第十一話「涙」
「正直、ここまでやるとは思わなかったよ」
大きく首を回しながら、クロム・ネフューが言った。
「ただの小娘かと思っていたけど、見くびり過ぎだったかな」
膨張した筋肉が、呼吸と共に小さく蠢く。
聖は、大きく肩で息をしたまま、動く事が出来なかった。
誰が見ても、彼女のスタミナは既に底を尽いているのは明白だった。
「少しは楽しませてもらったよ」
言い終わると同時に、クロム・ネフューは腰を落としアッパーカットの要領で右腕を振り上げた。
大きく空気が動いた。
小石を舞い上げる真冬の突風みたいな風が、聖の身体を跳ね飛ばした。
「もう踏ん張る事も出来ないか」
クロム・ネフューの言葉には、嘲笑すら混ざっていた。
「用済みだ。死ね」
クロム・ネフューの姿が消えた。
気がつくと、倒れ伏した聖の傍らに佇んでいた。
無造作に聖の頭を掴み、軽々と宙へ持ち上げた。
強烈な打撃が、聖の顔面を襲う。
一発、二発。
鈍く、湿った音が無人の街に響き渡る。
クロム・ネフューの手は休まることなく、その拳は何度も美しい顔に叩きつけられた。
もう、何度殴ったのか分からない程、その凶行が行われ、聖の身体からは完全に力が抜け、ぼろ雑巾の様にクロム・ネフューの腕から垂れ下がっているだけだった。
世界が滲んだ。
私の目は、あふれ出る涙で、滲んだ世界しか私に見せてはくれなかった。
「最期だ」
クロム・ネフューの腕が、聖の顔面を捕らえた時、聖の首はあらぬ方向へ折れ曲がったきり、元の場所に戻る事はなかった。
私は、動く事も、声を上げる事も出来ないまま、ゆっくりとした時間の中、その光景を見送っていた。
私は誰もいない街を、泣きながら聖の身体を引きずって歩いた。
クロム・ネフューは、聖の身体をその場に落とすと、筋肉の鎧を解き、ほんの数秒で元の小さくて醜いピエロの姿に戻っていた。
そして、私の方を一瞥すると、少しだけ笑みを浮かべ、
「クズが」
それだけ言い残し、砂が舞う様に辺りに溶け込んでいった。
私の時間は長い間止まり、聖の身体も、私の身体も、そこには何も動く物のない空間に、ただ存在しているだけだった。
何も考えられなかった。
ただ、聖を見つめているだけ。
どれ位の時間が過ぎたのだろう。
辺りが淡い朱色に染まり始めた頃、私は聖の傍へと歩み寄った。
聖がどんな顔をしていたのか、ここでは言えない。
あんなに美しかった聖の顔。
誰よりも綺麗だった顔。
私は、涙が止まらなかった。
聖の身体を、肩にもたれ掛からせると、引き摺る様にして、私は歩き始めた。
聖を、家に帰そうと思った。
こんなところに寝かせておくのは、嫌だった。
聖は、こんなところで寝ていていい人間じゃない。
聖は、誰よりも強くて、誰よりも優しくて、誰よりも美しい人間だから。
そして聖は、誰よりも私が憧れた人間だから。
涙が止まらない。
オフィス街の坂を下り、繁華街に出る。
繁華街の丁度中程に、若者たちが集う、オシャレの中心地とも言える商店街があった。
雨海モールと呼ばれるその商店街は、私の両親が幼かった頃には、昔ながらの個人商店が立ち並び、地元住民らが集う憩いの場のような、本当に昔ながらの商店街だったという。
元から歴史の古い港街で、日本の外交初期から海外との公益が盛んだった為、その当時からオシャレの街として有名ではあった。
商店街にも、古くから洋品店を営む店が多く、日本でも有数のオシャレ発信地。
しかし、急速な都市化は駅周辺にファッションビルを乱立させ、様々なブランドショップを呼び寄せた。
県の内外からは多くの若者が集まり、街は更なる賑わいをみせた。
その反面、古くからの洋品店や食料品店には人が寄り付かなくなり、次々と看板を降ろしていった。
その空いた土地に目をつけたのが、ファッションビルには入らない、少し高級志向なブランドだった。
始めに、今や知らない者はいない程に隆盛を極めている、スケーターブランドが店舗を構えた。
それから、他のブランドもそれに倣い、商店街は徐々にブランド街へと変貌していった。
中にはまだ、地元住民の声に応え、営業を続ける生鮮食品店もあるにはある。
どんなにブランド店がお高く店を構えていても、一歩裏道へ入れば、そこにはかつて商店街の主であった、古株の住民たちが生活の場を移す事なく根城を構えているのだから。
大半の人間が、私の家があるような、新興住宅地に移り住んだりした。
しかし、どんなに街が変わっても、雨海を愛する人間は、その地を離れなかった。
だから、商店街の奥の奥。
少し落ち着きが残っている地域には、未だに過去の遺産とも言えるような、木造の住宅街がひっそりと残されていた。
