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アイスドール

作者: 月夜見

「ねぇ、御堂君、ちょっといい?」

 後ろから僕を呼ぶ女の子の声がした。振り返ってみたら、同じクラスの織田薫だった。成績は良いが、冷たい印象の美少女。今まで話した事はない。もっとも、クラスの殆どの人間とは一言も交わした事もない。僕は基本的に人付き合いが苦手だ。だけど呼ばれたからには答えなくてはなるまい。

「何?」

「付き合って欲しいのよ」

「何で?」

 彼女は「好きでもない男から告白されて困っている、付き合っている男がいると言ったら連れて来て証明しろと言う、だから一緒に来て欲しい」と言った。

 やれやれ、しかもこれからだと言う。周囲を見たが誰もいない。ちっ、いたら誰かに押し付けるのに。今日はアルバイトのない日だ、仕方ない、付き合うか。

「良いよ。アルバイトもないし」

 そして学校のそばの小さな公園へ向かった。彼女は、そこにその男が待っていると言う。それ以外は殆ど言葉なんて交わさなかった。

 男が待っていた。本当に付き合っているのかと何度も聞かれた。その度にこう答えた。

「そうだよ。僕らは付き合ってる」

 ようやく向こうも諦めたらしい。なにやら泣きそうな顔で彼女に何かを言って去っていった。

やれやれ、ため息をついた。

「じゃあ、僕はこれで」

 そう言って帰った。彼女の顔なんて見ないでその足で帰った。


 今日はアルバイトがある。僕は駅前の喫茶店で基本的に週に三日働いている。同じ学校の女の子たちもよく来る。

 この喫茶店は自家焙煎をしていてコーヒーが旨い。それに、マスターが元ケーキ職人とかでケーキも手作りだ。それもなかなか評判が良く殆どの客はケーキセットを注文するくらいだ。

 今日も何人も客が来ている。殆どは同じ高校の生徒だけれど。

「創君。これ三番テーブルの分ね」

「はい、あと一番テーブルでチョコケーキとショートケーキのセット。ドリンクはどちらもブレンドです」

 マスターとのいつもの会話。さすがに夕食時になると空いてくる。でも、何を話すことがあるのか、女の子たちはまだ帰ろうとはしない。よくケーキセットだけで何時間も粘れるものだと感心してしまう。閉店まで粘る客も珍しくはないが。

 あの織田薫も粘る口だ。独りで本を読みながらケーキセットだけで閉店まで粘る。

 今日ももう閉店時間だ。

「済みません。もう閉店の時間なんですが」

 僕はいつも女の子たちに声を掛けてまわる。皆慌てふためいた様に時計を見て、慌てた様に会計をして出て行く。いつもの光景。

 さすがに織田薫は『アイスドール』の異名を持つだけあって、いつも表情を変えずに優雅に会計をして出て行く。

 ちなみにそのあだ名は僕がこの街の高校へ通い始めた時には既に付いていた。学校に行き始めたのは去年の九月からだ。今が六月だから、まだ九か月しか経っていない。それまで世界中を父親に付いて転々としていた。

「創君もだいぶ慣れたようだね」

「そうですか? 自分では良くわかりませんが」

 マスターと親父は学生時代の友人だったそうだ。だから僕のことを「創」と呼ぶ。

 この店でアルバイトするように言ってきたのは親父だ。別にどうでも良かった、だからその命令を受け入れた。親父は僕が住む所も勝手に決めていた。親父が昔世話になったという老夫婦が経営するアパートの一室。これも別に文句はなかったから了承した。

 今年の一月からここでアルバイトを始めた、親父の言い分通りに。


 学校の中を歩いていると、いつも誰かが僕の方を見てこそこそ話をしている。

 気に入らない、別に彼らに何もしてない。転校してきたときからまだ続いている。動物園の檻に入れられている動物じゃないぞ。

 今もそうだ。昼飯を食おうと屋上へ上がる途中ですれ違った女の子たちが僕のことをなにやらこそこそと話している。

 とにかく屋上へ行こう。この学校の屋上はなぜか誰も来ないので居心地が良い。

 のんびりと購買で買ったパンを食べていると、比較的仲の良い坂本がやって来た。

「よう、相変わらずここで昼飯か?」

「そうだ」

「ところで、御堂はあのアイスドールと付き合っているのか?」

「なぜそんなことを言う?」

「そんな噂があるからさ」

 やれやれ、ため息を吐いた。こいつらそんなことしか頭にないのか?

「僕は口実に使われただけだ」

「なんだよ、そりゃ?」

 この前のことを説明した。坂本は疑わしい顔をして聞いている。

 こっちは正直に話したんだ、信用しやがれ。

 まだ疑っているらしい。何で疑うのか聞いてみた。

「だってよ、あのアイスドールが狙うのはお前しかいねぇもん」

 どういう意味だ? ニュアンスが掴めない。また聞いてみた。

「お前なぁ……まぁ良いや。頭は良いくせに鈍感だな、相変わらず」

「どういう意味だ?」

「言葉どおりさ、お前は鈍感で鉄の心を持つ男だってことさ」

 鈍感、鉄の心ってどういう意味だ? 意味不明。こいつは良い奴なんだが時々意味がわからない日本語を使う。


 今日もアルバイトだ。いつもと同じ様に、制服にエプロンをして店に立っている。

 仕事もいつもと同じ。店に来る客が少し変わっている位。

 注文されるものもあまり変化がない。マスターがこう言った。

「いつもの子が来ているね」

「誰のことですか?」

 マスターは窓側のテーブルを目で指し示した。

 織田薫、いつもと同じ様に独りで本を読んでいる。そう言えば、いつも来ているような気はする。

 でも気のせいだ。学校からも近いし、駅前だから入りやすいだけだろう。

 マスターにそう言ったがニヤニヤと笑いながら黙ってしまった。この人も時々意味不明の事を言い、意味不明の行動をする。

 やれやれ、ため息を吐いた。



 アルバイトも休みの日だったので、放課後に校内をぶらついてみた。音楽室を通りかかった。机の上にクラシック・ギターが置かれたままだった。

 そのギターを手に取り、チューニングを確かめた。合っている。

 親父にスペインへ連れて行かれたことを思い出した。

 親父は僕をそこで二年近く放置していた。仕方なく言葉もわからないまま近くのタブラオへ出かけ、食事をしつつ周りの連中を見ていた。その中に隣の部屋に住んでいたホセがいた。

 ホセは僕を見つけ、仲間に入れてくれた。そして、皆でフラメンコ・ギターを教えてくれた。言葉は良くわからなかったが、僕の上達は彼等の予想以上だったらしい。いろいろな曲を教えてくれた。

