夢魔リリスと魔獣アラクネと妖狐九尾と液体生物スライムが、勇者たちの中で誰が一番好きかで盛り上がる
「カンパーイ!」
甲高い声とともに四つのジョッキが掲げられ、黄金色の麦酒は白絹の水面を踊らせた。
そのうちの一杯は、水面が平穏を取り戻すよりも先に黒髪の女の喉に吸い込まれて消えた。
「ッかぁー! たまんねーな仕事のあとの一杯はよ!」
そう言って、彼女は蜘蛛そのものである下半身の節足を器用に使って、枝豆を口に放り込んだ。
「アラクネ、飛ばしすぎだ。また潰れるぞ」
早くも二杯目を要求する蜘蛛女を、銀髪の女がたしなめる。
彼女の後ろで、丸まった九尾がクッションのように固まっていた。
「だーぃじょーぶだって、アタシ酒だけは何杯飲んでも酔わないんだから」
「こないだ飲み過ぎて、おしりから糸止まらなくなったの誰でしたっけ」
「なんか言ったかライム」
いーえ何もー、と顔を背けた彼女の身体は、全身が青いゼリーのようなもので出来ていた。
飲み下したビールの褐色が、喉から螺旋を描いて流れて行くのが透けて見えた。
「だいたい今日はリリスのボーナスで飲みに来てるんだ、少しは遠慮しろ」
「あっ……いえ、皆さんが、楽しんでくれれば、私は、それで……」
タイトな黒いドレスに身を包んだリリスは、縮こまってうつむいた。
彼女だけは一見すると――その血のように赤い両眼を除けば――人間のように見えた。
彼女たちはそれぞれグラスを傾け、料理に舌鼓を打ちながら、益体もない話に終始した。
のぼる話題といえば、主である魔王への愚痴か、仕事への愚痴か、そして恋愛への愚痴――もしくは、その全部だった。
ふいに、九尾が机の上に身を乗り出し、声を潜めてリリスに話しかけた。
「ところで、勇者たちはどうだった。リリス、今日はお前が撃退したんだったな。どうだった」
「あ、はい。その……以前戦ったときより、手強くなっているように感じました。今はまだ、私たちが優勢ですけど、あれではいずれ――ひゃっ!?」
突然、首筋に冷えたグラスを当てられ、リリスは小さく飛び上がった。
「そーじゃねーじゃん? リリィ。そんなのは魔王様に報告しときゃいいことじゃん? 聞きてーのはそーゆーことじゃねーよなぁ、九尾ィ?」
九尾は、火照った頬にグラスをペタペタとくっつけながら言いよどんだ。
「いや、その、なんだ。今日、賢者さま……いた?」
「賢者、ですか? はい、いましたけど」
「えっ、マジ。いた、いたの? えっえ、どんなだった? どんな服着てた? どんな呪文唱えた? 炎系? 雷系? ……土? まさかの土?」
「えっ、いや、その……呪文はよく覚えてないですけど、格好は、確か白い神官のローブだったような」
「白か。白ときたか。白ときましたか! まさか私の髪の色と合わせた……とか? ないか! ないっか! それは考えすぎっか! ああんでも見たかったぞ白い賢者さま……なんでこんな日に限って私は非番なのだ、もお~~~~……賢者さまあ……」
九尾は自分の尻尾に顔を埋めて、にやけてるのか嘆いてるのかわからない表情で顔を激しく振った。
突然の痴態にリリスは眼を丸くした。
「えっ、え? 九尾さん、あの、えっ」
「なんだリリィ、知らねーの? こいつ、賢者のこと超好きなんだよ」
「えっ、そんな、でも私たち敵同士じゃ」
「そーんなのは魔王様の都合じゃん? だいたい魔王軍なんかろくな男がいねーんだしさ、勇者たちをそーゆー目で見ても無理はねーよなー?」
「アラクネ先輩には、ガーゴイルっていう彼氏がいるじゃないですか」
ライムがぼそりと呟いたその一言に、アラクネはジョッキをテーブルに叩きつけた。
