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破壊の御子 作者:無銘工房

胎動の章

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第40話 ソーダ

「ねえ、お母さん。何をしているの?」
 僕は夢を見ているんだ。
 蒼馬は、そう思った。
「これは――よ。この前、婦人会で作り方を教わって来たのよ」
 そう答える母親が立つのは、懐かしい現代日本にある自宅のキッチンである。そこで母親はステンレスのボールに入った液体を泡立て器でかき混ぜていた。
 夢の中の自分が、ボールの中を覗き込もうとすると、母親に頭を軽く叩かれる。
「こら、危ないから気をつけなさい。これが目に入ると、とっても大変なことになるんだからね」
 母親が手にしていたのは、取っ手がついたステンレス製の計量カップである。先ほどから母親は、そこからボールの中へ何かを注いでいた。
「それって、何?」
「これはね、蒼馬――」

               ◆◇◆◇◆

「……! ……ーマ! ソーマ、いないのかっ?!」
 扉を叩く音と、自分の名前を呼ぶシェムルの声に、蒼馬は目を覚ました。
「おい、ソーマ。入るぞ! ――なんだ、昼寝でもしていたのか?」
「何かあったの?」
 扉を開けて入って来たシェムルに、寝台の上で寝ぼけ眼をこすりながら蒼馬は尋ねた。
「ああ。問題が起きた。クソ爺が、ドワーフたちに吊るし上げを食っている」
 シェムルがクソ爺と呼ぶのは、ソロンしかいない。
 しかも、吊し上げを食っているとは、ただ事ではなさそうだ。
 急いで身支度をすませた蒼馬が案内されたのは、街の中にあるドワーフたちの工房である。そこにソロンたちがいると教えられた蒼馬は、扉を勢いよく開いて中に入った。
 そして、蒼馬は唖然とする。
「後生じゃ~。哀れな老人と思うて、助けてくれぇ~!」
「この盗人め。どうしてくれようか!」
「殴り殺せ! 殴り殺せ!」
「吊るし首でもええぞ!」
 工房の中にいたのは、文字どおり吊し上げられたソロンであった。
 縄でがんじがらめに縛られた上に、まるでミノムシのように工房の梁から吊し上げられている。そんなソロンの周りを取り囲んでいるのは、殺気立ったドワーフたちだ。彼らは手に手に棒を握りしめ、今にもソロンを撲殺しかねない剣幕である。
「な……何があったんですか……?」
「お! 小僧、助けてくれぇ~!」
 茫然と声を洩らした蒼馬に気づいたソロンが、哀れな声で命乞いをした。

