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幸せの黄色いパンツ
作者:貞次シュウ
テーマ小説『色』への参加作品です。
 テレビにはテンションだけが妙に高く、笑いの音声だけを被せられた浮いた芸人が一人空回りしている。

 私は何とはなしにそれを眺めながらストレッチに励み、クスっと笑う事もなく、少しでもスタイルを保つために健気な努力を続けていた。

 今年で三十二歳。いまだ安めのモルタルアパートに女の一人暮らし。二十代に夢見ていた幸せな人生設計は既に崩れ去り、今や生活に疲れ果てて漠然とした不安を誤魔化す毎日だ。

(あいつ、今に目にもの見せてやるから!)

 そりゃあバラエティー番組を見たところで笑える筈はない。今日の出来事を思い出すだけで腹わたが煮えくり返ってくるのだから――


「川口さん、なんでこの伝票入力終わってないの?」

 私は今日締めの売上管理を片付けようとパソコンを開いたのだが、そこに表示されるのは『データ未入力』の文字ばかり。思わず入力担当の女の子に食ってかかってしまった。

 その川口は悪びれた様子もなくクルリと椅子を回転させると、あからさまに不満を露わにしてのたまった。

「課長に頼まれた仕事があったんです」

 少し口を尖らせると、縦巻きパーマの毛先に指を絡ませる。自分でゴージャスだなんて思ってるのだろうか? 団扇みたいなつけまつげに濃すぎるアイライン。私から見ればキャバクラ嬢となんら変わりはない。

「私達の仕事を優先させるべきじゃないの? 自分の仕事放っぽりだしてまでやる事ないじゃない。やるなら残業してよ」

「昨日はデートなんで無理でした。先輩こそ残業してやれば良いじゃないですか」

 相変わらず口の減らないクソガキだ。と言うか、全然理屈の通らない屁理屈を平然と言ってのける。

「どうせ用事もないくせに」

 再び椅子を回転させつつ、背を向ける川口はボソリと呟いた。

(何だと、こいつ!)

 この時の感情を一言で表すならば『キイーッ!』である。しかもそれだけでは済まされず、更なる追い討ちが背中から浴びせられた。私を呼んだのは二つ年下の主任と呼ばれる小僧だ。

「小沢さん、怒るとシワが増えるよ〜。スマイルスマイル」

(てめえは笑いジワまで増やしたいのか?)

 なんで低脳のバカ女に甘いんだ、男は。ふざけるんじゃない。私がどれだけの仕事量をこなしてると思ってるんだ。

 ハッキリ言ってこいつらの三倍は働いている。お前らがくだらないお喋りばかりしてる間にも、こっちは必死に働いてるんだ!
 それを誰も、一言も褒めてくれたことはない。それどころかここ三年、給料も上がってない。

(やってらんないっての!)


 ――まあ、そんなこんなでイライラしながらパンツ一丁で大股開いてストレッチしてるわけだ。夏で暑かったし。

(明日は黄色いパンツでも穿くかなあ?)

 開脚したまま前屈してると、少しほころびが出てきたピンクのパンツが憐れみを誘った。

 別に黄色のパンツが勝負パンツなどと言う訳じゃない。でもその何の変哲もないナイロンのパンツは私にとって特別なのだ。

『幸運の黄色いパンツ』私はそう呼んでいた。

 宝くじが五万円当たった時も、前沢牛プレゼントの抽選が当たった時も、アイスの当たりが出た時も私はそのパンツを穿いていた。

 そりゃあ単なる偶然だろうし、いつもラッキーな事があるわけじゃない。でも気分を変えたい時なんかは穿いてみる。それだけで沈んだ気持ちも少しは軽くなる気がするのだ。


 翌朝は快晴だった。いつもは重い瞼と頭もなぜかスッキリしている。夏物のベージュのパンツスーツの上からポンとお尻を叩いた。

(さすが黄色いパンツ!)

 今日は何か良いことありそうだぞ……と、二階の部屋から階段を降りた。しかし希望に満ちた今日と言う日の第一歩を踏み出したとたん、私は絶望を踏みしめる事となる。

 靴底にぬるりとした感触と僅かに滑る感覚。

(これってもしかして……)

 恐る恐る足下に目を落とすと湯気の立ってそうなお犬様の落とし物だ。

(冗談じゃないわよ!)