「あんっなのが彼氏なわけねーだろーがっ! 沸かすぞ液体生物!」
「よく一緒に喋ってるじゃないですか、仲よさそうに」
「あれはあっちが勝手に話しかけてきてるだけっつーの! あいっつマジありえねーからな? こないだなんか、アタシが寝てる間勝手に巣に引っかかった挙げ句『君は、いつも僕の通り道に罠を仕掛けるんだね』とか言いやがったんだぞ!? 起き抜けに、巣にへばりついたままドヤ顔決めるアイツを拝む羽目になったアタシの気持ち考えてみろよ!」
ライムはゼリー状の全身を震わせ、苦しそうに机を叩いた。
「笑い事じゃねーんだよ! あの事件以来、アタシは毎日巣作る場所変えてんだからな!」
「えっ、と、アラクネさんも、まさか、勇者一行の中の誰かが、すき、なんですか?」
「あ、アタシぃ? アタシは……まあ、その……強いて、強いてだよ? 強いていえば……商人?」
「え、商人ですか? 商人ってあのでっぷり太ったオジさんの?」
「ぎゃー! テメェいきなり机の下から伸びてくるのやめろライム!」
「えっ、オジ専? アラクネ先輩、まさかのオジ専? 商人のどこが好きなんですか?」
「オジ専言うな! そういう性癖みてーに言うな! どこ、って……それは、なんか……あの中だと一番、優しくしてくれそう、じゃん?」
「優しく、してくれそう? 何を? 何をですか? どこに、何を、優しくどうしてくれそうだからですか!?」
「うっせーぬるいんだよ離れろ液体馬鹿! 飲み干すぞ!」
ライムは不承不承といった顔で、どろりと自分の席に戻った。
「まあでも良かったじゃないですか。アラクネ先輩と九尾先輩の好みがかぶらなくて」
「余計なお世話だバカ。つーかおめーはどうなんだよ。人のこと言えねーぐらい男日照りだろうが」
「私は別に。でも興味はありますよ。特に、旅を始めた頃のまだ幼い勇者が、強面の戦士とか僧侶とか連れてるのみたときは、色々思うことがありましたね。ああ、無限ってこういうことなんだな、とか」
「は? 無限?」
遠い目をして何かに耽るライムに、アラクネとリリスがキョトンとした眼差しを向けた。
「まあ一般的にはね、戦士✕勇者がベタな所だとは思うんですよ。受け攻めの自由度も高いし。そもそも勇者がショタいから、最初に誰と、どういう風に絡むかによってルートが無限に分岐していけるんですよね。そもそもホモっていうのは現象じゃなくて、数学なんですよ。まず組み合わせがあって、そこから物語が産まれるわけで――」
「……おい何か取り返しのつかないスイッチが入ったぞ。原型なくなるまで叩けば治るのかこれ」
「どうやら始まってしまったようだな」
妄想に耽っていた九尾が、ようやく顔をあげた。その頬に、無数の尻尾の痕がついていた。
「おはよう九尾。お前が正気に戻ったのはいいんだが、約一名が桃源郷に肩まで浸かって戻ってこねーんだけど」
「手遅れだ。こうなったライムは少なくとも三日間、ホモの話を花を咲かせるぞ」
「一刻も早く枯れちまえそんな花畑。つーかなんだ三日間って、その微妙に生々しい数字は」
「四日目に私が疲れて寝たからな」
「実体験かよ。たとえであってほしかったよ。しかし、コイツに彼氏いない理由がようやくわかったわ。これじゃ男はよりつかねーわな」
「失礼な。私は男を作らないんじゃなくて、作る必要がないんです。そもそも私たちは、単為発生による繁殖が可能ですから、性別というものが不要なんですよ。私が女性性を獲得したのは、このコミュニティに属しているからであって、だからこそ私は同性同士の恋愛というものに対して人一倍の知識と理解をですね」
「わーかったわかった! とってもステキな話題だから黙っててくれ頼む!」
