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破壊の御子 作者:無銘工房

燎原の章

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第37話 誇り

 ファンタジー世界の衝撃的な料理を何とか平らげた蒼馬は、こんな異世界に来てまで、世界中が絶賛した日本の「もったいない精神」を発揮してしまう自分をほめてやりたい気分だった。
 やや覚束ない足取りで幌馬車まで歩く蒼馬の後姿を苦笑いしながら眺めていたホプキンスは、
「さて、私はこれからギルドに挨拶に行くが、君たちはどうする?」
 商人ギルドに限らず、仲間意識が強いギルドに無関係な人を連れて行くことは、あまり好ましくはない。特に、蒼馬とシェムルのふたりは街に災いをもたらす火種ともなりかねない。そんなふたりをギルドに連れて行ったのがばれれば、ギルドの評判を大きく傷つけてしまう。
 ホプキンスはまだ家族を人質に取られてやむを得ずと言い訳できるが、さすがに商人ギルドまで巻き込むわけにはいかない。
 ホプキンスの口調から、そうした思いを感じ取った蒼馬は少し考えると、
「僕たちは、少し街を見て回りたいのですが、大丈夫でしょうか?」
「この幌馬車は私の大事な財産だから、くれぐれも壊さないでくれよ」
 本当は幌馬車で待っていてくれた方が安心なのだが、仕方がない。
 もし、幌馬車を壊すようなことでもあれば、思いっきり高い弁償金をふんだくってやろうとホプキンスは固く誓った。
 ところが、蒼馬は思いもかけないことを言い出した。
「僕とシェムルで街を歩いて見て回りたいんですけど、やっぱりダメですか?」
「どういうことだい? この幌馬車は、いったいどうするんだ?」
「ホプキンスさんが、ギルドまで乗って行かれるんじゃないんですか?」
 何だか会話が噛み合っていない。
 ホプキンスはいったん言葉を区切ると、気持ちを落ち着かせ、自分の言いたいことを整理する。そして、物わかりの悪い子供に言い聞かせるように言った。
「よく聞きたまえ。幌馬車の荷台に載せてある、あの壺」
 それは砦から持ち出した軍資金が入った壺である。
「あれは、とてもじゃないが重くて持ち運びできないぞ。ましてや、あの壺はあまり人に見られていいものじゃない。街の中だって物騒なんだ」
 どこで誰が聞き耳を立てているかわからないので、ホプキンスは「あの壺」と言葉を濁しながら蒼馬に、いかに街が見た目よりも物騒なところであるか説明した。
 しかし、それに対する蒼馬の答えは突拍子もないものだった。
「ええ。ですから、ホプキンスさんが預かっていてくれませんか?」
 これにはさすがのホプキンスも人質を取られていることも忘れて、胸の中で思った言葉を正直に言ってしまった。
「君は、大馬鹿なのか?」
 ちゃんと中身を見たことはないが、あの壺の中には軽く見積もっても千アグニス(銀貨千枚=一〇万ディナス)は入っていた。
 それだけあれば行商人をやめて街に店を構えることもできるし、帝国の首都で奴隷を従えて一年は遊んで暮らすこともできるだろう。
 妻と息子を人質にされていることなど、この際は関係ない。これだけの大金と引き換えならば、大喜びで妻や息子を売り渡そうと言う人間はごまんといる。
 そんな大金を他人に預けるなんて、とてもじゃないが正気とは思えなかった。
 馬鹿も馬鹿、大馬鹿である。
 しかし、蒼馬はホプキンスの暴言に怒る素振りも見せず、あっけらかんと答えた。
「でも、その気ならとっくに兵士に密告しているでしょ? そんな心配を今さらしても仕方ないですよ」
 ホプキンスの顎が、かくんと落ちた。
 この少年は、よっぽどお人好しだらけのところで生活してきたに違いない。
 人がにこやかに笑いながら話しかけてきても、金をむしり取ろうとする詐欺師だと疑わなくてもいい。人が近づいてきても、物盗りや人殺しだと警戒しなくてもいい。見ず知らずの他人が助け合い、支え合うのが当たり前のような、そんなところで生まれ育ったとしか思えなかった。
 ありったけの罵詈雑言とともに、そんな甘い考えは捨てるように言ってやろうとしたホプキンスであったが、
「それに、ホプキンスさんが盗もうとする悪い人なら、わざわざそんなこと言わないでしょ?」
 咽喉まで出かかった罵詈雑言が声にならない空気となって口から洩れる。
 なぜか蒼馬の視線に気恥ずかしくなってきた。
 とうとうそれに耐えきれなくなったホプキンスは、照れ隠しのように、わざと足音を荒げて幌馬車に歩み寄ると、中にいるシェムルに怒鳴り上げた。
「何なんだ、あの子はっ?! 天性の人たらしか、何かなのかっ?!」
 幌馬車の中で暇つぶしに毛づくろいをしていたシェムルは、ホプキンスの言葉にしばらく虚空を見上げてから答えた。
「ふむ。それだと私も、たらされたことになるのか?」

