あの頃はけんかもしたね それでも絆は消えなかった
なのに今 この腕には君がいない
いつの間に 歯車が狂ってしまったんだろう
君の長い髪も 触れることさえ叶わない
日焼けした足首も コロンすら
窓を叩く雨音が 部屋に優しく響く
あの頃は こんな夜にも君がいたのに
2人の写真 そっと触れてみては
また溜め息をつく まだとらわれたまま
こんな夜は 君を連れ去りたい
夜が明けたら旅に出よう
窓の外にはきっと 草原が広がる
缶コーヒーと 文庫本をこの手に
隣の席には あの日の君
変わらない君と一緒に
列車に揺られてどこか遠くへ 景色が僕を誘う
なのに今 この腕には君がいない
「私のそばにいて」 そう言った君はもういない
腕が空を切るだけ 空回り
窓から見える景色は 子供の頃のままに
君の子供の頃を 思い出させるのに
あの頃の写真 そっと取り出し
また溜め息をつく まだ君がいそうで
こんな日には 君を連れ去りたい
あの頃の記憶を忘れない
窓の外には 麦畑が風に揺れる
その向こうに虹と 青い風も流れる
隣の席には あの日の君
変わらない君と一緒に 「あの日の君をもう一度」
BY 高村恵美
タタン…… タタン……
聞こえるのは電車が走る音だけ。あとは開け放った窓から風が吹き込んでくる。その風を胸に吸い込んでみると、かすかに夏草の香りがする気がした。
手には読みかけの文庫本。窓枠には飲みかけの缶コーヒー。買ったときには冷たかったコーヒーも、いつの間にかぬるくなってしまった。
「さっぱり頭に入らない。」
読んでいた文庫本にしおりを挟んで本を閉じた。本をかばんにしまうと、一つ溜め息をついて、窓の外に目を向ける。すると、俺の隣に彼女が座っているような感じがして、俺は思わず振り返った。当然ながら、隣にはだれもいない。
「そうだよな。いるわけないよな……。」
自嘲気味につぶやくと、思わず笑みがこぼれる。もちろん、声を上げては笑わない。口角が上がる程度だ。そして、もう一度窓の外へ目を向ける。
俺は写真を1枚取りだした。彼女の遺品としてもらったものだ。大阪の梅田にある、大きな観覧車の前で撮ったものだ。その写真には、彼女と俺が写っていて、腕なんか組んでいたりする。
窓の外の麦畑を、風がなでるように流れていく。その景色に、ふと思い出すことがあった。もちろん、別れた彼女のことだ。
俺が彼女と出会ったのは4年前。大学1回生の秋のことだった。彼女は当時、俺の友達の「親分」こと青池義博と付き合っていた。俺にも彼女がいたから、彼女のことはずっと友達として見ていた。
俺たちの出会いは、ひょんなことから、友人の俺が親分と学食で昼食を食べる約束をしたのが始まりだった。
学食で待っていると、親分は1人の女の子を連れてきた。
「俺の彼女の優花。」
親分が隣にいた女の子を紹介すると、
「こんにちは。」
彼女は頭をちょこっと下げて、あいさつをした。これが優花だった。
その時は、たわいもない話でやけに盛り上がったのを覚えている。2人がどうやって出会ったのかなど、彼らは、話すたびに目を合わせていた。まるで某芸能人の婚約会見だ。
そんな風にして俺たちは出会った。俺のことを「アキ」と呼ぶ彼女の第一印象は、色白で、子犬のようにころころしていて、当時19歳という年の割には少し幼く見え、子猫のようにくるくると表情が変わる。高校の時に生徒会役員をやっていたらしく、気が強そうだけど、どこかはかなげで、そのアンバランスな感じが、彼女を魅力的にしているという感じだった。
彼ら2人は、周りから「そのまま結婚するのではないか。」とうわさされるほど仲が良く、いつも一緒にいた。本当にお似合いのカップルだった。
その俺たちの関係が、がらりと変わったのが大学3回生の夏だった。
〜♪ 〜♪
携帯の着信音が鳴って、メールがきたことを知らせる。それは車の免許を取りに、静岡の実家に帰っている優花からのものだった。優花からのメールは久しぶりだった。「久しぶり。」というあいさつから始まって、内容は、読んで驚いた。それは、親分と別れたことを知らせるものだった。寝ぼけていた目が、がらがらっとシャッターを開けるように冴えてきた。
『一体、何があった?』
いまいち状況がつかめないので、とりあえず返信してみた。
〜♪ 〜♪
しばらく短いメールをやり取りして、ようやく状況がつかめてきた。かいつまむとこうだ。
1年生の夏から、丸2年付き合っていた彼らだけど、親分が去年2回生の時、学園祭の実行委員をやったことですれ違いが始まった。そして今年の5月、それまで神戸の実家から通っていた親分が、遂に早起きに耐えきれず、1人暮らしを始めると、優花がしょっちゅう散らかった部屋を片づけていたが、それが毎回繰り返されることに、遂に優花がキレてしまったらしい。しかも5分のけんかで終わってしまったと言うのだ。
〜♪ 〜♪
『じゃ、京都に帰ってきたらどこかいい所に連れて行ってあげるよ。』
『本当? ありがとう。今から教習だから、また今度ね。』
それで俺たちの会話は終わった。実家から戻ってきたら、バイクで嵐山にでも連れて行ってやろう。
優花が京都に戻ってきて1週間後、俺は、夜の嵐山に彼女を連れ出した。この時期、夜中の嵐山はまだ寒くないし、星がよく見える。
桂川にかかる渡月橋を渡った所はとても静かだ。今夜は満月が明るい。彼女をベンチに座らせると、ポケットからガムを取り出して口に入れ、彼女の方を向いた。
その時、俺は彼女の目が潤んでいるのを見てしまった。空を見上げて、ぎゅっとくちびるをかみしめて、涙をこらえるその姿に、俺の心は音を立てて揺れた。「守ってやりたい。」という気持ちが駆け出すのを止められない。涙がこぼれないようにと気を張りつめているその姿は、ほんの少しでも触れたらあっという間に壊れてしまいそうなほどはかなげだ。
「俺に、優花を守ってやることはできないか?」
そんな言葉が口をついて出た。正直言って、自分でもびっくりした。
「私を?」
少々面食らったみたいだ。彼女は少し考えたみたいだったが、口を開いた。
「うん。」
自分で言ったことだが、正直、その返事には驚いた。だって、1ヶ月半前までは、優花は何も問題なく親分と付き合っていたのだから。
「付き合ってくれるってことでしょ? 私と。」
にっこりと優花が微笑む。その時の優花は、今までに見たこともないほど大人びていて、あでやかだった。「花の咲いたような微笑み」とはこのことか、と考えてしまった。
俺はどうしようもない衝動に駆られ、返事をする代わり、気が付くと優花を抱きしめ、その柔らかく、しっとりとしたくちびるをむさぼっていた。抱きしめた優花は、出会ったころのようなころころした感じは消え、代わりに少しやせたような気がした。
「やせたんじゃないか?」
その言葉に、優花はこくんと小さくうなずく。実家にいる間、そんなに食べられなかったのだろう。まぁ、自分からとはいえ、2年も付き合っていた親分とあんなあっけない別れ方をしたんだから、無理もないか。
