるのは無理でした。ジリジリと自分の何か、生気らしきものが、削れてゆくのです。

 そしてやはり、その苦痛の原因として、何か特定のものがある訳でもなく、いくら考えてみても、「生きることそれ自体」という結論になってしまうのです。

 そう判断してしまうのは、追い込まれたために正常な思考ができない自分の知性が原因だったのかもしれない。


「なぜ死にたいの?」

 生きるのが苦しいから。だから、楽になりたい。もう楽になりたい。――それしか自分にも分かりません。

 そして、それが最善なのでは、という思いにもなってゆきます。


 時間が、解決してくれる面が、物事にはあります。

 風邪も頭痛も軽症であれば、大抵あとは時間の問題です。

 気分の激しい落ち込みも、いずれは小康状態になります、自分の場合は。しかし、一時的なもので、また、落ち込みます。そして、幾度となく繰り返し申すように、落ち込むときにキッカケとなる出来事がありません。知らないうちにそうなっているのです。

 病院が嫌い・怖い自分は、病院行ったり行かなかったりを繰り返しました。もう気力を失っているからです。

 最近、父から、私が精神の病気であることを力強く説得されました。それを聞き、患者当人は、どこまでの思考が病気で、どこまでが本来の自分の思考なのか、分からないのではないか、と思いました。

 そうなると、自分で考え判断すること、あまり信用できない。

 病院の先生からは、(その先生が精神科の方ではないにもかかわらず)、

「頑張らない。頑張ってはダメなの」

と云っておりました。

 それは確かに、今までも、うつ病関係の情報で見聞きした覚えのある言葉でした。「頑張って」と云っては駄目だと。

 今の自分には、少し意味が加わって感じました。

「自分一人で、頑張ってはダメ」と。

 いや、病気は患者本人が治そうとしなければ、治らないのでは。結局、自分の人生をどうにか出来るのは自分しかいない。他人を助けることなど究極的には出来ないのだと、思っていました。

 けれども! その自分自身が当てにならなくなってしまった今……。あとは死を待つしかない。そんなふうに思っておりました。

 皆さんなら気付けたはずの、当たり前の選択肢「他人に頼る・すがる」、病的な私は、分からなかった……

 「人は助け合わなくては」――言葉としては聞いている。しかし、頭や心には入っていませんでした。人が争う現状に対し、希望を云っているのだろうな、くらいに思っていました。


 考えてみれば、学校の宿題です。あれを、他人に写させて貰おうとする人がいますね。そのときは、ダメだなあと思うだけでした。が、今になって思うと、それも生き方の一つではないかと考えました。他人に上手く頼る、と。

 他人に頼れない自分は、基本的に自分一人で作業していました。体育などでチームワークを求められる授業は、もう、苦手でした。体育は嫌いだった。運動は苦手な上に嫌いでした。その上、ルールも教えられずに、何らかのスポーツをやらせられ、回りから罵倒混じりの声を聞く。……人間を見限る一因になりました。

 体育がある日は、しばしば学校を休みました。やがて不登校に。でも当時は自分が不登校であると考えていないのです。体調不良で休んでいると。実際、精神的影響からか、頭痛や腹痛が起きるのでした。そういうものです。後から振り返って、あれは不登校だったのだな、と思うのです。

 そういえば、あのときにはもう、人と関わること、諦めていましたね。人里離れた所で暮らしたいと思っていたように思います。無人島のような所に。


   *


 消極的・厭世的で、悪い方ばかりに考えるから病気になるんだ。ポジティブに、明るい想念で思考を満たすよう、心がければ良い。……と、思っていました。

 何年も、悪い思考が起きたら振り払り、明るいことを考えるように、考えるように、と努めました。

 でも、ダメでした。あまりにも、暖簾に腕押しだと、もう、頑張る気力がなくなってくるのです。そのネガティブな気持ちに対抗しようという力が、削がれて、なくなっていき、ついには諦めてしまうのです。

 それを諦めてしまったら、もう人生を棒に振り、あとは死ぬしかないのかもしれません。が、参ってしまった心には、もう死んでも良いな、としか。


 あと何十年だろう。精神改造技術が実現するのは。切望しております。おそらく2045年以前に、何かしら実現できるとは思いますが……、それでも30年未満の長い年月を耐えなければなりません。耐えれる自信はありません。弱音しか出ません。


 現在まで、そして今後の状態を、イメージで表わします。どこまでも続く細長い橋を、何とか落ちずに歩いている感じです。長い距離を進んでも景色が変わらず、そのうち「これって、いっそ落ちらほうが楽になれるんじゃ……」という考えが過ります。


   *


 このように創作をしているのは、今は調子が良いからです。

 生きがいがあれば、まだ生きてゆけるのではと、創作にすがっています。

 近頃流行している異世界転生モノ。今年、その存在を知りました。夢中になって読み漁っています。多種の異世界転生モノが投稿され、より取り見取りな状況、幸せです。

 そのジャンルも参考にしつつ、今は、明るくて健康的な小説を書いていきたいな、と思っております。楽園のような内容が良いです。そして気力が続けば、それを元にゲームを作るつもりです。となると書くのは小説ではなくゲームシナリオかもしれません。


   *


 誰かと気さくに語り合えたら良いな、……、そう思いながらも、無理そうだな、と考え、避けてしまう。

 感想やレビューを始めとした人々のコメントを読む。ああ、何か、嫌だな、と感じてしまう。どうも、理解しあえる……よりも逆方向を向いているような気がして。揚げ足取りと無理解な気がして。

 だとすれば、一人閉じこもっている方が、やっぱり良いのかな。

 人との関わりを避け続け、なおかつ、物語のキャラクターの一人のように、いつも元気を与えて下さる優しい人がいたらいいな、と空想と諦観をする。自分と同じように、そういう人が、少なからず居るような気がする。

 フィクションの中だからこそ、生気を感じる。――キャラクターのように振る舞う、高性能AI(人工知能)があれば、幸せかもしれません。

 現実の人間では、根深い不信感が拭えず……。人を愛することも、一生涯、ないような気がしております。


   了

最後まで読むとは、物好きですね。

憂鬱になりませんでしたか?

もっと明るい内容の小説があふれています。そちらを読んでみてはどうでしょう。

それと、外に出て、日を浴び、青空を見、景色を眺めるのも良いかもしれません。

日常の中に情味があるようで、それを感じられると、日々、幸福に生きられるらしいです。

あと、水分補給は大丈夫でしょうか? 冷たいより常温以上の飲み物が良いと思われます。

あとは、夏場なら、ちゃんと冷房を程よくかけて。熱中症に気を付けて。冬なら冷えに気を付けてストーブ、暖房を。

云いたいことは、それくらいです。

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