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破壊の御子 作者:無銘工房

胎動の章

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第37話 第二角-三顧の礼

 その日の政務を終えた蒼馬は、シェムルひとりをともなってさっそく街へ繰り出した。
 もちろん、それはソロンという老人に会うためである。一応は街の領主である蒼馬ならば人をやってソロンを呼び出すこともできた。しかし、名士である老人から聞かされた話によってソロンに強い興味を覚えていた蒼馬は、こうして自ら会いに行こうと思ったのである。
 そして、そんな蒼馬に付き従うシェムルは、ひそかに張り切っていた。
 それは、久しぶりに蒼馬とふたりだけの外出というだけではない。実は、彼女もまた最近ある悩みを抱えていたのである。
 自らの「臍下の君」である蒼馬は、〈牙の氏族〉の客人からはじまり、氏族連合の客人になったかと思うとボルニスの街の領主となり、そして先日にはゾアンの族王へと、目を見張る速さで高みへ駆け上がっていく。
 しかし、それに比べて自分は前と変わらず、蒼馬の身の回りの世話や護衛役だけである。それにシェムルは、このままで私は良いのだろうか? と不安を覚えていたのだ。
 それに最近では、蒼馬の身の回りの世話もエルフの女性たちが関与するようになっていたのも大きい。
 蒼馬が街での地盤を固める中で、様々な人間と会う機会が増えていた。そうした訪れてくる人間との対応やそれに応じた蒼馬の服飾の選定など、人間たちの作法を知らないシェムルの手に余ることも増え、どうしてもエルフの女性たちの力を借りねばならなかった。そうした事実が、なおさら彼女を(あせ)らせていたのだ。
 また、護衛についてもシェムルは自らの戦士としての力量は、それほど高くないと自覚している。
 特に身近にガラムやズーグといった一流の戦士に加え、最近ではジャハーンギルなど比べるのも馬鹿らしくなるぐらいの化け物までいるのだ。とうていそこに肩を並べられるとは思ってもいない。
 しかし、だからと言ってすぐに自分が目指すべきものが見つかるわけでもなく、とりあえずシェムルは今の護衛という役割に全身全霊をもってあたろうと思っていたのである。
 そんな勢い込むシェムルを引き連れた蒼馬が人に尋ねながら、ようやく見つけたソロンの家は、あまり裕福ではない住民が住む地区にあるうらぶれた小さな一軒家であった。
「ごめんくださーい!」
 蒼馬が家の中に声をかけるが、返事はない。
 不在なのかなと開け放たれた扉から家の中をうかがうと、奥の部屋で寝台の上で横になっている老人の姿が見えた。
「何だ、いるじゃないか。よし、私が起こしてきてやる」
 そう言って家の中に入ろうとしたシェムルを蒼馬は制止する。
「待って、シェムル!」
 この時、蒼馬の脳裏に、ある閃きが訪れた。
 これはもしや、英雄が賢者を迎え入れる時にお決まりのイベントではないだろうか?
 周の文王の軍師として有名な太公望。文王は釣りをする太公望の邪魔をせず、じっと待ち続けたと言う。
 そして、三国志で有名な三顧の礼。当時はほとんど無名だった諸葛孔明を迎え入れるのに、劉備玄徳は自ら三度も(いおり)を訪れた。そればかりか、三度目に訪れた時は、昼寝をしている諸葛孔明をはばかって、彼が起きるまで庵の外で待ち続けたという。
 そして、太公望も諸葛孔明も、そうした振舞いに感銘を受け、それぞれの主君に仕えたのだ。
 ついに自分にもそのイベントがやって来たのかと、蒼馬は小さく身震いする。
 興奮を胸の内に押し込むと蒼馬はすまし顔になり、シェムルに言った。
「僕たちは何の約束もなく訪れたのです。ソロン先生のお邪魔をしてはいけません」
 いきなり変な言葉づかいまで始めた蒼馬に、シェムルは気味が悪そうに言った。
「……ソーマ、悪いものでも食ったのか?」
 周の文王や劉備玄徳になったつもりで言ったのに、食あたりか何かに勘違いされた蒼馬は、ちょっとムッとする。
「いいから、ここで起きるのを待つの!」
 そうまで言われてしまえばシェムルも従うしかない。ふたりは肩を並べてソロンが起きるまで、家の前で待つことになった。
 しかし、この時ソロンは狸寝入りを決め込んでいたのである。
 実は、これがソロンの借金取りを追い払う常とう手段であった。