「ちゃんと食べろよ? 親分も心配するから。心配させたくて食べないんじゃないんだろう?」
そう言ってやると、またこくんとうなずく。どうやら、ストレスが溜まると小食になる体質らしい。
そんなこんなで俺たちは付き合い始めた。ちょうど、俺も前の彼女と別れて1ヶ月くらい経った。ただ、周りには公表しなかった。特に親分に対しては、2人のそれまでの関係から、絶対に言うことはなかった。
後期が始まったある日、夜間部の授業までとっている俺は授業があり、優花のサークル活動が終わるのに、活動している深草の学舎まで迎えに行けなかった。
夜になると、この大宮学舎は、本館がライトアップされる。なんと、この本館は明治時代初期に建てられ、国の重要文化財に指定されているらしい。そして本館だけでなく、教室棟も明治時代初期に立てられた学生寮だったらしい。ちなみに本館では、仏式の結婚式がたまに行われる。うちの大学は、日本で唯一の浄土真宗本願寺派の大学なのだ。隣の敷地には、西本願寺がでんと建っている。
バイクで正門を出ようとしたとき、ブックバンドでまとめた教科書の束を抱えた優花と、自転車を押す親分が駅の方から歩いてくるのが見えた。
優花は俺と目を合わせると、気まずそうに目をそらした。別れた男と歩いていて、そこへ今の男が鉢合わせじゃ無理もないだろうか。
「駅でご飯食べながら、久しぶりに話してきたの。」
優花がぽつりと言う。その表情は暗い。そんなに暗い話だったんだろうか。
「俺、深山さん送っていくから。」
親分が言うと、優花も、俺に手を振って歩き出した。俺も、ここは素直に親分に優花を任せることにした。親分は女性に対してすごく優しくて、正義感のかたまりのようなものだ。別れたからと言って、途中で優花を夜の10時近い道ばたに放り出すようなことはしないだろう。その辺は安心して優花を任せられる。
その夜、家に帰り着くとほぼ同時に、優花からメールが届いた。
『青池君と話つけてきたわ。』
優花は、別れてから親分を、付き合っていたころのように「義博」ではなく、「青池君」と呼ぶようになった。そして親分も優花を「深山さん」と呼ぶようになった。彼らなりのけじめだろう。
『何話した?』
『もう1回、やり直せないかって言われたわ。』
『何て答えた?』
『1回別れたら、後でやり直そうとしてもなかなか上手くいかないからって断ってきたわ。アキのことは出してない。』
その返信を読んだとき、優花が泣いてるような気がした。いてもたってもいられなくて、財布と携帯だけ持つと、俺はバイクで優花の家に向かった。
〜♪
『はい?』
「開けて。俺。」
そう言うと、中から優花が出てきた。安心した。まぶたははれていないから、泣いていたわけじゃないらしい。
「どうしたの? こんな時間に。」
「優花が泣いているような気がしたから。」
「泣いたりなんかしないわ。とりあえず、コーヒーでも飲む?」
そう言って優花は、俺を部屋に招き入れた。
優花の部屋はブルーで統一されており、広さに対して物が多いわりに圧迫感はなく、こざっぱりと片付いていて居心地がいい。女の子という感じの部屋だ。
「どうして泣いているなんて思ったの?」
俺の前にコーヒーカップを置くと、優花は自分もコーヒーを飲んで座った。優花はかなりのコーヒー党だ。
「優花はとても弱いから。」
そう言って、優花の細い体を抱きしめた。あまり強く抱くと、骨が折れるんじゃないかと言うくらいに華奢だ。
「アキ?」
「良かった。泣いてるんじゃなくて。」
「泣かないって言ったでしょ?」
「本当は不安だったんだ。よりを戻すんじゃないかって。俺は必要ないんじゃないかって。」
「戻さないわよ。よく聞いてね。私が今好きなのはアキなのよ。青池君とは、もう終わったんだから。」
くすっと笑った優花の声は、柔らかなアルトで耳に優しく響いた。
それからというもの、俺と優花はほとんど毎日、一緒に学食で昼飯、時には夕食も取ることがあった。また、時間があるときには優花が家で夕食を作ってくれた。特に美味しいのは、和食の煮物だ。「特に習ったわけじゃない。」と優花は言うが、肉じゃがやひじきの煮物、きんぴらごぼうなどは絶品だった。「いい嫁になるな。」とぽつりと言うと、「えへん!」と少し胸を反らすのだった。
「昨日サンマ安く買ったから、サンマ焼こうと思うの。食べにおいで。」
ほぼ毎日、こんな風に夕食に誘ってくれる。もちろん、誘われてばかりじゃない。たまには俺が新聞配達のバイトの後、バイクで家まで迎えに行って外食することもあり、そのときには俺がおごった。しかしそのときも、優花は賢い1人暮らしなわけで、毎月発行されているクーポン雑誌から、行きたい店をあらかじめピックアップしておいてくれ、安く上がるようにしてくれた。
「優花、これ食べ?」
そう言って枝豆の皿を、野菜不足気味な優花の目の前に押してやる。
「ありがと。最近、ゼミの発表が近いから、レジュメ作成でいっぱいいっぱいでさ、あまりごはんというごはん作ってないんだよね。」
飲んでていいのか? 発表来週とか言ってなかったか? 優花のゼミの教授は、かなり発表後の批評と突っ込みが激しいと東洋史学専攻の学生の間では有名らしい。その点、おれは仏教学科で、かなり楽チンと言えば楽チンだ。
「ねぇ。」
唐突に優花が口を開いた。
「卒業論文のテーマ決まった?」
「さっぱり。」
今3回生ということは、来年の今ごろ、卒業論文に真剣に取り組まなければならないころだろう。しかし、俺はさっぱり決まらない。
「優花は?」
優花はしっかりしているから、もう決まっているのかも知れない。
「うーん、『三国期の新羅における花郎制度』にしようか、『花郎制度の変遷』にしようか迷ってるんだよね。」
……花郎制度? 何じゃそれは。
優花に聞くと、東洋史専攻の学生だってわかんないんだから、かする程度の仏教学科じゃ無理もないわよねと言って、笑って説明してくれた。
「昔、6、7世紀の朝鮮半島に百済、高句麗、新羅という三つの国があったことは知ってる?」
「うん。たしか、新羅が最終的に半島統一したんだよね?」
「おお、専攻外でそこまでわかっていれば十分よ。東洋史専攻の学生だって、そこまで知ってる人なかなかいないわよ。」
優花が小さく拍手する。
「その中の新羅で発達した、官僚登用制度の一部ね。貴族の子弟を集めて、武道と学術の教育をするわけ。で、その教育が終わると、国家を守るために将校として送り出したの。集められたのは上級貴族で、美形ばっか。半島統一後は、国防の必要性がなくなったから、青年自営団的な元の目的がなくなって、社交クラブ的な存在になっちゃったのね。挙げ句の果てに、高麗時代になってからも存在はあったんだけど、「花郎」と言うと「ホモ」っていう意味合いになっちゃったのね。」
……ほほう。よくそこまで調べたもんだ。
「高校卒業するときには、卒業論文の中身ってのはほとんど決まってたんだ。だけど、それだけで書こうと思うと、文献が足りなくてね。だからそれに関連してて、文献がありそうな三国時代にするか、変遷史にするか。」