 そんな事を思い出しながら、ギターを弾いた。ソレア、ブレリア、アレグリアス、ファンダンゴ。何曲か弾いた。

 弾き終わった時に誰かが入ってきた。織田薫、最近縁があるようだ。

 やれやれ、ため息を吐いた。

 彼女は僕のため息には気付かず、感心したように言った。

「御堂君はギターが上手なのね」

「上手かどうかは分からない、でも一応弾けるな」

「さっきの曲はクラシックじゃないわよね?」

「ああ、フラメンコさ。スペインに居た時に友人から教わった」

「もう何曲か弾いてもらえないかしら?」

 やれやれ、いろいろと要求する人だな、この織田薫は。

 やれやれ、またため息を吐いた。まあ、良いか。

 また弾き始めた。ファルーカ、ソレアレス、一応弾けるのを一通り。

「すごいわ」

 まあ、僕等の年齢でフラメンコを弾くのは日本じゃ珍しいだろうな。

 たいしたことじゃないさ、と彼女に言ってギターをケースに入れた。「もう帰るよ」と言って音楽室を去った。



 あれから時々、音楽室でホセのことを思い出しながらフラメンコを弾いた。

 ホセは僕がスペインを離れる直前に爆弾テロの犠牲になった。あの親切なホセが。彼はもういない。

 なぜか音楽室でギターを弾いていると、いつの間にか織田薫が来ていつの間にかいなくなるようになった。きっとフラメンコが珍しいんだろう。


 親父に付いて世界中を回っている時に知り合った人間の殆どは死んでいる。ホセみたいにテロに遭ったり、誰かに撃ち殺されたり。

 人というのは必ず死ぬものだ、早いか遅いかの違いだけしかない。

 僕はまだ生き残っている。



 あっという間に夏が来て、そして過ぎて行った。相変わらず、週に三日のペースでアルバイトをした。

 父親は日本に帰ってこなかった。帰るつもりもないらしい。

 そして、中古のフラメンコ・ギターを買った。今迄で楽しかったのはホセや彼の仲間たちと過ごした国。スペイン。なぜかよく思い出すようになっていた。そして音楽室ではなくて、自分のアパートでギターを弾くようになった。

 ちなみに、なぜか僕以外の入居者はない。アパートの隣に住んでいる大家夫婦に家賃を持って行った時に聞いたことがある。彼らは苦笑しながら「募集してもなぜか決まらないんだ」と言った。確かにこのアパートは古くて、見栄えも悪い。部屋の間取りは六畳間と独立したキッチンで、トイレと風呂は別れていてそう悪くはないのだけれど。



 二学期が始まって、また学校へ通うようになっている。授業は相変わらず退屈だ。

 毎日、購買でパンを買い屋上で独りになってそれを食べ、放課後にはアルバイトをし、ギターを弾いた。相変わらずの生活だ。

 今日はアルバイトがある。駅前の喫茶店へ向かった。

 エプロンをしてカウンターに立つと、いつも窓際のテーブルに座っている織田薫がカウンターの中央の席に座っていた。

 珍しいこともあるもんだ、今日はケーキセットじゃないらしい。伝票を見たら「コナ・ブレンド」としか書いていない。店内には彼女しか客はいない。

 マスターは何がおかしいのかニヤニヤしながら「休憩してくるから」と言って出て行ってしまった。

 仕方なく、スプーンやフォークなどのシルヴァー類を磨くことにした。この作業は結構面倒だ。一度磨き粉で磨いてから、食器用洗剤で洗ってから良く水気を拭取らなければならない。

 磨いている途中で声が掛かった。

「なんで音楽室でギターを弾かなくなったの?」

 アイスドールと呼ばれる織田薫が、少し寂しそうな表情をして聞いてきた。

 こんな顔もできるのか、ふとそんな事を考えた自分に不思議な感覚を持った。いくら表情が冷たくても同じ人間だ、しかも十七歳の女の子だ。色々な感情と表情を持ってるに決まってる。

「自分でギターを買ったからな。もう借り物で弾く必要はなくなったんだ」

「そうなの……もう聞けないのね、あなたのギター……」

 とても寂しそうな表情で言った。なぜだか不思議な気分がした。

 マスターの戻ってくる気配はないから、彼女にケーキをサービスすることにした。チョコレート・ケーキ、彼女が頻繁に頼んでくるマスター自慢のケーキを。

 食べなよ、と言って出したら「良いの?」と聞きながら嬉しそうな顔をした。その彼女の表情を見ているとまた不思議な気持ちがした。

 そのあとは二人とも何も話さなかった。しばらくしてから彼女は会計を済ませ、帰って行った。


 平穏な生活、平凡な日常、これが日本では当り前の事なのだろう。

 でも、僕が連れまわされていた地域では違っていた。

 親父は一応有名な商社に勤めているから、会社がいつもかなり立派な宿舎を用意していた。でも親父はなぜか好んで裏通りの危険な地域の安アパートを借りていた。しかも殆ど帰ってこなかった。

 僕は言葉もわからずに独りで生きていかなければならなかった。アメリカではギャングとなぜか喧嘩になり腹を銃で三発も撃たれた。口径の小さな銃だったようで生き残れた。撃った奴は、銃声を聞いて駆けつけたパトロール警官に、止せば良いのに銃を向けて撃ち殺された。北アフリカでもなぜか喧嘩に巻き込まれ、腹を刺されそうになった。両方とも傷はまだ残っている。スペインやアイルランドでは爆弾テロがあった。中東でもそうだ。多くの人が目の前で死んだ。


 今日もまた、昼飯を食おうと屋上へ上がる途中ですれ違った女の子たちが僕のことをなにやらこそこそと話している。

 とにかく気に入らない、屋上へ行こう。

 購買で買ったパンをのんびりと食べていると、坂本がやって来た。

「よう、相変わらず独りだな」

「そうだな」

「彼女は相変わらず店に来てるのか?」

「彼女?」

「アイスドールさ」

「そうだな、よく来てるな」

 確かに、織田薫はよく来ている。指定席がテーブルからカウンターに変わった、後は特に変化はない。

「あいつ、絶対にお前に惚れてるぜ」

「どういう意味だ?」

「辞書を引け、辞書を。ところでお前、好きな女とかいないのか?」

「いないな」

「彼女が欲しくないのか?」

「彼女? 織田のことか? 織田が欲しいかとはどういう意味だ?」

「違うって、恋人が欲しくないのかって聞いたんだ」

 今まで考えたこともなかった。

 そう言ったら奴はとんでもない事を言った。

「お前……もしかして……男の方が良いのか?」

「残念ながらそういう傾向は全くない。性的欲求の対象は女性だ」

「すると残るのは鉄の壁か……あいつに融かせるかな」

「あまり難しい比喩表現をするな、意味がわからん」

「悪かった。まあ、とにかくアイスドールを注意して見てろ、その内に俺が言っていた意味が解るだろ。それと、最後の言葉の意味も解るって」

 よく解らんが、織田薫の動向に注意していれば良いのか。そう尋ねると大きく頷いて「そうだ」と言った。

 音楽室でギターを弾かなくなった理由を聞いて来た時の寂しげな彼女の表情、ケーキを出してあげたときの嬉しそうな顔、それがふと頭に浮かんだ。でも、あれ以降は相変わらずの無表情。冷たい顔。