               ◆◇◆◇◆

「ほうほう、これがドワーフの秘薬。ガラスを作る薬じゃな」
 孤児院で蒼馬が化学実験を披露する部屋に戻ったソロンは、ご機嫌な様子で手の中のものを見つめた。
 その手に握られていたのは、ドワーフの工房からくすねてきたトロナ石の粉末が入った小瓶である。
 ガラスの製法は、ドワーフの秘奥だ。大陸の中央では捕虜のドワーフから拷問でガラスの製法を聞き出したという噂も聞くが、いまだ西方ではガラスはドワーフたちの専売特許である。
 知識人を自負するソロンは、かねてよりガラスに並々ならぬ興味を抱いていた。そのガラス製造における秘中の秘ともいわれる秘薬ともなれば、なおさらである。
「はてさて、この薬はいかなるものか」
 まずは匂いを嗅いでみる。しかし、匂いらしきものは感じられない。次いで少量を口につまみ入れて味を確かめる。
 現代日本人からしてみれば、危険だと思われる物質の判別法だ。だが、化学が発達していない時代においては、味覚で物質を判定するのはごく普通に行われていた方法である。
「うむ、苦いな……」
 しばらく口に含んでいると、苦味が感じられた。ソロンはそれをすぐに吐き出してから、水で口をすすぐ。
「さて、次は何を試してみようかのう……」
 とりあえずソロンは、秘薬を水に溶かしてみた。すると、秘薬はあっという間に水に溶け、カスも残らない。さらにソロンは、その溶液を金属の棒でかき回したり、熱したり、息を吹き込んでみたり、いろいろ試してみる。しかし、特に変わった変化は起きなかった。
「ふむ。石を入れても溶けるわけでもない。何も変化は起こらんのぉ」
 あまりの変化のなさに、ソロンは退屈し始めた。
 その時、ふとソロンの目に留まったのは先日蒼馬が二酸化炭素を検知する実験に用いた石灰水が入った大きな樽である。反応が目に見える石灰水は、あれ以来ソロンのお気に入りであった。物は試しと、ソロンは石灰水をトロナ石の溶液に入れてみる。
「……お、おおおっ! なんじゃ、これは?!」
 すると、劇的な変化が起きた。透明な石灰水の上澄みを混ぜたトロナ石の溶液が、真っ白に濁ったのである。さらにソロンは石灰水を注ぎ込むが、入れるはしから石灰水は白濁していく。
 それは息を吹き込むよりも劇的な反応だった。その反応に気を良くしたソロンは、調子に乗ってどんどんと石灰水を入れていく。だが、ついには器から液が溢れ出しそうになってしまったので、逆に石灰水を入れた樽にトロナ石の溶液を注いだ。それでも石灰水はすべて真っ白になった。
「おお、こりゃすごい!」
 この白いものは、いったい何なのかソロンは気になった。
 さっそくろ過をして白いものを調べようとしたが、ろ過をするには液量が多すぎる。そこでソロンは大鍋を用意し、煮詰めることにした。数時間かけて液量がある程度まで濃縮したところで、ソロンは溶液をろ過する。ろ液は置き場所がなかったため、再び鍋に戻す。それからソロンは、ろ過した白い粉を水で良く洗ってからひと舐めした。
「う~む。息を吹き込んだ時と、さして変わらぬ気がするのぉ」
 もっと違ったものができるのかと期待していただけに、ソロンは落胆する。
 残念な結果だったが、ドワーフたちに見つかる前に証拠隠滅をしなければならない。片付けようと炉に戻した鍋を見た時、放置している間にさらに煮詰まってしまった液体の中に、何かが出来ているのに気づいた。
 それは石灰水に息を吹き込んでできる白い粉のようなものではない。まるで海水を煮詰めてできる塩の結晶のようなものだ。
「なんじゃ、これは?」
 とりあえずソロンは鍋の中の液体をもう一度ろ過をして、それを取り出そうとした。先ほどより煮詰まったおかげで液量も少なく、ろ過も簡単に終わる。そして、得られた結晶状のものの味を確かめようと、まずは水洗いをした。
「何じゃ、消えおった?!」
 石灰水からできる白い粉は水で洗っても大丈夫だったのに、その結晶状のものは水を入れると、あっという間に溶け去ってしまった。本当に塩だったのかと、わずかに残った結晶を口に入れるが、塩気ではなく苦味が口の中に広がる。
「いったい、こいつは何だったんじゃろう……」
 首を傾げたソロンだったが、その時部屋の扉が乱暴に叩かれ、怒声が聞こえてきた。
「開けろ、ソロン! 貴様が我らの秘薬を盗んだのは、わかっているのだぞ!」
 ソロンは脱兎のごとく、窓から逃げ出した。