前に見せてもらったけど、優花のゼミのレジュメはかなりレベルが高い。他の東洋史のゼミが、中国の古代・中世・近世・近現代と別れているのに対し、優花のゼミは中国以外の色々な時代・地域を研究している学生が集まる、いわば「ドサ回りの北村ゼミ」なのであって、全く知識を持たない学生にもわかるように書いてある。しかも、レジュメの一番最後には注釈がついていて、漢文がずらずらと並んでいるものも珍しくない。もちろん、優花のレジュメも例外ではない。しかも優花は専攻地域が韓国なので、文献も現地の物が多いのか、ハングル文字が並んでいる。休み時間に学食や図書館に行くと、辞書を片手にハングル文字と格闘している優花を見ることもある。
「優花は勉強家だね。」
そう言うと、優花は
「勉強家と言うより、周りのレベルが高すぎてやらざるを得ないって感じね。手を抜くと、教授の突っ込みと説教が待ってるんだもの。」
そう言うと、優花はジョッキに残った酎ハイをあおった。
「アキは?」
う、ここまでしっかり決まって、しっかり研究を進めてる優花に「まだ全く方向性すら決まっていない。」なんて、とても言えない……。
「まだ決まらないんだけど、仏教説話についてやってみるのも面白いかなと思ってるんだよ。『捨身虎図』っていう絵があって、それにくっついた説話が面白そうでね。」
う、苦し紛れに言ってしまった……。ちなみに『捨身虎図』というのは、仏教画の一つで、谷底でお腹を空かせた虎の親子に、お釈迦様が自分の身を投げて、その空腹を救ったという説話が元になっている。
しまったと思う反面、ようやくこれで方向性が定まったと言えよう。
「優花は、何でその……花郎制度に興味を持ったの?」
そう聞くと、案外あっさりした答えが返ってきた。
「簡単よ。中学の時に買った小説の挿絵がきれいだったから。」
……は? どういうこっちゃ。
「中学の時に、金蓮華さんという在日韓国人の人が書いた、『舞姫打鈴』という小説を買ったのね。で、その中に、金ユ信という新羅の武将が出てくるんだけど、その人の若いときの絵がすごくきれいでね。で、その人に興味を持ったんだ。」
……一目惚れ……?
「で、その人について調べようと思ったんだけど、何しろ文献が少なくてね。花郎制度自体、日本にあまり文献ないのよ。戦争後、しばらく韓国と国交がなくて、研究書や論文が入ってこなくてね。」
なるほど。それでハングルの文献を辞書片手に読みあさってるのか。
その夜はレジュメを心配して、早々に切り上げると優花を家に送り届けた。優花のことだから、きっとすぐに寝てしまうだろう。酒が入った優花は、恐ろしく寝付きがいい。
10月半ばに入ると、大学は学園祭一色になる。主要会場になる深草学舎の校舎と校舎の間の通路には模擬店の骨組みができあがり、図書館前の噴水は水を抜かれ、その上に板をかぶせて、野外ライブ用のステージもできあがった。今年の芸能人ライブは、一時的に再結成されたリンドバーグらしい。
そして11月第1土曜日、文化祭が幕を開けた。
今日と明日は深草学舎ではなく、滋賀の瀬田学舎で学園祭が行われる。深草学舎で行われるのは来週の金曜日から日曜日らしい。
土曜日の夜、新聞配達のバイトを終わらせて自分の部屋でテレビを見ながらごろごろしていると、優花からメールが届いた。
『今日、サークルに仮入部だけしていた男の子と、2年ぶりに会ったよ。』
というメールだった。
『すいぶんうれしそうだね。』
〜♪ 〜♪
『だって2年ぶりに会ったんだよ? あのたくさん出てる出店で、2年ぶりに会えるって、すごいことだと思わない?』
(いやに絵文字が多いな……。)
今日の優花からのメールは、いつもより絵文字が多い。こういうときの優花は、大抵機嫌がいい。
『ずいぶんうれしそうだね。』
ちょっとやきもちを焼く。
『100近く出ているあの出店で会えたんだもん。うれしいよ。アキだったらどう?』
俺にそう言われてもな……。俺はサークルに入ったことがなくてバイトに明け暮れてるから、そう言われてもピンとこない。
しかし、優花は俺がやきもち焼いてることには全く気付いていないらしい。優花はたまに鈍いことがある。普段、何ともないときは、そんなところもかわいく思えるのだが、こんなときは正直言ってむかつく。
『2年ぶりか……。会ったらうれしいだろうけど、出店とかに行った経験なんて、地元の町内会の納涼大会くらいなものだからな……。しかも田舎だからおっちゃんたちとは顔見知りだしな。』
俺の地元は福島県の会津地方の小さな村だから、部落ではみんなが顔見知りだ。下手すると、近所のおばちゃんなんか俺がどこの大学に通っているかも知っていたりする。どこから情報を仕入れるのか全くもってなぞだ。もっとも、このメールはたわいもない会話で終わり、俺はしばらくこのメールのことは忘れていた。
11月も終わりに近づいたある日、優花はサークルで行う文化祭の打ち上げに参加した。もちろん、それ自体は悪くなく、俺も止めなかった。
しかし、2次会が終わる午後10時ころ、俺はバイクで三条木屋町まで優花を迎えに行った。優花は普段ならみんなと別れて真っ先に俺に「迎えにきて〜。」と少し酔っぱらって電話をかけてくるのだが、その日に限って、歩いて四条烏丸まで地下鉄に乗り込んだ。俺はあとをつけた。優花は地下鉄を京都駅で降り、JRの西口へ向かった。そこで優花を待っていたのは、俺の知らない男だった。
2人は京都駅の伊勢丹の大階段に早くも飾ってある大きなクリスマスツリーを一緒に見ていた。それだけなら大したことではない。しかし、優花が彼の肩に自分の頭をのせて、彼もその頭を抱いて、なでるのを見てしまった。何も知らない人が見れば、彼らは間違いなく恋人同士に見えるだろう。しかもその後、2人は優花の部屋に入っていった。夜をともにするということなのだろう。
そのときになって、ようやく俺はあの文化祭初日に優花からきたメールの内容を思い出した。今思い返せば、もっとあのとき疑ってみるんだった。「優花はこの男に対して好意を持っているのではないか。」と。考える材料はいくらでもあった。多分、考えることから逃げていたんだと思う。
その後も、俺は「何も見ていない。」と自分に言い聞かせて、それまで通り優花に接した。しかし、どんなに自分に言い聞かせても、見た事実が変わるわけはなく、どうしても「あの夜」のことが口をついて何回も出そうになった。それは特に優花の口から「隆行」の名前が出るとき。優花は、俺があの夜、2人を後ろから見ていたなんてこと、全く知らない様子で、その「隆行」の名を口にした。きっと、その「隆行」が「あの夜」の男に違いない。
「……でね、そのとき隆行がね……。」
ああ、またその「隆行」の話だ。ここ最近、そんな話ばかりだ。
「……優花は、その隆行という人のことが好きなの?」
遂に正直な気持ちが口をついて出た。優花は優しいから否定するだろうけど、それが本音かどうかは怪しいものだ。
「そんなことないよ。ただの友達。」