 血の気が引くのも無理はない。だって今日は気分が乗ってたからとっておきのサンローランのサンダルを履いて出たのだから。

 はたと前方を見れば、階下のババアがキャンキャン煩いバカ犬連れて散歩している。

(絶対あいつだ!)

 夜中に鳴き声で叩き起こすだけじゃ飽きたらず、よくも……

 怒りをぶちまけたい衝動に駆られるが、電車の時間もそれほど余裕が有るわけではない。とりあえずそのババアの部屋の玄関先に汚物をこすりつけて落とし、ついでに拭ったティッシュもお土産に置いてやる。

(やばい、朝から泣きそう)



 月末締めに追われる私は、昼食に行く暇もない。ガランとした事務所内でパンを片手にパソコン入力。それもこれもあのバカ女どものせいだ。

 昨日までにやるべき仕事を今日になってようやく腰を上げる始末。おかげでこっちはカバーするのにどれだけ苦労を強いられる事か……

(う……来たかな?)

 朝飲んだピンクの小粒が効いてきたのか、下腹部に搾られるような痛みと悪寒を覚え、お腹をさすりながらトイレに腰掛けた。

(今日こそお願い!)

 もうかれこれ一週間のご無沙汰なのだ。そろそろ産まれてもらわないと肌にも影響してしまう。

 誤解の無いように男性読者に言っておくが、この下腹ポッコリは決して脂肪ではない。ウンコが溜まっているだけなのだ。

 重ねて言うが『エイ・エル・エル・ユー・エヌ・ケイ・オー!』オールウンコだ。

 そいつがようやく日の目を見そうな腹具合となってきた。蝉の気持ちが良く分かる事だろう。すぐ流されてしまうのは哀れだが。

 そんな貴重な時間に突然トイレのドアが開く音がすると、奇声を上げながら騒がしい軍団が入ってきた。

(よりによってこんな時に……)

 声の主は言わずもがなあの川口。それを取り巻くバカ女二名もご丁寧に一緒の様子だ。

 グッと出かかったものを引っ込めるべく力を入れなければならない。ヘタをすればオナラも併発しかねない状況だ。

 奴らは私がそんな状況にあるどころか、誰かが個室に居ることすら気付いてないようだ。化粧品の音を立ててポーチをまさぐり、声のトーンを更に上げた。

「営業課の岡田マジしつこいんだけど、誰か引き取ってやりなよ」

「うわ、アタシも誘われた。あのブサ面思い出すだけでも吐き気する」

「マジ? 身の程分かってないんじゃない?」

 社内じゃ愛想良く喋ってるクセに、裏ではこんな言われ方だ。そして川口は更に聞き捨てならない台詞を口走った。

「小沢のババアなら丁度良いんじゃない?」

「うわ、ピッタリかも!」

「意外とハアハア言いながらむしゃぶりつきそう!」

 私の頭の中では、血液が文字通り沸騰しそうな程熱くなっていた。怒りで唇が震えるなど余程のことだ。この一瞬で百万個は脳細胞が死滅したことだろう。

 そこからはまさに言いたい放題だった。

「飢えてんだろうなー」
「男とか絶対いないし」
「電マが恋人でしょ?」
「なに? 電マって?」
「電気マッサージ機よ」
「え? どーゆー事?」

「アソコに当ててオナってんのよ、あのババア」

 どっと室内がバカ女どもの矯声に満たされ、私の脳内の回路が一本、ぷつりと音を立てて切れた。このまま言われっ放しで黙っていられる訳はない。

「マジうけるんだけど!」
「絵づらキモ過ぎー!」

 私は立ち上がろうと足に力を込めた。しかしその瞬間――

『ぶうっ』

 私の動きと同時に外の騒ぎも一瞬で静まる。何という失態だろうか? これでは出ていけるわけがない。それこそ一生の笑い者である。

 切れた回路はすぐさま修復され、これからの展開に息をのむ。そうだ、私は貝になろう……などと、今は現実逃避が精一杯。

 コソコソと喋る声がドアの音と共に消えた。そして一呼吸置いた後、割れんばかりの笑い声が響いてくる。

(オナラだって……)

 自分を客観的に眺めてみると、これほど可笑しなシチュエーションも滅多にないだろう。まるでネタ話だ。

「くっ……あはは」

 可笑しくて誰も居ないトイレに私の含み笑いが響く。しかも忘れていた便意も甦ってきた。

「やだ……あはっ……は……えぐっ……ふふ……ふぇ……」

 可笑しくて情けなくて、悲しくて……

「うええ……ええっ……」

(せっかく黄色いパンツ穿いてきたのに)

