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破壊の御子 作者:無銘工房

燎原の章

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第55話 片鱗

 ずいぶんと待たせてしまい怒られるかと思っていた蒼馬たちであったが、部屋の中に漂う微妙な空気に気づいた。
 なぜかシャハタは顔をそむけて目元をぬぐい、他の人々は素知らぬ顔で視線を合わせようともしない。
「何かあったんですか?」
 これは、さすがに待たせすぎたかなと思いつつ蒼馬は尋ねると、皆は互いに顔を見合わせるばかりで、なかなか答えようとはしない。
 しかし、それも当然だろう。
 さすがに当人を目の前にし、逃げ出したのではないかと疑っていました、と言えるものではない。
 ところが、そうした空気を読まない人物が、ひとりいた。
「おまえたちが逃げたのではないかと話していたのだ」
 それは、ジャハーンギルだ。
 ディノサウリアンは顔の表情が(とぼ)しいため、率直な言動を好む傾向がある。そうした種族的な特徴なのか、本人の性質なのかはわからないが、ジャハーンギルは誰もが言えずにいたことを平気で口にしてしまう。
 それにシェムルは怒るよりも先に呆れてしまった。
「まったく、おまえたちは……。ソーマが逃げるわけがないだろう」
 その言葉に、皆はバツが悪そうに視線をそらす。
 しかし、そんな周囲の反応にも気づかぬ様子で、ひとり蒼馬は顔を青くしてうつむいていた。
 奇襲を見破られたことで、自分への信頼が揺らぐのではないかという不安はあったが、まさか逃げたと思われるとまでは、さすがに考えてはいなかった。
 これからみんなに言おうとしていた策は、かなり危険が伴うものだ。
 ありていに言ってしまえば、ほとんど博打(ばくち)のようなものである。それもかなり分の悪い博打だ。
 それなのに、このように信頼が揺らいでいるような状態では、ただでさえ少ない勝ち目が消えてしまう。何しろ、自らを死地に追い込み、ギリギリのところで勝利を拾おうという策なのだ。そのため、最期の最期まで自分の策を信じて踏み止まり、敵と戦う覚悟が、何よりも必要になる。少しでも策に不信を抱かれていれば、そこから一気に崩れてしまうだろう。
 失った信頼をどう取り戻せばいいのか焦る蒼馬に、ある考えが浮かんだ。
 なかなか言い出せずにいた、あの秘密を明かせばいい。
 そうすれば、自分が決して逃げ出さないと言う保証になる。そして、その異常性を強調すれば、自分の策への信頼にもつながる。
 そうだ、それがいい。
 解決策が思いついたというのに、なぜか蒼馬の顔には暗い笑みが浮かんでいた。
 蒼馬の雰囲気がおかしいのに、ようやく気づいたシェムルは、はたと思い出す。慌ただしくてすっかり忘れてしまっていたが、自分は奇襲策が敵に見破られたのに、同胞たちが動揺していないかを蒼馬に確かめに行かされていたのだ。
 しかし、その報告を蒼馬にしていなかった。
 もしかしたら、それを心配しているところに、自分が逃亡したのではないかと疑念を持たれていたことを知り、蒼馬は不安になっているのではないかと考えたシェムルは、慌ててそれは杞憂(きゆう)だと伝えようとした。
 だが、その声が咽喉まで出かかっていたシェムルの耳が、ピクリと動く。
 あまりにかすかな声で聞き間違いかと思ったが、蒼馬が「バラすには、ちょうどいいや」と呟いたような気がしたのだ。
「僕は、逃げませんよ」
 シェムルが戸惑っているわずかな間に、蒼馬はそう言った。
「いえ、逃げられません。僕は、あなたたちと一蓮(いちれん)托生(たくしょう)なんですよ」
 シェムルは(いぶか)しんだ。言葉だけ聞けば、自分たちとともに戦う決意を述べているというのに、その口振りからはなぜか自嘲するような暗い影が感じられた。