「あ、あのっ、もし勇者さまが、僧侶さんと、しょ、初夜を共にしたら、ど、どんな風になるんですか……?」
「おっ、リリス先輩話せますねえ。その場合考えられるルートとしては――」
「やめろリリィ、その沼はちょっとアタシらには深すぎる!」
アラクネが無理やりライムからリリスを引きはがした。目配せを受けた九尾がライムの話相手として代わりに座った。
「……悪いなリリィ、こんな変態どもの馬鹿話に付き合わせちゃって」
「あ、いえ、ちょっとビックリしただけで……でも意外でした、皆さんも、彼らのことをそんな風に見ていただなんて」
アラクネの触覚がぴくりと動いた。同時に、視界の端で、九尾の尾がぴんと立つのが見えた。
「皆さん……も?」
リリスは、しまった、というように口を押さえ、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「リ・リ・スぅ……なに、あんたも誰か狙ってるやつがいんの? いやあ、うぶなリリィのことだから、てっきりこの手の話題にゃ興味がないと思ってたけど、やっぱオンナノコだねえ? で、誰なのさ」
「私も知りたいなリリス。しかしもし相手が賢者さまだった場合、魔界が千年戦争に突入する恐れが、あ、いやしかし、リリスに寝取られる賢者さまを見るというのも一興か――」
「私も知りたいです先輩。しかし返答如何によっては、私が長年構築してきた結合式の一部が書き換わる可能性も――」
「暑苦しいから寄ってくるな自由性癖ども!」
「わ、やっ、わ、私、私、あのっ……私は……私が、すき、なのは――」
三方を酔っ払いに囲まれたリリスは、絞り出すように言った。
「ゆ――勇者さま、です!」
途端、急速に波がひくように、酔っ払い三人は溜息を残して席に戻っていった。
「え、え? あの、私、何かまずいこと……」
「いや、まずいことっつーか……」アラクネの助けを求めるような視線に気づいたライムと九尾が、露骨にそっぽを向いた。滑らかな黒髪を指でくしゃくしゃにしながら、絞り出すようにアラクネが言う。「悪い事は言わん。リリィ、勇者はやめとけ」
「えっ、なんで……ですか?」
「だってお前、勇者だぞ? 魔族の敵じゃん」
「えっえ」リリスが思わず身を乗り出した。「いや、そんなこといったら、賢者だって、商人だって、全員そうじゃないですかっ。勇者の味方なんだし、えっ、なんで勇者さまだけダメなんですかっ」
「いやいや、落ち着けって、な? 確かに商人も賢者も勇者の仲間ではあるけど、ちげーんだって。あいつら別に使命とか帯びてるわけじゃねーべ? ぶっちゃけ一人ぐらい魔族と駆け落ちキメたところで、代わりはいるわけじゃん? 実際そういう例が過去にもあったわけだしさ。でも勇者ってそうじゃねーのよ。唯一無二なのよ。本人もそれを自覚しちゃってんのよ。告ったところで、つきあえる可能性はゼロ、ゼ・ロ。それどころかぶった切られて終わり」
「そんな……」
リリスは身を小さくして縮こまった。
アラクネは困ったような顔で、彼女の髪を撫でた。
「他の男探しな。リリィはかわいいから、魔族だろうと人間だろうと、よりどりみどりだしさ、ね?」
「わっ……わかって、るんです。確かに、魔族と、勇者じゃ、無理だってっ、私だって、でもっ。本当に、わ、わたっ、私っ、はじめて、本当に、好きでっ……」
「――え、泣いてんの? え、ちょ、泣いてんの? な……泣いてんの!?」
「あーあ泣かした、あーあーあ」
「アラクネ先輩ホントそういうところありますよね」
九尾とライムがじっとりとした視線をアラクネに向けた。