やっぱり否定して、優花は微笑む。しかし、その微笑みは能面にはり付いたようなもので、本物ではない。優花は時々こんな風に笑うことがあった。能面のような笑み。この笑みの理由は何なのか。その笑みは本物ではないと思うからこそ、優花を本気で笑わせたいと思った。他の男に、その笑顔を見せて欲しくない。いつの間にかここまで思うほど、優花のことを思うようになっていることに、今、初めて気が付いた。
「それならいいんだけど、優花が「隆行」と言うから。」
「……ごめんなさい。」
優花はそう言って顔を曇らせた。
「ね、優花はなぜ本当に笑ってくれないの?」
さっきからの疑問をぶつけてみた。すると優花は、
「そんなに、やっぱり笑えてない?」
と、困ったような表情をした。自覚はあるらしい。
「わかってるんだ?」
「……うん。」
そう言ってうなずくと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私、中学の時の部活はバレー部だったの。」
「うん。」
「その中で私はいじめられっ子だった。もちろん、全員にいじめられていたわけじゃないの。いじめていたのは1人の子なんだけど、その子が結構陰湿ないじめをする子でね。」
正直言って驚いた。俺は福島のど田舎の出身で、小・中学校なんか学年1クラスなんて所で育ったし、高校生になってまでいじめをするほど子供じゃなかったから、いじめというものをほとんど知らずに育ってきた。いじめなんて結構遠いニュースか何かの中でのことだと思っていたのに、こんなにも身近にいじめの被害者がいるとは思わなかった。
「私が運動オンチなのは否定できない事実だけど、彼女は何かにつけて私を『どうせあんたにはできないでしょう。』とでも言いたいような目で見てた。小さいころに体が弱くて、入退院を繰り返していたし、運動ができなかったから運動神経が育たなかっただけなのに。学校も悪いのよね。文化部なんて吹奏楽、書道、美術、生物部しかなかったんだもの。選択肢がないのよ。」
優花はそこまで言うと、きゅっと下くちびるをかんだ。思い出したくないことなのだろうか。
「部活の最初にやるパス練習のとき、彼女とやってたの。全体の人数が1人半端で、私たちのグループだけ3人でやってたのね。その時だって、毎回、彼女に『入れて。』と言わなきゃならなかったし、何も言わずに彼女といれば、『何でここにいるの?』と言われた。入れてもらったって、『入れてやったのは、あんたがいるとそのグループに迷惑がかかるからだよ。』って言われた。」
優花の目に水がたまってくる。
「つらいことなら無理に話さなくてもいいよ。」
そう言うと、優花はかぶりを振っていった。
「話せるときに話さないと、余計にため込んじゃうから……。」
それを聞いて俺は黙った。自分の胸の内を表現することが苦手な優花だから、きっと、今までだれにも言わずに、自分の中にため込んでいたに違いない。それを今、やっとはき出そうとしている。それなら、いくら偶然とは言え、話を振った俺にはそれを聞く義務がある。
「私が笑えば、白い目で私をにらみつけて、それでいてバカにしたように『何で笑ってるの?』とあざけり笑われた。その内に表情をなくせば何も言われないと思って、部活の中で笑わないことを覚えた。それを引退までの2年間続けたら、笑い方なんてわすれたわ。作り笑いの自然な方法なんて、わすれたわ。」
つまり鉄仮面が板に付いたというわけか。
「親に何回か『学校楽しい?』と聞かれることがあったから、うすうす感づいていたみたいだけど、親や先生には言わなかった。心配させたくなかったし、事を大きくしたくなかった。まともに取り合ってもらえるとも思わなかったから。」
多分、優花にとっての笑わなかった2年間はとてつもなく長いものだったのだろう。作り笑顔の方法をわすれるほど。
実は優花はあまり親、特に母親と上手くいっていないらしい。それが中学のころからだとしたら話さないのも納得がいく。となれば、優花は10年近くもだれにも話さなかったことになる。
「やっと話してくれたね。」
そう言って、やっと胸の内をはき出した優花の細い肩を抱きしめる。
「話したのは、俺が最初?」
「ううん、初めて話したのは、青池君なの。」
正直がっかりしたりして。でもこれで、やっと親分と対等に立てたのかも知れない。今までは、どこか親分に対して引け目を感じていた。親分と別れて、すぐに付き合い始めたから、「彼女を取った。」と思われるんじゃないかとか、「優花はまだ親分のこと忘れていないんじゃないか。」とか思ったりして。でも、今、やっと優花が胸の内を話してくれたことで、俺も親分と対等の位置に立てた気がした。
「そっか。でもやっと、親分と対等に立てたかな。」
〜♪
『サークル終わったから迎えにきて。』
授業が終わると、ちょうど、優花からメールが届いた。
「さて、行くとするか。」
俺はそうつぶやいてヘルメットをかぶると、バイクにまたがり、伏見区にある深草学舎へ走った。
正門の向かいにバイクを止めると、今までサークルの部室が入っている建物の玄関前で友達としゃべっていた優花が俺に気付き、駆け寄ってきた。
「ありがとう。」
優花にヘルメットを渡すと、もう慣れた手つきでそれをかぶる。
「ねぇ、アキは自分が私の部で、『バイクの王子様』って言われてること知ってる?」
「……は?」
何とも間抜けな声だ。
師団街道をバイクで北上しながら、そのいきさつを聞いた。
どうやら優花の部の友達は、俺がサークルの終了後に、毎回バイクで迎えに来ているから、俺を「バイクの王子様」と呼んでいるらしい(某アニメの「テ○スの王子様」にかぶせているとしか思えないのだが)。せいぜい、その辺の農民か馬の飼育番がいい所だと思うのだが。
「バイクの王子様……ねぇ。」
俺のつぶやきは星空に吸い込まれていった。
やがて、京都の北山や鞍馬にうっすらと雪が積もり始めるころ、サークルを引退した優花は就職活動を始めた。
少し前までは、会社説明会や面接なんかは協定によって、4回生の夏休みになってから行われていたのだが、この不況で、それよりも早く水面下で採用活動を始める企業が年々増えてきた。そのため、つい最近になって、「水面下で採用活動をしているのなら、4回生の夏からという協定は意味がない。」という意見が強くなり、協定が撤廃されて、3回生の秋から企業が採用活動を始め、それに伴って学生も就職活動を始める時期が早くなってきたのだ。早い学生では、3回生の春休み中に内内定が出ることもある。
子供が好きな優花は、どうやら教育業界を目指しているらしく、夜、部屋に行くと、パソコンで教育関係の企業のホームページにアクセスしていて、にらめっこをしていることが多くなった。
一方、俺は、スーツは買ったが、特に就職活動という就職活動をせずに、バイトの新聞配達と学校の授業で精一杯だ。一応、比較的収入の良い金融関係か、雇用が安定している企業が少なくなったこのご時世だから、公務員を目指してはいる。しかし、自分のパソコンを持っていない俺は、わりとぶらぶらしていた。