 膝まで下ろされた特別なラッキーアイテムを眺めながら、私は一年ぶりに会社で泣いた――



 ツイてないときはこんなものだろう。駅を降りると土砂降りの雨だった。いつもはバッグに忍ばせているコンパクトな傘を、今日に限って持ってきていないとは。

(どうでも良いや)

 半ば投げやりにスプリンクラーがぶっ壊れたような夜の町に身を投げ出す。お気に入りのスーツもシャネルのバッグもあっと言う間に水を含んで重さを増した。

 そんな時、ふと母親の声が聞きたくなった。雨に濡れるのも構わずバッグから携帯を取り出す。そして遠い田舎の実家にダイヤルした。

「……もしもし、あたし」

『紀子ね。どげんしたと? アンタから電話してくるげな珍しか。なんかあったとね?』

 さすが母親だ。幾つになっても娘の事は分かっている。私はその言葉だけで涙がこぼれそうになっていた。

「ねえ……家に帰って来ても良いかいな?」

 母親は一呼吸置いて静かに、そして言い聞かせるように話す。

『当たり前やろ。いつでん帰って来んしゃい。ここはアンタん為の家ばい』

 優しい言葉は私の感情の堰を切ってしまった。

「あう……もうね、耐えられんと。えぐっ……辛かとよ、お母さん。もう疲れたと!」

 雨が髪を濡らして、滴がとめどなく溢れる涙を洗い流してゆく。もう本当にどうでも良いのだ。

『うん……いつでん帰って……』

 そこで母親の声は途切れた。雨でスピーカーがイカレたのかそれとも他のどこか? いずれにしても手にとった携帯は既に水没となんら変わりはない状態となっていた。

 音を無くした携帯電話を眺めている私。しかし切り替わるようにリアルな声が耳に飛び込んできた。

「どうぞ」

 突然そんな声が掛けられると、今まで容赦なく頭に落下していた雨粒がボツボツと音を立てて遮られる。

「へっ?」

 頭の上には黒い傘。その傘を持つ手を目線で辿ると、そこには絶世の美青年が立っていた。

(えっ? えっ?)

 一撃で心臓を矢で射抜かれたような……とはこの事だろう。白い肌に中性的な面持ち。長い睫に優しそうな二重の瞳。

 はっきり言おう。今まで泣いてましたが一目惚れだ。だけど泣いた数だけ落胆も知っている。

(無理目)

 私は「結構です」と言うと駆け出した。しかし一方で期待する自分がいる。もしかしたら追い掛けて来てくれるかもしれない。

 そんな虚しい期待を込めつつ……歩を止めた……


「やっと止まってくれた」

(えええーっ!)

 有り得ない。絶対に有り得ないシチュエーションだ。私は幾つだ? 彼は見たところ二十代前半。しかも……

 私は恐る恐る振り向いた。

(超美形ーっ!)

 驚く私をよそに優しく傘を差し出してくる彼。

「あなたがこの傘を使ってくれなかったら、僕は一生後悔すると思うから」

(ナンパ? ナンパなの?)

 現実味のない展開に戸惑う私をよそに、彼は無理矢理傘を押し付けた。

「じゃあ、僕はこれで」

 そのまま立ち去ろうとする彼は躊躇無く雨の中に飛び込む。私はその白いTシャツの背中に思わず声を掛けていた。

「待って!」

 ――幸せの黄色いパンツを穿いた夜。私たちの恋は始まったのだ



 あれから半年。彼は三日と置かず私のアパートに出入りするようになっていた。季節は冬。毎年身を縮めるようにして過ごしていたのが嘘のように暖かい。

 彼の名はナオと言った。某有名音大の院生で、オーケストラのチェロ奏者を目指している。何たらフィルハーモニー楽団に入るのが夢で、その夢に向かって必死に頑張っているのだそうだ。

 この半年間、私は夢心地だった。忘れていた少女のときめきを取り戻し、女としての喜びを満喫している。

 会社でも随分と変わったようだ。あれほど憎らしかったバカ女どもにでさえ、あまり腹が立たない。むしろ私のナオに比べればジャガイモのような男を連れて歩いている姿に憐れみさえ覚えた。