「えっ、アタシ? アタシが悪いの今の? ていうかお前らだって、テメー言えよみたいな空気出してたじゃねーか! アタシ? これ、アタシの案件!?」
「ご、ごめんなさいっ、私、そんなつもりじゃ、ずひっ、ごべんなさい、私、帰りますからっ、ごめんなざい!」
「まあ待てリリス。可能性……ゼロじゃないかもしれんぞ」
九尾の一言が席を立とうとするリリスを止めた。
「おい九尾、テメー適当なこと言うなよ」
「適当に言っているわけではないさ。私やお前のような種族では無理だが、リリスに限って言えば可能性はゼロではないと、そう言っているだけだ」
「だからその理由を言えってんだよ」
「わからんか、眼だ」
九尾は、己の切れ長な目と、リリスの泣き腫らしてさらに赤くなった眼を同時に指した。
「魔眼。リリスが何度も勇者たちを退けられている理由――そして夢魔という種族を、魔界で最強の地位に押し上げているその所以だ。魅入られたものを、己が意のままに操る魔瞳の一瞥、それをもってすれば、あるいは」
「そうか、魔眼なら、勇者の強固な意志を曲げることができるかもしれない! ……というか、今まで何度もそのチャンスはあったはずだろ、なんでやんなかったんだ?」
「だ、だって、む、無理、むり、だったもん……」
「無理? なんでだよ、勇者にも魔眼は効くだろ?」
「は、恥ずかしくて、勇者さまの顔、まともに見れないのっ。か、かっこいいから……」
「……」
(やべえどうしようかわいい。アタシ女なのにときめいちまった)
(私もだ。何か致命的な一線の上で、理性と本能が葛藤している)
「なるほど。リリス先輩、私とセックスしてください」
「テメェちょっとはオブラートに包めよ。全員そう言いたいのを我慢してたところだろうが」
「そんなこと言ってるからオブラートごしの薄っぺらい恋愛しかできないんですよ先輩は」
「上等だオモテ出ろ、テメェの全身をラップで包んでチンしてやるよ」
「後にしろ二人とも。可能性がゼロでないとわかった以上、やることは一つだ。行くぞ」
「行くぞって、どこにだよ」
「決まっているだろう。勇者のところだ。夜襲をかける。いや、夜這いかな」
「ば――馬鹿言ってんじゃねえ九尾、飛躍しすぎだろ。可能性があるってわかっただけで充分だ、実際試すのは次にあいつらが攻めてきたときでいいだろうが!」
「馬鹿はお前だ」
褐色の鋭い眼光がアラクネを見据えた。
「勇者は何度もリリスの魔眼に退却させられているんだぞ。次は対策してくるに決まっている。そうなってからでは手遅れだ。対策もない、襲ってくるとも思っていない、そう油断している今、この時をおいて他にチャンスはない。今こそ我らの力を結集して勇者を籠絡し、あわよくば賢者さまも手籠めにするチャンスだろうが」
「鼻から真っ赤な本音がダダ漏れてんぞ」
「九尾さん、すいません、こんな私のために……」
「何を言っている。仲間なのだから当然だ。だがリリスがどうしても私に礼をしたいというのなら、その魔眼でついでに賢者さまも堕落させて、一生私の尻尾の付け根の匂いをかがないと生きていけない身体にしてほしい、そうすれば毎朝、尻尾に顔を埋める賢者様の鼻骨がおしりにあたってフフフ……くすぐったいよ賢ちゃんフフフ……」
「だから鼻血ふけ。手元のビールがみるみるレッドアイになってんじゃねーか」
「とにかく善は急げだ、日が昇らんうちに行くぞ」
九尾がアラクネの手を引いて立ち上がった。
「おっ、ちょ、待てよ。アタシも行くのかよ!?」
「当たり前だ。ついでに商人のオッサンも魔眼でオトしてもらえ」
「ばっ、別にっ、アタシは、そんなこと求めてねーっ、し!」
「顔がにやけてますよオジクネさん」
