50:茜の集落 - 1
リザードマンの棲家を抜けてからも、鬱蒼と繁るパウオレアの森を徒歩で進んで行った。
都会育ちのわたしにとって、野宿は決して心地よいものではなかったが、目を閉じ、そよ風に吹かれる木々のざわめきや鳥の鳴き声なんかを聞いていると、自然と疲れが和らいでいく。
ようやく長い森を抜けられたのは三日後の事である。森の出口は小高い丘になっていて、その先の景色が一望出来た。
一面の草原だ。秋らしい、黄金色のススキに覆われていて、疎らだが何頭かの野生の馬がそれを食んでいる。
お兄ちゃんは額に手をかざし、へえ、と感嘆の声を上げた。
「見事な草原だな。放っておけばここも森になるぞ、いずれ」
「そうなの?」
「ススキってのは多年草でな、伸びるのが遅いんだよ。そういった草の根が数年かけて土を柔らかくし、枯れ草は土の肥料になっていく。すると、今度は陽を好む木が育ち始め、やがては松なんかの高木に替わっていくんだ」
次から次へと飛び出す説明に、わたしはへえ、と相槌を打つことしか出来ない。さすが、アウトドア愛好家だ。
お兄ちゃんは、日本でもほんのひと握りしか残されていない自然環境を、実際どのくらい目の当たりにしたのだろう。
「もっとも、このプルステラじゃどんな速度で成長するか…………いや、でもこれは茅場なのか。……ほら、見ろよ。あの辺に刈られている跡がある」
お兄ちゃんが双眼鏡を取り出し、手渡してくれた。指差した方角を確認すると、確かに半分程ススキが刈られている場所がある。
「ススキって茅なの? あの茅葺き屋根とかに使われる?」
「ああ、そうだ。ウチの集落じゃ完全な木造住宅だったがな」
あの辺は馬が食べた、というわけでもないようだ。双眼鏡の解像度ではぼんやりとしか判らないが、綺麗に一列に無くなっている部分がある。明らかに量を定めている証拠だ。
「……もしかして、近くに集落でもあるのかな?」
エリカに尋ねると、彼女は「あるわよ」と頷いた。
「今日はそこに泊まりましょう。私もお世話になったところなの」
§
茅場を踏みつけないよう気を付けながら、土で出来た細い道を蒸気甲冑車で疾走する。
十一月の風は少々肌寒いが、草原の草の香りを一杯に吸い込むのは悪くない気分だった。
「わたし達の集落もいいけど、ここも住み心地良さそうだね」
「そうだな」
しかし、車を走らせていると、逆に異常なぐらい静かでのどかな草原だな、と感じる。
野生の馬と、それに兎なんかは飛び跳ねているものの、凶暴そうな獣が一匹も見当たらないのだ。それが不思議でならない。
……もしかしたら。
そうだ、もしかしたら、これが本当のプルステラの在り方なのかもしれない。
得体の知れない獣に怯えず、心ゆくまで平和を満喫する。
好きな作物を植えて、毎日水をやり、肥料をやりながら、少しずつ育っていく様を見届ける。
ここに殺戮はない。きっと、永久に平和を約束された場所なのかもしれない。
だとしたら、何故、わたし達の集落と、こうも違いが出てしまうのだろう。
ディオルクの気まぐれか、それとも、アイツが介入してはいけない何かがここにあるのか。
「ほら、あれよ、マリー!」
エリカが窓の外、右前方を指差した。
森側から見て草原を右折した谷間に、小さな集落がある。それは、蒸気甲冑車が集落へ向けて直角に曲がると、顕著に見えてくるのだった。
「……わ。歴史の教科書で見たような光景だ」
思わずそんな言葉を口走ってしまったのだが、それだけ現在では失われた光景だった。
集落へと続く二本の轍の道の両端には、黄金色に染まった、まだ刈り入れていない田んぼが幾つも並んでいて、機械も使わずに農作業をしている人々が驚いた表情をこちらに向けている。
「こんにちはー!」
と試しに窓から顔を出して大声で声をかけてみると、農夫のおじさんは首元のタオルで汗を拭きながら、にこりと笑って手を上げてくれた。
「遠いところからおいでなすったのかねー!?」
「はいー! 森の向こうの集落ですー!」
「おー! そうかーい! どうぞどうぞ、遠慮なく寄っていきなさいなー!」