「おまえは人間だ。この街から出てしまえば、ばれないのではないのか?」
 またも空気を読まない発言をするジャハーンギルに、誰もが「この馬鹿の口を塞いでくれ」と胸の中で叫んだ。
「じゃあ、証拠をお見せしますね」
 ジャハーンギルの発言に頭を抱えていた人たちも、この蒼馬の言葉に興味をそそられる。
「ガラムさん。申し訳ないですが、山刀を一本貸してもらえませんか? すぐにお返ししますから」
「……別に、かまわんが」
 いったい蒼馬が何をしようとしているのかわからなかったが、腰に差していた二振りのうち片方を鞘ごと手渡した。
 皆が注目する中で、蒼馬はゆっくりと山刀を鞘から抜き放つ。
 さすがゾアンの英雄ガラムの山刀である。丹念に研がれ、磨かれた山刀の刃は冴えた輝きを放っていた。
「ずいぶんと鋭そうですね」
「……ああ。下手に刃に触れるなよ。小指ぐらい、簡単に落ちるぞ」
 何か不気味なものを蒼馬から感じたガラムは、忠告する。
 しかし、それに蒼馬はかすかに笑みを返すだけであった。
「ちょっと失礼しますね」
 そう言うなり蒼馬は山刀を逆手に握ると大きく振りかぶる。そして、驚きに目を丸くするみんなの前で、机の上に広げられた地図に山刀を突き立てた。切っ先が机を打つ激しい音がする。
 誰もが突然の狼藉(ろうぜき)に言葉もなく見守る中で、蒼馬は山刀をいったん置くと、地図の上辺両端を(つま)んで広げて見せた。
「ほら。傷ひとつないでしょ?」
 ひらひらと(ひるがえ)される地図には、蒼馬が言うように傷ひとつない。あれだけ強く山刀を突き立てたというのに、それはおかしなことだ。よく見れば机の上にも、山刀の切っ先が突き立った(あと)すらなかった。
 皆は蒼馬の意図がわからず、互いに顔を見合わせる。
 これから討伐軍といかにして戦うか話し合わなければいけないこの場で、なぜこのような手妻(てづま)を見せられねばならないのかと疑問に思う。
 そんな困惑した雰囲気の中で、蒼馬は山刀を再び手にする。
 そして、その刃を自分の咽喉に押しつけた。
「……! 何をしている、ソーマッ?!」
 それを見たシェムルの口から、悲鳴のような絶叫がほとばしる。
 しかし、蒼馬は咽喉に押し付けたまま山刀の刃を躊躇(ちゅうちょ)なく横に滑らせた。
「……!!」
 誰もが虚空に飛び散る鮮血を幻視した。
 蒼馬の後ろでは、驚愕に顔をゆがめたシェムルが、その場にぺたりと座り込んでしまう。
「ほら、大丈夫でしょ?」
 しかし、血しぶきどころか蒼馬の手にした山刀には一滴の血もついていない。
 全員が、白昼夢を見た気分だった。
 確かに蒼馬が自分の咽喉に刃を当てるのを見た。そう見えるように誤魔化していたわけではない。当てられた刃によって、皮膚がわずかに凹むのも見たのだ。あの状態で刃を引けば、咽喉が切れないわけがない。
「これが、僕の御子としての恩寵です」
 穏やかと言ってもいい蒼馬の声が、その場にいた者たちには遠雷のように聞こえた。
 蒼馬が御子であることは周知のものであったが、御子に必ず与えられるはずの恩寵については、これまで本人ですらわからないとされていた。
 それをいきなり自分の恩寵の存在を明言したばかりではなく、自らの咽喉を掻き斬るような真似さえした蒼馬に、皆は一様に驚きで言葉も出ない有様だ。
 しばしの沈黙の後に、最初に口を開いたのは、身近にシェムルという御子がいるため、恩寵の不思議な力を目にしたときの驚きに多少は耐性ができていたガラムである。
「……まさか、刃で傷を負わないという恩寵なのか?」
 まず真っ先にガラムが思いついたのは、それだった。
 しかし、それでは地図を傷つけられなかったことが説明できない。
 いったいどのような恩寵をもらった結果、蒼馬が今やって見せたことができるのか皆目見当がつかなかった。