「誰がオジクネだテメボケコラァ!」
その後も、魔王様にバレたらどうする、そもそも勇者に勝てるわけがない、うまくいく可能性は低い、あと自分はオジ専ではない、包容力があって加齢臭のする人が好きなだけ、などなど、考えつく限りの理由を並べ九尾を止めようとしたアラクネだったが、結局、
「……来ちゃったよ」
草木も眠る丑三つ時に、アラクネたち四人は気配を殺しながら、小さな村の宿屋に目を凝らした。
「つーか本当にあの宿屋に勇者たちがいんのかよ」
「それは間違いないです」
ライムが得意げに鼻を鳴らした。
「私は常に勇者一行を尾行し、彼らが宿泊した宿屋の設備、立地、部屋割り、そこで行われた会話、溜息の一つから衣擦れの一つに至るまで、全てを記録してきました。こんなこともあろうかとね」
「どんなことがあろうとお前とわかり合える気がしねえわ。で、どうやって勇者だけを誘き出すんだ? 言っておくがフルメンバーで来られて、勝てる気はしねーぜ」
「安心しろ、策なら考えてある」
九尾は宿屋を指さした。
「まず私の妖術で宿屋の主人以外の住民と、勇者の仲間を眠らせる。長時間は無理だが、三十分ぐらいなら保つだろう。そしてリリス、お前の魔眼で宿屋の主人を操り、勇者だけを外に連れ出すように仕向けろ。連れ出す場所は――そうだな、あそこがいい」
次に、宿屋の入り口から少し離れたところにある並木を指さした。
「アラクネ、あの木々の間に網を張れ。強度は低くていい、そのかわり、目の前まで近づいても見えないぐらい細い糸でな。そうして足を止めたところを、ライム、お前が勇者の足に絡みつけ。これも数秒でいい、勇者の注意が足下に向いたところで、リリス、お前が樹上から忍び寄って、勇者に魔眼を使うんだ」
「う、うまく、いくでしょうか……?」
「確実とは言えんが、安全ではある。我々が勇者の前に姿を晒すのは最後の段階だ。そこにいくまでにしくじったなら、そのまま姿を見せず退散すればいい。まあダメで元々さ。さて――」
九尾の眼が怪しく光る。両手から放たれた霧のような瘴気が、あっという間に村全体に広がった。微かな虫の音すら絶えた。村そのものが眠りに落ちたようだった。
「……これでしばらく邪魔は入らんだろう。私たちは向こうで罠の準備にかかるから、リリスは宿屋に向かってくれ。頼むぞ」
リリスは微かに頷いて、闇夜の中を滑るように宿屋へと向かった。
「ではアラクネ、早速罠の準備に取りかかるぞ――って、何やってるんだお前」
紐を口に咥えながら、しきりに髪を束ねるアラクネを見て、九尾は溜息をついた。
「髪なんて後にしろ。時間がないんだぞ」
「わーってるよ。でもこうしないと髪が地面についちゃうだろ。ヤなんだよ。アタシ、女らしいところ、この髪ぐらいしかねーんだから」
「……お前、そういうの男の前で言ったりするのか」
「はあ? 言うわけねーじゃん。何でよ」
「何でもないよ。早く、お前のそういうところに気づく男が現れるといいな」
「うっせ」
漆黒の闇の中、アラクネは、まるで彼女だけが重力を操れるかのように、器用に身体を回転させながら、木々の間に糸を張り巡らせていく。
そうしているうちに、宿屋から影が一つ近づいてきた。リリスだった。
九尾たちの姿に気づいた彼女は、両腕で大きく丸を作った。
「どうやら宿屋の主人の方は首尾よくいったようだな」
九尾は、よくやった、とリリスに親指を立ててみせた。リリスは、丸を作った格好のまま、満面の笑顔でぴょんぴょんと小さく飛び跳ねた。
「かわいい」「かわいいな」「かわいいですねえ」「なんでアイツに彼氏ができなかったんだ。魔界の男無能すぎるだろ」「違うな。いつできてもおかしくなかったのに、本人がその事実に気づかなかったのさ」「あ、コケた」
