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ホワイトデーは砂糖味

作者:黒椋鳥
 あれは僕が大学一年生。八月くらいの出来事だった。
 当時はまだ友人だった彼女と一緒にショッピングモールをブラブラしていた時のこと。僕はそこで、彼女に周りから奇異の視線が向けられている事に気がついた。
 何あれ?
 綺麗……お人形さんみたい。
 え、でもなんか……。
 不気味。
 お高く止まってそう。冷たい感じ。
 外人だよね? 日本人だったらウケるけど。
 ねぇ、目、おかしくない? カラーコンタクト?
 そういった無遠慮な視線は、言葉にしなくても放つ人の感情を雄弁に語るようで。僕は思わず顔をしかめた。
「……そんな顔しないで。慣れてるわ」
 鋭敏に僕の憤りを悟ったのか。服の裾を控えめに掴みながら、友人たる彼女は小さく呟いた。
 ウェーブのかかった、亜麻色のセミロングヘア。服を着ていても分かる日本人離れしたスタイルと、ビスクドールみたいな白い肌。そして……。宝石みたいな青紫の瞳。
 浮世離れした美貌は、確かにお人形に喩えられてもおかしくはないだろう。
 加えて、当時は知らなかったが彼女の血は四分の一が日本人。残りもなんと他三ヵ国の血が流れているという。
 日本という、他者と違うことをあまり良しとしないお国柄では、格好の好奇の的になり得ることなど、ちょっと考えてみればすぐに分かることだった。
「嫌いなのよ。この髪も。目も」
 気がつけば、悪意から逃がすかのように彼女の手を引いていた。すると彼女は僕に引きずられるがままに身を任せ、自嘲するようにそう言った。
 日本で生まれた日本育ち。それは話に聞いていた。だからこそ、彼女がたどってきた苦難を思えば、僕は拳を握り締めずにはいられなかった。
「まるで人間じゃないみたいって」
 その言葉が何だかとても悲しかった。だから僕は、それを取り下げる言葉かきっかけを必死に探して……。結局何も見つからなかった。
「誰が何と言おうと、君は人間だ」そんなのは誰にだって言うことは出来る。もっと違う。何かを……。
 その時だ。僕の目にそれが止まったのは。
 雑貨屋の店先にかけられた、ちょっと大きめな紺色のキャスケット帽。頭の中でイメージを照らし合わせる。
 あ、いいぞこれ。と、思った時には行動は早かった。
「……帽子被るのね。貴方」
 知らなかったわ。そう言いながら、彼女はレジで会計を済ませた僕をまじまじと、どこか楽しむように見てくる。それに対して僕は首を横に振り。そのまま少しの緊張を隠しながら、よかったら。と、買ったキャスケット帽を差し出した。
「……私に?」
「うん」
 僕と帽子を交互に見る彼女。その顔が、ほんの少しだけ憂いに染まったのを僕は見逃さなかった。いかん、これ勘違いした奴だ。