「いえ、違います。僕の手では、それが何であろうと傷つけたり壊したりすることができない。それが、僕がもらった恩寵です」
 蒼馬が口にした言葉の意味を何度も頭の中で咀嚼(そしゃく)し、ようやく理解したガラムは唖然とした。
「わかってもらえましたか? その日の(かて)を得たくても、僕は小鳥一羽を狩ることも小魚1匹釣り上げることもできない。誰かに襲われても、それがどんなに弱い相手でも刃向うこともできない」
 蒼馬は自嘲の笑みを浮かべると、ひょいと肩をすくめて見せる。
「ほら。僕は逃げられるわけがない。もう、あなたたちとともに生きるしかないんです」
 蒼馬の語る彼の恩寵は、それまでガラムたちが知っている御子の恩寵という概念から大きく外れていた。
「そんな、馬鹿な! そんな馬鹿な恩寵があるのか?!」
 もし、そんなものがあるとすれば、それは恩寵ではない。
 それは――。
「それでは、まるで呪いではないか?!」
 そのガラムの絶叫は、その場にいる皆の代弁でもあった。
 恩寵とは、神々が気に入った者に与える恵みの力に他ならない。それなのに、御子に不利益しか与えないような力など、考えられないことだった。
「そうです。――たぶん、呪いなんでしょうね」
 蒼馬の口許に、酷薄な笑みが浮かぶ。
「僕が、あなたたちから離れられないように。あなたたちに協力せざるを得ないように」
 蒼馬は言外に、告げていた。
 女神によって、自分はここに(つか)わされた、と。
 おまえたちの敵を滅ぼすために、自分はここにいるのだ、と。
 その蒼馬の姿に、ガラムは既視感を覚える。
 これと似たような光景を見たことがあるではないか。
 ガラムの脳裏に、初めて蒼馬がアウラの御子であると自分たちに告げたときの光景が浮かび上がる。
 そうだ。意識の外に追いやってしまっていたが、目の前にいる人間の少年は、アウラの御子なのだ。死と破壊をもたらす不吉な女神の御子なのだ。
 普段からは想像できない異様な雰囲気をまとう蒼馬に、誰もが気を呑まれ、指一本動かせずにいた。
 しかし、その中で、ひとりシェムルだけがゆらりと立ち上がる。
 そして、その固く握りしめた拳を大きく振り上げると、
「この馬鹿野郎っ!!」
 それを蒼馬の脳天に叩きつけた。
 蒼馬の口から、素っ頓狂な悲鳴が洩れる。
 誇張抜きで、目玉が飛び出るかと思うぐらいの衝撃だった。
 その突然の暴力に、気が弱い蒼馬もさすがに頭へ血を上らせてシェムルに振り返る。
 しかし、その怒りも、目にうっすらと涙を浮かべるシェムルを前にしては、洪水に飲み込まれた焚き火のように跡形もなく消し去られてしまう。
「この大馬鹿っ!」
 シェムルが、吠えた。
「私は本当に自害したのかと思ったんだぞっ! わかるか?! 私がどれだけ驚いたのか! 本当に、本当に死んでしまうのかと思ったんだ! 本当に、びっくりして、死んだと思って……!」
 全身の毛を逆立て、プルプルと震えながら自分を糾弾するシェムルの姿に、蒼馬はいたたまれなくなる。
「……ご、ごめんなさい」
 蒼馬が謝るとシェムルの態度は一転して、おろおろとし始める。
「そ、それより咽喉は本当に大丈夫なのか? 見せてみろ。本当に傷はないんだな?」
 シェムルは蒼馬の胸ぐらを掴んで引き寄せると、顎を押し上げて無理やり咽喉を晒させる。
「ちょ、ちょっと、シェムル。くすぐったいって」
「うるさい! よく見せろ」
 蒼馬の咽喉に鼻先が触れるほど顔を近づけると、毛ほどの傷も見逃すまいと目を皿のようにして見つめる。蒼馬が言うとおり傷ひとつないことを確認したシェムルは、ようやく安堵した。すると、いったん治まっていた怒りが再びこみ上げてくる。
 もう一度、蒼馬の頭に握り拳を落とした。
「い、痛いよ、シェムル……」
 涙目になりながら抗議する蒼馬に、シェムルはクワッと牙を剥いた。