そんな俺も春休みに入って、みんなが就職説明会だの、面接だのと騒ぎ出してから、ようやく公務員の専門学校にダブルスクールという形で通い始めた。たまに夜、優花の部屋で、優花の手料理を食べるのがささやかな楽しみだったりする。
3月半ば、優花は神戸で、同じゼミの友達の結婚式の披露宴に出席した。同じゼミとは言っても、一度短大を卒業し、OLをした後、入籍だけの結婚をして、大学3回生に編入したと言うから、実際は30歳くらいになると言う。
その夜、優花からメールがきた。
『巴ちゃんきれいだったよ。私もあんなドレス着たいな。』
「巴ちゃん」とは今日の花嫁の名前だろう。
『ドレスもいいけど、優花は和服の方が似合いそうだね。』
色白の優花は、きっと白無垢や色打ち掛けも似合うに違いない。
〜♪
『同じことを高校の時に、友達にも言われたよ。色が白くて、純和風の顔立ちだって。あと、浴衣とか巫女服も似合いそうだって。』
『たしかに似合いそうだよね。極端な話、もっと髪を伸ばして、平安時代とかの白拍子みたいに水干と立て烏帽子なんかも似合うと思うよ。』
白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代に、男装して、即興で歌を歌いながら舞を舞った遊女のこと。源義経の恋人が静御前という白拍子で、源頼朝の前で、義経をたたえる舞を舞って、頼朝を怒らせたというエピソードは有名だ。
〜♪
『アキは結構、古風な趣味だよね。』
『優花は俺と結婚したい?』
〜♪
だいぶ間をおいて、携帯がメールの着信を知らせる。開くと、
『まだ正直言って、結婚とかそういうのはイメージできない。まだ就職もしていないどころか、内定も出ていないのよ? まだそういうのは早すぎると思うの。結婚するならするで、いずれそういう話もすると思う。成り行きに任せてもいいんじゃない?』
とちょっと長いメールだった。
『そのときになったら、ちゃんとプロポーズするよ。3年待ってくれるか?』
〜♪
『そのときになったらね。でも、上手くいかないときもあるのよ。』
……何だかうまくはぐらかされたような気がしないこともないな。
春休みが終わって、4回生になったある夜、優花からメールが届いた。
〜♪
『第1志望の企業受かったよ!』
優花の第1志望の企業は、名古屋に本社がある、幼児・小学生を対象にした大手の教材販売の会社だ。
『良かったな。ずいぶん決まるの早かったね。』
〜♪
『営業はきつそうだけどね。』
優花は営業職で応募したので、セールスが主な仕事だ。京都に支社がないことと、優花に実家に帰る気がないことから、多分、人数の需要が多い大阪か名古屋での就職になるだろう。大阪の主婦は気が強いから、大概の家で追い返されるのが目に見えているが。それでも優花は前向きだから、きっとめげずに前に進むに違いない。
『大丈夫だよ。ポジティブな優花なら、きっとめげずに前に進めるよ。』
〜♪
『うん。お祝いに今度飲みに行こうね。飲むぞ〜!』
おとなしそうに見えて、優花はかなり酒好きだ。しかもあまり酒癖は良くない。からむことはないけれども、飲み過ぎると、家に帰る着く前にマンションの入り口でかくっと寝てしまう。しかも笑い上戸だ(泣かれるよりはましだが)。休み中に飲みに行ったときなんかは、部屋に着くと、
「暑い〜。」
とか言って、いきなりストリップを始めたことがあるくらいだ。
『今度は飲み過ぎないようにな。』
溜め息をついて返信した。
……大阪か……。会いに行けないこともないが、だいぶ労力を使いそうだな。
〜♪
『ひどい! そんなに酒癖悪くないもん! ぷんぷん』
……まだ自分の酒癖の悪さを自覚していないらしい。何て困ったちゃんだ。
その週末、俺は優花との約束通り、四条河原町で食事をしながら飲んでいた。
居酒屋とバーをはしごすれば、優花は絶対に飲み過ぎる。だからと言って、居酒屋だけではかなり飲める(初めて酒を飲んだのが中学生の時で、しかも東北出身だから酒に強い。日本酒1升空けても平気でバイクに乗れる)俺が飲み足りないし、優花も納得しない。そこで、毎回、優花には適当に飲ませておいて、自分がセーブするようになった。まぁ、毎回家で飲み直すんだが。
居酒屋で食べると、俺たちは普通のカップルのように、適当に飲みながら、あとはおしゃべりというわけにはいかない。とにかく俺が食べる。だいたい、軽く2人前はぺろりだ。それにつられて、優花も結構食べる。俺ほどではないが、この時ばかりは普通の女の子の2倍近い。おかげで、飲んだ後は財布が軽い。
「それじゃ、優花の就職決定ばんざーい。」
2人でビールのジョッキを合わせると、それを一息で飲み干した。
枝豆をつまみながら、就職活動中のことを聞いてみる。
「何がきつかったかって? そりゃ交通費よ。私、バイトしてないじゃない。今まで貯金をくずしてたけど、長引いたらやばかったわ。実家や名古屋にだって在来で行ったくらいだし。」
優花は時間さえあれば、静岡の実家にだって京都から在来で帰る。実家が同じ静岡だとしても、俺にはとうていできない芸当だ。さすがサークルで「倹約家」と言われるだけのことはある。
「でも収穫はあっただろ? 自分が何をやりたいのかはっきりしたんじゃない? やりたくない仕事をするっていうのは、苦痛だからね。」
「そりゃね。でも自己分析とかあまりしないまま受かっちゃったからね。」
おいおい。それって就職活動の基礎じゃん。
「で、何がやりたいことだったの?」
「別に正直言ってセールスやりたいわけじゃないのよ。私がやりたいのはその次。受かった会社ね、1年半営業やったあと、希望を出せば別の部署に異動させてくれるの。その時にイベント企画の部署に行きたいのね。夏休みなんかに会員になってる子どもを連れて、英語圏の国で、現地の子どもたちと一緒にキャンプやホームステイする企画をやりたいんだ。」
「なるほどね。高校の時の経験が生きるわけだね。」
優花は高校の時に生徒会役員として文化祭や体育大会の実行委員をやっていた経験があり、物事を立ち上げたり、企画するのが大好きらしい。一見おとなしそうだが、実はその裏に好奇心旺盛で、目立ちたがり屋な一面を持っている。
「でも正直言って、自分に営業なんてできるのかな……?」
「大丈夫だよ。優花なら。そりゃ、昔の優花はいじめられっ子で、なかなか素直に笑えなかったかも知れないけど、今はいつも強気で、姉御肌な優花だよ。いつもポジティブで前向きなんだから、絶対にできるよ。相談事なら夜中でものってやるから、いつでも連絡しなよ。」
そう言って俺は、テーブルの向かいに座る優花の頭をぽんぽんとたたいた。
そのとき、たまたま隣のテーブルに座ったグループの1人の女の子が、
「あ! 優花先輩だ!」
と言った。びっくりしたのは優花で、顔を上げると、そのまま固まってしまった。
「だれ?」
「うん、サークルの後輩。」
優花はそう言って、半分入っていたカクテルのグラスを空けた。おいおい、今空けたのジントニックだぞ?