「そう、よね。貴方まで物珍しい目で見られちゃうもの。隠すのが一番……」
「ちょ! 待った待った! そういう意味じゃないから!」
 後に知る、彼女の微妙に物事を悲観的に捉える悪癖。その片鱗を垣間見た瞬間でもあったのだが、その時の僕は知るよしもなく。慌てて弁解するのに全力を注いだ。
「隠す目的は確かにあるよ。でも、君が考えているようなことじゃない。あと……単純に似合うと思って。君のその髪だからこそ」
「……私の、髪だから?」
 キョトンとしたまま、こちらを見つめる彼女に僕は何度も頷いた。
「君の目も、髪も……僕は綺麗だと断言できるよ。それこそ、良さが分からない奴の目には晒したくない位に」
「……っ、恥ずかしいこと言ってる自覚あるの?」
「……ごめん、今になって物凄い恥ずかしくなってきた」
 頬が少しだけ熱い。見ると、彼女の頬も朱色に染まっていた。肌が白いから尚更目立つ。僕はそれから目を逸らしながら、もう一度。彼女に帽子を差し出した。
「気に入らないなら小物入れになり、ブーメランにして遊ぶなり、雑巾にして捨てちゃって構わない。ただ……僕を救うと思って一回だけ被ってみてくれない?」
 自分でも脈絡のない事を言っている自覚はある。けど、傲慢かもしれないが、僕はどうしても払拭したかったのだ。彼女が自身に抱くマイナスイメージを。
 どうしてこんなに必死になっていたのかは、そこからかなりの月日が経ってから気づくのだが、それは置いておこう。
 彼女はおずおずと僕から帽子を受け取ると、まるで初めて自転車に乗る子どものようにおっかなびっくりな様子で帽子を頭に乗せ……。
 その瞬間。僕の中で時間が停止した。
「に、似合う……かしら?」
 あまりにも僕が固まったまま呆けていたので不安になったのか、彼女はいつもより上擦った声で問いかける。
 僕は言葉を発しようとしたが、結局出来なくて。最終的にただ無言で親指を立てる事で感情を表現した。
 バカ野郎言葉にしろ。と、思ったが、彼女にはそれで充分だったらしく。
「…………もう」
 キャスケット帽を両手で抑え、精一杯目深に被ろうとする彼女。小さな声で「……ありがと」と呟かれた時。僕は謎の安心と。不思議なくすぐったい気持ちが心を満たしていくのを感じていた。今にして思えば、僕はこの時点で、彼女に参っていたのかもしれない。
 必死になった理由の答えは、そこから丸一年と数ヶ月後に出てくる事になる。
 結構長い友達以上恋人未満の期間を経て。
 僕と彼女は結ばれたのだ。
 因みに、デザインが気に入らなかったのかは知らないが、彼女は帽子を部屋に飾りはしても、被って出かける事は二度となかった。
 密かに悔しかったのは……内緒だ。閑話休題。
 そうしてお付き合いが始まった十二月初め。そこから三ヶ月と少し。
 ありふれた特別な日がやってきた。