「うるさい! だいたい何だ、その恩寵は?! いつそんな恩寵を授かったっ?! それとも本当は最初から授かっていたのに、私を(だま)していたのかっ?!」
「だ、騙してないよっ! この前! この前、夢の中で――」
「そういう大事なことをなぜ黙っていた?! そんなに私は信用できないのか?! 『臍下(さいか)(きみ)』から信用されていないなんて、私はとんだ道化ではないか! こんな生き恥を晒させるぐらいなら、今すぐ私に首を差し出せと命じろ! この場で、私がおまえにすべてを捧げたという言葉が嘘偽りでないことを証明してやる! さあ、言えっ!!」
 今にも山刀を抜いて自分の首を掻き切らんばかりのシェムルの剣幕に、蒼馬は血相を変えてなだめる。
「ごめん、シェムル! 謝るから、落ち着いて! ね、ね?」
 蒼馬が取りすがってなだめると、ようやく逆立っていた全身の毛から力が抜け、ふわりと垂れる。しかし、その目はまだ疑わしそうに半目になっていた。
「本当に悪いと思っているんだな?」
「うん。本当に、悪かったと思ってる」
「……次は、許さないからな」
「本当に、ごめんなさい」
 ようやく許しをもらえた蒼馬は、ほっと胸を撫で下ろした。
 そのとき、どっと笑い声が起きる。
 驚いたふたりがそちらに顔を向けると、部屋中の人々が大きな口を開けて笑い声をあげていた。その中で、ガラムとバヌカのふたりだけは苦虫を噛み潰したような顔である。
 そこには、直前までその場を支配していた張り詰めたような緊張感は、かけらも残っていなかった。
「前代未聞だぞ。ゾアンの戦士が、自分の『臍下の君』の頭を殴りつけるとは……」
 ガラムが苦りきった口調で言った。
 それに我に返ったシェムルは自分がしでかしたことに気づくと、蒼馬と並んで身体を小さくする。
「ですが、今回ばかりはソーマ殿が悪いです。私たちゾアンが『臍下の君』を選ぶことが、どんなに重大な決意なのかわかっていません!」
 そう言ったのはバヌカである。私怨混じりの恨みがましい目で、蒼馬をにらみつけていた。ズーグまで、その尻馬に乗ってくる。
「今度ばかりは、俺も同感だ。俺とて、自分の『臍下の君』に信用されていないと思えば、自分の首を掻き切りたくなるわ」
 それに、その場にいたゾアンたちは苦笑で同意を示した。
「……おまえたち。《気高き牙》を甘やかさないでもらおう」
 バヌカとズーグを一瞥(いちべつ)し、ガラムはそう言い捨てる。それから、ふたりの言葉に「そうでしょ、そうでしょ!」とでも言うように、小さくコクコクとうなずいていたシェムルをギロリと睨みつけた。
「《気高き牙》。今は、やって来る人間どもの軍勢を何とかするために話し合わなくてはいけない重大な時だ。それを貴様は……!」
「た、《猛き牙》! 落ち着こう。落ち着いて話そう!」
「ほう……。確かに最近、たったふたりきりの兄妹だというのに、落ち着いて話す機会がなかったな。――よかろう。あとで、じっくりと膝を突き合わせて語らおうではないか」
 怒りのあまり目元をピクピクと痙攣(けいれん)させながら、牙を剥いて笑うガラムの顔は、とうてい兄妹で水入らずで語り合おうと言う表情ではなかった。
「それと、ソーマ……」
 名前を呼ばれた蒼馬は、自分も怒られると思い、びくっと身体を震わせる。しかし、そんな蒼馬の前で、ガラムは小さくため息をつくと、ふっと苦笑を洩らした。
「俺たちは、おまえによって多くの同胞たちを救われたのだ。おまえがなし得たことと、それに対する恩は決して忘れるものではない。そんなことをしなくても、俺たちはおまえに従うつもりだ」
 ガラムの言葉に、蒼馬は羞恥に頬を染めた。
 自分が死と破壊の女神の御子を演じ、その畏怖でみんなを従えようとしていたことをガラムには見抜かれていたのだ。
「そうだぞ。この馬鹿」