                ◆◇◆◇◆

 結局、幌馬車に乗ってギルドに向かうホプキンスと別れた蒼馬とシェムルは、街外れの街壁が見上げられる場所に足を運んでいた。
「この壁は乗り越えられそう?」
 そう蒼馬が尋ねると、ホプキンスから人目を避けるようにと渡されたフード付きの外套を羽織ったシェムルが、同じように壁を見上げて答えた。
「難しいな。砦ほどではないが、自力では跳び上がれない高さだ。それにこの厚みでは、簡単には突き崩せないだろう」
 街壁の高さは、日本の平屋家屋の屋根の一番高いところとほぼ同じ高さだ。身体能力の高いゾアンであっても、容易に跳び越せる高さではない。
「でも、梯子なんて担いで走ったら、それこそ良い的になるだけだよね」
 ゾアンの最大の強みは、その四足歩行のときの機動力だ。
 蒼馬の言うとおり梯子なんて担いで走っては、その最大の強みを捨て去ることになる。
 街壁にそって歩いていくと、街の中央を流れている河に行き当たった。石積みの堤防の上から川面を覗き込むと、ムッとする腐臭が鼻をついた。
 ゆったりとした流れの穏やかな河は、黒く濁った水が流れ、川面には様々なゴミが浮かんでいる。上から見ただけではわからないが、それなりの深さはあるようだ。
 河は街壁に設けられたアーチ状の穴から外に流れて出ていた。その穴には何本もの太い鉄の棒が、しっかりとはめ込まれている。
「あれじゃあ、河から街に侵入するのは難しいね」
 忍者の水遁の術のように管状のものを水面の上に出し、潜ったまま鉄の棒を水面より下で切断して侵入口を作ってみたらどうかと考えた。
「でも、少数を街に潜り込ませても、それだけじゃダメだからなぁ」
 少数のゾアンを街の中に侵入させたとしても、やれることはせいぜい暗殺や放火などの破壊工作ぐらいなものだ。それで街を混乱に落とせたとしても、それは一時期的なものである。街を制圧するためには、ゾアンの軍勢を一気に街に入れなければならない。
 それに河が侵入口になる恐れがあることは、この街の守備兵にだってわかりきったことだろう。戦いになれば、必ずここは厳重な警戒が敷かれることは目に見えている。
 それならば、この河の上流で堰を作り、それを決壊させることで大量の水と丸太を流し、一気に鉄の棒を打ち破り、そこからゾアン全員で攻めるのはどうかと考えた。
「いや、それこそダメだろ……」
 しかし、それもすぐに否定する。
 もし、そんなことが起きたら、自分が街の指揮官なら街壁の上から河を泳ぐゾアンに矢の雨を降らせ、河の両岸に兵を配置して水の中で動きが鈍ったゾアンを槍で突き殺そうとするだろう。それでは屠殺場にガラムたちを送るようなものだ。
「難しいなぁ。どうにかして街の中に、たくさんの仲間を送り届けることができないと、この街は落とせない」
「我々ゾアンは、こうした石の街を攻めるのは苦手だからな」
 思い悩む蒼馬に、シェムルは申し訳なさそうに言った。
 蒼馬が漫画や小説で知る、こうした強固な防壁がある都市や城を落とす手段で思いつくのは、包囲、交渉、内応、防壁の破壊、守備兵の損傷、奇襲、奇策だ。
 包囲とは、大軍をもって街を包囲して兵糧攻めなどで街を開かせる方法である。
 しかし、それではどうしても長期戦になる。長期戦となれば街を落とす前にホルメア国の援軍が到着し、ゾアンたちは包囲の内側と外側から挟み撃ちになってしまう。
 交渉は、利を説いたり脅したりして街側から開門させることだ。内応も似たようなもので、守備側の人間をこちらの味方に引き込むことである。
 だが、ゾアンには街やその中の人間に利になる交渉材料がなく、また脅すにしても相手にされないだろう。
