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破壊の御子 作者:無銘工房

胎動の章

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第41話 言葉

「本当に、小僧は物覚えが悪いのぉ~」
 心底から呆れ返ったような声でぼやいたソロンは、手にした教本で蒼馬の頭を叩いた。それに蒼馬は反論する言葉もなくうなだれてしまう。
 その脇では、シェムルが牙をギリギリと鳴らしていた。蒼馬からきつく言い含められていなければ、とっくに飛びかかってソロンを八つ裂きにしていてもおかしくない形相だ。
「このクソ爺。読み書きを教えるのに、ソーマの頭を叩く必要はないだろう!」
 シェムルの言葉にソロンは小さく鼻を鳴らす。
「ふんっ。物覚えが悪い小僧の頭に単語を叩き込んでやっているんじゃよ。感謝して欲しいぐらいじゃわい」
 その言い草に、シェムルの堪忍袋の緒が切れた。咽喉笛を噛み切ってやろうとグワッと牙を剥くシェムルを蒼馬は慌てて制止する。しかし、あわや本当に殺されていたかも知れないというのに、ソロンは悪びれるどころか蒼馬に抱き止められているシェムルにヘラヘラと笑って見せた。それに、シェムルは悔しげに歯ぎしりする。
 最近、ソロンは暇があると領主官邸に顔を出すようになっていた。
 もっとも、シェムルに言わせれば「ただ酒をせびりに来ているだけ」だ。確かにソロンはやってくるたびに酒をせびっていたのは事実である。しかし、いったいどのような心境の変化があったのか。あれほど嫌がっていたのに、たまに蒼馬に読み書きを教えるようになっていたのである。
「小僧、いくらなんでも物覚えが悪くないか? 孤児の方が、はるかにマシじゃわい」
 しかし、ソロンが呆れるように、蒼馬の読み書きの勉強は遅々として進まなかった。
 ソロンに指摘されるまでもなく、それは蒼馬自身も痛感していることである。基本となる三十二個の文字そのものはとっくに覚えられた。ところが、それを組み合わせた単語となると、とたんに蒼馬は行き詰ってしまったのである。
 どうにも単語が覚えられず、蒼馬が頭を抱えていると、そこへ茶器を携えたエラディアがやってきた。
「皆様。お茶を用意いたしましたので、少し休憩なされてはいかがでしょうか?」
 エラディアが用意したのは、香草や乾燥した花などで匂いをつけただけのこの世界で一般的なお茶ではなく、ゾアン風のお茶である。お茶より酒が良いのにとこぼすソロンには、ちゃんとお酒も用意してあるという心配りが憎い。
 エラディアは、まずは淹れたばかりのお茶をシェムルへ差し出した。
「……うむ。悪くないと思うぞ」
 お茶を一口飲んだシェムルはすまし顔で言う。それからエラディアは蒼馬たちへもお茶を配る。
 これまで蒼馬が飲むお茶を淹れるのはシェムルの仕事であった。ところが、最近になってエラディアのものとなっていた。
 それはエラディアが次のようなことを言ったからである。
「シェムル様がお茶を淹れられているのを見るのは、私としてはどうにも落ち着かないのです」
 変なことをいうものだと思い、シェムルがその理由を尋ねると、エラディアはこう言った。
「シェムル様は、ソーマ様の第一の臣。いえ、もはや一心同体と申しても過言ではありません。そのような方が雑事をされているのを見るのは、まるでソーマ様にやらせてしまっているようで心苦しいのです」
 それにシェムルは、口許がニヤニヤとしそうになる必死にこらえるため、ぐっと唇を引き結んだものだ。それから、いかにも渋々といった(てい)を装いながら、(おごそ)かに告げた。
「うむ。それならば仕方がない」