 そう言って頭を軽く小突いてきたシェムルに、蒼馬は恥ずかしそうな笑みを見せた。
 何のことはない。ひとりで早合点して、見当違いな憶測に(おび)えていただけだった。みんなに信頼して欲しいと思いながら、自分の方こそみんなを信頼していないばかりか、挙句の果てにみんなを遠ざけて孤高を気取ろうとしていたのだ。
 そんな醜態を晒したと言うのに、それでもなお自分へ全幅の信頼を寄せてくれるシェムルの視線が、うれしくもあり気恥ずかしくもあった。
 そんなふたりのやり取りを見守っていたガラムの口許にも、小さな笑みが浮かぶ。
 ガラムから見れば、蒼馬はとても危うい気がした。
 蒼馬は、他人に頼るのが下手というか、やけに他人を(わずら)わせたり迷惑をかけたりするのを嫌う傾向がある。これまでの実績を(かさ)にかかり、頭ごなしに指図されるよりかはよっぽど良いが、もっと他人に頼ることを学んだ方がいいようにガラムは思えた。
 これから蒼馬は背負わなくてはいけないものがどんどん増えて来る。そのすべてをたったひとりで背負おうとすれば、いつか必ず限界を迎えてしまうだろう。
 そして、そのとき何かとてつもなく恐ろしいことが起きそうな予感がする。
 それは、幾度(いくたび)もの死線を潜り抜けて磨かれたガラムの戦士の勘が(しら)せる、確信に近い予感であった。
 そうならないためにも、今から背負った重荷を他人(ひと)と分かち合うのに慣れておくべきだ。
 そう考えると、シェムルが蒼馬のそばにいることは幸運だったのかもしれない。
 兄の贔屓目(ひいきめ)を差し引いても妹のシェムルは、これはと決めた相手には、とことん尽くす良い女だ。そんなシェムルならば、また蒼馬が道を誤ろうとしたとき、今回のように殴り倒してでも止めるだろう。
 そんな信頼と肉親の情愛を込めて、シェムルを見やったガラムであったが、そのときシェムルがいまだに残る恐怖の残滓(ざんし)に震えていたのには、さすがに気づかなかった。
 あの時の蒼馬の姿を思い起こすと、いまだにシェムルは恐怖に背筋が凍る思いだった。
 しかし、シェムルが恐れた蒼馬の姿とは、咽喉に刃を当てたときでも、その刃を咽喉に滑らせたときでもない。
 シェムルが恐れた蒼馬の姿とは、彼が自らの恩寵を告げ、人間の軍勢を滅ぼすために自分はここにいる、と言った時のものである。
 その時、シェムルは蒼馬の周囲に、燃え上がる街を幻視した。
 それは、このボルニスではない。シェムルの見知らぬ街である。轟々とうなりを上げて燃え盛る赤い炎に包まれたその街では、いたるところで老若男女を問わず人々が松明のように焼かれていた。
 そんな、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図そのままの光景が、ぱっとシェムルの前に広がったのだ。
 そして、その幻影に囲まれた蒼馬の横顔が、シェムルにはとても恐ろしい怪物に見えた。
 次の瞬間、わけのわからない恐怖に突き動かされた結果、つい手が出てしまっていた。
 今思うと、我ながらとんでもないことをしでかしてしまったと全身に冷や汗が流れる。
 シェムルは、みんなに策を説明するために机の上に地図を広げて準備をする蒼馬の背中を見た。
 そこにいるのは、シェムルが良く知る、いつもの蒼馬だ。
 あのわけのわからない幻影は、もはや影も形もなかった。
 シェムルは、自分は何て馬鹿らしい幻影を見たものだと自嘲する。
 こんなやさしい我が臍下の君が怪物に見えたなど、私はどうかしていたのだ。
 しかし、自分で思い浮かべたその言葉に、シェムルはどきりとする。
 思い起こされるのは、あの宣言の夜に見た少女の幻影だ。
 シェムルは、それを頭から振り払うように首を左右に激しく振った。
 そんな馬鹿なことがあるか! 今見たのが、あの少女が言っていた恐ろしい怪物の片鱗だとでも言うのか!
