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破壊の御子 作者:無銘工房

胎動の章

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第46話 舌-パン

 最近、マルコはご機嫌であった。
 ダメでもともとのつもりで、パン焼き窯を使わせてもらえないかと尋ねてみれば、エルフの女官たちは快く承諾してくれたのだ。それに気を良くし、パンだけではなくスープなども作らせてもらえないかとお願いすれば、これもまた快く承諾してくれた。
 当初は、どこかよそよそしく自分を見る目も冷たい気がしていたが、それは勘違いだったらしい。
 大好きな料理をこれほどやらせてもらえるなんて、ここは何て良いところだろう。マルコは神々へ感謝していた。
 しかし、いつも料理ばかりしてはいられない。マルコにもやらねばならない仕事があるのだ。
 その中で、もっとも大きな仕事といえば、ディノサウリアンたちの食事の世話だろう。
 現在、ボルニスの領主官邸には五十名ほどのディノサウリアンたちがいた。このディノサウリアンたちは、普段は何もしない。自分らの食事の支度すら、やろうとしないのである。
 それはというのも、領主官邸にいるディノサウリアンのほとんどが戦士種と呼ばれる種族であるからだ。
 戦士種とは、人間ならば貴族に相当するだろうディノサウリアンの特権階級に属する種族である。そんな彼らにとってみれば、労働とは下々の者がやるものでしかない。代わりに戦士種は、次の戦いに備えて英気を養うのが平時の務めであるという認識なのだ。
 それが、このボルニスの街でも許されているのは、やはりディノサウリアンたちの突出した戦闘能力があるからに他ならない。ひとたび戦場に立てば、その恵まれた肉体と荒い気性もあって、恐るべき力を発揮する。その力は、まさに一騎当千と呼ぶにふさわしい。
 また、人間から見れば怖く見えるその外見も、街の治安に一役買っている。
 彼らが街をのし歩く姿を見るだけで、国の捕吏(ほり)など屁とも思わない山賊や野盗崩れの荒くれ者たちですら、街で騒ぎを起こす気を失ってしまう。
 ともすれば蒼馬の陣営の鼻つまみ者になりがちな横柄なディノサウリアンたちであったが、そうならないのは彼らの代表ともいうべきジャハーンギル・ヘサーム・ジャルージの影響が大きい。
 このディノサウリアンの中でも随一の戦士は、どうやら蒼馬のことを気にかけている節がある。本人に問い質しても決して認めようとはしないだろうが、彼は昼寝に飽きると蒼馬がいる執務室や謁見室へ行き、そこでゴロゴロと転がっている姿がよく見受けられた。また、ゾアンの大祭ボロロのときのように、蒼馬が遠出しようとするとそれに同行するのも珍しくはない。
 そして、そんなジャハーンギルの行動が、他の傍若無人なディノサウリアンたちが蒼馬に対してだけは配慮を示させる要因ともなっていた。
 こうしたこともあり、いつしかディノサウリアンたちは蒼馬の近衛兵や親衛隊のような存在と周囲から認知されるようになっていたのである。
 しかし、やはり勝手気ままなディノサウリアンたちだ。特段、蒼馬の周囲の警護に就くわけでもなく、たいていは領主官邸の中庭の陽当たりの良い場所で昼寝をしているだけであった。
 そんなディノサウリアンたちのところへ食事を持っていくのが、マルコの重要な仕事である。
 大食漢ばかりのディノサウリアンたちのところへ持っていく食事の量は、かなりのものだ。マルコは何度も中庭と厨房を行き来してパンやスープなどを運ぶ。