 その時、たまたま居合わせたズーグが、同じくその場にいたガラムに何とも言い難い表情を向ける。
「おい、ガラムよ」
「……何も言うな」
 ガラムは苦虫を百匹まとめて噛み潰したような顔で拒絶した。だが、ズーグはそれに構わず言葉を続ける。
「おまえの妹は、ちょろすぎやしないか?」
「だから、何も言うなと言っているだろうがっ!」
 後ろでそんなやり取りがなされているのに気づかなかったシェムルは、嬉々としてゾアン風のお茶の入れ方をエラディアに教授した。そして、それ以降はこうして蒼馬にお茶を淹れるのはエラディアたちエルフの女官の仕事となったのである。
 エラディアが淹れてくれたお茶を一口すすった蒼馬は、吐息とともに愚痴をこぼした。
「この世界の文字は難しすぎますよ。発音と文字が一致してないんだから……」
 それを聞きとがめたソロンは、しかめっ面を作る。
「はぁ? 自分の物覚えの悪さを変な理屈でごまかすな、馬鹿たれが」
「で、でも、『机』と『壁』の頭が、同じ『ガレ』って文字なのが僕には……」
「何を言っておるんじゃ? 『机』と『壁』の頭は同じじゃろが?」
 互いの話が噛み合っていないのに、ふたりは困惑する。
 そこに隣でふたりの会話を聞いていたエラディアが、その細い眉をかすかに寄せた。
「ソーマ様、ゆっくりと何かをお話ししていただけますか?」
 蒼馬はエラディアに言われたとおり、「本日は晴天なり」など適当な言葉を口にする。すると、しだいにエラディアの顔に、そうとわかるぐらい困惑の表情が浮かんだ。
「失礼ですが、ソーマ様。その言葉はいったいどこで覚えられたのですか?」
 言葉と言われて、蒼馬はハッと気づく。そういえば自分はこの世界に落ちてきたばかりの時は、シェムルとも言葉が通じずに苦労していたのに、いつの間にか普通に話せるようになっていた。慌ただしさの中で、それが当たり前となっていたのだが、よくよく考えれば不思議なことである。
「僕って、何を話しているんだろう?」
 助けを求めるようにシェムルを見やると、彼女は小首を傾げて言った。
「おまえがこの世界で生きられるように獣の神へお願いしてつなげてもらったとしか、お婆様には聞いてないぞ。言葉もその時にもらったんじゃないのか?」
 シェムルも知らないらしい。お婆様に直接尋ねようとしても、彼女は高齢のため今は〈牙の氏族〉の村に留まっている。詳しく話を聞きたくても、すぐに会えるものではない。
 そこで何か気づいた様子のエラディアに尋ねてみた。すると、エラディアは確信が持てないのか、ずいぶんと躊躇ってから「おそらくですが」と前置きしてから語った。
「ソーマ様は、お話しになられているのは、神代の言葉――神々がお使いになられている言葉かと思われます」
「神様が使っている言葉?」
「御意にございます。――この世界にある言語は、すべて神代の言葉より生まれ、分かれたものにございます。言葉の源流であり、真髄。そのため、神代の言葉を使えれば、この世界のいかなる言葉も理解し、また相手に通じると言われております」
 蒼馬は、はたと思い出す。ドヴァーリンを奴隷商人から買い取り、ガラムたちと合流する途中の馬車の中で、自分だけがドヴァーリンの言葉を理解していたことがあった。あの時はさほど気にも留めていなかったが、今思えばあれはシェムルが知らない言語でしゃべっていたのかもしれない。
 エラディアは自分の頬に手を当て、困惑した様子で続ける。
「ですが、私の村にいた最長老ですら、片言でしか話せませんでした。まさか、私を含め、誰ひとりとして違和感を覚えさせずに話されるほど神代の言葉を習熟されていらっしゃるとは……」
 それを聞きながら、蒼馬の身体を歓喜が駆け抜ける。
 チート能力キター!