「ありがとうございますー!」
感じのいいおじさんに、エリカが「ね、いいところでしょ」とばかりにウインクして見せた。
集落の入り口を示す木製のアーチを潜り、ジグザグの坂道を登り切った先には、渋い焦げ茶色の茅葺き屋根が目立つ合掌造りの家屋が何軒も建ち並び、その屋根からは白い煙がゆらゆらと上空へと吸い込まれている。
中の住民を驚かせるのもなんなので、わたし達は集落に入る前に蒸気甲冑車を降り、インベントリに仕舞った。
「そういえば、前にエリカが送ってくれた写真に、ここのがあったね」
「ええ。日本人が見たらどう思うかなって送ってみたんだけど」
「日本人でもこれは驚くよ。……ねぇ、お兄ちゃん」
お兄ちゃんは「そうだな」とぼんやり答えながら、その光景に酔いしれている。
「私がここに来て素顔を見られても、ちょっと驚いただけで迎え入れてくれたのよ。その理由は……今に分かるわ」
「…………?」
集落の外は田んぼだったが、集落の入り口付近は青々と葉を伸ばした畑で埋めつくされている。恐らく、アニマリーヴした当初はこの畑を耕し、その後で外を開墾して田んぼにしたのだろう。
その畑と畑の隙間を縫うようにして走り回る子供たち。シャツに短パンにスニーカーという格好の子供の他に、着物と下駄の格好の子供も何人かいる。
「わあ、着物なんて久しぶりに見たなぁ」
「そうだな……」
お兄ちゃんはまたも幻想を見るようにぼんやりと答えてから、何かを思い出して声を上げた。
「そうだ! 小さい頃はヒマリも着ていたことがあるぞ。浴衣だったが」
「おお、どうだった?」
「向日葵の絵が描かれたオレンジ色の浴衣だった。テレビの花火映像を見ながら花火大会気分を味わってたもんだよ。それがミカゲ家の毎年の恒例行事になってたんだ」
スモッグで夏場の花火大会が無くなった昨今。かつては日本中のド田舎を探し回って、空気の綺麗なところでわざわざ大規模な花火大会を行い、そこへ行けない人のためにあらゆる角度のカメラでテレビ中継が行われた。
大人たちは枝豆をおつまみに泡で溢れるキンキンに冷えたビールを飲み、子供たちはキットで作った自家製の小さな綿菓子を嘗めながら花火が打ち上がる度に飛んで喜んだものだ。
時には自宅の小さなテレビ、時にはマンションのロビーに設置した大型テレビで。或いは、リアルのビール以上に花火を楽しみたい者はフルダイブのVRで体感する。……ユヅキという子供も、かつてはその参加者の一人だった。
「日本にはそんな風習があったのね。話だけには聞いてたけど、ちょっと羨ましいなぁ」
エリカがちょっぴり寂しそうな目を向けてくる。
「来年、花火大会やろうよ、みんなで。きっと素晴らしいものになるよ」
「いいわね! バーベキューも用意しなくっちゃ」
そんな風に盛り上がっていると、遊んでいた子供たちがとうとうわたし達の存在に気付いた。
「あ! エリカおねえちゃんだ!」
「エリカー! またもどってきたのー!?」
子供たちは一斉にわらわらと駆け寄ってきた。
「おねえちゃんたち、だあれ?」
「お友達……というか、家族ね」
来客なんて滅多にないからか、子供たちは大いに喜んだ。
「そーだ。アカネちゃんよんできてやるよ。まってな!」
と、男の子の一人が元気に走っていった。……どこか、レンのような雰囲気を持つ子供だ。
その間にエリカは、どうしてたか、何処へ行ってたか、ここに来るまで何があったか、などと根掘り葉掘り聞かれていたが、当人はどう答えていいやら、と適当に誤魔化していた。
「人気者だねぇ、エリカは」
「あはは……いやぁ。私も驚いちゃって」
何せ外国人、何せ生まれたての獣人である。
珍しいわ何やらでたちまち囲まれたエリカは、耳を引っ張られたり、尻尾を引っ張られたりと散々な目に遭っているようにも見える。……どこか笑った顔が涙ぐんでいるようにも見えるのは気のせい……だろうか。
「エリカおねえちゃーん!」
家の方から違う声が掛かり、エリカは振り向いた。
先程の男の子と一緒に、別の、着物姿をした女の子が坂道を下りて来るのが見えた。
「アカネー!」