 ※

「ほい、ホワイトデー」
「はい。ホワイトデーよ」
 夕方十七時。彼女の部屋に訪れた瞬間に、短い言葉と共にお互いに小包を差し出し合う。なんだかそれがおかしくて、思わず僕らは同時に破顔した。
「バレンタインは、男の子からが主流らしいわよ」と、付き合う前に唆された、大学生活最初のバレンタインを思い出す。
 あれから一年。当時何も用意していなかった僕はもういない。恋人になってから初めてのバレンタイン。今度はしっかりとお互いにチョコレートを贈り合い。必然的に初めてのホワイトデーもまた、二人揃ってプレゼントを手渡す形となった。
「何かこう、捻りがないなぁ。いいけどさ」
「全くだわ。もっとロマンチックな渡し方とかないわけ?」
「マイステディ。ブーメランって知ってるかい?」
「カンガルー絶対殺すウェポンでしょう? あれ、本場のは戻って来ないらしいわよ。私が投げたのだとしたら、貴方即死ね」
 酷い会話もあったものであるが、これが僕らの日常だった。認めよう。これは友達以上恋人未満なんて、あまりにも曖昧かつ心地よいぬるま湯のような関係が続いた弊害だった。
 ……もっとも悪い気はしないからいいのだけれど。
 彼女に誘われるままリビングへ行くと、美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。夕食は既に用意してくれていたらしい。
「シチュー?」
「ええ、ちょっと奮発して、ビーフシチューよ」
「いいね。実はお酒も用意してきたんだ。食前、食中、食後。どこでも行けるやつ」
「へぇ、どんな……」
 僕が袋を差し出せば、彼女はちょっとだけ驚いたように口笛を吹き。嬉しそうに中を覗き込み。やがてジトリとした目を此方に向けてきた。
「〝同じ名前〟……駄洒落のつもり?」
「いや、まぁそう取られそうなものだけど……本当に何にでも合うんだよ。日本じゃ食前酒のイメージが強いけどさ」
 僕がそう言えば、彼女はそういうものなのね。と納得し、そのままお酒を冷蔵庫にしまう。
 夕食にはまだ、早い。出番が来るのはもう少し先だろう。
 戻って来た彼女と並んで部屋のソファーに腰掛け。少しだけ急くように、お互いの手元を見る。
 開けていい? どうぞ。と、お互いに言葉を交わして。僕らは包みに手をかける。
 中身に期待するなという方が無理と言うもの。それは得てして期待通りのものだった。もっとも、僕の方に限っては、一瞬それが何なのか分からなかったけど。
「これ、水飴?」
「あら、よくわかったわね。その通り。和風キャンディーよ」
「……その呼び方初めて聞くんですが」
「今作ったわ。いいじゃない。飴である事には変わりないんだし」
「まぁ、それもそうか」
 一頻りジョークを交わしてから、僕は贈り物を掲げる。綺麗な琥珀色の液体が、ガラス制のスタイリッシュな瓶に詰められていた。光にかざせば、綺麗に乱反射するそれを、僕は暫し眺めて視覚的に楽しんだ。小さい頃、お婆ちゃんが作ってくれたものを思い出す。瓶に入れた飴越しに、家の電気を見るのが大好きだったっけ。そんな回想に浸っていると、すぐ横で彼女が可笑しそうに吹き出した。
「……っ、子どもみたい」
「む、いいじゃないか。嬉しかったんだから」
 僕がそう言えば、彼女は安心したような顔でホッと息を吐いた。その手には、僕が贈ったロックキャンディの詰め合わせが、宝物のようにしっかりと抱かれている。
 彼女はまだ、うっとりとキャンディの山に見とれていて、もう一つの贈り物には気づいていない。こればかりは、口にしない事にしよう。これは〝リベンジ〟でもある。それに、自分からサプライズの説明をするのほど、悲しいものはないのだ。
 僕はよく彼女に鈍感と言われるが、彼女も負けてはいないと確信している。果たして仕掛けに気づくのはいつの日か。
「綺麗……宝石みたい。このロックキャンディ、貴方も手作り?」
「うん。中々に楽しかったよ。気に入って貰えたなら嬉しいけど」
 僕がそう言えば、彼女は無言で僕にもたれ掛かった。スリスリと綺麗な亜麻色が僕の肩に擦り付けられて、フワリとハチミツみたいな香りが漂う。目眩がするくらいのいい匂いに僕は脳がダイレクトに揺らされる錯覚に陥った。
「マシュマロやクッキーが来たら、泣いてたわ」