               ◆◇◆◇◆

「――と、まあ、そのようなわけじゃよ」
 その場を逃げ出したものの結局はドワーフたちに捕まり、こうして梁から吊るされたのだと、ソロンは悪びれることなくこれまでの経緯を説明した。
「本来なら、わしらドワーフの秘薬を盗んだ者は、こうして吊るし、皆で取り囲んで棒で滅多打ちにするのが掟よ」
 しかし、いざ叩き殺そうとドワーフたちが腕まくりをしたところで、ソロンは自分を殺すと蒼馬が困ったことになるぞと言い出したのだ。そのため、こうして思い留まっているのだとドヴァーリンは説明した。
 確かにソロンが言うとおり、彼はやっと見つけられた孤児院の教師だ。孤児たちに文字を教えてくれている得難い人材であるのには間違いない。
 仕方なく蒼馬は、ソロンをとりなしてやる。
 大恩ある蒼馬にとりなされてはドヴァーリンらも無下にもできない。ドヴァーリンは「次は容赦せんぞ!」と脅しつけてからソロンを解放してやった。
「まったく、酷い目にあったわい……」
 解放されたソロンは孤児院に戻ると、縛られて痛んだ腕をさすりながらぼやいた。
 ドワーフたちに力任せに縛り上げられたせいで身体の節々が痛くなっている。それでも、逃げる時に放置してしまった実験器具だけでも片付けようと、ソロンは孤児院の実験室に戻った。
 大鍋を火にかけたままだったが、幸いにも火事にはならなかったようだ。すでに炉の火も消えてしまっている。ろ液もとっくに煮詰まりすぎてなくなっているだろうと思い、大鍋を覗き込んだソロンは驚いた。
「なんじゃ、これは……?」
 水分がすべて蒸発してしまった大鍋の底には、奇妙なものが残っていた。
 それは石灰のような粉でもなければ、塩のような結晶でもない。たとえるなら砂糖を一度溶かしてから固めたような白い塊である。
 盗んできたトロナ石の粉や自分で加えた石灰の粉ではなさそうだ。その正体を確かめるべく、ソロンは白い塊を小さく砕く。この時、砕いた白い塊の小さな欠片が、ころりと袖の中に転がり込んだのだが、それにソロンは気づかなかった。
 ソロンは砕いた小さな欠片のひとつを口に放り込む。
「……苦いな」
 しばらく口の中で味わうと、苦味が感じられた。
 ドワーフたちからくすねたトロナ石も苦かったが、それよりも苦味が強い気がする。それに水で口をすすいでも、違和感が口の中にしつこく残る気がした。
「あ~。口の中が、変じゃわ。片づけは、酒で口直しをしてからにするか」
 そうぼやいたソロンは片づけを後回しにして、酒を呑みに行ってしまう。
 ところが、トロナ石の粉末から思ったような反応が得られなかった落胆もあり、ついつい酒杯を重ねてしまったソロンは酔いつぶれ、その日は後片付けをすることはなかった。
 そして、その翌日、改めて後片付けに訪れたソロンは、驚くことになる。
 確か昨夜の時点では鍋の中はカラカラに乾いて、白い塊が出来ていたはずだ。ところが、今目の前にある鍋の中にはじっとりと水気がたまり、白い塊が半ば溶けかかっている状態だったのである。
「こりゃいったい……?」
 ソロンは大鍋の底で半ば溶けかかっている白い塊を指でつまんでみる。すると、指の腹にヌルヌルとした感触がした。水で洗い落そうとしたが、なかなかそのぬめりは落ちない。
 この白い塊は何なのだろうと首をひねっていたソロンであったが、その時、自分の右手にヒリヒリとした痛みがあるのに気づいた。昨日、ドワーフたちに縛り上げられた時に、傷でもつけられたのかと思い、袖をまくる。
「なんじゃ、これはぁ~?!」
 孤児院にソロンの驚愕の叫びが響き渡った。