 この世界のいかなる言語を使う相手だろうと会話できる。なんと素晴らしい力ではないか。この世界に落ちてからというもの、いきなり死にかけたり、呪いとしか思えない恩寵をもらったりと、現代日本で読んでいたライトノベルの主人公に比べて自分は何と不遇なのかとひそかに涙していた。
 そこへきて、神代の言語である。
 この世界に来てから会った神といえば、あの性悪な女神くらいだ。そのせいで神に対して良い印象はなかったのだが、それを少し改めてもいいとすら思った。
「ソーマ様。ご無礼とは思いますが、少しお試ししてもよろしいでしょうか?」
 エラディアの提案に蒼馬が快諾すると、彼女はこれから自分が何かしゃべるので、それが何と聞こえたのか教えて欲しいと言う。それならば聞き逃してはならないと小さく気合いを入れ、聴くのに集中しようとする蒼馬に、エラディアは悪戯っぽく笑ってから言った。
「お慕い申し上げます」
 いきなりの爆弾発言に、蒼馬の顔がゆでだこの様に真っ赤になった。エラディアはそれに頓着せず、平然と同じことを五回繰り返す。
「なんと聞こえましたでしょうか?」
 明らかに自分の反応を面白がっている顔だ。
 蒼馬は、そう思った。
 これはきっとからかわれているのだ。自分のような子供に、エラディアのような美女がそんな気があるはずはない。言葉を額面どおり受け取ってしまえば、いい恥さらしになる。ここは平然と返すべきだ。
 そう自分を卑下してしまうのは、いかにも女慣れしていない蒼馬らしい。
 蒼馬は気持ちを落ち着かせるために、ひとつ咳払いしてから答えた。
「同じことを五回繰り返しただけでしょ?」
 すると、その場に居合わせた者たちは一様に驚いた顔になる。
「こりゃ驚いたわ。少なくともエルフ語と大陸中央の言語を使っておったぞ」
「私には、さっぱりわからなかったが、少なくとも同じ言葉を繰り返しているようには聞こえなかった」
 ソロンの言葉には、何かと突っかかるシェムルも、この時ばかりはそれも忘れて同意した。
 なんだか自分はすごい能力を持っていたんだと感動すらしていた蒼馬に、エラディアが言葉の冷水を浴びせる。
「やはりソーマ様は、言葉の違いを聞き分けられていらっしゃいません。そのせいで読み書きが覚えられないのではないでしょうか?」
「……ど、どういうこと?」
「神代には言葉だけで文字はございませんでした。文字は、神代の言葉から分かれ、その種族や地域で独自に発展した後の言葉を書き表すために生まれたものにございます。そのため、いくら神代の言葉に通じていても、文字を理解できないと思われます」
 言われてみれば、現に今も自分は読み書きを覚えるのに四苦八苦しているのを蒼馬は思い出す。
「言葉の違いを聞き取れなければ、そうした言葉の違いを含んで生まれたそれぞれの文字を覚えるのは難しいと思われます」
 たとえばリンゴという単語を英語で書こうとする時に、たいていの人はいったんアップルと発音に変換してから、appleというつづりを思い浮かべるだろう。しかし、すべての言語が同じに聞こえる蒼馬は、リンゴという単語から、いきなりapple(エーピーピーエルイー)というつづりを思い浮かべなくてはならないようなものだ。これはかなり難しい。
 これにはせっかく上向きになりかけていたこの世界の神々への好感度が急落していくのを蒼馬は感じた。
 蒼馬の読み書きの覚えの悪さの原因が理解できたソロンも嘆いて見せる。
「これでは小僧が読み書きを覚えるのは大変じゃのう」
 結局、この後も蒼馬はこの世界の言葉を覚えられはしなかった。
 後世において破壊の御子ソーマ・キサキが、いかなる国や地域から訪れた使者とも通訳を解せず会話できたが、その反面読み書きとなると自分の名前程度しかできなかったというのは有名な話ともなっている。
 どうしたものかと難しい顔を突き合わせる蒼馬とソロンに、エラディアが笑顔で言った。
「ご安心ください、ソーマ様。私どもがおります」
 エラディアは高級娼婦として様々な地域の人間を相手にしてきただけあって、いくつかの言語を習得していた。読み書きができるものに限っても、大陸中央のいくつかの言語に加え、この西域で主に使われているデアス語も習得しているという。
 そうした言語に対する知識だけではない。彼女のソーマへの忠誠心は、ソロンの目から見ても疑いようはなかった。また、その言動の端々からは、彼女の聡明さが感じ取れる。