「お食事を持ってまいりました~」
 すべて運び終えたマルコが大声を上げると、中庭のそこかしこでゴロゴロとしていたディノサウリアンたちが、のそりと立ち上がってやってくる。
 この仕事を始める時に、エルフの女官からは「命が惜しければ、くれぐれも言動には気をつけなさい」と注意を受けていた。何しろ、ディノサウリアンにとっては軽く撫でたつもりでも、他の種族にとっては致命的な打撃になりかねないのだ。
 しかし、物怖じしないマルコは、当初からディノサウリアンたちに平然と向かい合っていた。そればかりか、食事を配給するのにもなれてきた最近では、こうして自分が用意した食事に群がってくる様も、農家の手伝いをしていた時に自分が持っていった餌にいっせいに群がる豚やヤギたちの姿をマルコに思い起こさせ、むしろ可愛いとすら思っていたのである。
 しかし、家畜と異なり、ディノサウリアンたちの食事は豪快だ。その鋭い牙の並んだ口で骨付き肉にかぶりつき、肉を引き裂くようにして食いちぎると、そのままほとんど噛まずに飲み込む。パンなどはスープに浸して柔らかくしたものを丸飲みである。
 自分で食べるのも好きだが、他人が食べているのを見るのも好きなマルコにとって、このディノサウリアンたちの豪快な食事風景を眺めるのはひそかな楽しみですらあったのだ。
 しかし、ただひとつだけ不満があった。
 それはディノサウリアンたちが、食事をおいしいと思っているかどうかわからないことだ。
 もともとディノサウリアンは表情に乏しい。異種族ではなおさらその顔からディノサウリアンの感情を推し量るのは難しかった。文句ひとつ言わないが、表情をピクリとも動かさずに黙々と料理を食べている姿を見ていると、本当においしいと思っているのか、そうではないのかマルコも不安になってくる。
「すみません。ちょっと良いですか?」
 ディノサウリアンたちはいっせいに食事の手を止め、声を上げたマルコを注視した。たいていの人ならば、それだけで悲鳴を上げて逃げかねないというのに、物怖じしないマルコはニコニコと笑顔で尋ねる。
「おいしいでしょうか? もし不満があれば、言ってくださいね」
 マルコの反応に、沈黙が落ちた。
 しばらくするとディノサウリアンたちの輪の中心にいるジャハーンギルが無言で骨付き肉をがりがりと齧り始める。しかし、その尻尾が苛立たしげに地面を打っているのにマルコは、「くだらないことを聞くな」と怒っているように見えた。
 マルコは、しょんぼりとしてしまう。
 そんなマルコを哀れに思ったのか、ひとりのディノサウリアンが声をかけた。それは、以前からマルコに声をかけるなど気を配ってくれたパールシャーという名のディノサウリアンだ。
「まずくはないよ。――ただ、もう少し肉を増やしてくれるとありがたいね。国では、あまりパンとかは食べないんだ。なあ、兄者たち」
 末弟の言葉に長兄メフルザードは鼻を鳴らし、寡黙な兄のニユーシャーは無言でうなずいて見せた。
 マルコは思いもよらず聞けた異国の地での食事の話に、俄然(がぜん)目を輝かせる。
「皆さんの国では、どのような料理を食べていたんですか?」
 マルコは、ずいっと身を乗り出して尋ねてきた。それにパールシャーは面食らう。何しろ、たいていの他種族の者は自分らを恐れて近寄りもしない。こうして目を輝かせて問い詰められるような経験は、ディノサウリアンの中では温厚と言われるパールシャーをしても初めてである。
「あ、ああ。えーと、国では荷竜によく似た肉竜という家畜がいてね……」
 戸惑いながら語るパールシャーの話に、マルコは目をキラキラと輝かせて聞き入った。