 今日はアルバイトがない。ふと思い立って、音楽室でギターを弾くことにした。

 部屋で弾いても良いのだが音響がやはり違う。たまには響きの良いところで弾きたい、なぜかそう思った。

 音に惹かれたのか織田がいつの間にか来ていた。ブレリアを弾き終えたところで彼女が口を開いた。

「珍しいのね、音楽室で弾くなんて」

「そうだな」

「もう来ないと思った……」

 ソレアのファルセータで使う音を探したまま、しばらく黙っていた。フレーズが出来たので弾き始めた。

 弾いている途中で顔を上げたら、織田と目が合った。彼女は真っ赤になって目を逸らし、窓の外を見た。

 変な奴だ。シャイなのかと思っただけで、また何事もなかったように弾き続けた。

 弾き終わったところでまた声が掛かった。

「御堂君は付き合っている人はいるの?」

「いないな」

「どうして?」

「どうして、と言われても困るな」

 変なことを聞いてくる奴だ。こんなキャラクターだったのか、そう思った。

 『黒いオルフェ』を弾き始めた。

 織田は何か考え始めたように、黙ったまま演奏を聞いていた。そしてまた弾き終えるのを待っていたように、顔を赤くしたまま声を掛けてきた。

「も、もうすぐ修学旅行じゃない? だ、誰と回るの?」

「別に決めてない。多分独りで見て歩くことになるだろうな」

 じっと考え込んでいる。何をそんなに考えているのだろう。

 変わった奴だ。

 彼女を放っておいて、今度は「コーヒー・ルンバ」を弾き始めた。弾き終わったときに、また彼女が口を開いた。

「わ、私が案内してあげようか? ち、中学のときも同じところだったから」

 修学旅行先は京都と奈良だ。どうも定番らしく、中学の修学旅行先も一緒だったと文句を言う奴が多かった。

 随分親切なんだな、アイス・ドールの異名は表面だけで付いているようだ、そう思った。そして、思いもしなかった言葉が出てきた。

「じゃあ、お願いしようかな」

 彼女は顔を赤くしながらも嬉しそうな表情をした。氷の下にたくさんある表情の中の一つ、それが見えたような気がした。



 その次の日から彼女は事あるごとに「どこへ行きたいか、何を見たいか」等と僕を捕まえては話し掛けて来る様になった。

 答えはいつも同じ「どこでもいい、案内役に任せる」だ。確かにこんなことはどうでも良かった。「じゃあ楽しみにしていてね」と言う彼女の声が耳に残った。

 昼休みに屋上にいると坂本がやって来た。

「よう、アイスドールは一緒じゃないのか?」

「僕一人だ」

「そうか。ところで、最近はアイスドールの氷が融けて来た様だな」

「どういう意味だ?」

「言葉どおりさ。あいつ、お前と話した後は人当たりがすごく良くなるからな」

「そうか」

「なんだよ、気が付いてなかったのか?」

「全く」

 やれやれと言う表情で坂本が僕を見てきた。

 そんなの知ったことじゃない、そう言おうと思ったが、なぜか彼女の嬉しそうな笑顔を思い出したので言うのを止めた。

「次はお前の番だな、御堂」

 そう言って奴は去って行った。

 やれやれ、ため息を吐いた。

 なぜ次が僕の番だと言うんだ、人当たりが良いか悪いかなんてどうだって良いことじゃないか。


 修学旅行は四泊五日。その内、自由行動は二日間あった。

 二日とも彼女が案内をしてくれた。あちこち引張り回されたので疲れたが彼女は楽しそうだった。もう既に来ている場所だというのに。


 織田薫は修学旅行が終わってからも、僕によく話し掛ける様になった。

 僕は他の連中とは相変わらずあまり会話をしてない。

 坂本の言った通り、彼女は僕と話した後は人当たりが良い様だ。だからと言って何とも思ってはいないが。

 また音楽室でギターを弾くようになった。なぜかは解らない。彼女はいつもやってきては僕の拙い演奏を聞いて、そして話し掛けてきた。他愛のない会話。

 アルバイト先でも彼女はいつもカウンターに座って、僕の暇を見計らっては話し掛けてきた。やっぱり他愛のない会話。しなくても良いような会話。


 誰とも親しくなろうとは思っていなかった。坂本は向こうから勝手に踏み込んできた。拒絶する気にならなかったから付き合いがある。

 織田の場合はどうだろう? だんだんと距離が短くなっているような気がする。

 でも、必ず別れと言うものが来る。学生の場合は卒業という別れが身近に感じられるだろう。そして人というものは必ず死ぬ、いくら親しくなっても、いくら愛していようと。

 親父が昔、そう言った。僕は幼稚園の時に母親を亡くした。彼女の死を理解できなかった。でも、ある程度育った時に、酔った親父が昔を思い出したのか、こう言った。

「いいか、創、別れというものは必ず来るんだ、死というもので。どんなに愛していたとしてもだ。お前の母親と俺の場合がそうだった。俺たちは、愛し合っていたんだ。でも、死が二人を別れさせた。いいか、創、忘れるんじゃないぞ。人と人の、いや、全ての出会いには別れが必ずついて回るんだ。それが早いか遅いかだけだ」

 確かに親父の言う通りだ。親しくなくても、親父の転勤で別れが来た。関わった人間の殆どは死んだ。あの僕を撃った男の様に。親しければ親しいほど、別れが辛くなるんだ。ホセの様に、ホセとその仲間達の様に。それは少なければ少ないほど良い。


 文化祭が近づいている。クラスで何かをするらしい。

 興味がない。

 どうやら喫茶店に決まったらしい。やれやれ、ここでも喫茶店か、ため息を吐いた。

 皆は僕が喫茶店でアルバイトをしていることを知っていた。アドバイスしろと言う。好きな様にすれば良い、それしか言えなかった。

 でも、なぜか皆が本格的にやりたいと言う。そう決まってしまえば否も応もない。仕方なくコーヒー豆をマスターに頼んで調達し、旨いコーヒーの入れ方を皆に解説した。


 文化祭当日。結構にぎわっている。クラスの喫茶店も結構客が来ているようだ。

 なぜだかケーキもあった、ケーキとも言えないケーキが。

 ところで、最近はケーキやパン(パンも自家製なんだ)の作り方をマスターに仕込まれている。マスターは、才能があると言い、最近は僕の作ったケーキやパンも店には並んでいる。まあ、そんな事はどうでも良い。

 甘い匂いがしている。覗いてみると、教室を仕切ったキッチンでケーキを焼いている。織田たち女子連中がレシピを見ながらケーキを作っていた。

 覗くのを止め、屋上へ行った。

 しばらくしたら横山という男が来て、僕を見付けて言った。

「おい、御堂。悪いがキッチンを手伝ってくれないか? 手が足りないんだ」

「僕の仕事は終わったんじゃなかったのか?」

「頼むよ、ケーキを作れる人間が足りないんだ」

 やれやれ、ため息をついた。

 拒絶する理由を探したが、何もなかった。学校から出てしまうのだったと後悔した。

 キッチンへ行くと、まるで戦争の後のような無残な光景が広がっていた。スポンジの生地やホイップ途中の生クリームが至る所に飛び散っている。ボウルや材料もあちこちに散らばっている。

 やれやれ、またため息を吐いた。

 ケーキの残りが何個あるのかを訊いた。ホールで一個。まだ昼前だ、これから注文が来ると考えて間違いないだろう。

 設備はオーブン機能のついた電子レンジが三台、中にスポンジの生地が飛び散って乾いている。とりあえず周りにいた女子にボウルを洗って来てくれと頼んだ。

 僕はレンジを掃除した。材料はたくさん残っていて、なぜかマドレーヌ型まである。

 間に合わせでマドレーヌを作ることにした。とりあえず時間稼ぎにはなるだろう。

 オーブンを予熱し、三台同時に焼いた。焼いている間にスポンジの生地を作り、生クリームを泡立てた。イチゴやフルーツを薄く切りショートケーキを作る準備をした。

 そして角型にした生地で三台同時に焼いた。焼いている間に、また三台分を用意し、また焼いた。

 スポンジが冷めるのを待ってデコレーションした。途中でマドレーヌの残りを聞いたらもう残り少ないと言う。仕方ない、「なくなったらオーダーをストップしておけ」と言ってキッチンへ戻った。

