「Xの2乗イコールYであるから……」
広岡先生の声と共にカッカッカッとチョークが黒板にあたる音が静かに教室に響いて行く。
しかし、ヤスシの耳には入っていかなかった。
(かっぱえびせん……)
ヤスシの頭の中は今、かっぱえびせんで8割方埋まっていた。
(かっぱえびせん。嗚呼、かっぱえびせん……何故、僕をこんなにも苦しめる)
それは、昨日のことだった。
ヤスシは、親友のキヨシの家に遊びに行っていた。キヨシとは小学校以来の腐れ縁である。
「ヤスシ、サブプライムローンってヤバくねぇ?」
「あー、チョーヤバいよね」
と、いつもどおりに時事問題に花を咲かせながら、二人はかっぱえびせんをパクついていた。
「ていうか、マジ、やめられなくねぇ?」
「とまんなくねぇ?」
『カル○ーかーっぱえびせーん♪』
アハハアハハと二人で馬鹿笑いしてたのだが、突然、ほぼ同時に笑いが止まり、えびせんがパラパラと手からこぼれ落ちていった。
先程の明るい雰囲気は何処へやら、二人とも顔が蒼褪め、重々しい空気がキヨシの部屋を包みこんでいった。
「ごめん、キヨシ……俺、そろそろ帰るわ」
ヤスシが重い腰を上げると、キヨシは下を向いたまま答えた。
「ああ……気をつけてな」
ヤスシは、一目散に家路を急ぎ、家に着くとすぐに布団にもぐりこんでしまった。
キヨシは母親の晩御飯に呼ぶ声にも答えずに、暗い部屋の隅っこで電気もつけずに膝を抱えたまま動こうとしなかった。
そう、彼らは気付いてしまったのだ。
10年以上食べ続けていた、かっぱえびせん。いつもおいしく食べていたかっぱえびせん。おやつの定番かっぱえびせん。そのかっぱえびせんについて何も知らなかったことに。そして、疑おうともしなかった己自身の甘さに。
「かっぱえびせんの“かっぱ”って何?」
そう、それから現在に至るまで、ヤスシの頭の中はこの疑問に支配されていた。
(“えびせん”は、判る。どう考えても、えびせんべいのはずだ。しかし、“かっぱ”って、“かっぱ”って何だよ!! 何なんだよ!!)
昨日も碌に眠れなかった。ヤスシはなんだかもう泣きたいような悲しみに襲われたが、ふと視線を右上に投げると、その悲しみは吹き飛んだ。
そう、その席に座っているはずのあいつがいない――それはもちろんキヨシである。ヤスシには分かっていた。キヨシの気持ちが痛いほど解っていた。
(あいつのことだ、相当苦しんだに違いない。そして、学校に来れなくなるまで……馬鹿な奴だ。皆勤賞までパアにしちまいやがって……)
なんとしてもこの謎を解明する!! 長年つるんできた相棒を救うためのそれがただ一つの手段であった。
(かっぱ……かっぱ……かっぱ……合羽? ああっ、かっぱえびせんって、“合羽えびせん”だったりして。……それは流石に無理があるか……ん? まてよ、あの形……ひょっとして雨合羽をギューっと絞った形なのでは?)
すると黒板に数式を書いていた広岡先生がクルリとヤスシのほうを向いてこう言った。
「ヤスシ、それ、やっぱり無理がある」
「ですよねー」
ヤスシが顔をあげると広岡先生は何事もなかったように黒板の方を向いて数式を書いていた。その後、広岡先生は決して振り返ることなく数式を黒板に書き続けて授業が終わった。
休み時間にヤスシは教室の窓越しに空を仰いだ。空にはトンビが上昇気流に乗って楽しそうに飛んでいた。しかし、ヤスシの目には映らなかった。
(うーん、やっぱり合羽は無理があったか。“雨合羽をギューっと絞ったおいしさ”では食欲無くすよな)
そんなことを考えているうちに休み時間は終わり、三時間目の始業のチャイムが鳴った。三時間目は現国である。
現国の担当は原田先生である。原田先生は生徒の間では爆笑王の異名を持つ強者だ。今日も教室中をドッカンドッカンいわせていたが、ヤスシはそれどころではなかった。
(かっぱ……かっぱ……がっぱ……がっぱ!? “がっぱ”って“とても”とか“すごい”って意味の方言じゃないかな。とても美味しいことを“がっぱうめー!!”とかって言うんじゃないかな? 名古屋あたりで。つまり“かっぱ”えびせんって、“とっても”えびせん、“すごく”えびせんって言う意味なんじゃ!!……おお!! 核心突いちゃったんじゃないの、コレ!!)