               ◆◇◆◇◆

「……これは、いったい何ですか?」
 エラディアの手にあるのは、マルコが連絡役と(おぼ)しき男へ出した手紙の写しである。時折、マルコは以前勤めていた商人を通じて、遠戚という男へ手紙を出していた。エルフの女官たちは、その商人のところで働いている人間を金と美貌で籠絡し、マルコの手紙の写しを手に入れていたのである。
 しかし、密偵の定期連絡であるはずの手紙を読んだエラディアは困惑していた。
「あの者の密書……のはずです」
 その女官が言いよどんだのも無理はない。
 そこに書かれていたのは、ドワーフは洞窟で育つキノコを焼いたものを好むとか、荷竜を丸焼きにしたらディノサウリアンに好評だったとか、ハーピュアンは芋虫が好きだというので樹木の葉を食べる芋虫を焼いたら、これではないと怒られた等々。ほとんどが食べ物に関することばかりであった。肝心な官邸の内情などは申し訳程度にしか書かれていない。
「お姉さま。これは……暗号でしょうか?」
 エラディアもその可能性を考えた。
 しかし、すぐにその考えを否定する。
 少し前、ジャハーンギルが厩舎から持ち出した荷竜一頭が行方不明になり、ちょっとした騒ぎになったことがあった。それと手紙の内容を照らし合わせれば、その荷竜は彼らの胃袋の中に消えていたのだろう。
 おそらく、ここに書かれているのは暗号ではなく単なる事実でしかない。
 これでは、この手紙が密書なのかすら怪しくなってきた。マルコを密偵と思っていたが、とんでもない勘違いだったのではないかとすら思えてくる。
 だが、これだけで結論を出すには、まだ早い。
「もうしばらく様子を見ましょう。くれぐれも気を抜かないように」
 エラディアは、これまでどおりマルコを厳しく監視するように女官に指示を出した。
 その時、エラディアの鼻を肉の焼ける香ばしい匂いがくすぐる。
 エラディアは、つと窓から空を見上げると、太陽が中天から西へ差し掛かろうとしている時分であった。おそらく、ため込んでいた政務をようやく片づけられた蒼馬のために、シェムルが遅めの昼食を準備し始めたのだろう。
「ソーマ様の御食事の時間のようですね。――手の空いている者にお茶の用意をさせなさい」
 エラディアの指示を受けた女官は、一礼して退室しようとする。それをエラディアは呼び止めた。
「待ちなさい。皆も忙しいでしょう。――仕方ありません。私がソーマ様のお茶のご用意をします」
 一番忙しいはずのエラディアのこの言い草に、女官は微笑を隠し切れずに頭を下げて誤魔化す。それにエラディアは小さく咳払いをして取り(つくろ)うと、何食わぬ顔で自分の執務室を出て、いそいそと厨房へ向かった。