アカネと呼ばれた女の子は、これまた古風だが、狐色に染まったおかっぱ頭を揺らしながら裸足で元気よく駆けて来る。……一瞬、何かがおかしい、と思った。
その姿を間近で見たわたしは、不思議な容姿にようやく合点がいった。
顔には、頬の両側にそれぞれ三本の細い髭が伸び、丸くて柔らかそうな鼻が付いている。
僅かに吊り上がった大きな目は金色の虹彩を携え、頭には三角に尖った髪と同じ色の耳と、お尻からは髪と同じ狐色とそれよりも濃い色の縞模様で、長い尻尾が伸びている。大きめの手足も、まるでグローブやブーツを履かせたかのように、エリカと同じような獣の形をしている。
……紛れもなく、この子は獣人だった。
「はじめましてっ! 伊勢谷茜、六さいですっ!」
ぺこん、と腰を曲げて元気良くお辞儀をする猫娘に、わたしは……元気の象徴であったはずのヒマリは圧倒されてしまった。
「あ……えっと、わたし、ミカゲ ヒマリ。十二歳。ヒマリって呼んでね」
「俺はミカゲ タイキ。ヒマリの兄だ、よろしく」
わたし達兄妹が自己紹介をすると、子供たちは一斉に拍手を奏でた。
「ねえ、エリカ、もしかしてこの子……」
小声でそっと告げると、エリカは小さく頷いた。
「そう。私と同じよ。猫の方は『コトラ』ちゃんって言うらしいわ。茶トラのオス猫」
「へ、へえ……」
そういえば、彼女の前髪が一部それらしい風合いの濃いオレンジに染まっている。
うーむ。エリカとはまた違った、物凄く愛くるしい容姿だ。
アカネちゃんは飛び出た耳を撫でながらエリカに問いかけた。
「エリカおねえちゃん、今日は泊まっていくの?」
エリカはアカネちゃんの前に跪いてにっこりと微笑んだ。
「そうね。泊めてもらえるなら、そうしようかな」
やったー、とはしゃぐ子供たち。決定権は両親にあるのに、何でだろう。
どうしてか男の子の一人に尋ねると、彼はこう答えた。
「アカネちゃんのおとーさんとおかーさん、もともとみんしゅくをけーえーしてたんだよ。いまは、むりょうでごあんないー!」
ごあんないー! と口を揃える子供たち。
……なるほど。それは断れないだろうな、とわたしは苦笑する。
「そういうわけで、おねえちゃんたち、きょうはウチに泊まっていってね!」
アカネちゃんが、がしっとわたしの腕を取る。
……あぁ、肉球の温かさとぷにっとした触り心地が気持ちいい……。こんな手に抱かれたら、どんなお客さんも喜ばずにはいられないじゃないか。
しかして、そのイセヤ家の家屋は、特別、民宿と言うわけでも無かった。
やはり合掌造りの家ではあるが、それでも邸宅と呼べる大きさがあり、間近で見ると重要文化財を目の当たりにしたような圧倒感がある。
アカネちゃんはそこで待ってて、と肉球……もとい掌を見せてから、玄関ではなく、縁側の方へ駆けていき、そのまま上がり込んで行った。
「おかーさん、ただいまー!」
素足を拭かないものだから、縁側には肉球型の足跡がくっきりと残る。
それを見たわたし達はクスクスと笑ってしまった。
案の定、奥から母親と思しき女性の、ちょっぴり控えめな叱り声が聞こえてくる。
「まあ! アカネ! また縁側から上がってー! お部屋汚しちゃうじゃないの!」
「わ、ごめんなさいー。でも、おきゃくさんだよー?」
「……あら?」
アカネに引っ張られ、部屋からそっと覗き見るように現れたのは、エプロン姿の若い女性だった。
「まあ、エリカさんじゃないの! そちら様はお友達?」
「はい。ヒマリとタイキ。……今お世話になっている家族でもあります」
アカネちゃんのお母さんはその場で膝を折ると、実に見事な姿勢で一礼した。
「ようこそ、いらっしゃいました。アカネの母、伊勢谷洸佳と申します」
さすが民宿を経営してただけあって丁寧な挨拶に、わたしも慌ててお辞儀をする。
「みっ……ミカゲ ヒマリですっ!」
思わず裏返ってしまった声に恥ずかしくなる。
しかし、お兄ちゃんは特に緊張することもないようで──
「お世話になります。ミカゲ タイキです」
と、無難に挨拶した。
ホノカさんはどうぞ、と玄関を指し示し、わたし達が近付く間にガラガラと引き戸を開けてくれた。
