【宵討 参】 棺藤
その日は、小雨のちらつく一日だった。
私は雨天が嫌い、という訳ではなかったけれど、概して好きという訳でもない。その日はそういう天候で始まり、そういう天候で終わるのだから、私のような者が好き嫌いを言ったところで変わるものではないし、同時に私がそうであってほしいと思ったり、そうであってほしくないと願ったりしたところで変わるものでもないとハッキリと自覚していた。避けようの無いものとは、概して自然が当て嵌まると、その時はぼんやりと考えていたと思う。
「カンさん」と私を呼ぶ声が聴こえて振り返ると、デスクに着いていたオトさん―――音澄忠が私を見て書類を整理していた。その表情にはどこか落ち着いた趣が在る。
オトさんは一番の年長者で、ご意見番とでも言うべき立場を確保している、私達の先輩に当たる人物だった。確かに、この職場では私の方が階級は上で、私が上司で彼が部下に当たるのだが……それでも私は彼を尊敬していたし、よき理解者として付き合っていた。それはいつまでも不変的な関係だと、その時の私は、思い込んでいた。
「……カンさん、やっぱりダメだ、僕は諦めきれない」
オトさんはそう言って、私を真剣な眼差しで見つめた。私を問い詰めるとか、怒りに身を任せて怒鳴るような真似こそしないが、そこには確かに彼の強い意志が見え隠れしていた。
……オトさんが言ってる件は、事件そのものこそ解決していたが、彼は納得できないのだろう。それは夢成くんもそうだし、蛍くんも、魅織くんだってそうだ。誰も納得なんてできていない。だけど事件は一応落ち着いた。それで終わったんだとは言えないが、解決はしていた。
―――殺人事件。とある家庭で起こった集団殺人事件に、私達は首を突っ込んだ。
夫婦と二人の子供の四人家族の家庭で、夫が妻と子を殺害し、家に火を放ち自殺。……簡単な話、お粗末な一家心中だ。生き残りは皆無。妻と子は家が焼かれる前に刺殺されていると分かったし、焼失した家からは夫の焼死体と、夫の指紋付きの出刃包丁が見つかっている。
これだけ分かり易い事件にも拘らず、私達の見解は違っていた。―――これは外部犯だ。だが、警察は捜査を打ち切り、これはそこで終結した事件だった。
証拠は無い。だが、私やオトさんの調査で明らかになったのは証拠ではなく―――周りの環境だ。
夫は別に金に困っていたなど、そういう面では全く問題は無かった。ただ、職場に問題が在った。
―――彼は堅気の人間ではなかった。
何でも、麻薬を専門に扱う売人だったらしい。本人にも投薬の癖が付いていたという事は、周りの人間から証言を得ている。だが、それだけで家族を殺す理由にはならない。家庭環境が劣悪だったと言う話は聴かないし、問題が在ったという話も無かった。
では何か。―――そういう事を専門に扱う世界では、彼を始末したい連中がいた。それだけの話だった。
飛島組。この辺一帯を締める極道の人間が、彼の命を狙っていたのではないか。それを極秘裏に私達は捜査し、案の定―――肯定だった。
そういう経緯から、私達は飛島組―――その組長である飛島雪春を疑っていた。彼が殺害を部下に命じたのではないか―――と。
飛島組は警察やマスコミ関係、どこにでも太いパイプを持っていると聴き及んでいたし、何より内部の者―――私の旧友と言うべきか、はたまた悪友とでも言うべきか、鬼城という男からそういう話は聴いていた。
鬼城も、私に警告していた。この件には関わるな。碌な眼に遭わねえ―――と。
私も長年の勘、とでも言うか、そういうモノを感じて、この捜査には深入りしないと、部下にも伝えていたのだが―――どうにも、オトさんだけは納得してくれなかった。
「犯人が分かってるのに、それを放置するだけの包容力が僕には無いんだよ」
と聴いてくれないのだ。……私だって、完全に納得した訳じゃない。オトさんが言うとおり、犯人は確かに別にいるのだ。でも、それが飛島組だと、そのトップの飛島雪春だという証拠は無い。証拠は無いが動機は在る。……でも、それだけじゃ警察は取り合ってくれない。それに飛島組の関与が認められたら、最悪私達の身が危ない。それを、オトさんに分かってもらいたかった。
「……オトさん、そうは言っても証拠が挙がらなきゃ私達では手の出しようが……」
「その証拠を見つけるのが僕達の仕事じゃないかい、カンさん? そのために僕達がいるんじゃないのか?」
決して責める口調じゃないのに、私は胸が締めつけられるような痛みを覚えた。彼の言ってる事は、間違っていない。間違ってるのは私なんだ。……でも、私は部下にそんな命令を下せない。私は彼らの保護者ではないにしろ、上司なんだ。部下の命を想って何が悪い。
私はオトさんと見つめ合い、……小さく首を横に振る。
「……カンさん!」