 防壁の破壊は、文字通り防壁を破壊して軍隊の進入路を作ることだ。
 しかし、ゾアンには投石機などの壁を壊す攻城兵器を作るだけの技術と知識がない。攻城兵器を使わず、遠くから穴を掘り進めて行き、防壁の真下を一気に崩して防壁を破壊する方法もあるが、こちらはもっと無理な話だろう。
 守備兵の損傷は、守備兵を外に誘い出したり、直接街を攻撃したりして守備兵を殺し、街の防御力を低下させることだ。
 だが、守備兵すべてを外におびき出すのは不可能だし、ましてや直接攻撃するのは愚の骨頂でしかない。街壁の上にいる兵士を殺すには弓矢が必要だが、ゾアンでまともに弓矢を扱えるのはシャハタぐらいなものである。
 次に奇襲だが、街が敵の襲撃に備える前に素早く攻撃し、防壁の内部に入ることだ。
 しかし、この見通しのいい平地ではゾアンの軍勢は街にたどり着く数刻前には見つかってしまい、奇襲にはならない。
「残るは奇策なんだけど、普通とは違う珍しい策だから奇策であって、そう簡単には思いつかないしなぁ」
 漫画や映画などでは、熱気球を作って兵士を街の中に直接送り込んだり、投石機に乗せて兵士を投げ入れたりすると言う恐ろしい方法もあった。
 しかし、さすがにそれらは現実的な方法とは、とうてい思えない。
 ふたりはいったん街壁から離れ、河を渡る橋まで行こうと(きびす)を返した。
 すると、ふたりの行く先から、ひとりの男が右に左にとよろめきつつ歩いて来るのが見えた。
 時折、手にした皮袋を口につけて歩く男は、酒に酔っているようである。余計な騒動を起こしたくないふたりは、男から顔を背けて道の端を歩いて行った。
 しかし、それがかえって注意を引いてしまったのか、すれ違おうとしたところで酔っ払いはシェムルの前に立ちふさがると、不躾(ぶしつけ)にフードの中を覗きこんできた。
「お! こりゃゾアンじゃねぇか!」
 ゾアンの奴隷が珍しいのか驚きに目を見張った酔っ払いだったが、すぐにシェムルのめりはりのある肢体に下卑た笑みになる。
「こりゃまた、ずいぶん良い身体してやがる。(けだもの)でも、これならあっちの役に立ちそうだ。
 おい、ガキ! こいつを俺に売らねぇか? 五アグニス(銀貨五枚)ぐらいなら出すぜ」
 そう言いながら酔っ払いは、いきなりシェムルの臀部をいやらしい手つきで揉みだした。
 それにシェムルの全身の毛が、ぞわっと嫌悪感に逆立った。ここで騒動を起こせば、面倒なことになることがわかっていた彼女は、必死に怒りと屈辱を押しつぶして耐える。
 他人の奴隷に手を出すことは非礼に当たる行為なのだが、酒の酔いと蒼馬がひ弱な少年に見えたことが酔っ払いの無礼な行為を引き出してしまった。
「彼女は売り物じゃありません。――シェムル、行こう」
 自分の大事なものが汚されたような気持ち悪さに、蒼馬の口調はひどくぶっきらぼうなものだった。
 その態度が(かん)(さわ)り、酔っ払いは酔いではなく怒りに顔を赤くした。
「なんだと、このガキが! てめえの下の世話してもらっている奴隷に触れられて、怒ったのか? ああん? 昨夜もさぞや頑張ってもらったんだろうな」
 酔っ払いを無視して立ち去ろうとしていた蒼馬だったが、蒼馬が想像したこともない下劣極まる暴言に、思わず振り返ってしまった。
 その蒼馬の頬に、湿った音とともに何かが当たる感触がした。
 頬を指先で触れると、ねちょっとした感触が伝わる。
 それが男の吐いた唾だと気づいた蒼馬が頭に血を上らせるよりも早く、湿った重い打撃音が響く。
「ぷぎゃ!!」
 豚の鳴き声のような悲鳴を上げて、酔っ払いが盛大に後ろにひっくり返る。
