第七話「私たちの住む世界」
ここでまず、一つ目。
「人生とは双六である。」
と仮定する。
人生とは、全生命体が共同で参加する、非常に巨大な双六である。
この双六は、場所・時・空間に関係なく、過去から未来までの全ての生命体が平等に参加を強いられるものである。
これは、全ての生命体の足元に常に存在し続ける、何よりも不変的な存在であり、何人もこの枠からはみ出すことのできない絶対無二の存在である。
唯一この双六が絶対ではないとするならば、それはこの双六が、時間の干渉を受け、常に膨張し続けているという一点のみである。
我々は、この世に生を受けた時点から、この双六に囚われ、命尽きるまで続けなくてはならない。
つまり、生がスタート。死がゴールである。
そして、この双六はスタートもゴールも一定ではない。
個によって差異があり、その長さも同様に差異がある。
そしてここで、我々がこの双六の参加者の一人「駒」であるという事を一つの決定事項としておこう。
双六とは周知の通り、サイを投げて駒を進め、マスに止まりながらゴールを目指すゲームである。
そこで次に
「運命とはマスである。マスとは運命である。」
と仮定する。
マスは、双六には欠かせない、最も意味のあるルールである。
マスのない双六は、双六としての意義はなく、ただの線の書いてある紙に成り下がってしまう。
逆に言えば、マスが存在するからこそ、双六は双六であり得るのである。
マスこそが双六の醍醐味、マス自体が双六を成立させていると言っても過言ではない。
それだけ重要なポジションを秘めているのがマスである。
そのマスが、双六同様に初めからそこに存在するものであるという事が、更に重要な事象である。
そう、マスとは変わることなく常にそこに存在しているのである。
ここで、思い出して欲しいのが、我々がこの双六の奴隷であり、駒の一人であると言う事だ。
我々が参加するこの双六も、ゲームの双六同様に、決まったマスに沿って進んでいくものなのか?
答えはイエスである。
我々は、初めから決められたマスに沿って、この人生という双六を進めていく。
しかし、そこでの注意点は、この双六が人智の及ばぬほど巨大であり、今もさらに肥大し続けているという事。
我々が認識しようとも、決してする事のできない程、膨大な数のマスがこの双六の上には存在している。
いくら決められているとは言え、我々がそれを確認する事は不可能なのである。
であるからして、我々がどんなに認識しようとしても、それは全くもって認識できるはずもない、人智を超えた存在としてそこに横たわっているのである。
我々は、時に人智を超えた力によってもたらされる展開・結末を「運命」と呼ぶ。
我々は知らず知らずのうちに、初めから決められたマスを進んでいく。
そう、我々が進む道は、初めから決められているのである。
それこそが「運命」
我々が偶然と思っている全ての事柄は、運命の上に成り立っているのである。
初めから用意されているマスは運命であり、
偶然は必然なのである。
だが、全てが全てゲームの双六と同じなわけではない。
確かに決められているものではあるが、我々の前には無数に次のマスが控えているという事。
まず規模が違う。
そして最大の相違点は、
サイを投げて、出た目だけ進むわけではない。
という点だ。
「サイコロは努力である。」
これは簡潔だ。
我々が駒を進めるために投げるのはサイコロではない。
と、言うよりは1〜6の出た目だけ進めるというわけではない。
ここだけは、我々は止まりたいマスに止まることができるのだ。
が、それもただで止まれるわけではない。
やはりそれなりの条件が必要になる。
それは、個人個人の努力であり、裁量である。
あるマスが、仮に「東大に合格する」のマスだとする。
そのマスに止まるためには、「勉強する」という努力が必要になる。
逆に「勉強をする」努力をしなければ、「東大に落ちる」というマスに止まる。
それは決して6の目を出したら止まれるわけではないのだ。
これは単純な例であるが、端的に述べるとこういったことなのだ。
我々は初めから用意された、星の数ほどの運命の上を、取捨選択し、努力し、挫折しながら進んでいく、
極めて高度な双六の駒なのである。
偶然と思われる全ての事柄は、全て必然であり、必ず意味を持って存在している。
それは、我々の行動・意思、無数の要素を全て加味した上で現れる。
我々の人生は全て、成るべくして成るのである。
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