そこで始めて激情の混じった声が飛んだが、それきりオトさんは黙り込み、……しばらくして席を立った。擦れて色の薄くなったコートを肩に引っかける。
「……少し、頭を冷やしてくるよ」
オトさんが事務所を後にして、すぐに夢成くんが僕を見上げた。
「……所長。俺らの仕事って、何だと思いますか?」
「……お願いだ、こんな事を私の口から言わせないでくれ……」
夢成くんが歯を食い縛ったのが見えて、私は胸が軋むような想いで、その顔を見つめ続ける。
「……済みません」
済まなさそうに、でも本心は隠しきれない顔で、夢成くんが俯く。コンピューターに眼を戻し、静かにキーを叩く音が事務所に響き渡る。
……悪い事をした、と私にも分かっていた。彼だって、分かってるんだ。私が臆病だという事を。それを受け入れて、……きっと上司と部下という関係を守って、言い返さない。それに私は甘んじているんだ。……済まない、そう思っても口には出せない今の状態が、辛い。
「カンさんは思い詰め過ぎよ〜。もうちょっと私達の事を信用したっていいじゃないですか〜」
魅織くんが背伸びをしながらそんな事を呟いたのが聴こえた。そちらを見ると、魅織くんが穏やかな微笑を浮かべて、こちらを見つめていた。
「私達、まだ一人前に見えないかも知れないですけど、それでも一端の棺藤探偵事務所の一員なんですよ? ここにいるって事は、それだけの覚悟が在るって事です♪」
「……ありがとう。でも―――」
「……やる時、は……やる」
ぼそ、と蛍くんの呟きが聴こえた。視線を移すと、ぼんやりと虚空を眺めたまま、蛍くんが再び口を少しだけ動かしたのが見えた。
「……あなた、の……部下、だから……」
「……」
言葉が咄嗟に出なかった。
感動とか、そういう感情を覚えたつもりは無かったが、……嬉しくは感じていた。こんな優秀な部下に囲まれて幸せだとも感じた。―――だが、だからこそ、だ。だからこそ、そんな事を命じられるはずが無かった。
「ありがとう、皆。……だけどね、君達に危ない橋は渡らせられない、それが私の性分なんだ、分かってほしい……」
皆一様に黙り込み、言葉の無い空間が出来上がった。
魅織くんの持ってきたアニメの主題歌だけが、延々と鳴り響く…………
しばらくして、私の携帯が鳴り始めた。着信音を設定していないので、いつもの無機質な呼び出し音が鳴ったのを聴き、私は液晶画面に眼を落とす。―――音澄忠。そう表示されていた。
「もしもし」
通話ボタンを押して耳に押し当てると、……何だろう、酷く乱れた呼吸音が聴こえてきた。それに、私への返答が無い。
「……もしもし? オトさんかい? どうしたのかな?」
「……はぁ……っぁ」
ゴトゴトと少しばかり背後で物音が走る音声の中、オトさんらしい人の呼吸音だけが聴こえる。……どこか咽び泣いているような響きも在って、私は何か異常な事態を連想した。
「オトさん?」思わず声が大きくなる。立ち上がり、椅子に掛けていたコートを手に掛ける。「今どこだい?」
「……ぁない……」酷く掠れた、オトさんの声。
「え?」
「済まない……しく……じった、よ……ぅ」
―――掠れて、しかも酷く聴き取り難い声で、オトさんは確かに、そう言った。
私は何の事を言ってるのか一瞬分からなかったが―――瞬時に察した。最悪の、事態を。
「―――オトさん、場所はどこだい? 場所だけでいい、後は何も言わない方がいい」
「……本当に……ごほッ!……済まない……最後までっ……迷惑を、掛けました……っ」
「オトさん! それはもういいんだ、どこにいるのか応えてくれ!」
「……本当に……済まな―――」
声が遠ざかり、―――通話が切れる。残ったのは、ツーツーという、無機質な音声のみ。
事務員の誰もが臨戦態勢に移っていて、私もすぐに飛び出そうとして―――メールの着信音が鳴ったのに気づく。慌てて取ると、―――オトさんからだった。
『羽月高等学校近く高架下公園』
内容はその一文のみ。
だが、それだけで充分だった。そして、私は即座に気づいた。これは、オトさんが打ったものではない―――と。
―――犯人の、仕業に違いなかった。
「棺藤さん! 車、回してきます!」
言うや否や事務所を飛び出していった夢成くんに、蛍くんも専用のグローブを手に嵌めつつ、私に視線を向けてくる。
「……出番……だよ?」
「……私の責任だ、……何としてでも助けるぞ、皆」
その言葉に全く力が無い事を自覚しつつも、言わずにいられなかった。
犯人が何のためにメールをしたのか、よく考えてみればいい。愉快犯なら、まだオトさんが生きてる可能性は在るだろう。……だが、相手は恐らくそんな類ではない。殺害が完了した事を伝えるために、メールを送信したんだ。
何の希望も無い場所へと今、私は赴くんだ…………
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