 家の扉を開け放ち、そこから見えるところで狸寝入りを決め込んでいれば、荒くれ者の多い借金取りならば当然何の断りもなしに踏み込んでくる。そして、そいつらが自分を叩き起こそうとし時、それに先んじて飛び起きて大声で叫ぶのだ。
「押し込み強盗だ! 人殺しだ! 殺される! 助けて!」
 寝ていたと思っていた老人が飛び起きて、目の前で絶叫するのだ。たいていの人は鼻白む。その隙に、同じことを叫びながら裏口から逃げるのだ。
 これをやられると借金取りも追いかけるわけにはいかなくなる。もし追いかけなどすれば、ソロンの言うように強盗か何かと勘違いされ、大騒ぎになってしまう。
 しかし、今日の借金取りは、これまでと勝手が違っていた。いつもの手を知っているのか、家に踏み入ろうとはせず、家の前で自分が起きるのを待っているのだ。
 まあ、ご苦労なことじゃな。
 いつかは諦めて帰るだろうとタカをくくったソロンは、そのまま狸寝入りを続けていた。しかし、そのうちウトウトとしはじめ、いつの間にやら本当に眠ってしまっていた。気づけば窓から差し込む陽も茜色を帯び、間もなく日が暮れようという時分である。
 さて、日が暮れる前に酒でも買ってこようかと身体を起こそうとしたソロンであったが、家の外から聞こえる声に驚いた。
「なあ、ソーマ。もう諦めて帰ろう」
「いえいえ、先生が起きるまで待つのです」
「だから、その気持ち悪い口調は何なんだ?」
 何と驚いたことに、あのふたりが家の入口でまだ待っているではないか。
 ソロンは、何と暇な奴らだと呆れてしまった。しかし、間もなく日暮れである。さすがに日が暮れてしまえば帰らぬわけにはいくまい。もうしばらく狸寝入りを決め込もう。
 そう思っていたソロンであったが、ふと焦りを感じた。
 尿意を(もよお)したのである。
 昼寝をする前に酒を飲んだのがまずかった。どんどん尿意は強まり、このままでは洩らしてしまう。
 ついにソロンは我慢しきれずに寝台から飛び起きた。
「あ。ソロン先生でいらっしゃいますか?」
 自分が起きたことに気づき、少年が礼儀正しく礼をする。
 しかし、もはや尿意は我慢の限界に達している。早々にこの少年を追い払わなくてはならない。
「今日は、もう日が暮れる。出直しなさい」
 必死に尿意を我慢している顔は、そんなこととは知らない蒼馬から見れば、酷く真剣な面持ちに見えた。
 それに、蒼馬はハッとする。
 その時、蒼馬が思い浮かべたのは有名な張良(ちょうりょう)黄石公(こうせきこう)の逸話だった。
 後に漢王朝の高祖・劉邦(りゅうほう)の名参謀となる若き日の張良が橋を渡ろうとした時の話だ。ひとりの老人が自分の靴を橋の下へ投げ捨てると、それを張良に拾いに行けと命じたのである。張良は言われたとおりに靴を拾ってくると、この無礼な老人は次にそれを自分に履かせろと言ってきた。しかし、それにも張良は怒りもせず、老人の前にひざまずいて靴を履かせたのである。
 すると、老人は五日後の朝にここに来いと言い残して立ち去った。そして、五日後の朝に張良が約束の場所へやってくると、すでに老人が待っていた。老人は、「年長者を待たせるとは不届きだ」と張良を叱り、また五日後に来いと言い残して去って行った。次に張良は日の出とともに約束の場所に行くが、やはり老人は先に来ており、またもや張良を叱りつけから五日後に出直せと言って立ち去ってしまう。
 そこで張良は、今度は前の晩から約束の場所で老人を待ち続けた。すると、後からやって来た老人はついに張良を褒めると、太公望の兵書を授けたという。
 これはきっと未来の名軍師が賢者に知恵を授かるイベントだ!
 蒼馬は小さく拳を握って興奮する。
 しかし、その隣でシェムルが自分の「臍下の君」をさんざん待たせた挙げ句に、何も聞かずに出直せというソロンの態度に激怒していた。
「それが人を待たせた奴の態度か?!」
 食って掛かろうとするシェムルを止めると蒼馬はソロンに一礼した。
「はい。それでは、また後日お伺いいたします」
 そして、上機嫌でソロンの家を後にしたのである。
「なあ、ソーマ。お人よしにもほどがあるぞ。ああいう手合いは、ガツンッと言って聞かせればいいんだ」
「いえいえ、それはいけません。賢人には礼を尽くすものです」
「……だから、その気持ち悪い口調は何なんだ?」
 そんなことを話しながら蒼馬たちが立ち去ると、ソロンは慌てて家の外に置いてある小便壺で用を足した。そして、ホッと安堵のため息をついてから、首をかしげる。
「まったく、おかしな借金取りもいるものだ」