 蒼馬の代読と代筆を担う人物としては、まさに打ってつけの人物だろう。
 しかし、とソロンは考える。
 ソロンには、エラディアが(さと)すぎる気がした。
 えてして賢い人間は、容易に物事の核心を掴み取ってしまうがために、無駄なものを切り捨ててしまう傾向がある。
 しかし、ソロンが見る限り、ソーマという少年は自分らとは違った目線で他人が無駄や取るに足りないといったものの中から何かを見出すところがある。
 先日、水酸化ナトリウムなるものを自分が偶然に作った時も、飲んだくれの老人が偶然作ったものなど普通の領主では興味すら示さなかっただろう。たとえ興味を持ったとしても、それの使い道など思いつきもしないはずだ。
 このように、むしろ自分らの価値観で不要と切り捨ててしまうようなものこそ、この少年に伝えるべきものではないだろうか。
 そう考えるとソロンには、蒼馬の代読と代筆を担う人物にとって必要なのは、聡明さよりも愚直なまでの素直さなのではないかと思えてきた。
 そんな考えに至ったソロンの目に、話に加われない疎外感からか、いじけたように壁際に座るシェムルの姿が留まった。
「おい、獣の娘。ちょっと来い」
「話しかけるな、クソ爺」
 取りつく島もないとは、まさにこのことである。
「実は、おまえの主がとても困ったことになっておる」
 何かと癪に障るソロンとは話もしたくなかったが、蒼馬のことを持ち出されては無視するわけにはいかない。どういうわけだ、とソロンに詰め寄る。
「こやつは読み書きが覚えられぬ。これでは困ったことになる」
「読み書きとやらができなくても、問題ないのではないか?」
 ゾアンは文字を持たない種族である。そのため、文字がなくても不便を感じていなかったのだ。こうしたことも人間がゾアンを未開の種族だと蔑視する要因のひとつでもあったのだが、それはまた別の話である。
 状況を理解していないシェムルに、ソロンは大げさに首を振って見せた。
「それが問題じゃ。大問題じゃ。おぬしらゾアンは知らぬが、人間は文書を使って約束事をするのじゃよ。しかし、小僧はそれが読めぬ。そうなると、とても困ったことになる」
 ソロンは子供にでも言い聞かせるように、噛み砕いて説明した。
「たとえば、わしがおまえに牛一頭を譲ると書いた紙があるので署名しろと言う。おまえは字が読めん。だが、わしが言うことを信じて署名したとしよう。しかし、ここには言っていることとは逆に、おまえからわしに牛十頭を譲ると書いてあったのじゃよ」
「なんだと! 私を騙す気か! 私はそんな約束はしていないぞ!」
「たとえばじゃ、たとえば! じゃが、人間の世界では、おまえはこれに署名したではないかと言われてしまう。他の連中も、確かにそう書いてある契約書に名前を書いたおまえが悪いと言うじゃろう」
 シェムルは、あまり釈然としない様子だった。
「人間とは、そういうものだと思っておけ。――それで、小僧の代わりに字が読める人が必要というわけじゃよ」
「ふむ。何となくわかった。だが、代わりに読める人間がいればいいのだろ?」
「ところが、ここでさらに問題が出る。もし、字が読める奴が小僧を裏切ったらどうなる?」
「どうなるのだ?」
「そりゃ当然、書いてあることとはまったくの嘘を小僧に教えてしまう。そうなると、また小僧は困ったことになる。大変じゃろ? そうならないためにも、字が読める者は小僧を絶対に裏切らない信頼における者でなければならんのじゃ」
 おぼろげにだが、ソロンの言いたいことが理解できたシェムルは、なるほどとうなずいた。
 それを見届けたソロンは、空っとぼけた顔で話を変える。
「ところで、獣の娘よ。わしは常々、おまえの小僧への忠誠心はあっぱれと思っておる」
「それほど大したものではないぞ」
 口ではそう言いながら、シェムルの鼻の穴が得意げにピクピクと動いていた。
「そんなお前に、ひとつ尋ねたいのだが、絶対に小僧を裏切らないと断言できる奴はおるか? それこそ親兄弟や一族の長から頼まれても、脅されても、絶対に小僧を裏切らないと断言できる者だ」
 シェムルは「えへん」とでもいうように、胸を張って誇った。
「それなら、無論、私に決まっている!」
 何となく落ちが読めてきた蒼馬は何とも微妙な表情で、そんなシェムルを見やる。