「優花先輩、彼氏ですか?」
後輩がニヤニヤしながら、優花をひじでつついた。
「あ……、うん。」
「バイクの王子様ですね?」
そう言えば、そんな風に呼ばれてるんだっけ。
赤くなって口ごもった優花もかわいい。どうしてくれよう。人目がなければ、今すぐにでも抱きしめているくらいだ。
でも、優花の表情はすぐに元にもどった。
「王子様ねぇ。酒豪でバイク乗り回す彼がねぇ。」
後輩の前では、「姉御肌な先輩」なんだな。一瞬口ごもったときは、俺の前だけで見せるような素のままな優花だけど、今の優花は、何というか、作っているいるような感じだ。「勝ち気でかっこいい先輩」を演じているような感じだ。こんな優花は付き合う前にも見たような気がする。親分と付き合っていたころ、親分には何もかもさらけ出して、すっかり甘えたような表情を見せていたのに、当時の俺にはそんな表情を見せたことはなかった。だれにでも愛想はいいが、甘えるのは親分だけだった。
その帰り、俺の部屋に優花を泊めて、ベッドに腰掛けながら、優花に聞いてみた。
「優花は、自分作ってないか?」
「え?」
酔い覚ましのコーヒーを飲みながら、優花は俺の方を向いた。
「優花は、後輩の前では『勝ち気な先輩』を演じているんじゃないか?」
優花はマグカップをテーブルに置くと、えへへと笑った。
「やっぱり、まだ抜けきらないのかな。」
そう言うと、優花はぽつりぽつりとしゃべり始めた。
「中学のときにいじめられていたことは言ったでしょ? できるだけいじめられないように、虚勢張ってでも自分自身を強くしないとやっていけなくて。2年間もそれを続けたらなかなかクセになっちゃったのよね。本当は、もう普通に笑って、『親しみやすくて、イイ先輩』でいたいんだけどね。」
そう言った優花の目元がきらっと光った気がした。
「優花は親しみやすくていい子だよ。」
俺はそう言って、優花の体を抱きしめた。
期末テストが終わり、夏休みが始まったある日、俺は久々に実家に帰ることにした。新聞配達のバイトをしていて、なかなか休めないから、実家に帰るのはなんと、実に2年ぶりになる。
「久々に実家に帰ろうと思うんだ。」
「そう。親孝行しておいで。」
優花はそう言ってくれた。
「優花も一緒に来ないか?」
「へ?」
優花はすっとんきょうな声を上げた。
「でも福島でしょ? そんなに新幹線代とか出せないよ。」
古代朝鮮史を研究テーマにして卒業論文を書こうとしている優花は、自分の大学の文献だけでは足りずに、7月の末から、卒業論文の資料になる文献を探して、長野の信州大学に行き、そこにいる高校時代の友達の里帰りに合わせて、その友達の車で静岡の実家に帰る計画を立てていた。しかも8月の終わりに、九州大学まで行く予定も立てている。
「新幹線代くらい出すよ。それに、浜松から乗ったらいい。昼に浜松を出たら、夕方くらいには会津に着くから。」
「う……ん、わかった。」
決めた優花は、また口を開いた。
「アキのお父さんやお母さんはどこに勤めてるの?」
「父親は公務員、母親は旅行会社でツアーコンダクターだけど?」
そんなこと聞いて、どうするんだ?
こうして優花と福島の実家に帰ることが決定した。
その夜、そのことを電話で母親に告げると、
「女の子を連れてくるなんて、初めてじゃない。」
と大喜びした。今まで彼女がいなかったわけじゃないが、中学・高校と部活づけだったし、大学でもバイトづけで機会がなかったのである。
福島の実家に帰る日、優花は大きな荷物を肩にかけ、まさに大黒様のようにして新幹線に乗り込んできた。長野に行ったときの荷物もあるのはわかるが、どうやったらこんなに大量になるのやら。
福島の実家に着くと、優花はまずかばんから小さな包みを取り出して、母親に渡した。
「京都のお茶の葉です。みなさんで飲んで下さい。」
「まぁまぁ、ありがとう。ちょうどお茶の葉が切れるところだったのよ。」
普段は天然ボケ炸裂なのに、こういうところはしっかりしてるんだな。
母親がお茶を入れている間、俺は優花に聞いた。
「何でお茶の葉?」
「簡単よ。アキのお母さんって、旅行会社に勤めてらっしゃるんでしょう? だったら、色々なところのお菓子なんて食べてるかなって思ったの。お茶ならあっても問題はないでしょう? お茶を飲まない家はないんだから。」
そういう考え方か。それでこの前、親の勤め先聞いたのか。全く、しっかりしてるのかぬけてるのかがわからないな。
夕食も優花が手伝ってくれた。今日の夕食は冷しゃぶ、サラダ、枝豆にみそ汁。準備がいいことに、エプロンまで持参していた。その後ろ姿は、本当に「うちの娘」と言っても違和感がないほどだ。それくらい、優花は母親とうち解けた。
「あんた、優花ちゃんみたいな子をお嫁にもらってちょうだい。」
食事をしながら母親が言った。
「優花ちゃんなら気立ても良さそうだし、お料理は上手だし。母さん安心だわ。どうせ、いつもインスタントラーメンくらいしか食べてないんでしょ?」
たしかに当たってる。料理自体はできるけど、1回生のころにガスレンジが壊れて以来、料理という料理は作ったことがない。食事は優花の家で食べる以外、学食かインスタント、あるいは外食やコンビニ弁当だ。
この時の母親の言葉で、春休みのように優花との結婚を意識した。優花なら、きっと気立ての良いいい嫁になってくれるに違いない。
「たまに優花のところでうまい飯食ってるよ。」
「ごめんね、優花ちゃん。昔っからよく食べる子でね。食欲がないなんてことなかったのよ。」
たしかに昔からよく食べてて、言ったことは否定しない。高校時代には、部活帰りにラーメン大盛り食べて、帰ってから夕食なんて普通だったけどさ。
「いえ、大丈夫です。余り物が出ないから、かえって助かるくらいなんですよ。」
次の日は朝から歴史が大好きな優花のために、会津若松市内を見物して歩いた。会津若松は、幕末の戊辰戦争の際、会津若松城が陥落したと勘違いした白虎隊が非業の死を遂げた場所だ。
夕食は多喜という郷土料理屋で、鮭わっぱ飯を注文した。わっぱ飯とは、竹を曲げて器にし、その中に具を入れて炊き込んだ会津若松の名物料理だ。鮭のほぐし身の他にもいくらがたっぷりとのっかっていて、これが絶品だ。
そして次の日は、雨が降ったけど、ラーメンが大好きな優花のため、電車に乗って喜多方まで足を伸ばし、喜多方ラーメンを堪能した。どうやら、優花は喜多方ラーメンがお気に召したらしい。
雨の喜多方市内を歩いていると、高校のときの同級生だった北村に会った。
「久しぶりだな。」
北村は、子どもを抱いたきれいな女性と歩いていた。
「結婚したのか?」
「あぁ。去年の春に。これが娘の凛。」
そう言って、隣で眠る子どもを指さした。
「お前は今、何してるんだ?」
「京都で大学生。これが彼女の優花。」
そう言うと、優花は頭を下げた。
「きれいどころじゃん。早いところ、嫁にもらっておけよ。」
北村と別れた後、優花は俺の顔を見て、