「流石に調べたよ。だからこそキャンディにしたんだ」
 あまり知られてはいないが、ホワイトデーの贈り物には意味がある。
 マシュマロは……製造業界からしたら風評被害も甚だしいが「あなたが嫌い」
 クッキーならば「あなたは友達」
 そして、キャンディー。つまり飴ならば……。「あなたが好き」だとか、愛しているという意味を持つ。
「……ね、食べさせて」
 甘えるように彼女がねだる。僕はリクエストに答えて、一粒のキャンディーをつまみ上げ、包装紙を破いた。青紫のそれを、そっと彼女の可愛い口元に持っていけば、彼女は雛鳥もかくやにそれを口に含んだ。
 僕の身体に電流が走った。ちょん。と、彼女の歯と舌が指先に触れたせいだ。口に優しく放りこむつもりが、謀らずも起きた小規模な事故。おかげで僕はついキャンディーを指から離し損ねてしまう。
 それを見た彼女は、ふと妙案を思い付いたかの如く楽しげに。それでいて蠱惑的な微笑を浮かべた。これは……多分ろくでもない事を考えている顔だ。そう直感した直後、あろうことか彼女は僕の指ごと味わうかのようにキャンディーへそのまま舌を這わせ始めた。
 ここで、どうでもいい情報を一つ。彼女のフェティシズムは――、手や指だったりする。僕のは彼女的に最高なんだとか。
 ……現実逃避はこれくらいにしよう。彼女は大胆に舌をスワープさせたかと思えば、淑やかに口づけをするように。キャンディーと僕の指を優しく翻弄し、啄んだ。
 あまりにも扇情的。かつセックスアピールに溢れた悪戯は、僕を彫像のように動けなくし、視線を彼女へ釘付けにさせる。
 一分か、二分は経っただろうか。ようやく力が抜けた僕の指から、キャンディーがようやく奪いとられ。カラン。コロン。という音を立てながら、それは彼女の口の中へ収まった。
 勝ち誇ったかのような上目遣い。それを見ていたら、身体の奥で熱が沸き上がる。火種が燻るような感覚を沈める為に、無意識で彼女が弄んでいた指を一舐めした。なかなかに……甘い。ちくしょうめ。
「……お味はいかが?」
「そうね。クラクラしちゃうくらい甘かったわ。癖になりそう」
 そう答えながら、彼女はキャンディを口に含んだまま、此方に流し目を贈る。期待するような。それでいてちょっとだけ背徳感に浸るような眼差しだった。
「僕も、食べたい……かな」
 水飴の瓶を指差せば、彼女は嬉しそうに蓋を開け……。
「ああ、困ったわ。スプーンがないの」
 取りに行かなくちゃ。わざとらしくそう言って、離れようとする。そんな大根役者の手首を、今度は僕が優しめに捕まえた。
 無言の見つめ合い。茶番だとはお互いに気づいている。しょうがないなぁ。と、肩を竦める素振りだけみせて、彼女は瓶を片手に僕の口元で囁いた。
「あーん、して。舌出して」
 言われるままにそうすれば、彼女は伸ばされた僕の舌の上で、水飴の瓶を傾ける。
 ヒヤリとした、トロミのある甘い蜜が僕の口に入る。受け止め切れず僅かにこぼれた分は彼女の白い指が掬い取り。優しく僕の唇へとそれを(いざな)った。
「……おいし?」
「狂っちゃいそうになるくらいには」
「あら、それは大変だわ」
 一ミリたりともそう思ってないのは明白だ。互いの顔を見れば、もうどうにもならない域にまで達してしまっている。
「……君のせいだ」
「ブーメランって……ああ、そっか。私、貴方に仕留められてるから、仕方ないのね。こうして迫られたら、即死だもの」
「それこそブーメランだ。ああ、僕も即死さ。とんでもない狩人だよ君は」
 僕がそう言うと、彼女は頬を染め、恥ずかしそうに目を伏せる。
「だって、期待はしてたけど、お互い本当にキャンディーを用意するなんて……自覚したら何だか堪らなくなっちゃって」
 ひとしきり罵り合いながら、僕の手が彼女の方に伸びる。
 だが、彼女はやんわりと、それに指を絡める形で押し止めた。
「まだダメ」
 くちゅり……と、彼女の口の中でキャンディーが転がる。
「せっかく貴方がプレゼントしてくれたんだもの。もう少し味わいたいの」
 潤んだ目が幸せそうに細められ、僕は知らず知らずのうちに唾を飲む。精神的攻守が目まぐるしく入れ替わるお陰で何だかジェットコースターに乗っている気分だった。
「……今日の君は焦らし上手」