               ◆◇◆◇◆

「今度は何なんですか、ソロンさん?」
 昨日同様に、政務の間に仮眠を取っていたところを叩き起こされ、孤児院まで呼び出された蒼馬は、ややぶっきらぼうな口調で言った。さすがに二日連続で騒ぎを起こされて仮眠を邪魔されれば機嫌も悪くなるというものだ。
 しかし、好奇心が旺盛な蒼馬だ。呼び出された理由が、おかしなものができたからと聞かされれば、そちらへの好奇心が勝る。
「これが、その白い塊ですか……」
 確かにソロンが言うとおり、白い塊が溶けかかった状態で鍋の底にあった。その見た目は、湿気を吸い過ぎた除湿剤の姿を思い浮かばせる。
 蒼馬は念のため、本当に昨夜は乾いていたのかと確認すると、ソロンは間違いないと断言した。
 それでは炉の真上に煙を抜くために屋根に開けられた穴から水でも垂れてきたのかと上を見るが、そうした形跡はない。それに昨夜、雨が降った記憶はなかった。
 蒼馬は、鍋の中の溶液を人差し指につけて親指とこすり合わせてみる。すると、確かにソロンが言うとおり、ヌルヌルとした感触がした。しかし、そのぬめりは油のようではない。液体そのものにも粘りなどはなく、それになんだか液体がぬめるというのとは、また微妙に違った感触のような気がする。
「こいつを見よ。どうやら、その欠片がついていたようじゃが、それがこんなになってしもうたわ」
 ソロンが袖をまくると、前腕の甲の部分に豆粒ほどの大きさの火傷のような跡があった。
「ただの火傷ではない。熱さはまったく感じんかった。ただ、ヒリヒリと痛いのに気づいたら、このようになっておったわ」
 確かに、火傷にしては何だかおかしい。まるでえぐられたように、ポッコリと穴が空いている。だが、それだけ深く組織をえぐるほどの火傷ならば、負った時に熱さを感じないはずがない。それに、傷の具合を見ると火傷というより、むしろ溶けてしまったような……。
『これはね、蒼馬――』
 その時、蒼馬の脳裏に母親の声が甦る。
「え?! ちょ、ちょっと待って! 溶ける? 指がヌルヌルする? 身体を溶かす? それって、まさか……!」
 蒼馬は思わず驚きの声を上げてしまう。
「どうした、ソーマ? 何か心当たりがあるのか?」
「シェムル、急いで厨房からもらってきてっ!」
 蒼馬はシェムルに、あるものを取りに行ってもらう。その間に蒼馬は、鍋の中に少量の水を入れてかき回し始めた。しばらくして、すべての白い塊が水に溶けると、蒼馬は鍋の底に触れてみる。
「やっぱり、熱くなっている」
 手に伝わる熱に、ますます確信を深めたところにシェムルが小さな壺を持ってきた。
「ソーマ、こんなものでいいのか?」
 差し出された壺の中には、どろりとした黄褐色の液体が満たされている。
「うん。ありがとう!」
 感謝の言葉もそこそこに、蒼馬はシェムルから壺を奪うように受け取った。
「獣の嬢ちゃん。あれはいったい何なんじゃ?」
 トロナ石の粉末からおかしなものができたと聞かされ、蒼馬と同様に好奇心からその場にやってきていたドヴァーリンがシェムルに尋ねる。シェムルも毎度のことながら蒼馬のやることはまったくわからない。お手上げといった顔で答える。
「ただの油だ。――あんなもので、いったい何をするつもり何だか……」
