【夢噺 参】 流天
……その日は確か、雨が降っていたんだ。
俺は何かを見下ろしている。本当は大事なモノを、まるでゴミのように、見下していた。
静かな……とても静かな夜。辺りには音なんて無くて、壁に掛かった時計が針を動かす些細な音だけが世界を制しているようで、―――どうしようもなく気分が良かった。
俺はその時、泣いているみたいだった。視界がグチャグチャで、世界の全てが歪んでいた。時計の針の音を覆い尽くすように、高鳴る鼓動が煩い。それも、少しずつ納まっていくのが分かる。―――同時に、俺は自分がやった事を少しずつ理解していく。それが怖くて、俺は涙を拭いもせずに、ただ現実を見下ろしている。
赤い物体が横たわっていた。動く気配は無い。生き物じゃないらしい。ただ、赤くて醜悪な物体。……吐き気すら覚えそうな光景なのに、俺がその時感じた感情は―――達成感。やっと成し遂げたというある種の高揚感を伴って、その光景を見下ろしている。
……どうして、わたしだけ?
不意に生じる心の歪み。俺は認めたくないのに、認めざるを得ない現実を突きつけられ、少しずつ壊れていく。
どうして俺がこんな事をしなけりゃいけなかったんだ? ……そう、嘆いていた。どうしようもなく、嫌というほど泣きながら、俺は嘆いていた。どうして俺だけがこんな目に。
「……ふふ」
笑声の許を知りながら、俺はそこには視線を向けない。ただその場で泣きじゃくり、嗚咽を漏らし、立ち尽くす。
「おまえは本当に、―――運が良い」
……運が、良い?
俺はその言葉を反芻し、声の主にようやく視線を向ける。男。お父さんよりもまだ若い、青年と呼べる年頃の男。そいつが、柔らかな微笑を湛えて、俺を見据えている。
「そうだ。おまえ程、運が良い奴も、そうはいまい」
……運なんて、良くないよ。もう……こんなの、イヤ……っ。
「自覚しろ。おまえは運が良い。運が良いからこそ、親を殺せて尚、罪を咎められない。俺がこの場に居合わせた時点で、おまえは最大級の強運の持ち主だ」
……違う。わたし、そんなの、そんな運なんて持ってない……!
「認めないのか? ……直に分かるはずだ、自分が極上の運勢の持ち主だという事に。ここで終わりたくないのなら、俺に付いて来い。生きる術を教えてやる」
……俺は、正直こいつに付いていきたいとは思わなかった。だが、俺はどこかで理解していた。俺は、運が良い。俺が生きている時点で、その根拠は立証される。
肉親に嬲られ、隣人に犯され、他人に詰られ……それでも俺は生きている。俺は、運が良いから今も生きている。それだけの現実を乗り越えてきたからこそ、俺はその事実を認められる。俺は、運が良いんだ。
横たわる親の死体を見ても、最早感情は湧かない。これは、俺の性能を気づかせるために用意された配役でしかなかったんだ。俺は、これからようやく生き始める。今までは、生き始めるための試練だったんだ。それを乗り切れた俺は、どうしようもなく運が良かった、それだけに過ぎない。
俺は男の後を追い、現実から去りゆく。俺はきっともう、正常には戻れないと知りながら―――
ぐじゅ。
視界が真っ赤。胸が灼熱して痛い痛い痛い―――ッッ!
「――――がッ!」
強烈な目覚ましが胸で掻き鳴らされて、俺は一切の余韻も残さずに覚醒した。
痛い! 胸がいたたたたいぃぃぃぃ!
「っづッ、なん、だッ、これ……!」
まだ視界は夜闇に閉ざされ、ほとんど視野が利かない状態だったが、それでも激痛は留まってくれる気配皆無。何だ何だ何だッ!?
起き上がり、胸に指を這わせる。……何だか生温い感触が在り、同時に灼けるような痺れが全身を駆け巡る。
「〜〜〜ッッ!」
いつの間にか誰かに傷を負わされたんだと、俺の弱い思考がようやく終着点に至る。
くっそ、誰だよ何の断りも無く袈裟懸けにしやがる阿呆は……! しかも寝込みを襲うたァ良い度胸だコノヤロウ!
