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破壊の御子 作者:無銘工房

燎原の章

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第22話 誓約

「私の愛しい蒼馬。私の愛しい子。なんて、ひどいのかしら。こんなに、こんなにいっぱいの人を殺すなんて」
 口ではひどいと言いながら、少女はとても嬉しそうだった。
「だって、そうしないとシェムルが! シェムルたちが!」
「それは本当? 本当なの?」
 少女の問いに、蒼馬は言葉に詰まる。
「彼女がいないと、この世界で生きていけないからでしょ? ひとりじゃ生きていけないから。怖いから。だから、彼女を助けるという建前にして逃げているんじゃないの?」
 蒼馬も無意識に気づいていながら、自分からは決して見つめようとしなかった部分を少女は白日の下に晒していく。
「に、逃げてなんかない!」
「逃げてる!」
 蒼馬の哀れな抵抗を一言の下に否定した。
「賢い賢い、蒼馬。あなたなら、こうなることはわかっていたでしょ? でも、あなたはそれを考えようとしなかった。考えたら、そこへ逃げられないから」
 少女は両手を広げてクルクルと回りながら、歌うように言った。
「でも、逃げた先は袋小路。前も右も左も行き止まり。逃げたつもりで、自分から逃げられない場所に入るなんて、とってもとっても愚かな蒼馬」
「違う! 違う!」
「逃げられるなら逃げてもいいのよ、臆病な蒼馬」
 その言葉は甘く、そして毒に満ちていた。
「この子たちの死を無駄にしなさい。ああ、かわいそうな子たち。最初から逃げていれば、この子たちは死ぬことはなかったのに。かわいそうな子たち」
 少女の声を受け、亡霊たちがいっせいに非難の叫びをあげる。
「逃げなさい。あなたを信頼したシェムルを裏切って。あなたに期待するガラムを見捨てて。みんな、みんな捨て去って!」
 周囲に群がっていた亡霊たちの中にゾアンの姿が混じる。
 それは蒼馬の知らないゾアンたちだけではない。
 ガラムが、グルカカが、シャハタが、そしてシェムルが亡霊となって、蒼馬に苦痛と無念を訴えてくる。なんで自分たちを見捨てたのかと、蒼馬を責め立てる。
「いやだ! もう、こんなのいやだ!」
「あなたが見捨てれば、ゾアンたちは人間に皆殺しにされてしまう。あんなにいっぱいの兵士が殺されたんですもの。人間は、決してゾアンを許さないわ。とっても、とってもひどい目に遭わせてから皆殺しにするわ」
 その白い手で蒼馬の頬を左右からやさしくはさむと、唇が触れ合いそうになるぐらい近くまで顔を寄せる。
「逃げられるわけないわよね、やさしい、やさしい蒼馬」
 決して力が込められているわけではないのに、少女の手は振りほどけない。
「もう手遅れなのよ、哀れな蒼馬。あなたの手は血で真っ赤。あなたの通った後は死体がうずたかく積み上げられた。それもこれも、みんなあなたが決めたこと。もう引き返すなんてできないのよ」
 少女の言葉は、蒼馬の心を呪縛する呪いだ。
「ああ、蒼馬、蒼馬。私のかわいい蒼馬。あなたのやさしさが、これからもっといっぱいの人を殺すわ。あなたの愚かさが、もっといっぱいのものを壊すわ。ああ、私の愛しい子」
 蒼馬を解放した少女は、その白い咽喉をそらし、ケタケタと笑い声をあげた。
 蒼馬は、はっきりと感じた。
 目の前にいるのは、少女なんてものではない。
 それは、とてつもなく古いものだ。
 それは、とてつもなく恐ろしいものだ。
 蒼馬は周りの亡霊よりも、その少女に恐怖した。
「いやだ、いやだ、いやだぁーっ!!」