 シェムルは、その想像を強く否定する。
「どうかしたの、シェムル?」
 気づけば蒼馬が不思議そうに、自分を見つめていた。シェムルは慌てて取り(つくろ)おうとして、わたわたと手を動かす。
「ああ、いや。なんでもない。気にするな!」
「……? そう。なんでもないなら、いいんだけど」
 そう口では言いながら、蒼馬はシェムルの様子が腑に落ちなかった。しかし、それを問い(ただ)す間もなく、ジャハーンギルに「早くしろ」とせっつかれてしまう。
 やむなく蒼馬は咳払いをひとつして、協議に意識を切り替える。
「やって来る討伐軍への対策ですが――」
 みんなの視線が集中するのを意識しながら、蒼馬はこう言い切った。
「やはり僕は、この街から出て迎え撃とうと考えています」

                ◆◇◆◇◆

「閣下。このようなところに、おひとりでいかがされました?」
 宿営地の中を護衛もつけずに、ひとり散策していたダリウスに、ひとりの将校が声をかけてきた。
 それは、精悍(せいかん)だがどこか垢抜けない実直そうな顔立ちの若い将校だった。極彩色の派手な(いろどり)をした鳥の飾り羽をつけた兜を小脇に抱え、背中には純白のマントがわずかに風になびいていた。
 その顔立ちには似つかわしくない派手な(よそお)いは、彼が伝令兵であるためだ。
 現代日本人の感覚では、伝令兵と言われると使い走りのように思われてしまう。
 しかし、無線などの通信機器が存在しない時代において伝令兵と言えば、若手の将校らが(あこが)れる花形の兵種なのだ。
 何しろ伝令兵には、指揮官の命令を理解し記憶するだけの頭の良さはもとより、状況に応じて独自の判断を下すだけの機転を持ち合わせ、さらには敵味方が入り乱れて戦う戦場を単騎で駆け抜けられるだけの卓越した馬術と武勇も兼ね備えていなければならない。
 そのため、どこの国でも伝令兵には、体力のある若手将校の中から選びに選び抜かれた精鋭があてがわれるのが常だった。
 さらに、伝令兵には、様々な特権が与えられている。たとえば、将軍の前でも馬上のまま応答を許されていたり、伝令途中でその道を(さえぎ)る者があれば誰であろうと斬り捨てても罪には問われないなどだ。
 これだけでも、伝令兵がいかに重要視されていたかわかるだろう。
 また、それを裏付けるように、かつて帝国において騎馬不足から伝令兵を廃止しようとした皇帝に対し、帝国の名将インクディアスは「陛下は、我らに目を覆い、耳を塞ぎ、口を閉じて戦えとおっしゃるのですか?」と諫言し、廃止を撤廃させたのは有名な話である。
「マリウスか。――なに、少し考えたいことがあってな……」
 歩み寄る若い将校に、親しげな微笑みを見せてダリウスは答える。
 その若い将校は、ダリウスが目をかけているマリウスという青年だ。
 ロマニア国との争いで父親を失い、少年ながら家督を継がなくてはいけなくなったマリウスに、彼の亡き祖父の親友だったのを縁に後見人となったのをきっかけに、ダリウスが今でも実の孫のように可愛がっている青年であった。
「はてさて、閣下を悩ませているものとは何でしょう。解放した街の住民に告げる言葉ですか? それとも、陛下から賜る恩賞の使い道でしょうか?」
 ダリウスがそんな些末(さまつ)な事柄に頭を悩ませるはずがないと知った上での冗談である。
「それは『種も()かずに、豊作を夢見る』と言うものだぞ」
 苦笑とともにダリウスが返したのは、この地域で言われる「捕らぬ狸の皮算用」と似た意味の言葉だ。
「では、何をお悩みになられているのでしょうか?」
「……反徒どもが、どのような手を打ってくるか、考えておったのよ」
 その言葉に、マリウスはわずかに目を見張る。彼の見立てでは、もはや反徒たちは街に籠るか、逃げるかぐらいしか道は残されていないように思えたからだ。
 その疑問が顔に出たのか、ダリウスは小さく笑うと、視線を西の果てへと向ける。
 そちらには、いまだ姿形も見えないがボルニスの街があることをマリウスは知っていた。
「これは、予想というより期待だな」
 ダリウスは自らが一軍を率いて戦うのは、おそらくはこれが最後になるだろうと漠然と感じていた。だからこそ、その最後を飾る戦いに相応しい強敵であることをダリウスは期待していたのである。
「わしは、敵が街から出て、わしらを迎え撃とうとするのではないかと考えておる」
「破壊の御子」の名を世に知らしめた「ボルニス決戦」
いまだ討伐軍がボルニスの街に至らずとも、その戦いはすでに始まっていた。
蒼馬とダリウスの脳裏の中で!

蒼馬「街の外に出て討伐軍を迎え撃ちます」
ダリウス「しかし、反徒どもは後方攪乱はしてこない」
蒼馬「もちろん、街には籠りません」
ダリウス「そして、平原にも撤退はせん」
蒼馬「討伐軍を迎え撃つ策は――」
ダリウス「それに対する策は――」

次話「読み合い」
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