ただ、闇夜には動体が一切見当たらず、月が見下ろす世界には、血塗られた惨状しか映らない。
……少しずつ記憶が蘇ってくる。そうだ、俺は確か……参加者の一人、飛島茅夏を殺ったんだ。そこから記憶を辿ると―――
「たっ、助けてくれェェェェ!」
「化物ッ、バケモンだァァァァ!」
「ひッ、ひぎゃああああああ!」
最早戦場と呼べる状況じゃなくなったのは憶えてる。俺がそうしたんだ。俺が〈不死〉だって事を口外されたら困る。非常に困るので―――当事者全員、死人に口無しになってもらう事に決定した。
その時には、既に意識なんて在って無いようなモンだった。ただ殺した。殺せるだけ殺した。映るモノ全て―――殺し尽くした。逃げ惑おうが、咽び泣こうが、一切構わず、一人残さず屠殺した。誰も逃がす事なんてできない、誰も生かす事なんてできない、誰にも知られる訳にはいかなかった。ただひたすら拳銃を振るい、短機関銃を薙ぎ、短刀を切りつけた感覚は、夢心地で憶えている。あやふやな記憶のツケが今、実際問題として現状に君臨していた。
「あー……これ、全部俺の仕業か」
生存者ゼロ。いたとしても重傷者に違いない。……コレを、俺が。……思わず目眩がしそうになったが、何とか踏み止まる。
―――ズキリ。
胸が軋む。
「ッッつってーよ、じゃあ何だコリャ!? ここにはゾンビでもいんのか、おあ!?」
生きてる者が一人もいねえ墓場で、何で俺はこんな綺麗に袈裟懸けされてんだよ!? 訳が分からない―――はずだったが、不意に思考が閃いた。
―――あのバカ。どっかでヘマしやがったな。
憎しみの対象である可愛い女の顔を思い出して、思わず反吐が出そうになる。くそ、何だこの運命共同体っぷりは。あいつがヘマする度に、俺は謂れの無い激痛に苛まれるって酷過ぎねェか、おい。
立ち上がり、ふらつきながら夜の墓場を移動する。呻き声が聴こえないのは、完全に昇天してしまった証か、或いは俺を恐れて息を潜めてるのか。どっちにしろ、今の俺には確かめようの無い事だった。俺の意識は完全にあのクソアマに注がれていたからだ。
さっさと屋敷を出ようとして―――自分に視線を下ろす。……あり得ない。確か昼にも全身血塗れになったけど、ここまで酷くは無かった。何だコレ、最早服じゃねェじゃん。ただの布切れだ、しかも赤黒い箇所しかないって酷過ぎだろ。こういう色の服ですって言っても通じそうなほど染まってやがる。極彩色もここまでくるとカッコいいかも知れない。
誰もいないであろう屋敷に忍び込み、箪笥を物色する。流石日本家屋、衣類は着物しかない、ってンな訳在るか! どんな家だここは!? 本気で着物しかないのか? ……仕方なく、着流しを一着手に取り、適当に着替えて外へ出る。靴は流石に使えるけど……探しても多分、草履か下駄しかないと思う。凄い家だここは。絶対に住みたくない。
これからする事を考えると得物が必要だと思い、屋敷を物色してみた。あらビックリ、拳銃とか短刀とか色々な違法物がオンパレード的に出てきた。取り敢えず使えそうな拳銃二挺に、短刀を一振り腰に差しておく。これ以上欲張ると碌な眼を見ない気がしたのだ。
着流しに着替える時に傷を見たけど、……綺麗な傷だ、と惚れ惚れした。もう少し切れ込みが深かったら、確実に死んでた。辛うじて薄皮一枚何とか避けた感が在るけど……どうにも間一髪的な感じがして仕方ない。痛みは動いてる内に和らいできたけど、決してキルトが死に掛けているんじゃないと信じたい。取り敢えず俺は死にたくない。
包帯を巻くとサラシのような姿になった。別に誰かに見られる訳じゃないから、その上に着流しを羽織って外へ出る。深夜も丑三つ時に差し掛かった頃だろう、濃い夜の匂いが漂い、辺りには闇が跋扈していた。
屋敷を出て、―――さてどこへ向かおうかと思った矢先、
「―――断花屋敷へ行け」
「―――――ッッ」
飛島家の門に、男が背を預けて立っているのが眼に入った。夜でも目立つ白衣の男。雰囲気は、どこかキルトに似ている気がした。
「……誰だ、あんた」訝しげに間を取り、声を掛けてみる。
「……〈進行役〉に興味は無い。おまえの目的は、全員の殺戮だろう」
白衣の男は低く澄んだ声で呟く。聴こえない訳じゃない、聴き取り難い訳じゃないのに、俺は何を言ってるのか分からなくて聴き返してしまう。
「何言ってんだ、おまえは?」
「〈極運持〉―――逢魔殺人なら断花の屋敷に向かった。……あそこには今、参加者が屯している。狙うなら今だぞ、〈進行役〉」
……参加者とか逢魔キルトって単語が出てきた時点で、こいつがゲームの参加者だという事は明白だ。だが、それならどうして俺にそんな言付けをしてくる? 理解不能の行動の裏には、割かし陰湿な罠が仕掛けられているモノだ。
「テメエの言ってる事は訳分かんねェが、それが事実だって証拠はあんのか? テメエが嘘吐いてねェって、証明できんのか?」
「……一々事の真偽に拘るようでは生き残れない。……信じるか否かはおまえ次第という事だ、〈進行役〉。後は〈謀略将〉―――識沢智にでも聴けば良いだろう」
白衣の男は言いたい事を言ったのか、門から身を離し、勝手に歩き出す。
俺はその背中を見送ろうかと思ったが、そんな事ができるはずも無く、腰から拳銃を一挺抜き放つ。
「待てよ。テメエも参加者なら、ここで逃がせるはずねえだろ、えぇ? 神妙にブッ殺されろ」
「……おまえに興味は無い。それに―――急がなくて良いのか?」
う。こいつ、ムカつく位に痛いトコ突いてきやがる。
確かに、今こいつと戦ってる間にキルトが仕留められたら元も子もねえし。……ちっ、命拾いしたな兄ちゃん。今回は見逃してやるよ。
「じゃあ最後に一つ聴かせろ。―――名乗れ」
「……狂木、十式」
変わった名だな。一瞬で憶えた。絶対に忘れねえ。奴が死ぬまで脳味噌に刻み込んどいてやる。
―――ズキリ。
胸が軋むのを押さえながら、俺は狂木に背を向けて駆け出した。急げ。取り敢えず何を探せばいい? 識沢? 断花屋敷? ……どっちも知るかよ! ……ん、待てよ? 断花?
「……あの豪邸の事か?」
だだっ広い屋敷が在るのは聴いた事が在るが……こっからだと全速力でも一時間以上掛かるぞ。
待ってろよキルト。絶対に死ぬな、死んでも死ぬな! 俺が何としてでも助けに行ってやる!
俺は俺の命を守るため、夜の街を疾走した。
音の無い世界は、まるで死んだ後の世界のように感じた。
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