              ◆◇◆◇◆

 自分の叫び声に、蒼馬はハッと目を覚ました。
 肩を上下させて息を荒げながら周囲を見回すと、そこはいつもと変わらぬ祈祷所だった。
 先程までいた少女と亡霊たちの姿は、影も形もない。
「……今のは、夢?」
 蒼馬の目から、つうっと涙が流れた。
 そして、乾いた笑いを上げる。
「シェムルのため? ゾアンのため? 馬鹿じゃないのか。僕はただ逃げただけじゃないか……!」
 夢で少女が言ったとおりだと思った。
 蒼馬は自分が情けなくて、恥ずかしくて、笑うしかなかった。
 逃げられるわけがない。
 逃げられない。
 もうとっくに自分は踏み越えてはいけない一線を踏み越えてしまったのだ。
 それなのに、こうして今も現実から目を背けようとしている自分の醜さに笑うしかなかった。
 その笑いもいつしか枯れ果てて、蒼馬は力なくうなだれる。
 そんな彼をあざわらうように、北風が甲高い音を立てて吹き抜けていった。
 そのとき、近くの茂みがガサリッと音を立てて揺れた。
 既視感を覚えながら蒼馬が振り向くと、そこにはあの時と同じく、ゾアンの幼い兄妹のヂェタとシェポマのふたりがいた。
 この前はこの幼い兄妹とは後味の悪い別れ方をしてしまったため、何とも気まずい蒼馬だったが、ふたりはそれを気にする素振りも見せず、パタパタと足音を立てて駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、泣いてるの? どこか痛いの?」
 座り込んでいる蒼馬とちょうど視線の高さが同じぐらいになったシェポマは、不思議そうに蒼馬の顔を覗き込む。
 蒼馬は強張る口許を何とか笑みの形にした。
「なんでもないよ。それより、ふたりともどうかしたの?」
 こんな小さな子供にまで心配をかけてしまう自分に嫌気がさす。
 そのため、ついつい幼い兄妹の存在が厄介に感じ、固い口調になってしまった。
 しかし、そんなことには気づかない兄妹は、嬉しそうに話し出した。
「ちちとははが言ってたの。お兄ちゃんのおかげで、助かったって」
「うん。お団子をいっぱい食べて良いって言われた」
「最近、お団子がちょっとだったから、おなかいっぱい食べられてよかったの」
「うん。お肉もおいしかったね」
 冬越しの食料を失っていたゾアンたちは、これまで食料を切り詰めてやりくりしていた。
 しかし、蒼馬のもたらした勝利によって人間の持ち込んだ糧食を手に入れられたため、ゾアンたちの食料不足は解消した。
 そのおかげで、幼い兄妹たちは久しぶりにおなか一杯に食べられたのが嬉しくてたまらない様子だった。
「あとね、あとね。ちちとはは、ケンカしなくなったよね」
「うん。ちょっと前は、みんな怖い顔していたから、嫌だったね」
 子供たちは大人が思う以上に敏感だ。いくら子供の前では隠していても、大人たちの間に漂う悲壮な空気は、それだけで子供たちの心を傷つけていたのである。
「だから、お兄ちゃんに、これあげるね」
 そう言ってシェポマが取り出したのは、色とりどりの木の実や石や動物の歯に糸を通して作った首飾りであった。
 おそらく、この幼い兄妹ふたりで作ったのだろう。飾りに使われている木の実や石も不揃いで、お世辞にも見栄えがいいとは言えない代物だ。
 しかし、それだけにこの幼い兄妹たちが蒼馬に感謝を示そうと、慣れない手つきで苦心して作った姿がしのばれる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