「お邪魔しますー」
靴を脱いで上がる。まだこの地へ来て間もないはずなのに、まるで何十年もそこにあるような独特の匂いが感じられる。柱や床も使い古したような色合いではあるが、これらはきっと、人工的に造り出したものだろう。
……或いは、もしかしたらここもマウ・ラのように元から住んでいたのだろうか……などと一瞬考えたが、先程民宿を経営していた話が出たので、その可能性はないだろう。
家の中央、板張りの部屋には囲炉裏があり、太い薪が二本くべられている。その真上の天井からは鉄瓶が鎖に吊るされており、次々と白い湯気を吐き出していた。
隣の部屋は畳部屋で、寝室に使うらしい。わたし達はまず、そこへ案内された。
「どのくらいこちらに滞在する予定ですか?」
ホノカさんにそう尋ねられ、わたしはお兄ちゃんに答えを求めた。
「そうだな。旅続きだったし、疲れが取れるまで、二泊ほど休ませて貰うとしよう。何せ、この先は長いからな」
「うん。それがいいね」
わたしはお兄ちゃんの配慮に感謝した。
何せ、これだけ素敵な風景が拝める集落なのだ。一日で去るだなんて、そんな勿体ないことはしたくない。
「分かりました。では、お夕食と、温かいお風呂の準備をしますね。それまでは、娘の遊び相手になって戴けるとありがたいのですが」
それが宿賃替わりなのだ、とでも言うのだろう。わたしは二つ返事で頷いた。
「はい。喜んで」
「ありがとうございます。ではそちらの居間でくつろいでて下さいな」
お兄ちゃんは荷物を下ろしてその場に座り、エリカは居間の畳の上にごろんと横になった。
「畳って素敵ね。フローリングとは違った趣があるわ」
直ぐにうとうとし始めたエリカと、同じように眠りそうなお兄ちゃんを置いて、わたしは縁側へと静かに移動した。
ホノカさんと話している間に床を掃除していたらしいアカネちゃんは、バケツを脇に置き、縁側に腰掛けて足をぶらつかせていた。
「アカネちゃん、隣座ってもいい?」
「うんっ!」
元気に答えるアカネちゃんが見上げていた空。
日はいつの間にか傾き、見事な夕焼けに染まっていた。
「わたしのアカネってなまえはね、あのゆうやけのそらのいろなんだって!」
アカネちゃんはびしっと空を指差して言った。
「そっかぁ。……わたしの『母さん』もね、あんな空を眺めたかったんだー」
「……? ヒマリおねえちゃんのおかーさん、おそら、みられないの?」
うっかりユヅキとしての母さんの話をしていたことに気付いて、どう答えたものか、と迷った。
「えっと……うん。本当の母さんはね、お空へ行っちゃったんだ」
「……じゃあ、もう、あえないの?」
その意味はアカネちゃんには「遠いところ」と捉えたのだろう。きっと、死を知るには早い年頃だろうから。
「うーん、何て言ったらいいのかな。会えないけど、胸の中にいるの。いつでも思い出して、会えるんだよ」
……そう言ってから、わたし自身がすごく不安になった。
わたしは一体、いつまで母さんのことを胸に抱けるのだろう。いつまでそうして記憶に残していられるのだろう。
「ふーん……よくわかんないや」
アカネちゃんは夕焼けの逆光を浴びながら、眩しく笑った。
わたしはそんなおかっぱ頭が愛おしく思えて、お兄ちゃんがわたしにそうするように、優しく撫でてあげた。
「ここに来てどのくらいになるの?」
「えっと……四月にきたから……ごー、ろく、しち……」
指で数え始めるアカネちゃんに、わたしは「七カ月だね」と教えてあげた。
「そっか。もう一年の半分はここにいるんだね。……一年経ったら、帰りたいって思う?」
わざとそんな風に尋ねてみたけど、アカネちゃんはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、かえりたくないよ。だって、ここキレイだし、たのしいし、おともだちや、コトラといっしょにいられるから」
「じゃあ、あっちの世界は嫌だった?」
……何を訊いているんだ、わたしは。子供に嫌な事を掘り返すような真似をして……。