               ◆◇◆◇◆

 そして、それからしばらくして、再び蒼馬はソロンの家を訪ねた。
 すると、今度は不在のようである。外から声をかけてみても返事がないし、開け放たれた入口から家の中を見ても、先日のように中で昼寝をしているわけでもなさそうだ。
「不在なら仕方ないね。また今度にしよう」
 そう言って踵を返して領主官邸に戻ろうとした蒼馬だったが、ふと道をこちらに向かって歩いてくる人影に気づいた。
 それは特徴的な長い眉毛と、仙人のように白いひげを胸元まで垂らした老人である。昼間だと言うのに、すでに酒に酔っているのか顔は赤らんでいた。
 先日、この家で昼寝をしていた老人――ソロンに違いない。
 そう思った蒼馬は、ソロンがこちらに来るのをワクワクしながら待っていた。
 ところが、ソロンはこちらに気づいたとたん、ぎょっとした顔になる。そして、しばらくその場で警戒もあらわにこちらの様子をうかがっていたかと思うと、やにわに(きびす)を返すとこちらに背を向けて走り出したのだ。
「え! あ? えぇ?!」
 とても老人とは思えぬ健脚を披露し、ものすごい速さで走り去ろうとするソロンに、蒼馬は唖然としてしまう。
「おのれ、クソ爺! 逃がすか!」
 先日、さんざん待たされた挙げ句に追い返された恨みがあるシェムルは、逃がしてなるものかとばかりに四つ足になって駆け出した。
 しかし、駆け出してすぐに、その背中に蒼馬の声がかかる。
「ちょ、ちょっと待って! シェムル!」
 蒼馬の声に、シェムルはたたらを踏んで立ち止まる。
 いくら街中とはいえ、決して治安が良いとは言い切れない時代だ。特に最近では一攫千金や成り上がりを夢見た無法者たちが多く流れ込んでいるという。そんな中で、恩寵のせいで戦うこともままならない蒼馬をひとり残していくわけにはいかなかった。
「ええい! 早くしろ、ソーマ! あいつに逃げられる!」
 やむなくシェムルは蒼馬の腕を引いて、ソロンを追いかけた。
「ちょ、ちょっとシェムル! 手が痛いよ!」
「我慢しろ、ソーマ! 無駄口を叩く暇があるなら、もっと速く走れっ!」
 蒼馬は引っ張られる腕の痛みを訴えたが、シェムルはよほど業を煮やしていたのか、ものすごい剣幕で言い返されてしまい、口を閉ざすしかなかった。
 いくら四つ足で駆けずとも、相手は老人である。すぐに捕まるかと思いきや、そうはいかなかった。ソロンは下町や貧民街の地理に通じているらしく、袋小路に追い詰めたと思っても、わずかな壁の穴や家と家の間を潜り抜けたり、他人の家の中を通ったりと、後一歩のところで捕まえきれない。
「ここなら!」
 ソロンとの追いかけっこが街の中央を流れる川沿いの道まで来た。川沿いの道はまっすぐでゾアンの脚力を活かすには最適だ。しかも、見える範囲には怪しい人影もなく、しばらくの間なら蒼馬から離れても問題は起きないだろう。
 そう思ったシェムルは蒼馬から手を放すと、四つ足になって一気に駆け出した。
 瞬く間にソロンとの距離が縮まり、あと少しでその背中に飛び掛かり押し倒してやろうとしたときである。
 シェムルの急接近に気づいたソロンが、いきなりその身を川へと投げ出したのだ。
 これは覚悟の上での入水自殺か?! と思いきや、河の中ほどに、ぷかりと頭が出てきた。そして、そのままスイスイと対岸に向けて泳いで行く。無事に対岸まで泳ぎ切ったソロンは、濡れそぼった衣服を雑巾のように絞ると、また駆け出した。
「待て、このクソ爺ッ!」
 シェムルは罵声を投げつけるが、もちろんソロンが待つわけがない。再び蒼馬の腕を引っ掴むと対岸に渡る橋まで駆け戻らなくてはいけなかった。
 そして、ようやくソロンを追い詰めたのは、間もなく日が暮れようとする頃である。
 街中を追いかけっこし続けた三人は、へとへとに疲れ切っていた。さすがのシェムルも汗みずくになり、肩で荒い息をついている。
 中でも一番ひどい状態なのがソロンであった。濡れた衣服で狭いところを四つん()いで逃げるなどしたため、もはや服なのかボロ雑巾をまとっているのかわからない格好だ。そんな格好で道にうつぶせになっている姿は、荒い息遣いが聞こえなければ、野垂れ死にしたと思われても仕方がない有様だった。
「間もなく日が暮れる。また出直しなさい」
 荒い息で途切れ途切れに言うソロンに、蒼馬も荒い息をつきながら答える。
「また後日、お伺いします」
 疲れ切っていた蒼馬は、怒る気力すらわかなかった。