 その間に蒼馬は、壺の中の油をかき混ぜながら、白い塊を溶かした溶液をゆっくりと注ぎ入れる。すると、しだいに油が白濁していった。それはまさに蒼馬が期待していた反応だ。本来ならば適量を加えなければいけないのだが、それがわからないため、とにかく溶液すべてを入れてからひたすら白濁した油をかき回し続ける。
「かき回すだけでいいのか? よし、私が代わってやろう」
 だんだん手がつかれてきた様子の蒼馬に、見かねたシェムルが油をかき回すのを代わってくれる。
 自分に代わって油を掻き回すシェムルの横で、蒼馬は首を傾げながらブツブツと呟いた。
「もっとドロドロになった気がするんだけど、やっぱり違うのかな? それとも割合が違うせい? 早く反応させるには、どうすれば良いんだっけ……塩を使うのは廃油をきれいにするときだし、えっと……」
 反応を早める方法があったはずだ。一刻も早く結果を知りたい蒼馬は、確か母親が何かを加えると言っていたものを必死に思い出そうとする。それが何だったか頭をひねっていた蒼馬は、いきなり目を見開いた。
「そうだ。消毒用アルコール!」
 母親が加えていたものを思い出し、パッと顔を輝かせた。しかし、すぐにそれを否定する。
「いやいや、この世界にそんなものないし、それに今から作るわけにも……」
 頭を振って思い浮かべたものを振り払おうとした蒼馬は、ふとドヴァーリンの腰にあるものが目に留まった。
「ドヴァーリンさん、これをちょうだいっ!」
「ま、待て! ソーマ殿、それはわしの……!」
 ドヴァーリンが止めるよりも早く皮袋を奪い取った蒼馬は、その口を開いて臭いを嗅いで中身を確かめる。
「ソーマ殿! それはわしのとっておきの葡萄酒じゃぞ!」
 消毒用アルコールとは比べものにならないほどアルコール濃度は薄いが、それでも多少は効果があるだろう。
 悲鳴のような声を上げドヴァーリンの制止を振り切り、蒼馬はその葡萄酒をシェムルがかき混ぜている油の中に静かに注いだ。
「……! お、何だか手ごたえが出て来たぞ」
 少量の葡萄酒を入れたとたん、白濁していた油がさらに白みが増し、かき回すシェムルの手に感じられる抵抗が増す。
 それからさらにしばらくシェムルにかき混ぜてもらってから、蒼馬は油を観察した。どろりとした黄褐色の油が白みがかり、水っぽい淡黄白色をした紙粘土のような感じになっている。
 蒼馬は、淡黄白色のものを指先ですくい取ると、少量の水とともに手をすり合わせた。
 手のひらには、ヌルヌルとした感触がするが、それ以上の変化はない。
 自分の勘違いだったのか。
 蒼馬が失望して、手を止めた時である。わずかに開いた両手のひらの間に、虹色に輝く薄い膜が張っているのに気づく。
 それはまさに、蒼馬が期待していたものだった。
「……! シャボンの膜だ!」
 シェムルの抱える壺の中を覗き込む。
「石鹸だ。石鹸ができている! 間違いない!」
 そして、わずかに取り分けておいた白い塊を見る。
「これは、苛性ソーダ?!」
 苛性ソーダ――すなわち水酸化ナトリウムのことだ。現代日本では家庭で手作り石鹸を作る際に使われる一般的な薬品である。
 しかし、そう判断するのは早計だ。
 空気中の水分を吸収して溶ける潮解性と、油脂を鹸化するアルカリ性を併せ持つ物質は水酸化ナトリウムのみではない。例えば、トロナ石の主成分である炭酸ナトリウムなどもそうである。蒼馬の母親は鹸化が容易な水酸化ナトリウムでしか石鹸を作っていなかったため蒼馬は知らなかったが、炭酸ナトリウムでも石鹸はできるのだ。