それでも、アカネちゃんはたどたどしい口調で答えを出してくれた。
「……うん、くるしかった。わたしも、コトラも、ぜーぜーってしてた」
アカネちゃんが少し元気を失くした声で答えたのを聞いて、わたしは胸が苦しくなった。
スモッグによる呼吸器障害……。もう一歩進めば、母さんと同じ道を辿っていたかもしれない。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
アカネちゃんは笑いながらわたしを見上げ、無言で首を横に振った。
「ヒマリおねえちゃんはキライなの? こっちのこと」
今度は彼女がわたしに訊く番だった。
興味本位で、というより、わたしのことを心配しているらしい。
「ううん。わたしだって好きだよ。……でも、大勢の人が辛い思いをしたの。前の世界と同じようにね。……わたしも、ちょっと身体の具合が悪くてね、ずっとここにいられないかもしれないんだ」
「……じゃあ、まえのところにかえっちゃうの?」
「それはわからないなあ。わたしの身体が元に戻らなかったら……その時は帰ることも考えなくちゃね」
三百六十五日目にたった一度だけ現世へ帰れるゲートが開く。
必死になって生きているうちに、そんなことすらも今は忘れかけていた。それほどに、この世界は魅力に満ちあふれていたのだ。例え危険があっても、つまらない現世を埋めるだけの楽しさや、感動がある。
今更、戻りたいなんてことは考えたくなかった。あんな世界に戻るぐらいなら、何があってもここにいたいと思える。
それにわたしは……まだ母さんとの約束を、きちんと満足のいく形で果たせていないだろうから。
そのためには何としても残り続けなければならない。たった一度きりのチャンスを捨て、プルステリアとして、この仮想世界の中で生き続けなければならない。
「元気になってね、ヒマリおねえちゃん」
「うん。ありがとね、アカネちゃん」
あの柔らかい温かな手がわたしの腕に巻き付いた。途端にふわっとした安心感が訪れる。
どういうわけか、ここには完全な平和がある。
何者にも邪魔されず、まるでここだけ時間が止まっているかのような――。
「皆さん、お食事が出来ましたよ。……あら?」
ホノカさんの声に振り返ったのはわたしだけだった。わたしは空いた手でそっと口許に指を立てる。
エリカもお兄ちゃんも、……そして、どういうわけかわたしの腕に寄り掛かったアカネちゃんも、みんな気持ち良さそうに眠ってしまったのだった。
§
その夜。囲炉裏の傍で、開けた障子の向こう、縁側から見える三日月を眺めながら、実に見事な懐石料理を堪能した。
途中で、ホノカさんのご主人である賢治さんが帰宅し、囲炉裏を取り囲む参加者に加わった。ケンジさんもとても優しそうな人で、わたし達の姿を見るやヘコヘコと何度もお辞儀をした。昼はあの田んぼで農作業をしているらしい。
……それにしても、尽きない疑問が幾つかある。
わたしは、いっぱいになった腹を摩り、
「立ち入った事をお伺いしますが」
と、一言断ってから、こんなことを尋ねた。
「ここには、ドラゴンや化物の襲撃はなかったんですか? ……七夕の日の事です」
「ああ、そう言えばコミュの方で噂になってましたわね。……ええ、こちらには何も」
やはり、とわたしは納得した。
草原のススキと言い、この合掌造りの家と言い、この辺りにはそれらしい傷痕が残されていないように思えたのだ。
「何だか、大変な被害だった、とは伺ってます。……ヒマリちゃん達の所にもやって来たのかしら?」
「はい。何名かは死んで、友達も重傷を負いましたが……母が手当てをしたので今は元気です」
「そう……災難だったけど、無事で良かったわね」
あの時の事は、本当にユウリママに感謝せねばなるまい。一歩遅れていたら、わたしもミカルちゃんも、死んでいたのかもしれないのだ。
「その……こんなこと言うのも失礼ですが、何故ここが襲われなかったのでしょう?」
お兄ちゃんがおずおずと尋ねる。
ケンジさんは特に機嫌を悪くした風でもなく、デザート替わりの枝豆を口に放り込んでからこう言った。