               ◆◇◆◇◆

 そして、三回目の訪問である。
 その頃には、さすがに蒼馬もおかしいと気づき始めていた。何かとんでもない勘違いがあるのではないか。そう思いながらソロンの家を訪ねると、ちょうど家の入口から出てきたソロンとばったり顔を合わせた。
 蒼馬の顔を見るなりソロンは小さく悲鳴を上げて、脱兎のごとく逃げ出した。
「しつこい借金取りめ! 金の亡者め!」
 逃げるソロンの罵声に、蒼馬は驚いた。
「ちょ、ちょっと待って! 違います! 勘違いです!」
 しかし、ソロンは止まらない。とっさに蒼馬は自分の懐から財布の巾着を取り出すと、シェムルに投げ渡す。巾着を手渡されたシェムルはすぐに蒼馬の意図を察すると、重さを確かめるように右手で握り締めた。そして、大きく左足を踏み出すと、腰を回転させる勢いを乗せ、右手を鋭く振るって巾着をソロンへ向けて投じる。風を切って投げられた巾着は狙い違わず、ソロンの背中に命中した。
 硬貨が入れられた巾着は小さいとはいえ、それなりの重さがある。その直撃を背中で受けたソロンは、危うく前のめりになって倒れそうになるが、それでも何とか踏みとどまった。
 しかし、そのときソロンの耳に立て続けに鳴り響く金属音が飛び込んだ。
「金か?!」
 それはソロンの背中に当たった衝撃で、蒼馬の巾着から零れ落ちた青銅貨や銀貨が立てる音であった。ソロンはとっさに金を拾いに戻ろうと踵を返す。だが、すぐにそのような場合ではないと我に返り、返した踵をさらに返そうとした。しかし、その急激な制動の無理がたたり、ソロンは後ろを振り返ったところで足を滑らせてしまう。
 うつぶせになるように、前のめりに倒れたソロンは、したたかに額を打ちつけ目の前に火花が散る。痛さのあまり悶絶しているソロンの目の前の地面に、鉤爪を生やして毛に覆われた足が音を立てて降ろされた。
「やっと捕まえたぞ、クソ爺め!」
 うずくまったまま上を見上げれば、今にもこちらを食い殺しそうな形相のシェムルと、どう対処すれば良いのかわからずに乾いた笑いを張りつけて見下ろす蒼馬の姿があった。
「お助けくだされ、旦那様! この哀れな老人に、お慈悲を! 今は返す金はありませんが、一生あなた様の下僕として働いてでも返すので、命だけは……!」
 恥も外聞もなく命乞いをするソロンに、蒼馬はひとつため息を洩らした。