「おお、そうかそうか。――では、まずは字の書き取りから、始めようかい」
 シェムルは、「え?」と目を丸くする。
「まずは、それぞれの字を二十個ずつ書こうかい。それが終わったら簡単な単語から覚えてもらおう」
 思わぬ展開に目を白黒させるシェムルの前に、蒼馬が練習に使っていた文字の表や書き取り用の紙やペンを嬉々とした様子で用意するソロン。言葉の成り行きから嫌とは言えないシェムルは、何とも情けない顔で蒼馬を見やる。
「ソ~マァ……」
「えっと……シェムル、がんばって!」
 自分が文字を覚える困難さを痛感していた蒼馬も、これ幸いとばかりにシェムルに勉強を押しつける。忠誠を捧げた「臍下の君」のこの裏切りに、シェムルは愕然として、うなだれてしまった。
「ほれ、何をしている。小僧のためじゃ。さっさとやらんか!」
 いつまでもうじうじとしているシェムルに、ソロンは発破をかける。すると、シェムルもはたと顔を上げた。
「そうだな。ソーマのためだな!」
 シェムルも考えを改める。最近、周囲の人たちと比べて自分の力不足を感じていたところだ。武技や知識では、いくら努力しても彼らには遠く及ばない。だが、この文字とやらを覚えれば、確実にソーマの役に立つという。ならば、自らの誇りにかけて覚えてやろう。
 そう決断したシェムルは、ペンを握りしめる。
「よし! クソ爺、これを二十個ずつ書いていけばいいんだな」
 まるで戦場に赴くかのような気合いを入れて、シェムルはペンを握って書き取り用の紙に向かい合った。
 そんなシェムルを勉強から解放されたこともあってにこやかに見つめていた蒼馬の頭をソロンがポカリッと殴りつける。
「こりゃ、小僧! おまえもせめて自分の名前ぐらいは書けるようにしておけ!」
 結局、蒼馬はシェムルと机を並べて字の練習をすることになったのである。
 そんなふたりの脇で、ソロンはナイフで紙を切ると、それを束ね、慣れた手つきで紐を通して一冊の冊子を作った。
「おい、獣の娘。これを持っておけ」
 ソロンに投げ渡された冊子を受け取ったシェムルは、これは何だと首を傾げる。
「勉学とは、自らやりたい、やらなければと思わねば続かぬものじゃ。その冊子に何でもよいから書け。その日にあったことや覚えておきたいことややりたいことなど、何でもよいから毎日書くようにしろ」
「なるほど。――では、書きたいことがある。どう書けばいいか教えてくれ」
「ほっほっほっ。よかろう。なんと書きたいのじゃ?」
 この時シェムルが手にした小さな冊子。
 それははるか未来において、発見された時は現代の大発見のひとつと言われ、驚愕のニュースとして世界中に報道されることになる「シェムルの覚書」である。
 この「シェムルの覚書」は、破壊の御子ソーマ・キサキについてはやや過剰な賛美が見受けられるが、それを考慮に入れたとしてもセルデアス大陸古代史を――とりわけ破壊の御子について研究するにあたり、超一級品の資料といって過言ではないものだ。
 しかし、その貴重な資料の最初のページにあるのは、まるでミミズがのたくったような字で書かれた、次の一文である。
「ソーマのためにがんばる」
 必死に読み書きを勉強するシェムルの姿が思い浮かばれる、何とも微笑ましいものだ。
 そうして一生懸命になって字を勉強しているシェムルを満足げに見やったソロンは、それを(さかな)に酒を呑もうと酒壺に手を伸ばした。ところが、そこにあったはずの酒壺が消え、ソロンの手が空を切る。
 わしの酒はどこに行った? と辺りを見回したソロンは、何食わぬ顔で茶器と一緒に酒壺を片付けてしまったエラディアと目が合う。
 エラディアは、にっこりと微笑んで見せた。
「ソロン様は、もうお酒はよろしいですよね? 片づけさせていただきますわ」
 蒼馬の代読と代筆という重役を目の前で奪われたエラディアの露骨な意趣返しである。

                ◆◇◆◇◆

 蒼馬とシェムルが字の練習をしているところへ、筆頭財務官であるミシェナがやってきた。蒼馬へ定期の財務状況をするためだ。蒼馬もしばしペンを握る手を止めてミシェナの報告に耳を傾ける。
 かつての財務官たちの横領を思えば、蒼馬がミシェナに定期報告を義務づけるのは当然の処置であった。
 しかし、今ではそれもほとんど形式的なものに過ぎなくなっている。すでに、それだけの信頼をミシェナは蒼馬から得ていたからだ。