 ショートケーキが都合六台、三十センチ四方に出来上がっていたので六センチ四方に切り分けた。安いセット料金だからこんなものだろう。

 足りなくなったときの用心にまたマドレーヌを焼いた、それも二回。

 ホールの人間に訊いたらケーキはまだ残っているらしい。

 なんだよ、もう四時じゃないか。やれやれ、僕はまたため息を吐いた。

 キッチンにいた女子は呆けた様に僕をずっと見ていた。やれやれ、少しは手伝って欲しいものだ。

 もう客も来ないだろう。手を洗い、近くにいた女子にエプロンを投げ、後片付けは頼むとだけ言って屋上で休むことにした。

 ぼんやりと夕焼けを見ていると、いつの間にか織田が近くへ来ていた。

「御堂君。ありがとう」

「あ?」

「最初は私達だけで出来てたの。でも段々収拾がつかなくなってあんな風になっちゃった。助けてくれてありがとう……」

 そう思うのなら途中で手伝って欲しかった。

 でも言わなかった、言っても仕方のないことだ。それに、彼女がなぜか泣き出してしがみ付いて来たからだ。

 あのアイスドールと呼ばれる少女が僕の胸で泣いている。何を言って良いかわからなかった、だから彼女が泣き止むのを待った。

 彼女は泣き止んだ後、しがみ付いたまま「ありがとう」とだけ言った。

 二人で肩を並べて教室に戻った。ドアを開けた瞬間に歓声が沸いた。どうやらクラスの喫茶店は大成功だったらしい。担任が来ていて僕に向かってこう言った。

「御堂、今日は大活躍だったそうじゃないか。御堂のおかげで成功したと皆喜んでいるぞ」

「そうですか。ありがとうございます」

 それだけ言った。皆が僕のところへ来て口々に感謝の言葉を残していった。

 興味がなかった、成功しようが失敗しようが僕には関係のないことだ。それに、これ以上彼等に踏み込んでいくのは危険だ。

 今迄に蓄積してきた記憶がそう警告していた。


 あっという間にもうクリスマスシーズンだ。街中が浮かれている。

 織田は文化祭以来随分と明るくなった様だ。

 期末試験も終わって屋上へ来ていた。試験が終わったからかクリスマスが近いからか、浮かれている奴が屋上へやって来た。そう、坂本だ。

「良くこんな寒いところにいられるな」

「余計なお世話だ」

「相変わらず冷たい男だな、御堂は」

 そんな事は僕には関係ない。僕がどういう人間であっても、こいつには関係のないことだ。

「ところで、クリスマスはどう過ごすんだ? 織田と一緒か?」

「仕事が入ってる、連日な」

「親父さんは帰ってこないのか?」

「昨日、電話があった。今年も帰らないとだけ言って電話が切れた」

 向こうには向こうの都合がある。そこに踏み込んでも仕方のない事だ。坂本は呆れたような顔で僕を見ていた。

 そういう顔で見られてもな。

 屋上にいるのが嫌になって、音楽室へギターを弾きに行くことにした。

 音楽室には織田がいた。何も言わずにケースを開け、ギターを出してチューニングを始めた。

「ねぇ、クリスマスは何か予定あるの?」

 どいつもこいつも、考える事は同じか。連日仕事が入っている、とだけ言った。

 彼女は少し悲しそうな嬉しそうな複雑な表情をした。彼女に構わずファルセータを考え、音を探していた。

 彼女が突然、何かを決心したように言った。

「ね、仕事が終わってからで良いからイヴの夜にあなたのギターを聴きたいの。お願い、良いと言って?」

 何でこいつは踏み込んでくるんだ?

 突然ホセ達と過ごしたクリスマスを思い出した。酒を飲み、ギターを弾き、歌い、踊った、あの楽しかったクリスマスを。楽しい思い出。そして悲しい思い出まで連れてくるあの思い出。

 なぜか『シェリト・リンド』を弾き出していた。あの時弾いた曲。あの時、皆が踊ったこの曲。

 目から熱い水が流れていた、曲を弾きながら、弾き終わってからも流れていた。

 なぜだろう、なぜこんなになるのだろう。

「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫、何でもない。昔を思い出しただけだ」

「何があったの?」

「友人のことを思い出した、今迄で一番親しかった友人達のことを」

「そう……」

 彼女は呟く様に言った。そして僕は自分でも思っていなかった事を口に出していた。

「さっきの話、良いよ。別に。部屋に来たらギターを聴かせてあげる」

「え……本当?」

「ああ」

 なぜか彼女のお願いを聞いていた、なぜだろう?


 今日はクリスマスイヴ、仕事も忙しい。ケーキを売ったり、普段と同じ仕事をしたり。

 織田は相変わらずカウンターで粘っている。どうやら一緒に部屋に行くつもりらしい。

 閉店一時間前、もう殆ど客は居ない。ケーキを買いに来る客も途絶えた。マスターが今日はもう帰って良いと言う。

 まだ仕事が残っていると言ったが、後は自分で出来るから良いと言われた。おとなしく従う事にした。

 彼女に帰ることを伝えると、やはり一緒に部屋に行くと言う。仕方なく僕は、彼女をアパートへ連れて行った。

 彼女は僕の部屋を見て驚いていた。

 部屋にあるのは卓袱台と電気ストーブ、それにギターだけ。他の物は押入れに仕舞える程度しか持ってない。音楽はいつもポータブルCDで聴いている。その代わりと言うか、キッチンには立派な冷蔵庫やオーブン・レンジやボウルやフライパンが有る。キッチンとの落差に驚いているのかも知れない。

 何もない部屋に彼女を通し、お湯を沸かしコーヒーを入れることにした。お湯を沸かしている間に、押入れから毛布を出して彼女の膝に掛けてあげた。ストーブを彼女のそばに置いた。

「独り暮らしなんだ……」

「そう。親父はいるけれど日本に帰ってこないで海外を飛び回ってる。今は南米にいるらしいけど、まあ、昔から変わっていないな」

「寂しくないの?」

 寂しくなんかないさ、そういう感情がどういうものか良く解らないけど。

 コーヒーを入れ、カップを彼女に手渡した。

「適当に弾いてるから、聴き飽きたら勝手に帰ってよ」

 彼女にそう言って、チューニングを合わせてから弾き始めた。パコ・デ・ルシアの演奏した曲を中心に弾いた。

 コピーしているとまでは行かないが、なるべく同じフレーズになるように弾いた。あの時も皆でパコの曲を聴いては真似をしようとしていた。楽しい思い出。そして、その後の悲しい思い出。

 彼女はずっと聴いていて帰ろうとはしなかった。

 いい加減疲れてきた。既に冷めてしまったコーヒーを飲み、一休みすることにした。

「なぜ泣いてるの?」

 意味が解らなかった。頬に手を当てると確かに涙の跡があった。

「解らない、気が付かなかった。どうしてだろう?」

「また友達のことを思い出したの?」

「そうだ」

 彼女は近寄って手を握ってきた。寒さのせいか少し冷たい。でもなぜか心地よかった、振り解く事が出来なかった。

「辛い思い出なのね?」

「いや、そうでもあるしそうでもない、楽しい思い出だ。でも、その後に必ず悲しい思い出がやってくる」

「そう……」

 彼女はそう言って黙ってしまった。彼女に手を握られたまま動けずにいた。

「あのね……あのね……私、あなたのことが好きよ」

 驚いた。そんな事を言われるとは思わなかった。

「私ね、これでも小学生の頃はすごく明るい子だったの……でも、中学生の時に好きでもない男の子から告白されて、その子の事を振ったの。小さい頃から合気道を習っていて、それに夢中だったの。そうしたら、わたしが冷たい女だって噂が流れたの、皆信じたわ、友達だと思っていた女の子達も、先生も皆」