 蒼馬が隣を見ると、酔っ払いに渾身の拳を入れてしまったシェムルが、思わずやってしまったと言うように自分の拳を見て、おろおろしていた。
 とっさに蒼馬は白目をむいて倒れる酔っ払いの脇に落ちていた酒の入った皮袋を手に取ると、その中身を酔っ払いの体中に振りかける。そして、ホプキンスから念のために持っておくようにと小さな袋に分けておいた軍資金の中から銀貨を一枚取り出すと、気を失っている酔っ払いの手に握らせた。
「逃げるよ、シェムル!」
「あ! ……わ、わかった」
 蒼馬は鎖ではなく、シェムルの手を取って走り出す。
 表通りを避けて裏路地を駆け抜けたふたりは、しばらくして街のはずれの空き地に出た。
 周囲に人の気配がないことを確認して、蒼馬は荒い息をつきながら地面に腰を下ろす。
「あー、驚いた」
 鼻血を流し、白目をむいてひっくり返った酔っ払いの醜態を思い出して蒼馬は笑った。
「その……ソーマ、すまない。つい、カッとなってしまって」
 無理を言ってついてきたのに蒼馬の足を引っ張るようなことをしでかしてしまったシェムルは、すっかりしょげ返っていた。心なしか、耳の先がしゅんと垂れ下がっているようにも見える。
「大丈夫。多分、大事にはならないよ」
 あの酔っ払いが騒いでも、身体中から酒の臭いをぷんぷんと漂わせている人の言うことなどまともに受け取られないだろう。それに銀貨を握っていることに気づけば、自分の失態ともども懐に収めてしまった方が得と思うはずだ。
 そう言ってもまだ気落ちしたままのシェムルが可哀想になり、蒼馬は努めて明るい口調で言葉を重ねた。
「もし、大事になっても、シェムルがいればいくらでも逃げられるさ」
 言外に頼りにしていると言われ、ようやくシェムルの垂れ下がった耳も元に戻った。
 それに安堵しながら、蒼馬は気がかりだったことを訊いた。
「それよりも、シェムルに嫌な思いをさせてゴメンね」
「あの下衆(げす)のことなら、思いっきり殴ってやったから、もう気にしていないぞ」
「うん。さっきのことだけじゃなくて、その首輪とか……」
 シェムルはゾアンたちから《気高き牙》と呼ばれるほど誇り高いことは蒼馬も聞いている。そんな彼女が異種族である蒼馬を「臍下(さいか)(きみ)」にしたばかりか、こうして獣のように首輪をはめさせ、鎖で()かれるような真似をさせてしまったことを蒼馬は心苦しく思っていたのである。
 しかし、シェムルの反応は蒼馬が思っていたのとは違っていた。
「この首輪が、どうかしたのか?」
 あっけらかんとした様子のシェムルに、蒼馬は目を(しばたた)かせた。
「だ、だって、奴隷みたいで嫌でしょ?」
 そんな蒼馬に、シェムルは盛大にため息をついて、小さく首を左右に振る。それはまるで「そんなこともわからないのか」と呆れ返っているように見えた。
 シェムルは蒼馬の顔を真正面から見据えると、
「私は、ソーマを信じている」
 突然の告白に、蒼馬はどぎまぎする。
「私は馬鹿だから、おまえが何を考えているのか分からずに不安になることもある。おまえの言う策が、卑怯ではないかと思い悩むこともある。おまえのために、ゾアンが滅ぶかもしれないと恐怖することもある」
 それは他のゾアンたちがいるところでは決して口にすることはできないシェムルの本音であった。
「だが、私はやさしくて、弱くて、傷ついて、それでも私たちのために何かを成そうとするキサキ・ソーマという人間を信じた。おまえ自身を信じたのだ」
 シェムルの信じたのは、蒼馬の策ではない。
 蒼馬という人間そのものを信じたのである。