 驚きに固まる蒼馬に首飾りをかけた兄妹たちは、声をそろえて、そう言った。
 その途端、蒼馬の両目から涙があふれ出た。
 独りよがりな考えで、あんなにいっぱいの人を無残に殺してしまった自分に、それでも感謝してくれる人がいたということに、救われた気がした。
 これがガラムやシェムルが感謝したのであったなら、自己嫌悪に陥っていた蒼馬は素直にそれを受け取ることはできなかっただろう。
 それは彼らが本心から感謝していないと思っているわけではない。
 ふたりはともに、それぞれ氏族の中で責任のある立場だ。常に氏族の行く末を憂える彼らでは、蒼馬に氏族を救ってもらいたいという打算をまったく抜きにはできない。
 しかし、この兄妹は、幼さゆえにその言葉には何の駆け引きも打算もなく、だからこそ蒼馬の心を強く打った。
 突然泣き出した蒼馬に、兄妹は驚いた。
「どうしたの、お兄ちゃん? やっぱり、どこか痛いの?」
「大丈夫? お婆様に言って、お薬もらってこようか?」
 心配するふたりの声を聞きながら、蒼馬は祖父を思い出していた。
 学校の授業で、かつて日本が戦争をしていたことを聞かされた日のことだ。幼かった蒼馬は、祖父に戦争に行って人を殺したのかと聞いたことがある。
 今にして思えば、いくら幼かったとはいえ祖父に辛いことを訊いてしまったと悔やむ。
 いつもは蒼馬にやさしく微笑みかける祖父は、そのときばかりは今にも泣きそうな悲しげな笑みを浮かべると、こう言った。
『蒼馬。じいちゃんは恥ずかしいまねだけはせんかった。それだけは信じてくれ』
 はっきりと口にはしなかったが、おそらく祖父は戦地で人を殺したことがあったのだと蒼馬は思う。
 そのとき祖父が、何を思ったのかはわからない。
 もしかしたら、蒼馬以上に思い悩み、苦しんだのかもしれない。
『恥ずかしいまねをしちゃいかんぞ、蒼馬』
 再び、祖父の口癖が耳の奥で聞こえた。
 そうだ。自分は決めたじゃないか。
 どんなきっかけであれ、自分はシェムルたちを救うと決めて、行動した。
 今さらそれをなかったことにはできない。
 蒼馬は、乱暴に自分の涙を腕でぬぐう。
 こんなところでめそめそ泣いて自分を憐れんでいても、恥ずかしいだけだ。
 それに自分がやったことを悔やんでいたら、それによって助けられた人たちを苦しめ、死んだ人たちを侮辱するだけになってしまう。
「……ありがとう」
 幼い兄妹に、蒼馬の口から自然と感謝の言葉が洩れた。
「本当に、ありがとう。すごく、嬉しいよ。ありがとう」
 その言葉には首飾りをくれたことだけではなく、自分の心を救ってくれたことへの感謝も含まれていたのだが、そんなこととは知らない兄妹はおかしそうに顔を見合わせる。
「変なの。あたしたちがお礼をしているのに、お兄ちゃんも『ありがとう』だって」
「うん。おかしいよね」
「そんなに、おかしいかな?」
 蒼馬はぎこちなくだが、笑みを浮かべる。
 それは蒼馬が久しぶりに浮かべた心からの笑みだった。
「うん。おかしい~」
「おかしいよね」
 そう言って笑い声をあげる兄妹につられ、蒼馬もまた笑い声をあげるのだった。
 そんな3人より少し離れた木陰で、シェムルはその一部始終を見ていた。
 彼女は眼尻に浮かぶ涙をぬぐうと、蒼馬たちに気づかれる前に自分のテントへと戻って行った。