               ◆◇◆◇◆

 お茶の準備をしたエラディアは、蒼馬の執務室にほど近い中庭へ足を運んだ。蒼馬とシェムルは天気の良い日には、たいていそこで食事をしているからである。
 エラディアの推測は当たり、中庭では蒼馬とシェムルが昼食をとっているところであった。それより少し離れた場所では、すでに昼食を終えたらしいジャハーンギルが腹這(はらば)いになって寝そべっている。その姿に、先程のマルコの手紙の内容を思い出したエラディアは、また厩舎から荷竜を持ち出さないように後で釘を刺しておこうと心に留めておく。
「お茶のご用意をしてまいりましたので、火をお借りしてもよろしいでしょうか?」
 手にした茶器を示しつつ、エラディアはシェムルに了解を得る。
「……ああ。かまわないぞ」
 口ではかまわないと言いながら、シェムルがエラディアを見る目はうろんなものを見る目であった。
 しかし、それも無理はあるまい。せっかくの敬愛する「臍下の君」との憩いのひと時に、こう毎日のように顔を出されてはシェムルとて気を悪くする。
 それに、蒼馬のために茶を淹れる役目を譲った一件のこともあった。
 先日、兄のガラムから「ソーマの茶を淹れる役目をエラディア殿に譲って、おまえは良いのか?」と尋ねられたのである。
 ソーマの第一の臣にして一心同体と言っても過言ではない自分が茶を淹れるなどの雑事をしている姿を見るのは心苦しいというエラディアの言葉ももっともだ。
 そう返すと、兄のガラムは「おまえが良いというならば問題ない」と、言葉とは裏腹に釈然とはしていない様子であった。
 しかし、後になってシェムルも、本当にこれで良かったのだろうかと首を傾げてしまった。
 何だか自分が取り返しのつかないことをしでかしてしまったような焦りを感じる。特に最近になってエラディアが「ソーマ様も、たまにはゾアン風以外の料理もお召し上がりになりたいのでは?」とか「やはり、シェムル様が料理されている姿を見るのは……」などと洩らすようになってからは、その焦りも強くなっていた。
 しかし、日に三度の食事とそれを用意する時間は、いわば自分と「臍下の君」の貴重なひと時である。さすがにそれを奪われるわけにはいかない。
 だが、エラディアの言い分にも一理あるとも思った。
 確かにゾアンではない蒼馬では、毎回ゾアン風の食事ばかりでは飽きてしまうかもしれない。そこでシェムルは、今日の食事にとっておきのものを用意していた。
「あれ? このパン……?」
 いつもの団子ではなく、シェムルが珍しく用意したパンを齧った蒼馬は目をしばたたかせた。
「気づいたか、ソーマ」
 シェムルは我が意を得たりとばかりに、にっこりと笑う。
「最近、ここの厨房で美味いと噂のパンだぞ」
 得意げにシェムルがそう言ったとたん、脇でガチャンッと陶器をぶつけ合う音がした。
 ふたりが音のした方へ目を向けると、そこにいたのはエラディアである。いつもは物音ひとつ立てずに茶を淹れる彼女が、珍しく手を滑らせたのでもしたのか、茶器をぶつけてしまったようだ。
 しかし、そんな自分の無作法にも気づいていないのか、エラディアは小さく目を見張ってシェムルを見つめていた。
「……シェムル様。それはまさか、最近厨房に雇われた者が焼いたというパンでしょうか?」
 最近、マルコがおかしなパンを焼いているという話はエラディアも聞いていた。まさかそれではありませんよね、と期待を込めて尋ねたエラディアだったが、シェムルが「たぶん、それだぞ」とあっけらかんと答えるのに、眩暈(めまい)を覚える。
「な、なんということを……」
 エラディアは血の気が引く想いだった。まさか密偵の疑いがあって囲っている者が焼いたパンをよりにもよって蒼馬に食べさせてしまったのだ。エラディアにとってみれば、致命的な失態である。マルコの身辺は厳重に警戒しているとはいえ、万が一どこからか入手された毒物でもパンに仕込まれていたら一大事だ。
 その場に居合わせたエルフの女官たちも顔を蒼白にしていた。シェムルがマルコからパンを譲り受けていたのは見ていたが、まさか彼女が自らの命よりも大事な「臍下の君」である蒼馬にそんなパンを供するとは思ってもいなかったのだ。
「シェムル様! たとえ厨房に務めているとはいえ、どこの誰ともわからぬものが作ったものをソーマ様の口に入れるなんて、とんでもないことです!」
 自らの失態ともあって感情的になって叫んでしまったエラディアだったが、すぐさま頭を切り替える。
「やはり、シェムル様にはお任せできません! 今後、ソーマ様のお食事は私どもで管理させていただきます!」
「ちょっと待て! なぜ、いきなりそうなる!」
 お茶ばかりか食事の世話まで取られてはなるまいと、シェムルは猛然と反発する。
「シェムル様も、お忙しいでしょう。それに何と言っても、シェムル様はソーマ様の第一の臣。そのような方が料理など雑用されるのを見ると……」
「そ、その言い方は卑怯だぞ!」
 しばらく押し問答を続けていたふたりだったが、蒼馬の様子がおかしいのに気づいた。普段ならば苦笑いを浮かべてふたりを仲裁するのに、パンを片手に固まってしまったかのように反応がない。
「おい、ソーマ。どうかしたのか?」
「ソーマ様。ご機嫌でも損なわれてしまいましたでしょうか?」
 ふたりから心配そうに声をかけられても、蒼馬は自分が齧ったパンの断面を凝視していた。
 これまでこの世界で食べていたパンは、いずれも水で練った小麦粉を焼いただけの無発酵のパンだ。そのため、パンの中にはパン生地がぎっしりと詰まり、食べるといかにもパンが主食! といった重さがあった。
 ところが、今食べたパンは、まったく違っていた。パンの表面は、同じように堅い。だが、中は柔らかく、噛むともちもちとした弾力があった。それにパンの断面をよく見れば、細かな気泡が入ったスポンジ状になっていて、そこからは(こう)ばしい香りが漂っている。
 それに、この味は……。
 何の反応も示さないのにシェムルとエラディアが不安に顔を曇らせ始めた頃、不意に蒼馬はうつむかせていた顔を上げた。
「今すぐ、これを焼いた人を呼んで!」