「馬鹿な私でも、今、我が『臍下の君』が何か大きなことをやろうとしていることぐらいはわかる。それならば、それに(じゅん)ずることが私の誇りなのだ。この身を笑われる程度のことに臆することこそが、恥ではないか」
 シェムルは自分の首にはまる鎖つきの首輪に指をかけた。
「それに、こんなものたかが首輪だ。なるほど見栄えは悪かろう。身体の自由も奪われよう。しかし、それが何だというのだ?」
 こんなもの取るに足りぬとばかりに、笑い飛ばす。
「見栄えの悪さを恥辱とするのは、芸人や役者だ。
 戦士にとって恥辱とは、自らの誇りに背くことだ。身体の自由を奪われるなど、大したことではない。私の心と魂を縛ることは何者にもできないことなのだから!」
「心と魂を縛ることは、何者にもできない……?」
 蒼馬は反芻(はんすう)するように、シェムルの言葉を口にする。
「そうだ! 心と魂を縛れるのは、自分だけなのだ」
 シェムルの全身からほとばしる威厳と気迫に、蒼馬は圧倒された。
「奴隷を本当に縛るのは鉄の鎖ではなく、自分の恐怖と(あきら)めだ! 命を取られる恐怖。鞭で打たれる恐怖。それが奴隷の心と魂を縛る。
 そうした恐怖に戦おうとも、(あらが)おうともせず、自ら進んで恐怖の内側に取り込まれようとする諦め。自らの運命を決する重さから逃れようとする諦め。それが心と魂を縛った鎖を他人に預け、自分を本当の奴隷に落とす」
 シェムルは右の拳で、自分の胸を強く叩く。
「しかし、戦士の心と魂を縛る誇りとは、願いであり、決意なのだ。
 戦士は敵を殺す。いくら言葉を飾ったからといって、それは人を殺すことに他ならない。だからこそ戦士は、ただの人殺しにならないように、自らの心と魂を誇りで縛る。自らを律する。気高くあるために!」
 シェムルは、蒼馬に微笑みかけた。
 ゾアンの表情の微妙な違いがわからない蒼馬だったが、このときばかりはシェムルの顔に花のつぼみがほころぶように、ふわりと広がる微笑みを確かに感じた。
「ソーマ。私はおまえを『臍下の君』として認めたが、それは恐怖や諦めではない。
 おまえとともに歩みたいという願いであり、おまえがなすであろう罪過(ざいか)すべてをともに背負うという決意なのだ」
 蒼馬は、美しいと思った。
 心底、目の前にいるゾアンを美しいと思った。
「だからこそ、私は今でも自らの足で平原を自由に駆け回るゾアンであり、《気高き牙》でいられるのだ」
 蒼馬は、ゾアンたちが彼女を《気高き牙》と呼ぶ意味を初めて理解した。
 彼女こそ、誰よりも誇り高く、誰よりも美しいゾアンだ。
 彼女こそが、《気高き牙》だ。
「シェムル!」
 頬を赤くした蒼馬は、思わず彼女の両手を取った。
「僕は、この世界に落ちたことを悔やんでいる。帰れるのならば、今すぐにでも帰りたいとすら思っている。だけど、シェムルと出会えたことだけは絶対に悔やまない。絶対に!」
「私も、おまえを『臍下の君』としたことを悔やむことはない」
 蒼馬の手をシェムルは強く握り返す。
 そのとき、蒼馬の咽喉を熱いものがこみ上げてきた。
 抑えようにも抑えきれない咽喉をこみ上げてくるものに、蒼馬は小さくうめく。
「どうした、ソーマ?」
 蒼馬の様子が変わったことに気づいたシェムルが、心配そうに小首をかしげる。
 しかし、蒼馬はそれに答えられる余裕はなかった。
 赤かった頬から、すっと血の気が引き、顔が引きつる。
「ちょ、ちょっとごめん……」
 シェムルの手を振り払うと、蒼馬は大慌てで街壁まで走り、壁に両手をついて顔を下に向ける。
「ぎ、気持(ぎぼ)ち悪い……」
 そして、盛大に胃の中のものを吐き出した。

