宵の口を遥かに越えても、駅の構内は雑然としていた。赤提灯の店で一杯ひっかけた風体のサラリーマンが目立つ。その群れの間を縫うように靴音をたてる男もまた、グレーの背広で身を固めるサラリーマンだった。
駅を出ると円形の道路が夜空の下に現れた。バスのロータリーだ。近くには終電過ぎという時間もあり、必然として同じ目的を持つ職業車が何台も連なっている。
男は軽く酒を呑んでいた。とはいっても足取りは確かで頬も上気していない。男はタクシー乗り場に向かい、やはり必然的に一台の車中へと乗り込んだ。それはごく自然の当たり前の行動だった。
シートに深く座り、男は瞼を閉じて一息つく。そして目的地を運転手に告げようと視界を開けた時、男は目を疑った。料金メーターの隣り、運転する者が座るはずのそこに――
――人間並みに大きい猫がいたからだ。
『(な、何故、猫が……)』
白の地に黒と茶がまだら模様を形成している。つまり三毛だ。やはり猫背なのか、その猫は丸く屈んでハンドルを握って(そう男に見えた)いた。
『…………』
幻覚を見るほど呑んでいない。そのことを男は自覚していたし、酔っ払っていない自信もあった。しかし……猫は猫だ。運転席に当然のように居座る三毛猫は、唖然とする男をよそに口を開いた。
『お客さん、どちらに向かいましょうか?』
『あ、ああ。ええと○○町まで……』
咄嗟に答えてしまって、男は焦った。いや、焦っているのは目的先を誤って伝えたからではない。猫が短く『ニャ』と頷いて、タクシーを静かに発車させたからだ。
『びっくりされたでしょう、お客さん』
それはそうだ。驚かない方がおかしい。驚く方が自然ではないか。そう思いながらも、男は相槌を打つのをためらった。
『いいですよ、何でも聞いて頂いて。そうゆうお客さん多いですから』
猫はこの状況に慣れているようで、申し訳程度にかぶる帽子を真っ直ぐ整えながら、男に質問を求めた。
『あ、ああ、ええと……じゃあ君は本当に猫なんだね?』
『何に見えますか』
『猫だね』
ピンポーン、と体を揺らして猫は明るい声を上げた。世の中には不思議なことが多い。とはいえ、男の脳裏を掠めたのは至極、現実的な考えだった。
どこかにTVカメラがあるのではないか? その種のいたずら番組を、男は見たことがあった。猫の顔はアニメーションにあるように、目が大きく、ヒゲは書いたように短かい。最近では目につかない小型のカメラもあるし…… そこまで思考を進めると、男は平静さを取り戻した口調で猫に話しかけた。
『色々と大変だね。ええとそれで、私は何かリアクションをとった方が良いのかな?』
『ああ、やはりそう思われますか。でもTVじゃないんですよ。まあ勘違いされるのは当然ですけど』
『はは‥しかし、ねえ。そうは言っても』
まだ茶番を続けるつもりなのか。確かに精巧に作られたCGのような着ぐるみだが、ネタが割れた以上、説明に入っても……と、男が口を開こうとしたが、唇の回りではなく、目の方の筋肉に、脳の指令が伝達してしまう。
――無い。着ぐるみなら背中などにあるはずの、ジッパーの類が見当たらないのだ。
『(まさか本当に猫だというのか……)』
気付かない内にメルヘンの真っ直中に放り込まれたような、そんな錯覚を覚える男。しかしそれでも男は現実世界に戻ろうと、焦り出した呼吸を静めた。
『ええと、分かった。確かに君は猫だ。うん、そうらしい。しかし何故、タクシーの運転を?』
『そりゃあ生活のためですよ。家の可愛い妻と子供のために、稼がなきゃなりませんから』
ニャッはっは、と猫は口を開けて陽気に(そう男には見えた)おどけた。
『あ、いや、そうではなくて。その……君が運転手をしている必然性が、どこにあるのかと思ってね』
『必然性……ですか。そうですね〜 別に必然性は無いですね』
そうだろうと男が頷く。
『別に運転手じゃなくても良かったんですよ。食べていけるなら俳優でも、何でもね。ただ資格が車の免許しかありませんでしたから』
『免許?』
『ええ、普通自動車、猫運転の免許です。公安委員会発行の確かなものですよ』
何が確かで不確かなのか。それはともかく、猫の言う通り料金メーターの隣りに、免許証は堂々と飾ってあった。公安委員会のみならず、職業動物委員会の認可も受けているようで、赤い印が眩しい。
『それなりに苦労しましたよ。でも教官には良いドライバーになれると、お墨付きを貰いましたっけ』
猫の言葉の説得力を増すように、タクシーは滑らかに道路を進んでいく。
『だからというわけじゃありませんけど、今は運転手をやってるんですよ』
『なるほど、ね』
『言ってみれば猫である僕と、タクシーの運転手である自分は矛盾することなく、必然性もなく、並列的に存在してるということですかね』
『並列的、か』
『そう並列的に』
なるほど、と男はもう一度呟いた。猫の運転はスムーズで上手だった。静かであり丁寧で、一度の急ブレーキもなかった。煙草も吸わず、ラジオの音量を不必要に大きくもしない。クラクションはほとんど鳴らさないし、しかるべき時に他の車に道を譲った。割り込みもしない、繊細で着実な運転。愚痴もこぼさず、男の感情を無視してペラペラとしゃべることも無かった。
なんとなくこれがあるべきタクシーの運転手の姿だと、男は感じた。そう思わせるに充分な運転だった。
気がつくと、男の目に見慣れた自宅が入ってきた。
『こちらでよろしいですか?』
『うん、ありがとう。とても快適だった』
料金を払い、男はタクシーを降りた。にっこり(そう男には見えた)と猫は笑い、静かにタクシーを発進させた。
――数日後。
昼時に当然、昼食をとろうと入った、ある洋食店で、男は犬のウエイターに出会った。
『いらっしゃいませ』
犬は礼儀正しく、慇懃に男を迎えた。注文の取り方も、水の入ったグラスの置き方も申し分のない犬だった。だが男は気にしなかった。犬がウエイターである必然性は無いのだが、彼はまさしくウエイターだったからだ。
『ふむ……』
ウエイターのあるべき姿、そう男は瞼を閉じた。それは必然性など、まるで必要がないと真から頷く、男の姿だった。
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