               ◆◇◆◇◆

「いやぁ、これはすまなんだ、すまなんだ。わしはてっきり借金取りかと思うておったわ」
 とにかく事情を説明しようと、命乞いをするソロンをともなって蒼馬は近くの酒場に話し合いの場を設けた。そこで蒼馬たちが借金取りではないと知ると、あれほど無様な命乞いをしておきながら、けろりとした顔で酒まで要求してきたのだから、図々しいにもほどがある。
「ほらみろ、ソーマ。何が『賢人には礼を尽くすものです』だ」
 自分の口真似をするシェムルに、蒼馬はただ苦笑いするしかなかった。賢人を迎え入れるイベント発生! と思っていたのに、実は借金取りと勘違いされて逃げられていたのだから、苦笑いするほかない。
「賢人とは、わしのことか? ほうほう、おぬしはなかなか見る目があるのぉ」
 横から茶々を入れられたシェムルが、牙を剥いて威嚇する。
「何だ、その態度は! ソーマは、この街の領主なのだぞ!」
 シェムルの言葉に、ソロンの態度が一変した。それまでご機嫌そうだったのに、顔をしかめ、ふてくされたような態度になる。
「何じゃ、ご領主様かい。――それで、お偉いご領主様は、このような老いぼれにいったいどのような御用でしょうかのう?」
 慇懃無礼(いんぎんぶれい)な物言いにシェムルが再び怒りの声を上げようとしたのを制して、蒼馬はソロンを訪ねた要件を伝える。
「実は、勉学を教えてくれる教師を探していたんです」
 それにソロンは小馬鹿にしたように、「はっ!」と小さく笑い飛ばした。
「ごめんじゃ、ごめんじゃ。お偉いご領主様の教師など、わしみたいなボケ老人には無理よ。他をあたってくれ」
 まるで野良犬でも追い払うかのように、手をヒラヒラと振った。それに蒼馬は苦笑してみせる。
「それが請け負ってくれる人がいなくて困っているんです」
「領主なら金を山と積めば良いじゃろ。そうすれば、他にいくらでもやってくれる奴がおるわ」
 それは、たとえ金を山と積まれても自分はごめんだという言外の意志表示である。さらにソロンは、人の神経を逆なでるような口調で言った。
「ご領主様にお教えするぐらいなら、わしはそこらの孤児どもに教えた方がマシじゃわい」
 街の厄介者である孤児の方がマシとは、ひどい侮辱であった。しかし、それはむしろ蒼馬にとっては好都合である。
「それならちょうどよかった。実は、その孤児たちに教えて欲しいんです」
 蒼馬の言葉に、しばしソロンは呆気に取られた。
「孤児たちに教える? 何を教えるというんじゃ?」
 この時代のセルデアス大陸では、有力者や富豪が富める者の義務として孤児や乞食に施しをするが、権力者がそうしたことをするのはまれである。ましてや食べ物の施しならばともかく教育ともなると、もはや想像外の話だ。
 しかし、ソロンが呆気に取られるのは、それだけに終わらない。
「……? 文字とか計算ですけど?」
 現代日本で生きてきた蒼馬にとって読み書き計算は、基礎中の基礎の教育でしかない。
 しかし、この世界においては、いまだ読み書き計算は一部の貴族や官吏らだけの高度な教養のひとつである。それを街の厄介者である孤児たちに教えるというのは、まさに驚天動地のものだったのだ。
「じゃが、何のために……?」
 ソロンもまた領主が孤児たちを集めているという話は街の噂で聞いていた。しかし、それは孤児たちを労働力として集めているものとばかり思っていたのだ。そして、それはソロンだけの思い込みではない。多くの街の人々にとっても、それは同じであった。
 なぜなら、この世界においては、それが常識だったのである。
「子供たちへの教育が、国や街の発展の基礎じゃないんですか?」
 しかし、現代日本人であった蒼馬の常識は違う。
 戊辰戦争後に困窮(こんきゅう)していた長岡藩において、見舞いとして贈られてきた百俵の米を藩士たちに分け与えず、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と言って学校設立の元手にした小林虎三郎の「米百俵の故事」など、いかに基礎教育が大切であり、それが国や街の発展の基礎となることを蒼馬は本当の意味で理解していなくとも知識として知っていた。
 そんな蒼馬にとってみれば、孤児たちに基礎教育を施すことの方が当たり前だったのだ。
 そうしたことを説明されたソロンは腕を組んでうなった。
 確かに蒼馬が言っていることは理解できる。
 しかし、孤児たちに教育を施したからといって、それですぐに国や街が発展するものではない。その投資が実を結ぶのは、孤児たちが大人になる十年後、二十年後の話だ。
 だが、今はホルメア国が攻め入って来る気配はないが、それでも何をきっかけに再び討伐軍を起こすとも限らない。蒼馬たちが置かれている状況は、いつホルメア国に攻め滅ぼされていたとしても不思議ではないほど危ういものなのだ。
 そんな明日をも知れない状況にありながら、いつ実を結ぶかわからないものに投資しようという蒼馬に、ソロンは呆れて良いものか感心して良いものか、ほとほと困り果ててしまった。
 黙り込んでしまったソロンに、不安げな顔で蒼馬が尋ねる。
「それで、引き受けてくださらないでしょうか?」
 しばし、ソロンは無言で酒壺をもてあそぶ。
 ここで断るのは容易(たやす)い。それに、また権力者などと関わるのは、まっぴら御免であった。しかし、断るにしては、蒼馬の提案に久しくなかった好奇心がうずくのを感じる。
 蒼馬が尋ねているのに答えようとしないのに、しだいに()れてきたシェムルがギリギリと牙を鳴らし始めた頃、ようやくソロンは言った。
「……教えるのは孤児たちだけじゃぞ?」