「……普段の貴方には負けるわ」
 ただそれでも手持ちぶさたでどうしようか。と迷うことはない。僕にも彼女から貰ったものがあるのだから。
 あと、内緒の話になるが彼女はこういうプライベートの時間では、案外前言を撤回することが多い。……僕も人のことは言えないが。
「もう少し、僕も味わおうかな」
「あら、口にまた入れましょうか?」
「……いいや、それには及ばないよ」
 そこで僕の中にもアイディアが生まれた。
「水飴ってさ。料理にも使うんだ」
「……? 知ってるわよ? もしかして、一品作ってくれるとか?」
 キッチン、行っちゃうの? と聞こえてしまうあたり、末期だなぁとは思う。
「いや、君には悪戯出来ないし。離れるのも忍びないから……ここで料理しようかな……なんて」
 彼女の目がきゅっと細くなり。次の瞬間にはその端整な顔立ちに高揚を覆い隠すかのような、薄い嘲笑が浮かぶ。
「そうね……お料理なら、仕方ないわね」
 彼女の指が一つ。二つ。自らのブラウスを外していく。覗く魅惑の谷間や、リボンを思わせるセクシーな黒いフリルと赤いシルク生地には……。極力目を向けないようにして。すると不意に「ねぇ……」と、湿った声で呼び掛けられる。
「どうしたの?」
「プレゼントしておいてアレなんだけど、私、味見をしてなかったわ。ちゃんと美味しいか……不安なの。だから……私も水飴、ちょっと貰ってもいい?」
 嘘だ。と、直感する。食べ物関連で彼女が慎重にならない訳がない。だからこれは……罠だ。
 だが悲しいかな。男は罠と分かっても、飛び込んでしまうどうしようもない生き物だったりする訳で。
「成る程。そう言われると、僕も味見してないや。……僕も分けてもらってもいいかな」
 そんな訳はないけれど、そんな言葉を口にする。すると彼女は火照ったような表情のまま、自分の唇を指でなぞる。ここにあるわ。そう目は口ほどにものを言う。
「キャンディーなくなるまでダメじゃなかったの?」
「意地悪ね。分けっこしようって今言ったばかりでしょう? ……きて」
 どちらからともなく、火傷しそうな味見(キス)が始まる。下に組み敷いた彼女の身体がビクンと跳ね上がり。細い手足が僕の身体に絡み付く。
 互いの唇と、間に挟んだキャンディーを貪る音だけが部屋にひたすら響いて……数分も経たないうちにキャンディーは溶けてなくなった。
 口元に残ったのは、互いを繋ぐ水飴みたいな銀色の橋。それも刹那の間に陥落し、二人分の息遣いと鼓動の音だけが耳を支配する。
「甘っ……」
「ええ。甘いわ。ちゃんと出来てたみたいね」
 額をくっつけたまま囁き合う。目の前にはテカテカと光る柔らかそうな唇があって……。
「……本当に? キャンディー、美味しく仕上がってたかい?」
「…………うーん。どうだったかしら? 曖昧な気もしてきたわ」
 酷い建前を交わす最中、彼女の指が器用にテーブルに置いたキャンディーの袋へ伸びていく。が、それを僕は静かに寸前で引き留めた。
「これ以上は夕ご飯が入らなくなるよ」
「……ああ、そうだわ。私達ったら。夕食もまだなのに」
 恥じらいながらも、彼女の目は蕩けた光を帯びている。
 僕の真意を測りかねるように、何度か浅い呼吸を繰り返す彼女を僕は優しく抱き寄せた。
「持ってきたお酒ってね。種類にもよるけど、甘いデザートにも合うらしいんだ」
「……凄いのね。素敵」
「そう凄いんだ。だから……食前酒にしないかい?」
 どう取るかな。と、確認するまでもなく。彼女は小さく喉を鳴らした。柔らかい指が、優しく僕の背中をなぞる。
「お酒、冷蔵庫だわ。グラスもださなくちゃ」
「……それなら、立たないとね」
「ええ……。そうね。でも……案外手の届く所にもお酒はあるものよ」
 ぎゅうっ。と、抱き締められる。再び顔が近づいて、軽いバードキスを交わせば、彼女はくすぐったそうに身を捩る。
「どんなお酒か聞いてもいい?」
「そうね。偶然にも、貴方が持ってきたものと同じ名前なの。加えて……世界でも、今私の目の前にいる人しか味わってない限定品よ」
 どうかしら? と、首を傾げる愛しい人を前に理性の糸が切れていく。だが、それは彼女も同じらしかった。
 鼓動が更に早くなり、僕は目を閉じ深呼吸。
 うん、ダメだ。もう無理。