「……そう」

「誰も信じられなくなった。皆が噂を信じるのだったらそういう人間になろうと思った。そうしたら何時の間にかアイスドールって呼ばれるようになっていたわ。でも、二年生になったとき、自分よりも冷たい人が居る事に気が付いたの。いいえ、冷たいんじゃない、心が泣いている人が居る事に気が付いたの。……そう、あなたよ、あなたはずっと誰かと関わることを極端に避けているわ。それは関わりたい、繋がりたい、信じあいたい、って言う心の裏返しだわ、わかるの。私は何時の間にかあなたを好きになってた、全く笑わないあなたを。あなたを好きだと知ったときから昔の自分に戻ってきているの、全部あなたのおかげなの。だから、今度は私があなたを笑わせてあげたい、そう思ったの。私があなたの心の隙間を埋めてあげたいって、そう思ったの。……知ってる? あなた、修学旅行のときに初めて笑ったのよ、私と一緒の時に、初めて。だから、私があなたの心をもっと慰めてあげたい」

 何も言えなかった。彼女の言う意味が解らなかった。

 僕の心は泣いているのか? 寂しいと思っているのか? 誰かと関わりたい、繋がりたいと思っているのか? 信じ合いたいと思っているのか?

「……気持ちは嬉しいよ。ありがとう……でも……」

「でも……?」

「自分の心が君の言う通りなのか判らない、僕には寂しいと言う感情はないんだ。それに、関わった人間の殆どは死んだ。死ななくても関わった人間とは必ず別れが来た。誰かと別れるという事は非常に辛いことだ、親しくなればなるほどそれは辛さを増していく。だから関わりが少なければ少ないほうが良い」

 彼女を見ると、泣き顔になっていた。

「……そんなに辛い思い出があるの?」

 なぜか僕の口から言葉が出てきた、止め処なく。

「幼稚園の時に母親を亡くした。ある時親父が言った、別れというものは必ず来ると、死というもので、どんなに愛していたとしても。人と人の、いや、全ての出会いには別れが必ずついて回ると、それが早いか遅いかだけだと。僕はすぐにそれを理解した、自分の身を以って。目の前で何人も死んだ。アメリカでは近所に住んでいたギャング気取りの男に撃たれた、些細なことから喧嘩になっただけなのに。でも、そいつは警官に撃たれて死んだ。北アフリカでも何回も口を聞いたことのある奴が僕を刺そうとした。でもそいつも結局目の前で死んだ。中東やアイルランドでは爆弾テロで大勢が死んだ。そして……」

「そして……?」

「スペインで隣に住んでいたホセという男がいた。彼は言葉もろくに通じない僕にすごく親切だった。仲間に入れてくれた。彼と彼の仲間達は、とても優しかった。彼等はギターを教えてくれた。フラメンコを教えてくれた。毎日、毎晩、僕等は歌い、踊り、ギターを弾いた。楽しかった。今までの短い僕の一生の中で、一番楽しかった。でも結果はいつもと同じだった。彼等は爆弾テロに遭って皆死んでしまった。駅に誰かを迎えに行く所らしかった。僕は言葉がわからずに置いていかれた。その時ちょうど駅の近くに居た。走った。彼等の向かった方へ。そこで見た光景は今でも鮮明に思い出すことが出来る。夢にまで出てくる。彼等は皆ずたずたになって僕の目の前に転がってた」

 彼女は何時の間にか僕を抱きしめていた、泣きながら。

「それからすぐに僕は親父の都合でスペインを去った。本当は去ってはいけなかったのかも知れない。でも、それは無理だった。……僕には何の感情もない、喜びも楽しみも寂しさも、僕には感じられない。ただ感じるのはあの時の辛さとあの時の悲しみだけだ。……さっき、君は僕を好きだと言ってくれた。でも、僕には誰かを好きになるとか、好意を持つという感情がないんだ……」

 泣いてもいなかった。静かに、淡々と彼女に話していた、自分の心の中を。そうしたのは初めてのことだ。

 もう言葉が出なくなっていた。彼女はただ僕を抱きしめたままで、僕はそれを振り解かずにいた。

「どうしても慰めてあげたい」

「悪いが意味が解らない。さっき言ったように、僕には慰めてもらうような感情も、そうして欲しいという願望もないんだ」

「だからよ」

 僕は混乱した。意味がどうしても理解できなかった。

 でも、彼女から帰ってきた言葉はとんでもないものだった。

「理解できなくても良いから私の恋人になりなさい。辛いときや悲しいときはこうして抱きしめてあげる。……抱きしめられているのは嫌?」

 嫌じゃない、彼女に抱きしめられていると表現できない気持ちが僕の中に生まれる。

 でも、全てに必ず別れがある。これ以上彼女に踏み込んでいくことで別れの辛さを感じたくはないんだ、ホセとその仲間たちのように。

「いいわね? 拒否は許さないわ、あなたは今から私の恋人。彼等の事を思い出したら私が抱きしめてあげる。そしてあなたは、ゆっくりと幸せになっていくの、私と一緒に。別れる時のことは考えちゃ駄目、いいわね?」

 断固たる彼女の姿勢に押される様に、わかったと答えてしまっていた。彼女は満足そうに微笑んで、そしてとんでもないことを言った。

「合鍵を頂戴」

 なぜか身体は意思に反して合鍵を渡していた。良いのか?



 今日は大晦日だ。あれから大変だった。なぜか彼女は僕の部屋に色々と荷物を運び込んだ。例えば炬燵。テレビ。ミニコンポ。卓袱台は押入れに仕舞われてしまった。

 なぜか今日も朝から彼女はここに居る。そう、僕の部屋に。

 性的な接触はまだない。そういう欲求がないわけではないが、彼女に触れることはなぜだか躊躇われた。

 彼女と炬燵に入ってテレビを見ている、特に面白いとも思えない番組。興味が沸かない。

 寝転がると彼女はテレビを消して、顔を覗き込んできた。

「興味が沸かない? テレビつまらなかった?」

 そうだと答えた。低俗とかそういう次元の話ではなくて、ただ単に興味が沸かないことを伝えた。

 ギターが弾きたくなったからギターを手にとってチューニングを確かめ、そして弾き始めた。

 何曲か弾いてギターを置いくと、また彼女は抱きしめてくれた。でも今日は僕の目からは涙は出ていない。それでも、長い時間抱きしめてくれた。

 そして夜になり、彼女は帰っていった。


 元旦だ。当然のように彼女は朝早く部屋にやって来た。

 重箱を持っているのはおせち料理らしい。新年の挨拶を交わし、おせち料理を食べた。美味しかった。

 彼女が突然僕に向かってとんでもないことを言った。

「さあ、これから私の家に行くわよ」

「なぜ?」

「あなたを紹介するためよ、決まってるでしょ。もちろん拒否はさせないわ」

 やれやれ、僕はため息を吐いた。

 明るくて良い女の子だと思うけれど、かなり強引だ。仕方なく同行することにした。制服を着るつもりもなかったので、白のボタンダウンに赤と銀のレジメンタルタイを結び、グレンチェックのズボンを履いて、ネイヴィーブルーのブレイザーを着た。そしてダッフルコートを羽織り、彼女の家に向かった。