ヤスシは授業中にもかかわらず小躍りしたい心境に駆られたが、それに水を差すように背中をつつかれた。
振り返ると後ろの席の恩田かおるが小さく折ったメモを突き出している。ヤスシは軽く会釈し、それを受け取って開いてみた。
『違うだろ ツトム
違うと思う サキ
残念 勅使河原
はずれ アツシ
おしい!!かも…… かおる
石川県では“がむしゃら”って意味。けど違うわ。 C組木戸』
(なんだ、僕の独りよがりか……)
違っていた。だけどもヤスシはみんなの気持ちが嬉しかった。振り向きたかったが、涙がこぼれそうだったのでヤスシは決して振り返らずに心の中でみんなに感謝した。
(わざわざ、C組まで回してくれたのか……俺、このクラスで本当によかった。みんな……大好きだよ!!)
突如、クラス愛に目覚めたヤスシであったが気負いすぎたのか、その後中々いい案が浮かばずに三時間目の終わりを告げるチャイムが教室に響いた。
休み時間にヤスシは再び教室の窓越しに空を仰いだ。空ではトンビがカラスと喧嘩をしていた。しかし、ヤスシの目には映らなかった。
(“がっぱ”が敗れた今、形容詞は難しい。そうなったら、やはり名詞なのか? しかし、そうなると……すでに合羽のカードを切ってしまったからこれは難しいぞ)
悶々としているうちに休み時間は終わり、四時間目の始業のチャイムが鳴った。四時間目は日本史である。
「ええと、今日は薩長同盟からだったな……」
日本史の担当は谷先生である。谷先生はかなりの歴史マニアで授業が脱線するのが常である。しかも、今回は先生の大好きな坂本竜馬の話題である。谷先生の話は次第に熱を帯びだした。
「“薩長がいがみ合っている場合ではないぜよ!!”と、竜馬は喝破したわけだが……」
その一言を聞いたヤスシの体に電撃が走った。
(喝破!!そうか、そうなのか?ひょっとしたら、“喝破”えびせんなのか!!)
「ヤスシ!!」
「はい!?」
谷先生の突然の指名にヤスシは思わず立ち上がった。
「お前の考えを聞こう。一体、喝破えびせんは何を喝破しているんだ?」
「それは――」
ヤスシは思わず声を呑んだ。いつもの谷先生ではない。こんなに真剣な谷先生を見るのは初めてだった。
「それは、もちろんえびせんをです。従来売られているえびせんは本物のえびせんではない。これこそが本物のえびせんである!! とカ○ビーは喝破したわけです。そう、先生の好きな竜馬のように日本の菓子産業の夜明けを高らかに叫んだのです!!」
「チェスト!!」
突然の谷先生の喝は凄まじく、教室の窓ガラスがビリビリと震えるほどだった。
「ここが幕末の京都だったら、お前はとっくに新撰組に斬られているぜよ!!」
「ええっ!! 先生、話のスケールが大きすぎたことは認めますが、そこまで言わなくても……」
「わかっちゃいねぇ、わかっていねえぜよ、若人!!」
「……」
そういうと谷先生は黒板に大きく次のように書いた。
『1955年 かっぱあられ発売』
「覚えとけ、そして忘れるな。かっぱえびせんはかっぱあられシリーズ最後の製品ということを!! 期末に出すぜよ!!」
それを聞いた生徒たちは一斉にノートを取りだした。ヤスシはハッとして顔をあげると、終業のチャイムが鳴った。
「それでは今日はここまで!!」
谷先生はそう言うと教室から出て行った。
「先生、ありがとう!! けっして忘れません、あなたの教えは。覚え方は“いいきゅうりGOGO! かっぱあられ”でいいんですよね?」
ヤスシは慌てて廊下に出て、去りゆく谷先生の背に問いかけたが谷先生はけっして振り返ることなく階段の方へと消えていった。
昼休みである。
教室に戻ったヤスシは弁当を広げたが、とても食欲はなかった。
(ふぅ、やっぱり僕には真実は解明できないのか?嗚呼、このままでは僕はネットカフェ難民だ……誰か、誰か僕に真実を教えてくれないか!!)