「こういう田舎の人って、みんな結婚早いの?」
と聞いた。
「早い人は早いよ。大学行かずに高校卒業で就職したら、20歳で子どもがいるなんてザラだし。」
「ふーん。じゃ、アキは遅い方なのかしら?」
「田舎出身でも遅い人は遅いんじゃないかな? うちの親だって、結婚したのは30ぎりぎりだったみたいだし。」
この発言は、俺との結婚を少しは意識しているということだろうか? そうであって欲しいと思う。
京都に帰って、9月のよく晴れたある日曜日、俺たちは大阪に遊びに出た。梅田のHEPの上にある赤い観覧車(通称:カタツムリ)に乗ったり、アイスクリームを食べたり、買うわけでもない服を選んだりもした。
観覧車に乗るとき、乗り場で写真を写してくれる。降りてきた後には、写真が出来上がっているというわけだ。欲しければ、1枚1000円で買うことができる。
当然(?)優花が欲しがって、1枚買うことにした。優花が俺の腕に自分の腕を絡めている写真だ。
家に帰ると、優花はその写真をデスクの脇の壁に貼った。
「これで1人の時でもアキの顔を見られるでしょう?」
そこには以前、優花がまだ親分と付き合っていたころ、同じようにHEPで写した写真が貼ってあった場所だ。
夜、優花の部屋でコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、画面の上に阪神の優勝を告げるテロップが流れた。いつもなら6月くらいで失速するのだが、今年ばかりはそのまま勝ち進み、8月からはぶっちぎりの強さを見せつけて、9月に入るころには優勝が秒読み状態だった。
優花はこぶしをぐっと握りしめてガッツポーズをした。そんなに野球は詳しくないし、好きでもないと思っていたんだが? そう思っていると、
「これで阪神百貨店とか、スーパーがセールになるわね!」
と言った。どこまで行っても、まさに1人暮らしの鏡だな。
その夜は、近所の商店街に酔っぱらったおじさんたちの六甲おろしが一晩中鳴り響いたことは想像に難くない。負け続けて、18年ぶりにリーグ優勝したのだから、関西人にとっては待ちに待った瞬間だろう。
次の日から一週間近く、関西のスーパーや百貨店は優勝セールでてんてこ舞いだった。特に梅田にある阪神百貨店は、朝から長蛇の列ができて、テレビのワイドショーで実況中継されたほどだった。
優花もここぞとばかりに大量の保存食品を買い込んで、俺はその荷物持ちに付き合わされた。
「隆行」が出てきたのは、そんなある日のことだった。
優花はその日、朝から滋賀の学舎に論文の資料を読みに行くとかで、自宅を出たらしい。
ところが、俺の携帯に「優花が倒れた。」という連絡が病院から入った。もっとも、その連絡を聞いたのは、夕刊の配達が終わった夕方になってからだった。
病院の話では、古くなった卵とベーコンを半熟の目玉焼きで食べた上、すぐに自宅から駅までの道を走ったことによる食物依存性運動アナフィラキシーではないかということだった。これは食物アレルギーの一種で、全身に発疹ができてけいれんを起こす。処置が遅ければ、死に至ることさえある。
病院に着くと、優花はベッドの上に座って、学校の図書館から借りた分厚い歴史書を読んでいた。ベッドのサイドテーブルには、だれかが持ってきたらしい団子の箱が置いてあった。
「アキ?」
「具合はどう?」
「うん。もう何ともないわよ? 点滴繋がれている以外は。」
点滴にも慣れた様子だ。優花はあまり体が強くなくて、小さいときは入退院を繰り返していたと聞いたことを思いだした。
ベッドの上の優花は、起きあがって本を読んではいるものの、まだ顔が青白い。発疹が出た後が、うっすらと赤く残っていた。
「だれか来たの?」
「うん。隆行がね。」
「隆行」。その名前を聞いて俺はむっとした。
「何でその隆行が、俺より先に来るんだよ。」
「アキ? それは……アキより先に連絡が付いたからじゃないの?」
「何でそいつに連絡がいくんだよ。」
ここが病室でなければ、もっと大きな声で話していたかもしれない。
「今日、瀬田で一緒にお昼ご飯食べる約束してたんだけど、こんなことになったから、看護士さんに電話してもらったのよ。」
そう言われて、俺の中で疑念がむくむくと頭をもたげてきた。きっと、優花はそんな風にして、俺に隠れて、その隆行という男と会っていたに違いないと。
「飯くらい、1人で食えるじゃないか。何で別の男と食ってるんだよ?」
「ご飯くらい、一緒に食べたっていいじゃない。別に泊まってくるわけじゃないんだし。」
あ、開き直った。ここまでくるともう止まらない。
「どうせ、泊まってくる気だったんじゃないのか?」
そこまで言ってはっとした。違う、こんなことを言いたいんじゃない。しかし、気付いたときには遅かった。
ゆらりと顔を上げた優花はくちびるをかみしめていた。そして俺の顔を見ると、こう言った。
「帰って。」
静かな、それでいて怒気をふくんだ声だ。
「優花……。ごめ……。」
「聞きたくない。帰って。私をそんな風に見ていたんでしょ。もうたくさんよ。」
そこへ看護士さんがやってきた。
「深山さん、もう少し静かにお話しして下さいね。」
俺はすごすごと帰るしかなかった。
次の日の昼間、病院に行くと、優花は退院した後だった。俺はその足で優花の家に向かったが、優花は部屋にいなかった。携帯に何度もかけてみたけれど、優花は気付かないのか、それとも無視しているのか出ることはなかった。
夜、専門学校が終わった後、もう一度優花の部屋に行ってみると、今度はちゃんと部屋の明かりがついていた。おそそるおそるチャイムを鳴らすと、ドアのチェーンをかけたままの状態で、優花が顔を出した。
「何?」
やっぱり怒ったままだ。声がまだ低く、機嫌が悪いときの声だ。
「ごめん、あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。」
「だから?」
「許して欲しい。また、一緒に飲んだり、大阪に遊びに行ったりしようよ。」
そこまで言うと、ドアが閉められた。「もうダメか。」と思うと、今度はチェーンを外した状態でドアが開いた。
「ここじゃなんだから、中入って。」
優花に促されて、中に入った。数日前に来たばかりなのに、もう何ヶ月も来ていないような感じがした。
テーブルを前に座ると、優花はこう切り出した。
「別れて。」
「ワカレテ。」一瞬、何のことだかわからなかった。予想もしていなかった。
「優花……?」
「昨日、病院であんなところ見られて決めたの。」
優花は静かな口調で続けた。
「私が体弱いのは知っているわよね? 小さいときから入退院を繰り返してきて、中学に入るころになって、やっと運動できるようになったの。でも最近、また発作を起こすようになって、夏休み、地元の病院に行ったら、『そう長くはもたないかも知れない。』と言われたわ。」
発作? 俺といるときは、一度もなかったじゃないか。優花はそんな発作を抱えて、ずっと黙っていたのか?