               ◆◇◆◇◆

 エルフの女官に連れられてきたマルコを見たとたん、蒼馬は喜色満面で彼を歓迎した。
「やっぱり、君だったのか!」
 先ほど食べたパンは、明らかに焼く前に発酵させた発酵パンである。それだけだったのならば、この世界にも自分の知らないところですでにパンを発酵させる技術があったのかもしれないと思っただろう。それなのに蒼馬がマルコの焼いたものではないかと考えたのは、パンを噛みしめた時に感じた味である。
「バターの味がしたから、そうじゃないかと思ったんだよ!」
 パンを噛みしめた時に感じた味。それは間違いなくバターのものだった。
 昨日までは、パンを発酵させる技術もバターを入れる発想もなかった世界に、突然その両方が同時に現れる可能性はほとんどない。あるとすれば、それを語ってあげたあの茂みの少年――マルコ以外にはいないだろう。
 しかし、それにエラディアは驚きに目を丸くした。
「バ、バターを? そのようなものをソーマ様に食べさせたのですか!」
 エラディアが驚くのも無理はない。まだ食材を冷蔵保存する技術が発達していないこの世界では、チーズより保存性が悪いバターは食用としてはあまり流通していなかった。そればかりか、食用としてよりも髪や体に塗り込む香油の代用品とされ、それを食べるのは野蛮な行為と思われていたのである。
「え…はい。僕が焼いたパンでしたら、バターを入れました」
 そのためにマルコは、わざわざ牛を飼っている農民のところまで足を運び、新鮮なバターを入手までしていた。
「なぜ、そのようなものを!」
「この方から、バターを練り込んだパンがおいしいって教わって……」
 この方と示された蒼馬は、本当だとばかりにうなずいて見せる。こうなってしまうとエラディアもマルコを責めるわけにはいかない。
 どうしたものかとエラディアが思案を巡らせているうちに、蒼馬は嬉々としてマルコに声をかける。
「で、イースト菌はどうしたの? どうやってパンを膨らませたの?」
「君が……じゃなくて、あなた様がお酒も同じようなものだからって言っていたから、お酒の汁を少し入れて、しばらく放置していたら」
「すごいっ!!」
 蒼馬は諸手(もろて)を挙げて賞賛した。てっきりイースト菌がなければパンが作れないとばかり思っていたのに、まさかお酒を発酵させる酵母で代用できるとは思いもしなかった。
 しかし、現代日本ではパンやビールなど用途に合わせて適した酵母が使い分けられているため、蒼馬はパンイーストとビール酵母をまったくの別物と勘違いしていたが、酵母とは糖分を分解してアルコールと二酸化炭素とにする単細胞の菌類の一群を指す言葉であり、その酵母を英語に訳すとイーストなのである。
 事実、饅頭の皮を膨らませるために、甘酒や酒粕(さけかす)を加えて作る酒饅頭(さかまんじゅう)というお菓子も実在するのだ。
 だが、だからといって簡単にできたわけではない。
 パンの発酵に適した酵母を培養させた現代のドライイーストと比べると、どうしても発酵に時間がかかってしまう。その加減がわからなかったため、当初は発酵が足らずに無発酵パンとほとんど変わらなかったり、逆に時間を置きすぎてアルコール臭い上に酸っぱい味までしたりと失敗の連続であった。
 だが、そうした失敗作品をひとりで黙々と食べながら、マルコは試行錯誤の末に完成させたのである。
 それを聞いた蒼馬が、どうしてそんな苦労をしてまでと尋ねれば、マルコはさも当然のように答えた。
「だって、おいしいものが食べたいから」
 これに蒼馬は驚いた。いや、感動したといっても良いだろう。
 酒の汁を使ってパンを膨らませる発想はもとより、何よりもおいしいと言われれば他の人が野蛮と食べるのを敬遠するバターすら料理に用いる柔軟な思考。
 お腹が膨れれば良いという世界の中で、これだけおいしいものに貪欲になれるというのは、すごい性格である。いや、才能と言ってもいいだろう。自分の趣味にしかならないかもしれない料理の改善も、彼ならば大喜びでやってくれるに違いない。
 蒼馬は、にたりと笑った。
 それに、これはいつもの暴走癖が出たな、と思ったシェムルが制止の声を上げようとしたが、それよりも一瞬早く蒼馬はマルコの両手をガシッと掴む。
「君、僕の専属料理人にならない?」
 これには、さすがのマルコも目を白黒させた。しかし、続いて蒼馬の口から飛び出した言葉がマルコを決断させる。
「もっといろいろおいしい料理があるんだ! それを作って欲しい!」
「もちろん、よろこんで!」
 ふたりの少年が目をキラキラさせて、がっしりと手を握り合うのに血相を変えたのは、エラディアである。