両腕を挙げていたせいで受け身も取れず盛大にコケたリリスは、ドレスについた土を払いながら、恥ずかしそうにキョロキョロと辺りをうかがった。
「見ろ、アラクネ。あれが、日々我々が求めてやまない女子力という奴だ。お前にあの芸当ができるか。何もないところで、あざとさのかけらもなくコケることができるか」
「それを聞く前に、アタシの足が何本あるかまず言ってみな」
リリスがアラクネたちに合流すると同時に、宿屋の玄関に灯りがともり、中からランプを手に持った勇者が一人現れた。
「……っと、お喋りはここまでだ。隠れろ」
九尾の号令で、それぞれが木々の影に身を隠した。
勇者は、格好こそ寝間着に近いものだったが、腰にはしっかりと獲物を携えていた。しくじれば命はない。その事実が、全員をいやが上にも緊張させた。リリスは膝を抱え、手を胸元で組みながら必死に祈った。
草を踏みにじる音、枝を踏み割る音が、徐々に近づいてくる。
あと少し、あと少しでアラクネのトラップエリアだ。
あと、三歩。あと二歩。一歩。半歩――。
「――うわぁっ!? な、なんだこれは!」
勇者の絶叫が静寂を裂いた。「リリス、今だ!」九尾の声と共に、リリスが木蔭よりその身を翻した。
「ま、魔物っ!? くそ、やはり罠か!」
その声で今度はリリスが固まった。彼女の目の前にいるのは、アラクネの糸とライムに足下を絡め取られ身動きの取れなくなった勇者ではなく、敵意もあらわに、鞘から抜きはなった聖剣を構える姿だった。
「アラクネ、勇者は罠にかかっていないぞ!」
「んな馬鹿な! アタシの糸には、確かに獲物を捉えた感覚があった!」
アラクネは声を荒げて振り向いた。獲物を捉えたはずの自らの糸に目を凝らした。
そこに大の字になってへばりつく人影が確かにあった。
「――やあ、君はやっぱり僕の通り道に罠を仕掛けるんだね。いけないスパイダーベイビーだ……」
「が……ガーゴイルーーーーーーー!?」
糸にまみれ、下半身はライムにがっちりと固められながらも、ウィンクを飛ばすガーゴイルの姿にアラクネは絶叫した。勇者は網に引っかかったのではなく、網に引っかかったガーゴイルを見て声をあげたのだ。
「テメェクソカスゴミゴイルが! この肝心なときに何してくれてんだ!」
「だって君があまりにもボクに構ってくれないからついさびしくてふごごごごごごげふっ!」
アラクネは喋り続けるガーゴイルの全身を糸で覆い、樹上に吊して一蹴り入れた。
「九尾、リリィ、失敗だ! 罠にかかったのはゴミだ、勇者じゃねえ!」
「もう遅い、リリスは降りてしまった!」
アラクネの視線の先に勇者と対峙するリリスの姿があった。お互いが事態を飲み込めず、立ちすくんでいる。「ちィ!」アラクネは咄嗟に、勇者に向かって糸を吐きかけた。
「く、まだ他にもいるのか!」
糸に絡め取られまいと剣を振り上げたその瞬間、勇者の腕にライムが巻き付いた。「なに――」突然の出来事に勇者の判断が鈍る。その一瞬の隙をついて、ライムが勇者の手から聖剣を奪い取った。
「でかしたライム! そのままその剣溶かしちまえ!」
「無理です、かたすぎるし、おいしくない!」
「後半はお前の個人的な好き嫌いじゃねえか! 溶かせないならせめてどっか遠くに持って行け!」
「おーもーいー……」
ずりずりと聖剣を抱えたまま這いずるライムに、勇者が腕を振り上げた。微かな詠唱ののち、その手の中に火炎が渦巻く。「させるか!」再びアラクネが糸を吐く。糸は勇者の腕を後ろに縛り上げ、身動きを封じた。