 事実、中世では塩生植物を燃やした灰――バリラやトロナ石そのものを用いて石鹸を作っていた時代もある。
 だが、結論から言ってしまえば、蒼馬の推測は的中していた。
 ソロンが偶然にやった方法は、消石灰と炭酸ナトリウムの水溶液を反応させて水酸化ナトリウムを生成する石灰法だったのである。
「石鹸! 石鹸が作れるっ!」
 蒼馬は歓喜に身体を小さく震わせる。それはシェムルですら退いてしまうほどの反応だった。だが、そんなことは今の蒼馬の眼中にはない。
 この世界で蒼馬が我慢ならなかったのは、第一に食事。そして、第二に衛生環境であった。
 食事はゾアンの香辛料の効いた料理のおかげで何とかなっているが、問題は衛生環境である。何しろ街中には汚物が転がり、少し裏路地に入ればそこは糞尿の臭いがぷんぷんとしているという劣悪な環境だ。現代日本の衛生的な都市で暮らしていた蒼馬には、たまったものではなかった。
 しかし、衛生環境で蒼馬がもっとも我慢ならなかったのが、お風呂である。
 いまだ燃料や真水が貴重なこの世界において、入浴という習慣はあまりない。一般庶民ではたまに川や泉で水浴びをする程度。裕福な庶民ですら、たらいに溜めたお湯で身体を週に数回程度洗うぐらいである。また、この世界のお風呂といえば、焼き石に水をかけて蒸気を部屋に溜める蒸し風呂のことだが、それともなれば王侯貴族でもめったに使えない贅沢なものなのだ。
 いくらお風呂好きな日本人である蒼馬とはいえ、さすがに自分の入浴のためだけに貴重な燃料を浪費するわけにはいかない。毎日、たらい一杯のお湯を厨房から分けてもらい、それで身体を洗うことで我慢していたのだ。
 しかし、そうして毎日水やお湯で洗っても、身体の皮脂は簡単に落としきれるものではない。衣服の汚れもそうだ。最近は、それに慣れてしまっていたが、よくよく自分の身体を見てみれば、現代日本では不潔と言われても仕方ない格好である。
 だけど、石鹸があれば、少なくとも今よりも清潔な生活ができる!
 そう思った蒼馬の目が、ギラリと光った。
「ねえ、ソロンさん! これ、大量に作れます? というか、作ってください!」
 蒼馬の剣幕に押され、さすがのソロンはしどろもどろになる。
「こいつは、たまたまできたもので……」
 作れるかわからないと言おうとしたソロンであったが、蒼馬の凄みのある笑みに、その言葉は咽喉の奥でつかえてしまう。ソロンは蒼馬の矛先から逃れるため、代わりの犠牲者を提供した。
「えーと、じゃな。作りたくとも、ドワーフの秘薬がなければ、そもそも作れんわけで、まずはドワーフに訊いてくれ」
 思わず、こっちに話を振るなと抗議しようとしたドヴァーリンだったが、蒼馬の首がグリンッと音を立て、こちらへ向けられたのに思わず後ずさる。
「いや、その、ソーマ殿。あれはわしらドワーフの秘薬であってな……」
「分けていただけますよね?」
 言葉は丁寧だが、そこに含まれているのは有無を言わさぬ強制そのものである。
 しかし、さすがにドワーフの秘薬をおいそれと提供するわけにはいかない。なかなか首を縦に振らないドヴァーリンに、蒼馬は交換条件を思いつく。先ほど石鹸を作った時に消毒用アルコールで思い出したことがあったのだ。
 蒼馬は、満面に笑みを浮かべて言う。
「ドヴァーリンさん。と~ても良い話があるんですが……」
 後にドヴァーリンは、こう語った。
 魔物が人を誘惑する時に浮かべる笑みとは、ああいったものなのだろう、と。