「お、お待ちください、ソーマ様! この者は最近厨房に入ったばかりの新参者です! そのような者をソーマ様の料理人に抜擢するなど」
 暗殺の危険がある人にとって気をつけねばならない職業の人といえば、薬を処方してくれる医者、ハサミや剃刀などの刃物を持って近寄る理容師、そして日々食べる料理を作る料理人である。
 そのいずれも身元のはっきりとした者であるのは無論のこと、本人の性格などを厳しく吟味された上でなければ勤めさせられない職業だ。そんな重要な役職に、氏素性も知れないばかりか密偵の疑いがかかる者を据えるなど、エラディアとしては論外である。
 エラディアはマルコが料理人になるのを断固として阻止せんと、シェムルに協力を求めようと彼女へ目を向けた。ところが、一緒になって反対してくれると思っていたシェムルは、顎に手を当て何やら考えているようだ。
「シェムル様からも、何かおっしゃっていただけませんか?」
 自分の援護を期待して発言を求めたエラディアだったが、シェムルはなぜかニヤリッと笑った。
「それも良いんじゃないか?」
 思わぬシェムルの裏切りに、エラディアは唖然とする。
「ソーマの第一の臣たる私が料理をするのは(はばか)られるというのは、もっともな話だ。だが、エルフの女官たちも忙しいだろう。ならば、こいつにやらせるのもひとつの手だろう」
 腕組みをして、取り澄ました顔で語るシェムルであったが、何のことはないエラディアに蒼馬の料理番を取られてはなるまいという対抗意識からの発言だ。
 しかし、今はそんなおかしな対抗意識を出されては困る。エラディアが、それを口にしようとした時、それよりも一瞬早く、思わぬ人からマルコを擁護する声が上がった。
「別に、そいつでかまわんだろ」
 それは、ジャハーンギルである。
 エラディアは驚いた。それを発したのが、あのジャハーンギルだったからだ。
 すでにジャハーンギルは興味を失せたように、そっぽを向いて大あくびしながら尻尾をヒタヒタと地面に打ち付けている。だが、それでもジャハーンギルが戦いのこと以外に口をはさむのは珍しかった。ましてや、他人のことなど意にも介さないジャハーンギルが誰か擁護するなど、まさに驚天動地の出来事だといっても過言ではない。
 まさか、餌付けされたのか?
 ジャハーンギルが聞けば激怒しそうなことをエラディアは本気で思った。
 マルコの手紙でも書かれていたように、ジャハーンギルたちディノサウリアンたちのためにわざわざ彼らの故郷の料理を作るなど歓心を買っていた節がある。
 それに、エラディアはハッと気づく。
 まさか、わざと怪しい行動で自分の目を引いて官邸の厨房に潜り込んで、他種族の食事の配給係になり、食べ物で彼らの歓心を買ってボルニスを内部から崩す。
 それこそがマルコの計画だったのではないだろうか?
 まさか、この少年が私の目を欺くほどの密偵だったのか?!
 そんな驚愕とともにマルコを見つめたエラディアだったが、当のマルコは現状を理解していないのか、きょとんとした表情である。
 それにエラディアは、思わず毒気が抜かれた。
「……なるほど。そういうことですか」
 ようやくエラディアも事態が理解できた。
 落ち着いて考えれば、マルコが厨房に入ったのも、ディノサウリアンたちの食事の配給になったのも、ただの偶然である。ひとつやふたつぐらいならば誰かの策謀かとも思うが、これほどいくつもの偶然とが重ならねば起きないことを見通すのは、神の目でもない限りは不可能だろう。
 何のことはない。このマルコは、本当に心底から料理好きなただのお人よしなのだ。
 これまでエラディアが接してきた多くの人間は、自分の身体を貪ろうとする男たちや嫉妬に狂う女たちばかりだった。そのためエラディアは、そうした人間の思考を読み、その行動を操る術は心得ている。
 ところが、たまにいるのだ。損得を考えずに、ただ人のために何かをしようとする人が。赤の他人のために涙を流し、何の得にもならないというのに、必死になって人を助けようとする人が。
 エラディアは、ちらりと蒼馬を見やる。
 他人を見れば警戒し、疑い、互いに相手を思うように操ろうとするような世界で生きてきた彼女には、何ともやりにくい相手だ。苦手と言っても良い。ドロドロとした欲望の沼の中であがき続けてきた自分にとっては、それはあまりにまぶしすぎるのだ。
 理由がわかれば、何のことはない。ただひとりで肩肘を張っていた自分が滑稽に思えてくる。
 エラディアは、ため息をひとつ洩らした。
「……わかりました。ソーマ様の御意のままに」
 エラディアは優雅に一礼して見せたのである。