 彼女の家は外観からその裕福さが窺える造りになっていた。何代も続く旧家でもあるそうだ。

 僕は彼女の両親に紹介され、挨拶をした。別に緊張もしなかった。彼女の父親は既に酔っていたらしく酒を強制してきた。断わる理由もなかったのでそれを受けることにした。彼はとても喜んで、楽しげに酒を飲んだ。そう、酔い潰れるまで。

 ようやく解放された。しかし、横には彼女がいる。

「初詣に行くわよ」

 やれやれ、次は初詣か。

 仕方なく付き合った。別に興味はない。ないと言うよりも興味が沸かない、楽しいと言う感情がないんだ。彼女と一緒だといつも不思議な、表現の出来ない感情は生まれているけど。


 今日は始業式だ。屋上でぼんやりしていたら、坂本がやって来た。

「よう、相変わらず寒いところにいるな」

「余計なお世話だ」

「何だよ、相変わらず冷たいままだな、御堂は。彼女の方はすっかり氷が融けたっていうのによ」

「それも余計なお世話だ。彼女は彼女、僕は僕だ」

「で、お前ら恋人同士になったんだって?」

 何で知ってるんだ、誰にも話してないぞ。そもそもそんなことには興味がないが。ああ、彼女が言い触らしているのか、多分そうだろう。

「彼女が皆に言って回っているぜ、自分たちは恋人同士だって。もう誰も引き裂くことの出来ないくらいの永遠の恋人だって」

「意味が良くわからないな」

「解らなくても良いさ。それより、彼女の事好きなのか?」

「……正直わからない。強制的に恋人にされたからな、余計にわからない」

 何だそりゃ、と坂本は言った。掻い摘んで話してやった。

 あの夜色々話した、そうしたら強制的に恋人にさせられた、そんな事を。勿論、ホセ達の事は黙っていた。

 彼女の事を好きなのかなんて僕にはわからない。あの夜彼女に言った通り、そういう感情がないんだ。

 坂本が何か言って去って行ったら、入れ違いに彼女が屋上へやって来た。

「さあ、帰るわよ」

 相変わらず強引だ。引っ張られるようにして彼女と一緒に帰った。

 勿論、僕の部屋へ。相変わらず彼女は夜まで部屋にいて、ギターを弾いた後には抱きしめてくれた。そしていつものように彼女を家まで送り、そして眠った。



 あっという間に二月になった。

 相変わらず彼女は強引で、仕事のときはカウンターに閉店まで居座り、そして部屋へ行き、話をしてから帰って行った。勿論、僕が送っていくのだけれど。休日には朝から来て、部屋を掃除したり、遊園地や水族館や色々な場所へ連れて行ったりした。やっぱり興味のないことばかりだった。

 でも、なぜか彼女の嬉しそうな顔を見ていると言い様のない気持ちが胸の奥に広がる。


 バレンタインデーとやらが近いそうだ。連日アルバイトでチョコレートとチョコケーキを作らされている。不思議な習慣があるものだ。

 去年はマスターが全部やっていたので見ているだけだったが、今年は殆どの作業をさせられた。おかげでチョコの匂いも嗅ぎたくないほどだ。

 彼女はそんな僕を見て楽しそうに笑っていた。笑顔がとても綺麗だった。

 放課後に屋上でぼんやりしていると、また呼びもしないのに坂本が来た。

「よう、バレンタインもそろそろだな」

「そうだな」

「お前は去年いくつ貰ったんだ?」

「何を?」

「チョコだよ、決まってるだろ。で、いくつ貰ったんだ?」

「何も貰ってない」

 坂本は絶句している。なぜかはわからない。

「女子に人気のあるお前がゼロだったって? 嘘言ってもわかるぞ」

「嘘じゃないさ、お前に嘘を吐いて何か良いことでもあるのか?」

 奴は少し考えていた。しばらくして納得したように頷いた。変な奴だ。

「やっぱり冷たい所が敬遠されたんだな。でも、今年は確実にもらえるじゃないか」

「興味はない」

「なぜそんなことを言う? 彼女が可哀想だろ、興味がないとか言うなよ」

「毎日作ってるからもう飽きた」

 また絶句しやがった。本当に変な奴だ。

「そうか、それは同情してやる。しかしそうすると、織田は大変だな」

「あ?」

「お前にチョコをあげても喜んでもらえないってことさ」

 どちらにしても興味はないが。


 バレンタインデーだ。学校中、いや世間中が浮かれているらしい。僕には関係のないことではある。別にけちをつけるつもりもない。どうでも良いことだ。

 当日は殆どすることがないからと言って、マスターはアルバイトを休みにしてくれた。でも、当然のように彼女が僕の帰りを待っていて、当然のように手を引いて歩き始めた。

「どこへ行くんだ?」

「決まっているでしょ。私の家よ」

 何が決まっているのか良く解らない。

 彼女が言うには、父親が僕を夕食に招待しているのだそうだ。正月に会った時には彼は酩酊状態だったから、もう一度僕という人間を確かめるつもりでいるのだろう。そう思っていたらやっぱりその通りだった。

「薫と君は恋人だと聞いているが、娘をどう思っているのかね?」

 食事が済んだ途端に酒を勧められ、本題に入った。横には当然のように彼女がいて僕に寄り添っている。緊張しているわけではなかったが、なぜか安心した。

「……お怒りになるかもしれませんが、正直に申し上げてよく解りません。薫さんは僕に とても親切にしてくれます。優しくしてくれます。でも、僕にはもともとそういう感情がないのです。誰かを好きになるとか、好意を持つとか、愛するという事が解らないのです」

 もう酔っているのだろうか、勝手に言葉が出ている。

 彼女が突然話し始めた。

「私は創を愛しているわ。お父さん、この人は今、感情がないって言ったわ。確かに、何をしても、どこへ行っても、何の興味も持たない、いいえ、持てないの。感じることの出来るのは過去の辛さと苦しみだけなの。でも、私はこの人を愛しているの。だから、私がその辛さや苦しみや悲しみを慰めてあげたい、癒してあげたいの」

「薫、それだけではこの家の家訓や家風に反することになるぞ、良いのか?」

「私は構わないわ。この人の、創の辛さや苦しみや悲しみが癒せるのなら家を捨てても良い、お父さんやお母さんを裏切ることになっても構わない。愛してるの」

 彼女の父親は黙り込んでしまった。彼女の母親が何時の間にか彼の横に座っていた。

「君たちの間に肉体関係はあるのかね?」

 親なら気になるだろうな、やっぱり。でも、まだ彼女には触れてないんだ、性的欲求がないわけではないけれど。

「そういう関係は全くありません。僕が辛いときや苦しいとき、悲しいときに薫さんは僕を抱きしめてくれます。それ以外はキスした事すらありません」

 やっぱり酔っているようだ、ぺらぺらと喋っている。

「ただ、薫さんと一緒にいると、表現の出来ない気持ちや感情を持つことが出来ます。薫さんとお付き合いする前にはあり得なかった事です。でも、それが何か全く判らないのです」

 なぜかそう言っていた。彼女は驚いたような顔をしていたが、不思議な表情をしてまた父親に言った。

「この人は私と一緒に、少しずつ幸せになるの……ゆっくりと。この人は心に傷を負っているわ、私達に理解できないくらいの傷を、しかも自分で気が付いてない。でも、私は、私自身でそれを癒してあげたい」

 気持ちは嬉しいが、そうして欲しいとは思ってないぞ。

 彼女の母親を見たらなぜか頷いていた。良く解らない。

 しばらく父親は黙っていたが、何かを決めたようにこう言った。とんでもないことを。

「君の誕生日はいつかね? そうか五月か。では、五月になったら婚約をし、大学を卒業するなり就職をした時点で娘と結婚してもらおう」

「ちょっと待ってください、いくら何でもそれは強引過ぎやしませんか?」

 こんな僕だって、婚約や結婚は愛し合ってするものと理解している。

 両親もそうだった。愛し合っていたと親父は言った。僕にはそういう感情がない。そんな人間に結婚を迫ってどうするんだ?