「……〝シェリー〟」

 耳元で彼女の名前を呼ぶ。その瞬間、彼女の身体が歓喜で震えるのを感じた。
「……ごめんなさい。私ももう、限界みたい。だって……あんっ!」
 熱を帯びた言葉の続きは、もう聞いてはいられなくて、僕は彼女の膝裏と腰の少し上に手を回し、しっかりと立ち上がる。
 一瞬驚いて身体を強張らせた彼女だったが、すぐに身体の力を抜き、そのまま幸せそうに僕へ身を委ねてくれた。俗に言うお姫様抱っこ。口には出さないが、多分彼女のお気に入りだ。
「もう……」
 羽みたいに軽くて。暴力的に柔らかい。その感触を楽しんでいると、彼女はあざとくも上目遣いで下から僕を見て、とどめの一言を口にした。

「……ホントに凄くて、素敵なんだから」

 それは夢にまで出てきそうなくらい、甘く蕩けるような声だった。

 ※

 いつかの帽子の話をしよう。
 彼からの初めてのプレゼント。件のキャスケット帽は、あれ以来私に被られることなく……とまではいかないが、殆ど陽の目を見ずに。だが大切に私の部屋に飾られている。
 何故? と思うだろうか。理由は二つある。
 一つは当時嬉しすぎて、被って外に行き、汚しちゃうのが嫌だったから。彼は知るまい。あの時より少し前から、私は貴方に恋してただなんて。
 二つ目は、自分の心境の変化から。自分の髪と瞳が嫌いだった。けど、それは昔の話。今は違う。不器用な彼の優しさに、私は救われたのだ。
 だからあのキャスケット帽は、部屋で当時を思い出してニヤニヤする私に観賞されるのが唯一の仕事だった。……我ながら酷い理由である。
「んっ……あ……」
 眩しい朝日が、カーテンの隙間から漏れてくる。ゆっくりベッドから上体を起こして、軽く一伸び。隣を見れば、彼はスヤスヤと未だ夢の中。微笑ましさと愛しさが込み上げるが、起こすのは忍びないので、頬に軽くキスを落とすのみに留めた。
 シャワーでも浴びようか。音を立てないようにベッドから降りて、私は部屋を横切りバスルームへ。と、そこで踵を返し、部屋のテーブルまで戻る。
 そこには昨晩に貰った彼からの贈り物。キャンディーの詰め合わせがあった。
 今の私はきっと気の緩んだ、だらしない顔になっているに違いない。悪い気はしないけど。
 キャンディーを一つまみ。包装を破り口に含めば、甘い砂糖味が私を楽しませて……。
「……あら?」
 そこで私は、ふと違和感に気がついた。今気付いたけど、キャンディーの入れ物がおかしい。袋にしては形がしっかりしていて。だが、籠や小物入れにしては浅いような……。
「……っ、あ」
 まさか。
 そう思って、キャンディーを一気に掴み、そっと横にどける。残されたものを見た瞬間。私は暖かな幸福感で、全身を包まれた。
 ただの袋や、小物入れなんかじゃなかった。それは、可愛らしい黒いベレー帽。その底には小さなメッセージカードが忍ばせられていて。
『今度こそ似合うと思う』
 そう記されていた。
「バカね……」
 もしかしたら、一度も被ってなかったから気にしていたのかもしれない。だとしたら、悪い事をしたかな。なんて思う。……まぁ取り敢えず。ならば罪滅ぼしが必要だ。絶対に。
 そう自分に言い聞かせ、私はサプライズの贈り物を手にベッドへとんぼ返りする。
 枕元には昨日で半分くらいに減った水飴の瓶。蓋を開けて一掬いしたら、それを口に含む。……いけない。キャンディーも舐めていた。でも気にしない。気にしてやらない。
 そのまま雪崩れ込むようにベッドに潜り込めば、寝惚けた彼が私の胸に可愛らしくすり寄ってきて、危うく鼻血を出しかけた。
「……貴方のせいよ」
 一人でシャワーとか、今の心情じゃあ無理と言うもの。
 だからとびっきり甘い目覚めのキスをお見舞いして。
 お風呂でアフターホワイトデーと洒落込もう。




ここへ繋がる物語も、覗いてみませんか?
[渡リ烏のオカルト日誌]

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