               ◆◇◆◇◆

「よろしいのでしょうか、お姉様?」
 改めて蒼馬にお茶を淹れ、その場を下がったエラディアに、女官のひとりが声をかけてきた。
 それにエラディアは即答せず、ちらりと肩越しに後ろを振り返る。
 そこでは早くも自分の知る料理の知識を得々と語る蒼馬と、それに目を輝かせて聞き入るマルコ、そして今さら「待てよ。結局、私はソーマの食事を作る役目を失ったのではないか?」と慌てふためくシェムルの姿があった。
「仕方ありません」エラディアはため息をつく。「――ですが、マルコの監視の目は緩めないように。あの者自身にはソーマ様への害意はなくとも、それを利用する者が出てくるやもしれません」
 そう指示してからエラディアは、もうひとつ思い出したことを付け加える。
「それと、ゾアンの料理を学ばせていた者の数を減らしなさい」
 いつでも蒼馬の料理人という大任を務められるように準備していたのだが、それも無駄になってしまった。それだけは、かえすがえす残念である。
「その者たちは、どこへ回しましょうか?」
 その女官の問いに、エラディアはしばらく考えた後で悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「マルコの周りにつけなさい。彼が不審な行動を取らないように監視させるのです。そして、あわよくば彼の落ち度を見つけて追い出す口実を探させなさい」
 何しろ自分に無駄足を踏ませたのだ。これぐらいの意趣返しは許されるだろう。
 エラディアは彼女には珍しく、小さな舌を出して見せたのである。