「先ほどお話したように僕にはそういう感情はありません。でもそうした事を他人に強引に決められてしまうのは不本意です。これでも物事の道理を少しはわきまえているつもりです、今のお言葉はあまりにも強引過ぎます」

 しばらく黙った。なぜ結婚を迫る? したからどうなると言うんだ? そうしたって別れは来るじゃないか。そう、僕の両親のように。それを僕に押し付けてどうするつもりなんだ? どうでも良い事じゃないか。そう、確かにどうでも良い事だ。

 でも、どうしても彼の言う事に従う気にはなれず反抗する事にした。

「……あくまでそうしろと仰るのであれば、僕は薫さんとは交際しません」

 彼女は父親の言い分を聞いてほっとしたような顔をしていたが、僕の言葉を聞いて泣きながら叫んだ。

「駄目よ、駄目! あなたは幸せにならなきゃいけないの!」

 ごめん。でもそういう願望も欲求もないんだ。前に話した通りに。特に幸せになりたいとも思わない。と言うよりも、「幸福」とか「幸せ」って何だ? 僕には解らないし、興味もない。僕には関係のない事だ。

「あなたのおかげで私は元の自分を取り戻せたわ。だから、今度は私があなたを幸せにしてあげたいの。それだけじゃ駄目? 私のことが嫌い?」

「嫌いじゃない、嫌いならあの夜に断わってる。ただ、やっぱり踏み込みすぎたんだよ、僕は。君に甘え過ぎたのかもしれない、してはいけないことをしてしまったんだ。あまりにも君に近づきすぎた。君は僕の持っていない物を全て持ってる、君とは全く正反対の人間なのに近づきすぎたんだ。ホセ達の時のように」

 彼女は泣き顔のまま悲しそうに見つめてきた。言葉を続けた。

「君にとってはとても辛い別れになってしまったね、僕にとってもそうだ。とても辛くて苦しい。でも、前に話したように、全ての出会いには必ず別れがある、それが早いか遅いかの違いなんだ。僕等にはそれが早く来ただけだ。……じゃあ、元気で」

 呆然とした様子の彼女の両親に夕食のお礼を言い、席を立った。そしてそのまま玄関へ向かい、アパートへ帰った。

 彼女の泣き叫ぶ声が耳に残った。


 部屋へ戻ると彼女の痕跡が残っていた。彼女の使っていた座布団、湯のみ、茶碗、箸、彼女の持ってきたテレビ、炬燵、ミニコンポ、その他色々。

 僕は言い様のない気持ちに襲われた。あえて言うなら喪失感とでも言うのだろうか、どうでも良い事だが。

 コートと上着を脱ぎ、ハンガーを使って壁に吊るし、ストーブもつけずに座り込んだ。ギターが目に留まった。

 チューニングを確かめ、弾き始めた。何曲も弾いた。ホセの事も彼の仲間たちの事も思い出さなかった。ただ、彼女の、織田薫の事を思い出していた。

 さっきのあの泣き顔、一緒にいるときのあの笑顔、初めて会ったときの冷たい表情を、喫茶店でケーキセットだけで何時間も粘っていた事を、初めてこの部屋でギターを聴かせた時の事を。

 何時の間にかギターを放り投げていた。弾き疲れたのだろう、そのまま眠ってしまっていた。


 失敗した。あのまま炬燵にも入らずに眠ったせいで風邪を引いたらしい。熱があるらしくて寒気がする、関節が痛い。だるい、くしゃみや咳も止まらない。動けないと言ったほうが早いだろう、実際に動けない。炬燵に入ったが、電源を入れることは出来なかった。

 僕が覚えているのはそれだけ。


 結局、一週間学校を休んだ。あまりにも風邪が酷かったからだ。彼女は部屋に来なくなった。

 動けるようになってから、彼女の痕跡を消すことにした。テレビ、炬燵、ミニコンポ、彼女の使っていた座布団を押入れに入れた。なぜか捨てようとは思っていなかった。押入れにはまだ余裕がある。次にキッチンに向かい、彼女の湯のみ、茶碗、箸を新聞紙で包み、食器棚の引き出しに入れた。部屋の中は彼女が来る前のように何もない状態に戻った。

 僕はまたあの辛さと悲しみを味わっていた。でも、これでいいんだ、そう思っていた。


 彼女はしばらく学校を休んでいた。理由はわからなかった。心配なようなほっとしたような変な気分がした。

 あっという間に三月になっていた。

 彼女は学校へ戻ってきたが、以前のような冷たい無表情な顔になっていた。皆は彼女のことをまた「アイスドール」と呼んだ。

 皆が彼女の変わり様を不思議に思っていた。僕のところにも何人かが聞きに来た。その度に「知らない、僕には関係ない」と言った。

 昼休みに屋上へ出ると坂本がついて来た。

「御堂さ、一体何があったんだ?」

「どうしてそんなことを言う?」

「彼女がまたアイスドールに戻ってるじゃねぇか。それに、お前だ、お前は前にも増して冷たくなってるぜ」

「そうか。でも、お前には関係のないことだ」

「そんな事言うなよ、心配してやってるんだぜ、こっちは」

「そうか、それは済まん」

「で、彼女と別れたのか?」

「そうだ」

 やっぱり、と言う顔で坂本は僕の顔を見た。「なぜだ?」と聞いてきた。

 掻い摘んで事情を話すと奴は不思議そうな表情で僕を見て、口を開いた。

「バカな奴だ、お前って男は」

「そうかもな」

「本当にバカな男だ」

 また言いやがった。でも、そんなことはどうでも良い、今となっては。


 マスターにも同じ事を言われた。なぜ皆同じ事を言う?

 別れるのが早かっただけじゃないか、そこに何の意味がある?

 僕が彼女と付き合う事に、そして別れる事に何の意味があると言うんだ?