              ◆◇◆◇◆

 幼い兄妹と別れた蒼馬は、まずシェムルに謝ろうと思った。
 この数日、ずいぶんと彼女には心配をかけてしまった。この世界にきてからずっと、彼女には迷惑と心配をかけてばかりいる自分が恥ずかしかった。
 シェムルに合わせる顔もないが、もう心配しなくても大丈夫だと伝えなくてはいけないと蒼馬は思った。
「シェムル、いる?」
 教わった通り、まずテントの入り口で咳払いをしてから声をかける。すると、すぐに中から返事がきた。
「ああ、いるぞ。入ってくれ、ソーマ」
 覆いをあげて、入り口をくぐった蒼馬は、どきりとした。
 気のせいか、シェムルの雰囲気が普段と違うように感じられたからだ。入り口をくぐったところで戸惑って立ち尽くす蒼馬に、シェムルはあぐらをかいて座ったまま声をかけた。
「ソーマ、私の前に立ってくれないか?」
 言われた通り蒼馬はシェムルの前に立つと、彼女はずいぶんと緊張した様子で、何度か深呼吸を繰り返した。
 そして、山刀を手前の敷布の上に横にして置くと、それからおもむろに着ていたツタを編んだ胸鎧とその下の胴着を脱いだ。
 押さえ込まれていた豊かな胸がはじけるようにして揺れるのに、慌てて蒼馬は顔をそむける。
「なっ! いきなり、どうしたの、シェムル?!」
「そう露骨に顔を背けられると、私も恥ずかしいのだが……」
 そう言われても、まともに顔向けできない蒼馬は困ってしまう。
「と、とにかくだ! こっちを向いてくれないか?」
 そう強く言われ、おっかなびっくりシェムルの方を向く。
 すると、どうしても気になってしまうのは彼女の胸だ。
 蒼馬も年頃の少年である。そっちに興味が湧くのは無理もないことだが、そればかりではない。以前、お婆様に聞いたシェムルの刻印のことが気になったせいもある。
「こっちを向いてくれたのはいいが、あまり、その、見つめるな! 私だって、これでも乙女なんだぞ」
 蒼馬はできるだけシェムルの顔に意識を集中し、ついつい視線を下げそうになる気持ちを抑える。
 そんな蒼馬の態度に、ようやく気を取り直したシェムルは小さく息を吸ってから、両手の拳をついて蒼馬に向けて小さく頭を下げると、凛とした声で言った。
「我、ゾアン12氏族がひとつ〈牙の氏族〉、ガルグズの娘、シェムルは、父の名と我が誇りにかけて誓う」
 そう言うなり、胸元を自分の鉤爪で一気に引き裂いた。爪痕から、血がにじみ、胸元の毛を赤く染める。シェムルは口許を痛みでわずかにゆがめた。
 突然のことに驚く蒼馬の目をシェムルはひたりと見据えると言葉を続ける。
「我は、あなたの目となり、すべてを見よう。
 耳となり、すべてを聞こう。
 鼻となり、すべてを嗅ごう。
 (ひげ)となり、すべてを感じよう。
 牙となり、敵を噛み砕こう。
 爪となり、敵を切り裂こう。
 角となり、敵を貫こう。
 (ひづめ)となり、駆けよう。
 たてがみとなり、威を示そう。
 尾となり、従おう。
 毛皮となり、守ろう。
 骨となり、支えよう」
 前に置いてあった山刀を手に取ると、それで自分のうなじのあたりの長い毛をひと房切り取った。それを胸元から流れる血をつけた手でしごき、毛を赤く染める。
「ここに我は、キサキ・ソーマを我が『臍下(さいか)(きみ)』とし、この魂と心と肉のすべてをあなたに捧げる」
 シェムルは自分の血がついたひと房の毛を蒼馬に差し出した。
「これを受け取ってくれ、ソーマ」
 言われるがままに毛を受け取った蒼馬は、唖然とした面持ちで訊いた。
「さいかのきみ?」
「そうだ。――私たちゾアンは、魂がここにあると信じている」
 そう言ってシェムルは、自分の(へそ)よりやや下あたりに手を添えた。
「この魂のあるところを晒し、ゆだねても構わないと思える人に会えたとき、ゾアンはその人を『臍下の君』と呼び、その人にすべてを捧げる誓いをする」
「すべてを捧げる?!」
「そうだ、ソーマよ。
 おまえが戦えと命じれば、私はいかなる敵だろうと戦おう。
 もし、この肉体が欲しければ、いかようにもなぶられようと、そのすべてを受け入れよう。
 そして、この命が欲しいと言えば、その場でこの首を落として見せよう」
 そのあまりに重い内容に、蒼馬は受け取った毛をシェムルに突き返そうとする。
「女に恥をかかせるな、ソーマ」
 しかし、やわらかく微笑むシェムルの笑顔に押し戻されてしまった。
「で、でも、僕なんかに……?!」
「それは違う。私は、おまえだから捧げたいのだ」
「だけど、僕は弱くて……!」
「知っている。だが、おまえは弱いのに私たちを助けてくれた。本当は辛いのに、それでも私たちを助けようとしてくれている。そんなおまえだからこそ、私はおまえに『臍下の君』になってほしいのだ」
 もし、蒼馬がただ強い人間だったなら、尊敬はしただろう。
 もし、蒼馬がただ敵を打ち払った人間だったなら、それに感謝はしただろう。
 だが、決して「臍下の君」になって欲しいとは願わなかった。
 シェムルの知っている蒼馬は、この世界に生きるにはあまりにやさしく弱い人間だ。
 そんな彼が、縁もゆかりもないゾアンのために必死になって人間を追い払ってくれた。そして、そのために心を深く傷つけ、苦しませてしまった。
 しかし、それでもなお蒼馬はゾアンを助けるために立ち上がろうとしている。
 ただ戦ってくれるからではない。
 ただ救ってくれたからではない。
 やさしいのに戦おうとしてくれている。弱いのに負けまいとしている。傷ついたのに立ち上がろうとしている。
 そんな彼だからこそ、シェムルは「臍下の君」になって欲しいと願うのだ。
「だが、この《気高き牙》の『臍下の君』になるのだ。それだけは覚悟しておけよ」
「何か、脅迫されているみたいだ」
 シェムルの物言いに、蒼馬は小さく笑った。
「わかった。シェムルが恥ずかしくない『臍下の君』になることを僕も誓う」
「ああ。我が『臍下の君』キサキ・ソーマ。ともにはるか高みへと」
「うん。ともに……!」
 その後、蒼馬は行くことを避けていた宿営地にシェムルとともに訪れた。
 すでに人間の死体の多くは片づけられていたため、蒼馬はその場にいたゾアンに教えられた死体が埋葬された場所に行くと、掘り起こされた土の前で、そっと静かに手を合わせた。
 後悔をしていないと言えば、嘘になる。
 しかし、それでも蒼馬は前に進もうと思った。
 覚悟を決めたつもりでいたのに、動揺してよろめきそうになった自分をシェムルは黙って支えてくれた。
 その支える腕から伝わる温かさを感じながら、自分にそう強く念じたのであった。