               ◆◇◆◇◆

「すごい臭いですね……」
 蒼馬は新しく街はずれに作った工房の中で、そう言った。
「仕方なかろう。牛脂が一番良かったんじゃよ」
 石鹸作りを一任されたソロンは、まず数種類の油脂を使って実験した結果、牛脂がもっとも泡立ちや汚れの落ち具合がよかったのだ。幸いなことに現在ソルビアント平原ではゾアンへの土地の賃貸料として牛の牧畜を推奨しているため、牛脂には事欠かなかった。
 そうした平原の開拓村から集められた牛脂と、ソロンがトロナ石から作る水酸化ナトリウムから、大量の石鹸が生産されていたのである。
「あ~、ダメだ。鼻の奥に臭いがこびりついている」
 石鹸工房の視察を終えた蒼馬は外に出るなり、そう嘆く。あの工房内の臭いには、さすがのシェムルも同感であった。今は何を嗅いでもわかりはしないだろう。
「うおぉ~い、ソーマ殿!」
 そこへ小さな器を片手に持ったドヴァーリンが小走りにやってきた。その顔には満面の笑みが浮かび、声も弾んでいる。何があったのかと問う蒼馬に、ドヴァーリンは手にした小さな器をずいっと差し出す。
「まあ、これを飲め」
 小さな器に満たされていたのは、透明な液体である。先程まで熱気のこもった石鹸工房にいた蒼馬は咽喉も乾いていたので、ありがたくちょうだいした。
 ところが、一口飲んだとたん、蒼馬は激しく液体を噴き出し、咳き込んだ。
「おまえ! ソーマに何を飲ませたっ?!」
 変なものでも飲ませたのではないかと、ドヴァーリンに食ってかかるシェムルを蒼馬は咳き込みながら片腕を上げて制した。
 しばらくして、ようやく咳がおさまった蒼馬は、わずかに器の中に残った液体を驚愕の目で見つめる。
「これ、蒸留酒?」
「そうじゃよ。ソーマ殿に教わったとおり、酒を煮て時に出る蒸気を冷やして作ったものよ」
 それは油の鹸化を早めるためアルコールを加えようとした時、思いついたものである。あの時は、急いでいたためドヴァーリンの葡萄酒で代用したが、高濃度のアルコールは作ろうと思えば簡単だ。酒を蒸留すれば良い。つまり蒸留酒だ。
 思えば、この世界では蒸留酒のような強い酒の話は聞いたことがない。
 酒に弱く、好きでもない蒼馬は蒸留酒のことを今まで思い出しもしていなかったが、多くのファンタジー作品と同じく酒をこよなく愛するこの世界のドワーフたちならば、秘薬との交換条件として使えるのではないかと思ったのだ。
 しかし、父親に連れられて見学に行ったウイスキー工場で聞きかじった知識を伝えただけだというのに、これだけ短期間の間にまがりなりにも蒸留酒を作ったドワーフの酒への執念には驚かされる。
「この咽喉を焼くような強さは良いが、味は今ひとつじゃの。こう、ツンツンと尖っていて、味わいがない」
 そう言いながらも、この世界にはない強烈なアルコールの刺激が気に入ったようである。すでに顔は真っ赤に染まっており、かなりの量の蒸留酒を口にした様子だ。
「それならば、木の樽に入れて寝かせれば良いそうですよ」
「何と……!」
「十年とか二十年とか寝かせたものは、味も良くなってものすごく値段も高くなるそうです」
 現代日本にいた時、父親が何十年ものだとかいう高価なウイスキーを隠れて買っていたのがばれて、母親にしこたま怒られていたことを思い出しながら蒼馬は言う。
 しかし、ドヴァーリンは最後まで聞いてはいなかった。その短い脚をドタバタと動かして、物凄い速さで走り去ってしまう。
 それに蒼馬とシェムルは、しばらく互いの顔を見合わせていたが、ドヴァーリンの反応が気になって追いかけることにした。
 ドヴァーリンの後に続いて蒸留酒を作っている工房に駆け込んだ蒼馬は、唖然とする。
 工房の中には、すでに酔いつぶれてしまったドワーフたちが、丘に揚げられたマグロのようにゴロゴロと転がっていた。その他の者たちは、大鍋に金属製の三角帽子をかぶせたような大きな蒸留装置へ杯を手に群がっている。その様は、まるで犠牲者に群がるゾンビたちのようだ。
「貴様らっ! 呑むのは中止じゃ! 急ぎ、樽を作って入れるのじゃ!」
 酒精が漂う工房に駆け込んだドヴァーリンは同胞たちを蹴飛ばして、そう怒鳴り散らしている。
 そんなドワーフたちと、工房の壁際に高々と積まれた空のビール樽の山を見上げ、シェムルは呆れたようにつぶやいた。
「まったく。どれほどのビールを使ったのだ、こいつらは……」
 しかし、期待していた蒼馬からの反応がないのに、シェムルは怪訝な顔で振り返る。
「……! ソ、ソーマッ?!」
 そこでは、蒼馬がひっくり返っていた。一口だけとはいえ蒸留した酒を呑み、ここまで走ってきた蒼馬はもともと酒に弱いこともあり、一気に酔いが回ったのだ。
 シェムルは血相を変えると、倒れていた蒼馬を抱き起して揺さぶる。
「しっかりしろ、ソーマ! だ、誰か水を! 水を持って来てくれ~!」
 蒼馬は朦朧とする意識の中で、これ以上揺さぶられたら中身を出しちゃう、と考えていた。

               ◆◇◆◇◆

 こうして作られた石鹸と蒸留酒は、これより数年をかけて大陸西域ばかりか中央へと広まっていく。
 しかし、それはこれまで未開の蛮地として見向きもされていなかった西域に、大陸中央の視線を向けさせることにもなってしまうのだ。
 これより後に起きる「破壊の御子ソーマ・キサキ」にとって、もっとも過酷で、もっとも忌まわしく、そして彼の名を大陸全土に轟かせ、歴史に恐怖とともに刻みつけさせることになる、あの大戦争。
 あの過酷な戦いを別名「石鹸戦争」とも呼ぶのは、それが所以(ゆえん)である。
おまけ話

とある愚か者の手記
http://ncode.syosetu.com/n3159cu/
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