                ◆◇◆◇◆

「まったく、おまえも酒に酔っていたのか……」
 心底呆れ返るシェムルの口調に、彼女に膝枕をしてもらい仰向けに寝ていた蒼馬は、いたたまれない気持ちになった。
「しっかりしてくれないと私が困るのだぞ、我が『臍下の君』」
「……面目ありません」
 現代日本で流通しているビールのアルコール度数は四から六%であるのに対し、酒場で蒼馬が飲んだエールは古代エジプトのビールに近いもので、そのアルコール度数は一〇%以上あったのだ。これはワインに近いアルコール度数である。ただでさえアルコールを飲みなれていない上に、それを小さ目とはいえ壺一杯飲んだ挙句、街中を走り回ったのだ。悪酔いしない方がおかしい。
「まあ、何でも完璧にこなされてしまっては、私が支える隙がなくて困る。たまに失敗してくれた方が、私も安心できる」
 シェムルは毛づくろいするように、蒼馬の髪をいじくる。
 穏やかな時間が流れた。
 幸い、ふたりがいる空き地は風上に位置していたため、不快な街の臭気から解放され、久々に胸の底から息を吸うことができた。しばし解放感に、ふたりは身を浸した。
「シェムル……」
「なんだ、ソーマ?」
「シェムルのおかげで、この街を落とす方法を思いついた」
 蒼馬の言葉に、シェムルの顔から穏やかなものが消え、戦士の表情が浮かぶ。
「どうするのだ、我が『臍下の君』よ?」
 蒼馬はシェムルの膝から頭を起こすと、その場に立ち上がった。
 彼の視線の先にあるのは、異様な悪臭が漂う街である。
 汚濁と汚物にあふれかえる、閉塞した街。
「僕は、奴隷を買おうと思う」
お酒は二十歳になってから!

平民4人家族の最低限の食費(ほとんどパンのみ!)
1日2ディナス×4人=8ディナス。
1か月で240ディナス。
1年で約3000ディナス

中流階級の4人家族の年間食費 約2万ディナス

〈牙の氏族〉討伐のために集められた臨時雇い兵士の日給 8ディナス
8ディナス×800人×30日=192000ディナス

ルグニアトス大隊は日給を払わなくていい専業兵士も含まれていますが、手柄を立てた兵士への褒賞分も含まれるので、だいたい砦にはこれだけの軍資金があったという設定です。

ついでに金貨はあまり流通していません。よほどの大口の商談か、贈答用として用いられるだけです。

5/7 誤字修正
2016/6/15 誤字修正
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