それにしても、優花が死ぬということか……?
頭では理解していても、感情がついていかない。
「もう点滴や酸素吸入器をつけて、面影がなくなるほどやせた状態を見られるのは嫌なの。アキは、もし私が倒れたら、また病院に来るわよね? そのとき、そんな状態を見られるのはたまらないわ。」
「優花……。優花はたった1人で死んでいくつもりか?」
その問いかけに、優花は目を伏せて小さく、だけど強くうなずいた。
「そんなことさせない。優花をたった1人で死なせるもんか。」
「私の最期のわがままだと思って聞いて。やせて、機械に頼って生きているのがやっとという私じゃなくて、今の私を覚えておいて欲しいの。だから、わかるでしょう?」
優花の目には涙が浮かんでいた。
俺は何も言わずに、部屋から出た。足取りは重く、ずるずるとひきずるように帰ったことしか覚えていない。
家に帰っても、何もやる気が起こらなかった。優花が離れていく夢を何度も見て、その度に汗をかいて目を覚ました。テレビを見ていても、出演者の声は耳を素通りし、視界は全部モノクロだった。食欲なんかないのに、味を感じないインスタントラーメンやハンバーガーを胃に入れている自分が滑稽だった。
長い夏休みが終わり、授業が再開されたが、優花を学校で見ることが少なくなった。学科が違うのだから、当然、履修する授業も違うわけで、元から顔を合わせることが少ないのだが、以前は廊下ですれ違ったり、学食にいるのを見たりしたのに、今は、それすらもなくなってしまった。
そんなある日、優花の部活の後輩に学食で声をかけられた。
「あの、優花先輩の彼氏さんですよね。」
顔を上げると、いつか居酒屋で会った女の子だ。
「ちょっとお話いいですか?」
学食を出て、木陰のベンチに俺たちは腰を下ろした。
「優花先輩のことなんですけど、今、どうしていらっしゃるんですか?」
どうやら、引退しても、今までマメに顔を出していたサークルにも顔を出していないらしい。彼女の話では、最近は、部員のだれ1人として連絡を取っていないらしい。
「俺も実は彼女と別れちゃって、今、彼女がどうしているか全くわからないんだ。」
「そうなんですか……。」
俺は、何とも言えない不安に襲われた。部屋で倒れている優花が目に浮かぶ。
「時間ある?」
「はい。」
俺はその女の子をバイクの後ろに乗せて、優花のマンションに向かった。
〜♪
何回かチャイムを鳴らしたが、返事がない。魚眼レンズで中をのぞくと、見覚えのあるスカートのすそが見えるが、それが動く気配はない。
以前渡されて、返しそびれた合い鍵で部屋のドアを開けると、優花がテーブルに突っ伏しているのが見えた。
「優花!」
部屋に駆け込むと、手首を取って脈を調べる。すると、弱いながらもかすかに脈があった。しかし、それは異常に早い。普通なら1分間に60〜80回くらいだというのに、今の優花の脈は1分間に100回近いだろうか。
「救急車呼んで。」
女の子は気が動転しているのか、119番にかけてもなかなか話が通じていないらしい。俺が代わると、彼女はへなへなと床に座り込んだ。
「場所は?」
「京都市下京区薬園町××―○○。302号室。」
「目印になるようなものは?」
「マンションの1階が美容院です。向かいは化粧品店。」
「名前は?」
「深山優花。」
「年は?」
「21歳。」
「すぐに救急車が向かいます。」
救急車は5分で到着した。それまで心臓マッサージと人工呼吸を繰り返したが、救急車が到着したとき、優花はほとんど自力で呼吸していなかった。
「優花先輩……!」
女の子はもう泣きそうだ。
病院に運び込まれると、優花はすぐに処置室に運ばれた。「処置中」という赤いランプがむなしかった。
それからはあっという間だった。
優花の葬儀は、まだ残暑が残る9月の末、優花の地元で行われた。
葬儀には優花の幼なじみや、高校の友達、大学の友達など、多くの人たちが参列した。死因はストレスによる心室細動だった。病院に着いたときには、もうほとんど手遅れの状態だったらしい。
出棺を寺の門で見送ると、たくさんの人が霊柩車に向かって手を合わせていた。
空を見上げると、悲しいくらいに澄んだ青空だった。
空を見上げて、元気だった優花を思い出した。
親分と付き合っていたころの「姉御肌」な優花。
付き合い始めたころ、嵐山で星を見上げていた優花。
3回生の文化祭で、サークルの幹部だったために、スーツを着て見学者の対応をしていた優花。
どれも鮮明に思い出せた。その優花が、これから焼かれて灰になってしまうことをどうしても受け入れられなかった。
タタン… タタン…
夏、俺は1人で電車に乗っていた。あれからもう1年近くがたつが、思い出すのは優花のことだった。手には文庫本、窓枠には缶コーヒー。開け放った窓から、ときどき夏草の匂いをのせた風が吹き込んでくる。窓の外には風になでられる麦畑が一面に広がり、その向こうには虹も見える。
内容もさっぱり頭に入らず、読んでいた文庫本を閉じ、缶コーヒーを一口飲んだ。買ったときには冷たかったコーヒーも、この暑さでぬるくなってしまった。
「別に正直言ってセールスやりたいわけじゃないのよ。私がやりたいのはその次。受かった会社ね、1年半営業やったあと、希望を出せば別の部署に異動させてくれるの。その時にイベント企画の部署に行きたいのね。夏休みなんかに会員になってる子どもを連れて、英語圏の国で、現地の子どもたちと一緒にキャンプやホームステイする企画をやりたいんだ。」
不意に、優花の声が耳元で聞こえた気がした。就職が決まって、一緒に飲みに行ったときのあの声だ。まっすぐに前を見つめ、夢を語ったあの声だ。本当なら今ごろ、大阪かどこかで、営業職として飛び回っているはずだったのに。
でも空耳だ。どんなに想っても、彼女は俺の隣にはもういない。もう2度と並ぶことはない。
俺は写真を1枚取りだした。優花と梅田の観覧車で撮った、あの写真だ。
どのくらいそれを見ていただろう。俺は1回うなずくと、それを破り、窓の外へ差し出した。バラバラになった写真が、列車の後ろの方へ飛んでいった。写真はすぐに見えなくなった。
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