「恐らく、ここが『有形文化財再現集落』に当たるからじゃないかな」
「有形文化財……再現?」
「そう。古くから伝わる形ある文化を、このプルステラでも再現し、後世へ伝えていく……ここはそういう有形文化財の集まりを集落として再現した場所なんだよ。外のススキや美しい夕焼けも含め、この集落に合うよう、最適な場所を選んでいる。……ここに住む予定の候補者は結構いたんだけどね、厳正なる審査と抽選の結果、幸運にもウチが選ばれたんだ」
なるほど。言われてみれば、プルステラへ行く申請をしている時に、当選がどうとか尋ねられていた事があった。当時は意味が全然解らなかったが、この事だったのだ。
でも……そうなると、些か矛盾が生じる。
ハッカーに投じられたはずの化物達が、まるで有形文化財再現集落であることを知っていたかのような……。
わたしは勿論のこと、お兄ちゃんやエリカもこの矛盾に辿り着いただろう。……しかし、この家族の前で話すには少々場違いな気がしたので黙っていた。アカネちゃんの手前、心配させるような事を敢えて話すものでもないのだ。
§
さすがにあんな事を訊いた後なので、アカネちゃんの事情については一緒に風呂に入る時にエリカに尋ねてみた。
彼女はわたしの背中を一定としたリズムでごしごしと洗いながら、ゆっくりと語りだした。
「結局、私と一緒ね。コトラを逃がしたいあまり、ケージに鍵をかけないようにして係員に渡したら、しばらくして逃げ出したみたいなの。……彼はまだ仔猫だけど、賢くて、アカネの事が好きだったから、彼女の元に駆け込んで同じカプセルに入ったんだって」
「不思議だね。そんなにあっさり抜け出せるものなのかな。見つかって捕まったりすると思うんだけど」
「それがね。ゾーイにも同じ事を訊いたら、抜け道があるって言うのよ」
「え、抜け道!?」
意外な回答に、わたしは驚いて振り返った。偶然にも、目の前にはたわわと実る二つの膨らみがあり、わたしは慌てて正面に向き直った。
「やだなぁ、マリーったら。今更何恥ずかしがってるのよ」
怒られるどころか、笑われてしまった。
……そう言えば、何で一緒にお風呂に入っているんだろう。少なくともわたしは半分ユヅキだっていうのに。
全身がこそばゆいような、ムズムズした感触に見舞われ、わたしは振り払うように自分で自分の腕を摩った。
「そ、それで? 抜け道って何?」
「うん。もはやスパイ映画のようなお約束なんだけど、通気孔があるらしいの。ゾーイとか、猫ぐらいの動物なら、近くの棚に飛び乗ってそこへ逃げ込むことが出来る。どういうわけか、蓋も簡単に開くっていうね。……そして、ご主人様の匂いを辿ると、あのアークの付近、搭乗口のやや手前ぐらいに出られるってわけ」
その後は、誰がいようとお構いなしってことか。
誰よりも早くその場を駆け抜け、主人のカプセルに入り込む――まるで障害物競争のような試練を乗り越え、これで準備が整うわけだ。
「訓練もしないのに、よくそんな道見つけるよね」
「そう。ゾーイ自身も不思議がっていたわ。『何故だか解らないけど、あの穴へ行けばエリカに会えると思った』だって」
動物の第六感? それとも、何か別の要因でも……?
まあ、それはともかく、そうやって動物たちはご主人様のいるカプセルまで辿り着けたってことか。
日本とイギリスという違いはあるが、恐らくはほぼ同一の構造をしているのだろう。コトラもそうやってアカネちゃんのいるカプセルへ向かったに違いない。
「さーて流すわよー。今度は私のをお願いするわね」
ばしゃーとお湯をかけられながら、わたしはドキッとした。
「え、えっ……!? えっと、わたしが、エリカを?」
「そうだよ。……ほらほら」
さも当然と言うようにスポンジを渡され、またあのムズ痒い感覚が訪れてきた。
大丈夫……背中を洗うだけだ。背中だけだ。わたしよりちょっと育ってるだけだ……大丈夫。
……その後わたしは、湯船に浸かった時に急激にのぼせてしまい、ユウリママから緊急連絡が届くという大失態を冒してしまったのだった。
2018/04/19 改訂