 ミシェナは決して優れた能力の持ち主ではない。しかし、実直に財務を切り盛りする彼女の仕事ぶりを蒼馬は高く評価していた。
 この世界の人間と比べれば、高校生程度の数学知識だけでも突出した計算能力を持つことになる蒼馬だったが、計算ができるのと財務管理ができるのはまた別の話である。そんな蒼馬にとって、ミシェナを街の統治の早い段階で見出せたのは思いもかけぬ幸運だったのは間違いない。
「えっと、この数字は……。――すみません。私はこの『あらびゃー数字』というのには、まだなれていませんもので……」
 報告書の中で何度もアラビア数字のところで引っかかってしまったミシェナはそう嘆いてみせた。どうしてもこれまでの数字に馴れ親しんでいたミシェナは、画期的とは思うのだが、やはりアラビア数字には手こずっている様子である。
「この馬鹿たれが!」
 そんなミシェナへ叱責が飛ぶ。
「たった十個の数字を覚えるだけで、これほど多くの数を書き表すことができるのじゃ! これを使わずして、何を使えというんじゃい!」
 物凄い剣幕でミシェナを責めたのは、ソロンである。
 彼もまた孤児院での勉強のために、蒼馬からアラビア数字を教えられていたのだが、いまだに苦労しているミシェナとは異なり、彼は驚くべき速さでそれを吸収し、すでに孤児たちに教えるまでになっていたのだ。
 そして、街の財務にアラビア数字を使うことを強く主張したのもソロンである。
「で、ですが、このゼロとかいうのが、私にはさっぱり……。だって、何もないんですよ?」
 現代人にはごく当たり前だが、ミシェナはどうしてもゼロという概念になれないようだった。
「たわけ! まさに、このゼロこそが『アラビア数字』なるものの精髄ともいうべきものよ。無いものを無いと表す。わしは、これを聞いた時は、感動すらしたわ! 小僧、おまえは天才じゃのう!」
 手放しに賞賛された蒼馬だったが、残念ながらゼロを考え出したのは自分ではない。
「いえ。僕が考えたんじゃないですよ。確かインド人が発明したんだっけかな」
「おお、そのインドジンなる方には是非ともお目にかかりたい!」
 自分が生まれる何百年も前の人物だと蒼馬が説明すると、ソロンは地団太を踏まんばかりに悔しがった。
 その酔っぱらいの狂態にひとつ苦笑いしてから、ミシェナは真剣な顔になると報告を締めくくる。
「正直に申し上げて、現状は決して良いとは言えません。一部の開拓民の離散ばかりか、私たちが新しい土地へ転居を進めたり、免税を約束したりしたため、どうしても小麦の税収は落ちています。また、いまだ続くジェボアの小麦の買い叩きに加え、ガラスへの投資と新たな工房を立て続けに建設した出費も痛いです」
 ミシェナの正直な報告に、蒼馬も渋い顔になる。しかし、報告はそれで終わりではなかった。
「ですが、新しく開拓民に始めさせた大豆の栽培と牛の牧畜が順調です。それと、ヨアシュ様よりガラスばかりではなく、石鹸と蒸留酒について近いうちにソーマ様とご会見したいとのお申し出がございました」
 さすがは「シャピロ商会の大うつけ」。耳が早い。
 蒼馬は、そう苦笑した。
「会見のお申し出とともに、ガラスの買い取りの手付金として多額の金貨が送られてきました。ですが、いくらなんでも多すぎます。おそらくは石鹸と蒸留酒への先行投資でしょう。ヨアシュ様は、それらの品がかなり売れると見込まれている様子です」
 そこでミシェナは表情を緩める。
「まだまだ厳しい状況は続くでしょう。ですが、私の個人的な見解を言わせていただければ、今はとても良い感じがします」
 彼女もまた、このボルニスの街に新しい勢力を立ち上げようとする蒼馬の取り組みに加われたことに、少なからずやりがいを感じているようだ。
 そして、それは蒼馬にとっては、なおさらである。
「うん。ありがとう。――今はまだまだだけど、いつかは国を。それも押しも押されもしない大国を目指したいね」
 その蒼馬の言葉に、ミシェナは微笑み、シェムルはウンウンとうなずいた。
 ところが、その穏やかな喜びに包まれた空気を吹き飛ばすような笑い声が上がる。
「うひゃひゃひゃひゃ! 国? それも大国じゃと? こりゃ笑わせてくれる!」
 それは、ソロンであった。
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