              ◆◇◆◇◆

 シェムルたち〈牙の氏族〉の隠れ家より、はるか離れた丘陵地帯のとある場所。
 そこにも人間に追われたゾアンたちの集落があった。
 しかし、そこは〈牙の氏族〉の集落とは大きく異なり、切り出した丸太で集落を囲む防壁を建てたり、やぐらを組んで見張りを立てたり、まるで人間の山砦のような様相である。
 その集落の中でもひと際大きなテントの前で、ひとりのゾアンが大声を張り上げた。
「族長! 族長は、いらっしゃいますか?!」
 その声に、薄暗いテントの中で一番奥に積み上げられていた、赤い毛皮の小山がもぞりと動いた。
 いや、よく見ると、それは大の字になって寝ていた赤毛のゾアンである。
 そのゾアンは丸太のような腕を伸ばすと、近くにおいてあった皮袋を引っつかむ。そして、大きく開けた口の上で皮袋を逆さにすると、中の液体を一気に口の中に流し込んだ。
 ゾアンが大きなゲップをひとつもらすと、テントの中の酒臭さが一気に増した。
 身体を起こした赤毛のゾアンは頭をぼりぼりとかきむしり、大あくびを洩らして、気だるそうに言った。
「どうした? 何かあったのか?」
「〈牙の氏族〉を見張りに行っていた戦士が戻ってまいりました」
「ほう……。何かあったようだな」
 それまでの気だるそうな雰囲気が払拭し、獰猛な獣を思わせる空気をまとう。
 赤毛のゾアンは、のそりと立ち上がった。
 すると、その巨体がよくわかる。ガラムをも上回る背丈がありながら、決して細長いとは感じさせないのは、その鍛え上げた筋肉のせいだ。まるで(いわお)のように盛り上がった筋肉は、それだけで分厚い甲冑を思わせる。
「ガラムめ。あれから何も言ってこんが、くたばったか……?」
 赤毛のゾアンは、醜い傷痕で潰れた左目に手を添える。
 それから、口許を吊り上げるように笑うと、外に向けて叫んだ。
「老人たちをたたき起こせ。俺もすぐに支度をする!」
 かつてソルビアント平原に拠点を構えていたゾアン五つの氏族のうち、現時点で最大勢力を誇る〈爪の氏族〉の族長クラガ・ビガナ・ズーグが、重い腰をあげた。
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