 ある時、レストランで偶然に川口と隣の席になった。その時の悔しそうな顔を思い出すたびに頬が弛んでしまう。

(ふっ、楽勝ね)

 某美形俳優に似ていると自慢していた奴の彼氏も、ナオを前にしてはチンパンジーにも等しかった。

 この世は薔薇色だ。私は貧乏だというナオの為に一生懸命尽くし、それが嬉しくてたまらない。

 そして、私達は好んで背伸びをした高級レストランへと通った。『感性を磨くためには美味しい料理を食べなくてはならない』という事を、ナオの先生が言ってたらしい。

『モン・サン・ミッシェル』

 それがこの店の名前だ。

「ナオ、おいしい?」

「うん。バルサミコがしつこさを抑えてるね」

 貧乏な苦学生の割には料理に詳しい。でもその知的な所と美味しそうに食べるナオを見てると、私は幸せだった。
 何度も何度もこの店へ足を運び、幸せな思い出が積み重なってゆく――

 そんな日々が続いたある日の事だった。安普請のベッドの中でナオは突然私に告げた。

「実は、ウィーンの交響楽団から声が掛かったんだ」

「え? ウィーン……って、凄いじゃない!」

「うん、やっと実力を認めて貰えたんだ」

 私は天にも登る気持ちだった。自分の彼が世界的なチェロ奏者として活躍する。そしてその傍らには私がいるのだ。こんな幸せがあるだろうか?

「でも問題がひとつあって……」

 長い睫を伏せて、ナオはトーンを低めにそう言った。

「問題って?」

「渡航費用から現地の当面の宿泊費、生活費とかさ……先立つものは実費なんだ」

 私は正直悩んだ。そしてある苦い思い出が頭をよぎる。

 前の男も開業資金と称して私から金を借り、そのまま行方を眩ましたのだ。

(でも、ナオは違うよね)

 ここで私が断れば全てが終わるだろう。もしかしたらナオの夢も潰えるのかも知れない。

(嘘じゃない)

 私は信じたかった。ナオの愛は本物だと信じたかったのだ。

「幾らくらい要るの?」

 ナオの胸に顔をうずめながら、私はそう問い掛けていた。


 そしてまたいつもの生活に戻る事となる――

 旅立つナオをフランス映画のワンシーンよろしく、空港で熱烈な涙の別れをするつもりだったのだが、それは『関空から出るから見送りはいいよ』の一言で済まされた。

 最愛の人との別れが西日暮里駅だなんて、生活感が溢れすぎてて笑い話にもならない。

 それでもナオは約束してくれたのだ。

『二年経ったら迎えに来るから』

 その時は私は三十四歳。待ってても良いのだろうか? もし見離されたら私は取り返しのつかない人生を歩む事になる。

(と言っても、すぐ別の男が見つかる訳じゃなし……)

 日曜日にスーパーで買い物をしながらそんな事を考えていた。

「あれ、小沢さまじゃないですか?」

 レタスの選別をしていた時だ。随分と渋めの、しかし甘い声に私は呼び止められた。振り向くと目鼻立ちが深い、歳の頃なら私と同じくらいの男性がカゴを抱えて立っていた。

 見覚えがあるような無いような……

「はは、分かりませんか?」

 そう言うとその男性はカゴを下ろして髪をかき上げて見せる。

「あー、モン・サン・ミッシェルの!」

「そうです。良かった、分かってくれて」

 確かレストランのマネージャーか何かの人だ。いつも店内にいて指示を出している。

 髪を下ろしていると意外に若い事に驚いた。

「今日はお連れ様は?」

「ええ……それが」

 私は自分の不安を誰かに聞いて貰いたかったのかもしれない。事の成り行きをこんな所で他人に話してしまっていた。

 話を聞き終えた彼は、少し訝しげな表情で目線を逸らしてつぶやく。

「ウィーンの交響楽団が音大生に……」

「あの、何か?」

「いえ、別に。気にしないで下さい。それより来週うちの店でデザートフェアをやるんですよ。会員様限定なんですが、是非来て下さい」

「私は会員じゃないですよ」

「ああ、気にしないで。僕に直接言っていただければ」

 そう言うと軽くウインクをして見せた。雰囲気通りキザな男のようだが、不思議と嫌味がない。顔だってよく見なくてもかなりの男前である。

「でもご迷惑じゃ……」

「いいえ、これでも僕がオーナーですから」

 正直驚いた。私と幾つも変わらないくらいなのに、あのレストランのオーナーだなんて。そして自分の境遇と比べてため息が出る。

(世の中不公平だ)



