空前の旅行ブームである。
ネコも杓子も旅行旅行、今や旅行関連の記事無しに雑誌は売れないと言うほど、欠かせない庶民の娯楽になった。
その中でも一番注目を集めているのがホテルだ。
いかにいいホテルに泊まるかということがマダム達のステータスになっている。
テレビでもホテルを取り上げた情報番組が多数放送され、そのブームは加熱を帯びている。
統計によれば約45%のマダムが、一日の大半を家よりホテルで過ごすらしい。
大した用もないのに。
我々ホテルマンにとっては有り難い反面、いささか呆れていたのも事実であろう。
思えば私がホテルマンとしての第一歩を踏み出した30年前は、まだ日本にそれほど多くのホテルは無く、今のようにこんなに気軽に旅に出るというのは考えられなかった時代だ。
82階の総支配人室から外を眺めると、煙草に火を点け波乱の当時を振り返った。
―――で、あなたが当館で働きたいと思ったのは何故ですか?
私のキャリアの第一歩は支配人との面接であった。
あっ、はい。
こういう仕事が好きだったのと、人々に好かれたい、いや、あの、あれです、はいっ!
よく分かりませんが、接客業が好きなんですね?
あっ、はい。そういったあれで、あれです。はいっ!
あれがなにか分かりませんが、いい返事ですね。
まあ、花山頭取のご子息ということでこちらもがんばって応援致しますよ。
はい、あれでしたら、金はなんとかします。
当時、私の父はこの大帝ホテルに出資している花園銀行の頭取だった。
言わば面接という名の顔合わせであり、私がここで働けることは決まっていた。
舐められたものである。
初日の私は諸先輩方にあいさつを済ませ、ロビーの案内係を任された。
ホテルの顔としてロビーに立つ私は、気持ちも寝癖もビンビンに立っていた。
建物、設備、スタッフ、その全てが一流のこのホテルで働ける事が私の誇りであった。
いらっさっせーっ!
ごゆっくりどうぞっ!
私は新人らしくフレッシュに、はつらつとお客さまを迎え入れた。
エレベーターはこちらでございます。どうぞ。
(彼、中々いいね。エレベーターの案内の仕方が既に一流だよ。うん、いいね。。素晴らしい.......。)
なんて言われてるんだろうな。うふふ。
はいどうぞっ!
いぁっさっせー!
エレベーターどうですかっ!
二階、三階とございますよっ!
どうぞっ、どうぞーっ!
テンションが最高潮に達した時、警備員が二人すっ飛んで来た。
なんだ貴様は!
どこから入ってきたっ!
えっ?どこからと言いますか、私はロビーアテンダントなんですが。
は、はいっ!!
え?・・・はっ、これは大変失礼しました。すいません。
何かあったらお呼びください。
警備員は敬礼をすると去って行った。
なんだ貴様とは随分なご挨拶であったが、警備員がいるというのは心強いものである。
僕も負けずに頑張って支配人の椅子を手に入れるんだ。
がんばるぞっ。
はいっ!!
お客さまっ、エレベーターはあちらですがいかがでしょうか?
乗るOR乗らない、どちらでしょうか?
ああ、いえ、知人を待っているだけなんでね。
かしこまりました。エレベーターのご要望がございましたら内線の1番を押して下さいませ。
お客さまっ?エレベーターはご案内しておりましたでしょうか?
乗るOR乗らないORチップをくれる、いかがされますか?
ん?あぁ、乗ります。
あっ、はいっ!
こちらです。
いらっさっせーどうぞっ!田舎物風のお爺ちゃんお婆ちゃん入りまーす。どうぞーっ!
え、え、えらっしゃっせーっ!!
えら.....。
私の気分が最高に高まった時、先程の警備員が二人、警棒を振りかざしながら走ってきた。
なんだっ、貴様はぁぁぁーっ!!
私はその場で地面に叩きつけられ、はがいじめにされた。
“ガーガーッ”はいっ、こちら22番どうぞ。
一階ロビーにて被疑者確保どうぞ。
はい、完全に目がいってます。
はい、これから連行しますどうぞ。
なんだ貴様は?どこから入ってきた?あっ?
私はあまりに突然の事にショックで動けなくなった。
いやいや、私ですよ、私。次期支配人の。
え?・・・はっ!
大変失礼しました!
うっかりしておりました。次期支配人でいらっしゃるんですか。
もー、いい加減にして下さいよ。
大体どっから入ってきたって、入り口開いてますよねぇ?