「今だ、リリス! 魔眼を――」
稲妻が落ちるような大轟音がアラクネの声を遮った。
宿屋の方から巨大な火球が放たれ、身を隠していた並木が、一瞬のうちに、巨大なスプーンで抉られたかのようになぎ倒された。
「勇者、大丈夫か! 村全体に妖術が掛けられている、魔物が近くにいるぞ!」
賢者の声だった。全身の血が凍るような恐怖がアラクネを貫いた。
最悪の事態だった。
勇者だけならまだしも、賢者まで来られてしまっては、他の仲間が気づくのも時間の問題だ。「九尾、どうする」言うが早いか、九尾が地を蹴って走り出した。
「妖狐・九尾――お前が妖術の元凶か!」
「そうだよ。ところで、少し私とお話しようか」
九尾の瞳が一際怪しく光った。賢者が解呪を試みるより早く、それは賢者の四肢から力を奪った。九尾は賢者の背後に回り、彼を羽交い締めにした。
「リリス、早く魔眼を! 妖力の全てを賢者の動きを封じるのに使っている、術の解けた村の住民が間もなく目覚めてくるぞ、急げ!」
「は、はいっ!」
リリスは糸に絡め取られた勇者の元に駆け寄った。だが、そこに勇者の姿はなく、あるのはただ力任せに引きちぎられたアラクネの糸だけだった。
「動くな」
リリスの背後から鋭い声。勇者だった。
「あんなもので僕を縛っておけるものか。お前らは何だ、村の人たちに何をした。何が目的だ。言え!」
背後に聖剣の切っ先を突きつけられ、リリスは立ちすくんだ。頭の中は真っ白だった。並木のなぎ倒される音で目を覚ましたのだろう、家々に次々と灯りがともった。宿屋から複数の灯りが、こちらへ向かってくるのが見える。勇者の仲間たちだ。
絶体絶命、その言葉だけがぐるぐると脳裏を巡った。
「うおっ――」勇者のうめき声と共に、聖剣の切っ先が外れた。腕にアラクネの糸が巻き付いている。――今だ。その間隙を縫ってリリスは身を翻し、勇者に向き直った。
瞳に魔力を込め、勇者の眼を覗き込んだ。
「――ダメだ、目を閉じろ!」リリスの意図に気づいた賢者が声を荒げた。「魔眼を使われるぞ、目を、いひっ、目を閉じ、あヒぃ! くそ、おい魔物、お前どこ触ってんだやめ、あひぃやめて鎖骨舐めないで鎖骨! 勇者、僕に構わずそいつをアヒっ、アヒヒィー!」
「リリス、早くやってしまえ! 私のことは気にするな、私は大丈夫だ! というかだいぶ充実している! だからやれ!」
リリスは、きっ、と唇を結んだ。
そうだ、やらなきゃ、私が魔眼で勇者さまを操れれば、彼を人質にして、この場を逃れることが出来る。やらなきゃ。勇者さまを、いつもやっているように、私の支配下におくんだ。意志を曲げ、理性を失わせ、私の忠実な配下に――。
リリスの瞳の中に灼熱が逆巻いた。全てを飲み込むそのマグマの渦が、一際大きく波打った。しかし――。
「だめーーーーーー!」
リリスの悲痛な絶叫がこだました。
その場にいた全員が、感電したように動きを止めた。
「だめ、だめ、だめ、そんなのだめ! 確かに魔眼なら、私の願いは叶えられる。でもそんなのだめ、そんなの、私の望んでいることじゃない! ――勇者さま!」
リリスは、呆気に取られる勇者の胸元に身体を滑り込ませ、ぐいと顔を寄せた。
「今だけ、この瞬間だけで良いんです。わ、私の話を聞いてください。魔物じゃなく、あなたの敵じゃなく、一人の、女の子として、泣き虫で、意気地無しな、女の子として話を聞いて下さい。私、あなたのことが好きです。大好きです。魔王様から、あなたは魔族の敵だと聞いています。あなたが、魔王様を倒すために旅をしているのも知っています。けれど、好きなの。どうしても、魔眼なんかに頼らないで、それだけは私の言葉で伝えたかったんです。好きです、勇者さま――」