 次の週、再び会社のトイレの個室で私は貝に成らざるを得ない状況に追い込まれていた。

(まったく、誰かいるか確認くらいしろっての)

「小沢さあ、最近元気ないじゃん。あれ絶対男に逃げられたんだって」
「男居たの?」
「それが居たのよ、結構若い男」
「ね、ね、どんな男? どうせブサイクでしょ」

「それがムカツク事にカッコいいんだわ」

 その答えが予想外だったのだろう。他の二人は言葉を失ったように黙り込んだ。

「でももう別れてるよ、あの様子じゃ」

 口紅を塗りながら喋っているのだろう。語尾が曖昧な台詞だった。

「ざまあみろって」

 もう怒る気力さえ湧いてこない。きっとあの女の言うとおりなのだろう。客観的に見れば十分わかる事ではないか。それでも私は頑なに否定してしまう。信じる事をあきらめきれないのだ。

 明日は会社を休もう。そうだ、黄色いパンツを穿いて出かけよう。春になったからミニスカートでも穿いて、お気に入りのアクセでお洒落して街に出よう。

 たまにずる休みしたって良いではないか。ここまでこんなに頑張ってきたのだから。



 翌日私は少しハードに黒いレザーのミニを穿き、同じくレザーのジャケットに身を包んで街に出た。ぶらぶらと歩いていたつもりが、いつの間にかナオとの思い出を辿っている自分に気づく。

 一緒にショッピングしたモール街、アイスを食べた公園、一緒に涙した映画館、そして……

 とっぷりと日が暮れた頃、私はいつの間にかモン・サン・ミッシェルの前に辿り着いていた。あのオーナーが外に出て、イーゼルに掛けられたコルクボードにメニューを加えている。

「こんばんは」

 私は努めて明るく声を掛けた。その声に振り向いたオーナーは私を見るなり驚いた表情を見せて狼狽した。

「あ、小沢さま……あの、せっかくお越し下さった所申し訳ないのですが、あいにく満席でして……」

 どうしたのだろうか? いつもはクールな態度を崩さないのに。

「いえ、通りかかっただけですから」

 私はウインドウ越しに店内を眺めながら立ち去ろうとする。しかしそれを遮る様にウインドウとの間にオーナーが体を滑り込ませて来た。

「ああ、今日はどちらまで?」

 明らかに挙動不審だ。私は店内を見たいのだ。ナオとの思い出が一番詰まっているこの場所を。この思い出だけで私は生きていける気がする。時々ここに来て思い出に浸れればそれで満足なのかも知れない。

 しかしそこには目を疑う光景が待っていた。

(ナオ……?)

 いつも二人で語り合った席だった。そこには居ない筈のナオと、そして見知らぬ女が楽しげに食事をする風景があったのだ。

(どういうこと?)

 心臓をむしられるような痛みが走る。気が遠くなるほど血の気が引いてゆく。その薄れそうになる意識の中で、私の夢は粉々に砕け散っていたことを認識した。

「ふざけんな!」

 絶望を怒りに切り替えることで意識を繋ぐと、私は肩を怒らせて、ドアを蹴破らんばかりの勢いで店内に殴りこむ。オーナーは一瞬止めようとしたようだが、後から追ってくる事は無かった。

 ナオの背中が近づいてくる。やはり愛おしさが混在し心が折れそうになったのだが、私も十やそこらの小娘ではない。ナオの前に立ちはだかるや、思い切り頬に張り手を見舞っていた。

「百万円、返しなさいよ!」

 私はどんな形相だったのだろうか? ナオは驚きと怯えが混ざった瞳を私に向けていた。

「あ、そういう事だったんだ」

 一緒に食事をしていた女が席を立つ。私と同じくらいの年だろう。恐らく私に言った事と同じ事をこの女にも言っていたに違いない。

 振り向かずに店を出て行く女をナオが追う。なんで先に私じゃないのだろうか? そこまで私には執着が無いのだろうか?

