其の二
僕の名前は八橋。この物語の主人公だ。
突然だけど、僕は今死の淵に立たされている。目の前には底が見えないほどの崖。一歩踏み出すだけで真っ逆さまだ。それにここは細く突き出た崖なわけで、他に逃げ道はない。
「どうしよう……」
悩む僕の前に……『鬼』が現れた。
「もう逃げられないわよ」
僕を見て微笑みながら近付いてくる。一人の少女。
『鬼』。正確には彼女は僕と同じ人間なのだけど……
「ま、待って! 花纏! 落ち着いて!」
少女――花纏――は僕の数歩前で立ち止まる。にっこりと微笑んでいるけど、僕は騙されない。
「八橋……」
花纏は静かに僕の名を口にする。
「往生際が悪いわよ」
空気が変わる。体温、いや大気そのものが二、三度下がる……
来る!!!
「蛮花――」
花纏が呟くと同時に僕は地面を蹴る。花纏の攻撃を避ける為だ。でも、違和感がある。触れた感触がない。見ると、僕の足元には底の見えない穴が広がっている。どうやら花纏の目的は僕ではなく、僕の足元の地面だったらしい。支えを失った僕の体はゆっくりと加速を始める。視界がスローになる。その中心で、少女は相変わらず微笑んでいて、僕は自身の死を覚悟した。
空が遠くなる。
突如、僕の体が謎の上昇を始める。
「うわっ!?」
気付けば既に少女よりも上空に浮遊している。そして、緩やかに着地した。
「助かった……」
安堵の表情を浮かべる僕の後ろには花纏の父、不亜さんが立っていた。
「危なかったね。八橋さん」
甘く柔らかな聞き心地の良い声が辺りを優しく包み込む。
「お父様ーー!!」
花纏が駆け寄る。というか飛びつく。不亜さんにしがみついた。
「また八橋さんに迷惑をかけたね」
不亜さんは花纏の髪を撫でながらこちらを向く。花纏は大変、満足そうに目を細めている。こんな風にしていれば可愛いだけど……
「いや、対したことありませんよ。」
「そうよ。八橋が崖から落ちるのなんかいつものことよ」
花纏が本当に何でもないように言った。崖から落ちれば結構危ないのだけど……
「そうなのかい?」
不亜さんが首を傾げた。僕は本当に毎日のように崖から落とされ……いや、落ちる。
「まあ……そうですけど」
僕は自分で言っておきながら泣きそうになった。これはいじめだ。
「それでも…人に迷惑をかけちゃ駄目だよ」
不亜さんは花纏を抱き上げた。
花纏は渋々といった感じで
「ごめんなさい」
と言った。
あ、可愛いなぁ。
とか思ったりしたけど、花纏が不亜さんの隙をついて頬を抓るから、直ぐに考えを改めた。
「どうしたんだい」
「なんでもないよ」
花纏ちゃん。何でも無くはないよ。僕のほっぺは大分腫れてしまったよ。痛くて堪らないのですけど。
といった不満を必死に堪えて微笑む八橋なのでした。 |