リリスは固く目を閉じ、そのまま勇者に唇を重ねた。
「ばっ、リリィ、何やってんだ、離れろ、逃げろ! 殺されるぞ!」
アラクネが叫んだ。
リリスは名残惜しそうに勇者から唇を離し、そして儚げに微笑んだ。
「……ごめんなさい。けれど、話を聞いてくれて、うれしかった。私の命はどうなってもいいけれど、アラクネさんたちは――見逃してください。彼女たちは、私の、ワガママに付き合ってくれただけなんです。私の、とっても、馬鹿馬鹿しい、ワガママに。だから、どうか、お願いします」
「君は――本当に、それだけ言いに、ここに来たのか」
リリスは静かに頷いた。
「……そうか」勇者はそう言うと、剣を振り上げた。リリスは祈るように手を組み、俯いた。しかし刃が彼女に届くことはなく、闇に微かな閃きを残して、そのまま鞘へと吸い込まれていった。
「――えっ?」
「僕は、勇者だ。確かに、君らの敵かもしれない。でも僕の旅の目的は、魔王を倒すことじゃない。世界に光を取り戻すことだ。そのために、魔王を倒さなければいけないだけなんだ。本当なら、僕は誰も傷つけたくはない。悲しませたくはない。だから、その、なんだ、君が……そういう風に、僕を、思ってくれてるのなら、僕としても……えっと、君みたいに、かわ、かわいい子、を傷つけたくはない。……っていうか」
「えっ。じゃあ、勇者さま、それじゃ、私と――」
「いや、でも、恋人とかそういうのはダメだ! いやダメじゃないんだけど! まずはその、お互いのことをもっと良く知るべきだと思うんだ、だから、とりあえず、友だち、としてなら、全然――んむっ!?」
勇者の口は再度リリスによって塞がれた。
騒ぎを聞きつけた村人も、駆け寄ってきた勇者の仲間たちも、アラクネも、九尾も、ライムも、リリスからマシンガンのようなキスを浴びせられている勇者を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
*
「――で、魔王軍を抜けたいと、そう言っておるわけか」
リリスはすとんと頷いた。魔王は天を仰いで長い溜息をついた。
「いーじゃんよ魔王様。リリィの願い聞き届けてやれよー。つーか世界征服とかやめよーぜ。人間と共生してきゃいーじゃんか、なあ九尾ィ?」
「私は賢者さまと、白い庭付きの一戸建てに住めればどうでも良いのだが、まあ、勇者側がそういうスタンスでいる以上、魔族の士気が落ちるのは仕方ないのではないかな」
「いや、お前ら勝手なことを言っとるが。ワシが言いたいのはそういうことでなくてね……」
「私からもお願いします、魔王様」
「お前は何なのよ。お前はスライムじゃろうが。序列的に一番下なのに、なんで一番発言力あるみたいに振る舞っておるんじゃ」
「す、すいません、魔王様」リリスが一歩前に進み出た。「とても、魔族にあるまじきお願いをしているというのは、重々承知しています。でも、私、これ以上自分の気持ちに嘘はつけないんです。どうか、お願いします……」
「いや、だから、あのね? 理由はどうあれ、お前らがいなくなることは、まあ、ぶっちゃけ構わんといえば構わんのじゃよ。代わりがいないわけでもないし、これまでよく働いてくれた、ってのもあるし。でもね、ワシが言いたいのはそこじゃなくてね、えーと……」
魔王は心底呆れたというように、目頭を押さえて首を振った。
「なんで、それを言うためだけに、勇者たちまでワシのとこに連れてきちゃったの? ってことなんじゃが」
「えっ」「あっ」「あ、そうか」「あー……」
一滴の血も流すことなく魔王は降伏し、世界に光が戻った。