「お客様、お代を頂いておりませんが」

 出口で待ち構えていたオーナーがナオの腕を掴んだ。

「いや、金はあの女が……」

 情けない。私も情けないがナオにも失望していた。つかつかと歩み寄ると、私はナオを問い詰める。

「どういうこと?」

 ナオはたじろぐかと思っていたが、開き直るように顎を上げると私を見下すように一瞥した。

「どうって、なにが? 夢を見させてやっただけありがたいと思えよ。年増の恋愛至上主義……憐れだねえ」

 悔しかった。こんな男にコロッと騙されてしまった私が。私はその悔しさを思い切りナオにぶつける。右手に力を込めると、下げていたバッグで殴りつけたのだ。

「憐れで悪かったわね! 年を取ったら悪いのかよ!」

 腕を押さえられて自由の利かないナオを何度も殴りつける。

「夢を見せるなら最後まで見せろ!」

 思い出だけでも綺麗に残して置きたかったのに、なんでよりによってこの店で……

「女が一人で百万貯めるのがどんなに大変か分かってんのかよ!」

 こんなに頑張って生きてきたのに。

「恋愛至上主義で悪かったわね!」

 お気に入りのコーチのバッグの手提げが切れた。これも自分で自分へのご褒美だと一生懸命貯めて買ったものだ。

「だって……だって私は……」

 いつの間にか私はあらん限りの涙を流して泣き喚いていた。ずっと、ずっと耐えて生きてきた涙なのかも知れない。店内は静まり返り、客は全員ことの成り行きを見守っていた。

「私はこれでも……女なんだもん!」

 無残にぶら下がったバッグを揺らしながらそこまで言うと、涙で化粧の崩れた顔で睨み付ける。そしてそれに答えるナオの言葉はこうだった。

「痛えなあ……治療費と慰謝料で百万だ。これで貸し借りなしだな」

(このクソガキ!)

 頭のネジが二、三本ぶっ飛んだ私は、思わず身を翻した。以前K−1でやっていた後ろ回し蹴りが衝動的に飛び出したのだ。

 ゴルフスイングでジャストミートした時のような気持ちの良い衝撃が踵から脳に響くと、思わず身を屈めたオーナーの隣にマネキンのように気絶したナオが倒れこんでいた。

 肩で息をしながらそれをしばし眺めていると、そこでハッと我に返り後ろの客たちを呆然と眺める。もちろん向こうも私と同じような表情でこちらを見ていた。

「あ……すいません……私ったら」

 再びパニクッた頭で店内とオーナーを交互に見やり、身の置き場を模索する。しかしその時、店内のどこからかパチパチと手を叩く音が響いた。

(えっ?)

 その音は二箇所、三箇所と出所を増やし、やがて店内を揺るがすほどの拍手の渦が巻き起こる。

「よくやった!」
「いいぞ、お姉さん」
「かっこ良かったわ!」

 捲し立てるように喝采と拍手が湧き、私は恥ずかしさと申し訳なさで胸が一杯になった。

「お客様、お騒がせ致しました。無銭飲食しようとした男をこのお嬢様が取り押さえてくれました。もう一度大きな拍手を」

 オーナーは快活に笑いながら、大仰な手振りで客をさらに煽る。私はさすがに恥ずかしくて大きく頭を下げると店外へと飛び出してしまっていた。



(ちょっとはスッキリしたから良いか)

 何となく足取りが軽くなったような気がする。暗い夜道を破けたバッグを引きずりながら歩いていた。

 と、その時。

「小沢さま、お送りしますよ」

 その声に振り返るとオーナーが追いかけて来ていた。

「憐れみですか?」

 私は少し卑屈にそう言った。

「まあね、確かにそうかも?」

 彼はそう言うとまたウインクしてみせる。

「でも僕も憐れんで欲しいくらいですからね。実は半年前、妻に逃げられましてね」

 なるほど、それで一人でスーパーに居たのか。

「ついでに食事なんてどうです?」

「あら、誘ってくれてるんですか?」

 彼は返事はせずに白い歯を見せて、子供のような表情で頭を縦に振った。

「あんな高級レストランじゃないですけどね……」

 自分の店の方向に親指を指しながら言葉を続ける。

「うまいモツ煮込みを食わせる店があるんですよ」

 私はその誘いに乗った。ジョークが得意な彼に涙が出るほど笑わせられながら、大騒ぎをして夜の街を練り歩いて行った。


 ――幸せの黄色いパンツを穿いた夜。私は本物の恋を、ついに手に入れたのだ。
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