               ◆◇◆◇◆

 蒼馬は孤児院の中にある部屋の一室で、子供たちを前に教鞭をとっていた。
 孤児院の子供たちの中には、蒼馬とさほど変わらぬ年齢の少年たちもいたが、いずれの子供たちも純粋な好奇心に目を輝かせて蒼馬を見つめている。
「火が燃えると、空気中の酸素と木の中の炭素が結合して、二酸化炭素っていうのが出ます」
 蒼馬は、火のついた蝋燭を小さな壺の中に入れると(ふた)をする。しばらくしてから蓋を開け蝋燭を取り出すと、その火は消えていた。
「なんで火が消えてしまったのか、わかる人はいるかな?」
 子供たちは、とんちんかんなことを言ったり、わからないと大きな声で答えたりした。
「これは壺の中にあった空気中の酸素がなくなったからです。酸素がなくなり、燃えることができなくなったんです」
 蒼馬は壺の中を子供たちに見せる。
「今、この壺の中には酸素と炭素がくっついた二酸化炭素がいっぱいあります。でも、無色透明で見えません。ですが、二酸化炭素があるかどうか調べる方法があります」
 そう言って蒼馬が取り出したのは、近くの樽からくみ上げた透明な水である。それをひしゃくで壺にそそぐと、壺のふたをしてから両手でしっかり持って、激しく降り始めた。
「この樽の中には、焼いた石灰の粉を溶かした水があります。これを壺の中に入れてよく混ぜます。――すると」
 蒼馬は蓋を取った壺を木の桶の上で傾けた。
 すると、中からは透明だった水が白く濁って流れ落ちてきた。子供たちは、まるで手品を見るように歓声を上げる。
「おお! なんじゃ、これは? どういう原理じゃ、小僧! 説明しろ、説明!」
 ひときわ大きなしわがれ声に圧倒されながらも、蒼馬は説明する。
「えっと、入れた水は石灰水と言って、焼いた石灰の粉を水に溶かしたものです。これは二酸化炭素を吸うと白く濁るんです」
 子供たちから「おおー!」と感嘆の声が上がる。
「そして、人の吐く息にも二酸化炭素が含まれています」
 そう言って取り出した麦わらをストローにし、蒼馬は石灰水に息を吹き込む。すると、しだいに石灰水が白く濁り始めた。再び子供たちは大きな歓声を上げた。
「じゃあ、みんなも実際にやってみようか」
 あらかじめ用意してあった小さな壺と麦わらを机の上に並べると、子供たちは我先にやろうと殺到する。
「どけ、ガキども! わしからじゃ! まずわしにやらせろ!」
 そんな子供たちを押しのけて真っ先に前に出ると、蒼馬の手から麦わらを奪い取り、さっそく石灰水に息を吹き込む。
「おおっ! 本当じゃ。白く濁ったわ!」
 自分の息で白く濁った石灰水に大はしゃぎをしている老人に向けて、蒼馬は言った。
「……ねえ、ソロンさん。あなたは何をしているんですか」
「良いではないか! 面白いぞ。先日の熱した硫酸で鉄を溶かして『すいそ』なるものを作るのも、まことに面白い!」
 ソロンは長く白いひげを震わせて、からからと笑い声を上げた。
ソロンは好奇心で請け負っただけで、蒼馬に臣従したわけではないので第二角の話は、もうちょっと続きます。
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