その時だった。それまで流れていたお昼の放送のクラシック音楽が突如止まり、ヤスシには聞き覚えのある声が校内中をジャックした。
『ここで急遽お便りの紹介です。二年B組のヤスシくんからです。
“カナコさんこんにちは”
ハイ、こんにちはー。
“今日はカナコさんに質問があります”
ええっ? 何かなー?
“僕は子供のころからかっぱえびせんが大好きなのですが、最近気付いてしましました”
うんうん、何に気付いたのかな?
“それは、かっぱえびせんのかっぱって一体何? ということです。生き字引のカナコさんだったら知っていると思って投稿しました。ぜひ教えて下さい。”
生き字引って、あたしゃ婆さんかい!! ヤスシ君、後で体育館裏に来てね♪』
「かっカナコ!?」
ヤスシは思わず叫んだが、みんなの笑い声でそれは掻き消された。
『ふんふんなるほどー。これは一度は通らなければならない大人の階段的質問だねー。はい、それではヤスシ君の青春の悩みにお答えしましょう』
ヤスシの喉がゴクリと鳴った。それと同時に教室は水を打ったように静かになった。
『かっぱは頭にお皿のあるあの伝説の動物のことだよ。昭和20年代に清水崑さんの“かっぱ天国”という漫画がはやっていたんだって。そのころカル○ーでは清水氏に依頼してかっぱのキャラクターを製品のパッケージに描いてもらって、“かっぱあられ”シリーズとして売り出しましたとさ。かっぱえびせんは、そのシリーズ最後の製品なんだって。1964年の発売当時からパッケージはえびを主役にしているから、かっぱの絵ではなくなっていたんだけど、名前だけが今でも残っているということです。ヤスシ、わかった?』
「カナコ、ありがとう!!」
『よかった、早くキヨシ君に教えてあげて!!』
「わかったよ、行ってくる」
『ヤスシ、ちょっと待って!!』
「どうした?」
『私、かっぱえびせんもヤスシも大好きだよ』
「俺も……」
この時、今まで二人の行く末を見守って静まり返っていた教室に爆発的な歓声が沸き起こった。
(しまった、学校だった!!)
ヤスシが気がついた時には手遅れだった。
「よっ、お二人さん!!」
「アツイ!! あつーい!!」
「ヒューヒュー!!」
「カナコって誰だー?」
「彼女、どこのクラス?」
クラスメイトからの様々な冷やかしと質問を一身に受けてヤスシは顔を耳まで真っ赤にしながら逃げるように教室を出た。
(あれ、そういえばカナコって何組だったけ?)
一抹の疑問がヤスシの頭に浮かんだが、キヨシの喜ぶ顔が浮かんできてそれはすぐに消えてしまった。
ヤスシが校舎から出ると学校中の教室から大歓声が沸き起こった。ヤスシはその歓声に答えるべく校舎の方に振り返ろうとしたが、その時ヤスシの視界に一匹のトンビが入ってきた。トンビはヤスシの頭上を2回旋回するとある方向に向かってゆっくりと飛んでいく。
(……キヨシの家の方向だ!!)
ヤスシは決して振り返ることなく、まるでトンビに導かれるようにキヨシの家へと走って行った。
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