               ◆◇◆◇◆

 それからしばらく後の、ある日。
 いつものように自分の執務室で雑務をこなしていたエラディアの許に、ひとりの女官が血相を変えて駆け込んできた。
「お姉様! マルコが、またあれを……!」
 エルフの女官が言う「あれ」に、エラディアはすぐに思い至る。
 つい先月のことだ。蒼馬からある食べ物のことを教わったマルコが、それを作ろうとして大参事を引き起こしたのである。その時の騒動を思い出し、エラディアはシワが寄りそうな眉間を指でもみほぐした。
「この前、あれほどやるなと言っておいたのに。――すぐにやめさせなさい」
「それが……」その女官は言いよどむ。「ソーマ様がご一緒なのです」
 なるほど。それでは女官程度では言いづらいだろう。
 エラディアは、ため息をひとつ洩らした。大恩ある蒼馬がやることに直接口出しするのは自分も抵抗があるので、ここは強力な援軍を頼むことにする。
 その女官が援軍を呼びに行ってしばらくすると、遠くからシェムルの怒声が届いてきた。
「ソーマ! また、大豆を腐らせたな! 臭いと苦情がきているんだぞ!」
「く、腐らせたんじゃないよ。納豆を作ろうと……」
 声だけしか聞こえないが、それでも蒼馬が必死になってシェムルに弁解している姿が思い浮かび、エラディアは苦笑してしまう。
「この前もそう言って、結局は腐らせただけだろうがっ!! しかもその豆を食って、何日も腹を壊して泣き言を言っていたのは、どこのどいつだ?!」
「だけど、イースト菌もいたから、きっとどこかに納豆菌もいるはずなんだよ」
「ふざけたことを言っていないで、早く仕事に戻るぞ!」
 静かになったのを見計らい、エラディアはマルコ専用に設けられた厨房へと足を運んだ。廊下にまで漂う腐敗臭に端正な顔をしかめたエラディアが厨房に入ると、腐った大豆の入った樽を抱えたマルコが困った顔で迎えた。
「マルコ。この前、あれほどやるなと申しつけておいたはずですよ」
「で、ですけど、ソーマ様がおいしいナットウとかいうのができると言うので……」
 エラディアは深いため息を洩らした。
「ソーマ様の数少ない道楽ですから口を挟みたくはありませんが、せめてあまり臭わないものにしなさい」
 彩り豊かな雑菌の苗床になってしまった大豆は、どこかに埋めて処分するように命じてから自分の執務室に戻ろうとしたエラディアに、マルコは声をかける。
「あの……あれはどうしましょうか?」
 そう言ってマルコが示したのは、つい先程煮たばかりの大豆を荒く潰したものだ。納豆菌があっても何かの条件でうまく繁殖しないのではないかと考えた蒼馬が、粒のものより砕いて細かくした方が納豆菌も繁殖しやすくなるだろうと準備させたものである。
「捨てるわけにはいきません。何かの料理にでも使いなさい」
 そう言い捨ててエラディアが立ち去った後、マルコは悩んでしまう。
 すでに今夜の夕食は決まっている。そこに、大豆の使い道はない。
 マルコは仕方なく煮た大豆を適当に見つけた樽の中に入れた。すぐには食べないだろうから、腐らないように塩も十分に振って混ぜておく。そして、しっかりと蓋を閉めると、邪魔にならないように厨房の片隅に置いたのである。
 マルコが煮た大豆をしまった、この樽。それはかつて蒼馬が開拓村で買い取ったミトゥの入っていた樽であった。その後、マルコは忙しさにかまけて、この樽に入れた大豆のことをすっかり忘れてしまう。
 この時、マルコは知らなかった。
 その樽には、長年ミトゥ作りに使われたために自然と選別され続けた、ある種の菌が眠っていたことを。そして、それは現代日本ではコウジカビと呼ばれるものに非常に近い種類であったことを。
 その結果、この樽に入れられた大豆が、数か月後に蒼馬を狂喜乱舞させるものになるとは、この時マルコには思いもよらないことだったのである。
 後に、破壊の御子ソーマ・キサキに「彼がいなければ、私は生きてはいられなかった」と称えられ、人々からは「破壊の御子の舌」とも「ソーマの胃袋を掴んだ男」とも呼ばれるマルコ。
 彼が頭角を現すのは、もうしばらく後の話である。
 作中に名前が出た酒饅頭ですが、私の地元ではお盆の時期には定番のお菓子でした。ところが最近、仙台に行った姉が「あっちの人には酒饅頭が通じなかったよ!」と驚きの報告がありました。
 てっきりどこにでもある普通のお菓子と思っていたのに驚きです。

おまけ――
シェムル「良いか! もう二度とナットウとかいうのは作ろうとするな!」
蒼馬「ううう……。じゃあ、せめて豆腐を研究するのは良いでしょ?」
シェムル「トウフ? なんだ、それは?」
蒼馬「えっと、大豆から作る白くて四角い食べ物だよ。――ああ、なつかしいなぁ。よくおじいちゃんに『そんな生真面目だと、豆腐の角に頭をぶつけて死んじまうぞ』って言われたなぁ」
シェムル「ふむふむ(頭をぶつけて死ぬぐらいなら、よほど固いものなのだな)」
蒼馬「もちろん、冗談だよ。本当にそんなことをしたら、一瞬で(豆腐が)グチャグチャになっちゃうからね」
シェムル「一瞬で(頭が)グチャグチャになってしまうのか!」

シェムル「ソーマの国には、人の頭も一瞬でグチャグチャに潰すトウフという恐ろしいものがあるらしいぞ」
一同「「トウフ、怖い!」」
 最強の粉砕呪文トウフの誕生である。
+注意+
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