 何の意味もない。


 四月になって、彼女とは別のクラスになった。坂本も別のクラスになった。

 僕は以前と同じ生活を繰り返していた。毎日、部屋でギターを弾く様になった。弾く度に、ホセとその仲間達の事を思い出した、そして、彼女の事を思い出した。


 あっという間に夏が過ぎて、秋が来た。文化祭は休んだ。理由を聞かれても困るが。僕には関係のない行事でもある。彼女の事を思い出したからかも知れない。あの、僕の胸で泣いた彼女の事を。

 冬になって受験のシーズンになった。僕はマスターの勧めに従って、ある大学の経営学科を受験することにした。

「これからどうなっても食いっぱぐれないようにしないとね」

 確かにそうだ、マスターの言う通りだ。どうでも良い事ではあったが、親父に見放されている現状では自分で食いつないで行く他にない。だから、マスターの言う通りにした。

 そして、受験勉強をした。初めて勉強と言うものをしたといって良いかも知れない。僕は過去の出題を集めた問題集を買い、それを解いた。間違っているところの解説を読み、参考書の該当部分を読み、問題を解いた。

 僕は志望校に合格した。そして、高校を卒業した。

 坂本は地方の大学に行くことになったそうで別れを言いに来た。やっぱり、別れというものは辛くて、悲しい。それがどんな相手であっても。


 入学式を前にして風邪を引いた。かなり酷かった。熱がでて動けなくなった。


 夢を見ているらしい、確かに夢だとわかる。

 死んだはずの母親が目の前にいる。アメリカで僕を撃った男や、北アフリカで僕を刺した奴も目の前にいる。あいつらだって決して悪い奴じゃなかった。たまたまそうなっただけなんだ。アイルランドや中東で爆弾テロに遭った知り合いもいる。彼らも親切にしてくれた。親父に放り出されている僕を。

 なんだ、ホセ達も目の前にいる。でも、身体がばらばらだったりずたずたになっていたりするぞ、大丈夫なのか?

 楽しいときも多かったな、どんな国へ連れて行かれたときでも。でも、必ず別れが来た。殆どが辛くて、苦しくて、悲しい別れだったけれど。

 ああ、薫も目の前に居るじゃないか。ごめんね、辛い思いをさせて、苦しい思いをさせて、悲しい思いをさせて。でも、仕方がないんだ、どうしようもないんだよ。せめて僕よりも辛く苦しく悲しくない別れであることを祈るよ。祈るだけじゃ駄目か、謝らなきゃね。

 ごめんね、ごめんね、僕がこんな人間だったばっかりに、君に辛い思いをさせたね。君の笑顔を見ていたかった、君に優しい言葉を掛けて欲しかった、君に抱きしめて欲しかった。そんな甘えが、君を苦しめてしまったんだね。

 ごめんね。ごめん、ゆるしてはもらえないだろうけれど、でもごめん。それから……さよなら。


 何かに包まれている気がする、柔らかい何かに。優しい柔らかい何かに包まれているような気がする。

 熱い水が僕の顔に掛かっているみたいだ。なにか良い匂いもする。

 落ち着く。何か言われているような気がする。

 でもわからない。暖かい、そして優しい……ああ、彼女の言っていた幸せってこういう事なのかな?

 でもよくわからない……わかるのはつらくてかなしいおもいをさせたことだけだ。ごめんね、ごめんね……


 目を覚ました時、彼女が部屋にいた。

「なぜここに居る?」

「決まってるじゃない、居たいから居るのよ」

 相変わらず強引で明確な答えだ。

 でも、僕等は別れたんだ、僕がそう選択した。そう言ったら怒った様に、こう反論してきた。

「この一年自分を納得させようとしたわ。でもね、一方的にあんな事言われて納得できると思ってるの? ウチの両親はどうか知らないけど、私はどうしても納得できないんだからね。もう絶対に拒否は許さないわ、あなたは私と一緒に、ゆっくりと、少しずつ幸せにならなきゃいけないのよ」

「ご両親が怒ってるぞ、早く帰れ。僕の事は忘れろ」

「あんた、私の言った事聞いてないの? 熱でおかしくなった?」

 彼女は僕の布団に入ってきた。

 おいおい。風邪がうつるぞ、止めとけって、抱きついてくるなよ。なぜ泣く?

「……創、あなたずっと熱でうなされながら謝っていたわ。ごめん、ごめん、って。私の笑顔を見ていたかったって、優しい言葉を掛けて欲しかったって、抱きしめて欲しかったって、ずっとずっとそう言っていたわ。だから、私はそうしてあげるの」

 何も言えなかった。言葉が出てこなかった。

「あなたは私の言う通りにしなきゃいけないの、拒否は許さないわ。私と一緒に幸せになりなさい。ゆっくりと、少しずつで良いんだから。さあ、ずっと抱きしめてあげるから今は眠りなさい」

 そしてまた眠りに落ちた。ゆっくりと、心地よく、彼女に包まれて。


 次に目を覚ましたときにも、彼女は部屋に居た。

「なぜここに居る?」

「決まってるじゃない。居たいから居るのよ」

 相変わらず強引で明確な答えだ。

 でも、なぜだ?

「もう体調は良くなった? 良くなったのならギターを弾いて頂戴、私のために」

 布団を片付けた。もう体調は元通りになっている。彼女の要求に応えてギターを弾いた、何曲も。

 弾いている間、彼女は何も言わずに僕をじっと見つめていた。不思議な感じがした。弾き終わると、僕を抱きしめてくれた。以前のように。

「入学式には二人で行くからね、わかったわね」

「どういう意味だ?」

「私も同じ大学なのよ、学科は違うけど」

「なぜだ?」

「あなたから離れないためよ、決まってるでしょ」

「どうしてそんな事をする?」

 彼女は呆れたように僕を抱きしめたまま見つめてきた。また不思議な気持ちになった。

「言ったでしょ? あなたは私と一緒に幸せになるの、少しずつ。……それにね、あなた言ったわよね、別れは辛くて悲しいから少ないほうが良いって。でもね、私はこう思うの。別れがあるからこそ精一杯愛し合わなければいけないんだ、って。私はあなたを愛しているわ。だから、あなたに私を愛して欲しい。そのためには私たちは離れちゃいけないの。それともこうされるのは嫌? 私に愛されるのは嫌い?」

 嫌じゃない、ずっとこうしていて欲しい、なぜだかそう思った。

「嫌じゃない、君が傍に居るとなぜか落ち着くんだ。理由はわからない」

「じゃあ、私の言う通りにしなさい。ずっと私と一緒にいるの、良いわね?」

 相変わらず有無を言わせない言い方だったが、優しい声音だった。

「わかった、君の言う通りにするよ。だからしばらくこのままで居てくれ」

 彼女は僕を強く抱きしめてきた、何も言わずに。


 そして僕等は初めてキスをした。

 何かに充たされている様な、そんな不思議な感覚を味わっていた。

 初めてのキスの後、彼女は嬉しそうな顔で言った。

「幸せってそういう事じゃないの? 私はそう思うわ。嫌じゃなかったでしょ?」

 嫌じゃない、もっとあの感覚を味わっていたい。そう、あの不思議な充たされて行く様な感覚を。

 彼女は嬉しそうな顔で、あの笑顔で、またキスをしてきた。とても長く、甘いキスを。

 僕はまた感じていた、不思議な感覚を、何かに充たされている様な不思議な感覚を。


 これが彼女の言う「幸せ」なら、もっと幸せが欲しい。



かなり駆け足で進む作品になっていると思います。

テレビドラマや映画のように場面転換しているイメージで書いてみました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 凄く良かったです。 微妙な感情の表現がとても繊細に描かれていて、読了後には色々と考えてしまいました。 御堂くんにはこれから薫さんと一緒に「幸せ」というものに近づいていって欲しい。 そう…
[一言] どうも初めましてです。 物語自体は非常に面白かったと思います。流れ的には短編なので、確かに速いかもしれませんが妥協できる点です。 文章もまぁまぁ良し悪しも無く、ただ語りかけるような場面がなか…
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