お宅等との取引も考えちゃうなぁ。
立ち上がり、埃を叩きながら警備員を戒めた。
辺りは騒然となったが、なんでもなかったことが分かると再び平静を取り戻した。
申し訳ありませんでした。また何かあったらお呼びくださいませ。では。
そういうと二人の警備員は何事もなかったかのように去って行った。
私にとって初めての経験ばかりでとても刺激的だったが、お客様に満足感を与えられるこの仕事に誇りと喜びを持っていた。
全国から様々な人々がやってきて、至福の一時を過ごし、帰っていかれる。かと思えばもう次の家族やカップルがやってくる。
これから皆様に癒しとやすらぎを与えるのが玄関の顔である私の仕事なのである。
そのような事を考えてると少し緊張してきたが、笑顔を絶やさない事は決して忘れなかった。
こうしてロビーに立っていると、色んな方々がおられるなぁ。
熟年の夫婦。
可愛い赤ちゃんを抱えたお父さんお母さん。
田舎者のお年寄り。
汚らしい女を連れた変な髪型の男。
色々な人達の色々な想いがこのホテルにはつまっているんだ。
EXCUSE ME?
駅前一等地にあるホテルだけあって外国人のお客様も多くおられた。
相手がどこの国の人であろうが、一流のサービスをするのが我々の任務だ。
EXCUSE ME SIR?
あ?
DO YOU SPEAK ENGLISH?
オー、モンキーポンキーオーケー?
WHAT?
私がなんとか知っている単語を並べたが、外国人は顔をしかめた。
WHERE IS THE ELAVATOR? (エレベーターはどこですか?)
OH!MONKY MOUNTAIN POOKY? (あー、猿山プーキー?)
英語だけはいささか苦手だった私はなんとかコミュニケーションをとろうと必死に対応した。
HA?WHAT THE FUCK ARE YOU TALKIN'!
(は?オメー何言ってんだよ!)
え?つっ通じない!
私がこれまで学んできたことは何だったんだ。そう考えると冷や汗がだらだら流れ、足ががくがく言いだした。
財布を出そうとしたその時.....。
MAY I HELP YOU SIR?
騒ぎを聞き付けた同僚が助けに来てくれた。
(あー、なんかこの変な男はなんなんだい?)
(すいません、近所の変な人でいつもロビーにいるんです。)
何を言ってるか分からなかったが部下の後ろ姿が頼もしく思えた。
(でも、このホテルの制服着てるよ?)
(自分で造ったみたいですよ。今すぐ追い出しますので。)
輝美ちゃん、こいつ何だって?
お金はいくらよこせって?
ああ、発音が良いって誉めておられます。
こちらの方は私が案内しますので。
あと、支配人が呼んでましたんですぐ行ってもらえますか?
あ、は、はい。
急いでっ!
はいっ!
私は部下に指示された通り、急いで支配人のもとへ向かった。
支配人室に入るとテーブルの上には薄汚れた作業着が置いてあった。
ああ、ご苦労さま。早速それに着替えてもらえるかな?
はっ?どっ、どういうことですか?
これは私達花園銀行に対する挑戦、もしくはクーデターと見ていいんですね?
私の父が見たらなんというか。
おい兄ちゃん、聞いて驚くなよ。
はい、金ならありますが何ですか?
おのれのパパの銀行が倒産したんにゃわ!
それが何だって言うんですか。
私は貯金が二億・・・・えっ?
ええっ!!
さっきおのれのお父ちゃんから電話があって、息子を頼みますってよ。
運命のいたずらか、悪魔のいやがらせか、私は今日初めて着た真新しい制服をその日の内に脱がされた。 無理矢理乱暴された女性の気持ちがよく分かった。
ただ、お気に入りのフリフリの付いた苺のパンツだけは絶対に脱がなかった。
それだけは脱がなかったんだ。
あれから30年だ。私はあれから30年このホテルで掃除夫として働いてきた。
総支配人室で自分が座るはずだった椅子を拭きながらその歴史を振り返った。
人というのは進む道によって様々な人生がある。
歴史にたらればは禁物だが、あの時ああしてれば、あの時こうしてれば。
そんなことばかり考えた30年だったのかも知れない。
でも決して悲観したり、諦めたことは一度もなかった。
常に前向きに、明るく元気な挨拶を心がけてきた。
今ではそんな私を誰もが慕ってくれる。
挨拶のオッサンと呼ばれ、みんなが可愛がってくれる。
ありがとう。みんな今まで本当にありがとう。
定年を迎えた今日、私は30年分の思いを書き記すと、置いてあった備品などをポケットに入れ、静かにホテルを去った。
胸が一杯だった。
カバンも盗んだ備品で一杯だった。
次の日、新しい掃除夫が総支配人室を開けると、白い壁一面にペンキで彼の思いや感謝の気持が書かれてあった。
机はヨダレでベチョベチョであった。
退職金の代わりに請求書が届くのはその三日後のことである。 |