聖の住むアパートも、そんな古ぼけた住宅街の一角に、遠くのビルに潰されそうになりながらも、しぶとく寝そべっていた。
築40年。
木造二階建てのぼろアパート。
4畳半一間のワンルーム。かろうじて、風呂・トイレ付。
大家さんお婆さんが聖の事を気に入っており、月35.000円の家賃を、15.000円にしてもらい、一人暮らしをしているアパートだった。
私は汗だくになりながら聖を二階の角部屋まで運んでいった。
聖のポケットから鍵を取り出すと、立て付けの悪いドアをこじ開けた。
中に入ると、聖の部屋の匂いがした。
畳敷きの内部はがらんどうで、テレビも冷蔵庫も、家具すらもない部屋が広がっていた。
あるのは、一組の安っぽい布団と、小さなちゃぶ台以外は、プラスチック製の衣装ケースが三段重なっているだけだった。
私は靴を脱ぐと、聖の身体を部屋に引きずり込み、敷きっぱなしの布団に、聖の身体を横たえた。
ドサリと、味気のない音を立てて、聖の身体は布団に倒れ伏した。
私はしばらくその場に座り込み、ザラついた土壁に背を預け、染みだらけの天井の隅をじっと見つめていた。
それから、私はおもむろに立ち上がると、申し訳程度のコンロと調理スペースのついた、小さなキッチンへと移動した。
普段聖が使っている、数少ない生活用品である、歯ブラシと歯磨き粉のささった、小さなプラスチックのカップを手に取ると、勢いよく蛇口をひねった。
数杯の水道水を飲み干すと、私は聖のキッチンをじっと見渡した。
包丁代わりの小さなキッチンナイフ。
鍋としても使っているらしき、加工のはげかけたテフロンのフライパン。
後は、食器類が1セット、敷かれたタオルの上に並べてあるだけだった。
聖の家族について、私は何も知らなかった。
聖は、ここで一人で暮らして、一人で学校に来ていた。
入学手続きの際、誰に保護者になってもらったのか知らない。
とにかく、聖は一人だった。
そして、一人で生活していた。
聖は、学校に来ている時間以外、生活の大体をバイトに費やしていた。
朝、登校して、夕方下校。
17時から、21時まで知り合いの古着屋で働いていた。
22時から、翌5時まで、深夜のファミレスでホールスタッフをして、
6時から、9時まで早朝のコンビニで働いていた。
そしてまた登校。
古着屋で働き、帰宅。
翌朝のコンビニに出勤していた。
二日間を1セットで、聖の睡眠時間は二日でおよそ6時間だった。
食事に関しては、朝食はコンビニの期限切れ。昼食も残り物を貰ってきていた。
夕食は、ファミレスの日はまかないで。そうじゃない日は、抜くか、多少の自炊をしていた。
聖はこの生活を入学当初から、ほぼ365日、バンド活動や私や八神君と過ごす時間を抜かして、貫き通していた。
そうして、家賃から生活費そして私立校であるうちの学校の学費を払い続けていた。
私はカップをすすぎ、元の位置に戻すと、聖を風呂場に連れて行った。
血みどろの聖を、少しでも綺麗にしてあげたかった。
私はシャワーの蛇口をひねり、暖かい湯を出すと、聖の身体から、邪魔な衣服を剥ぎ取りにかかった。
聖の身体は、全身を黒光りした血が固まった、カサカサしたもので覆われていた。
戦いの最中、聖の身体は至る所が傷ついていた。
靴もタイツも脱ぎ捨てられた爪先には、大きな切り傷。
知らぬ間に小さな釘が突き刺さっていた。
私はゆっくりと、釘を抜き取り、聖の身体を傷つけまいと、丁寧にあわ立てたスポンジで、彼女の身体を清めていった。
まだら模様のタイルが、湯と混じって、赤さを増した血のカスで染められていく。
時間をかけ、身体を洗い流し、しなやかで艶やかな髪をシャンプーする。
聖が使っていたシャンプーもコンディショナーも、なんの変哲もない、むしろ安っぽい思春期の少女が使うようなものだった。
私は少しだけ面白くなり、聖に話しかけた。
「やっぱりすごいな。聖は。なんでこんなの使ってて、こんなに綺麗な髪をしてるの?」
聖の身体はすっかり綺麗になった。
白い肌。
今は、青白くあったが、そのキメ細やかな肌は、紛れもなく聖のそれだった。
風呂場から
聖を運び出すと、丹念に身体を拭いた。
衣装ケースから、水色のキャミソールと、破れたローライズのジーンズを取り出すと、新しい下着の上から、ゆっくりと着せていった。
着古した、パジャマ用と思われるTシャツとホットパンツは選ばなかった。
私にとって、それは聖の着るものには相応しくなかったから。
シーツを取り替えると、再び私はそこに聖を横たわらせた。
少しして、私も風呂場へ行った。
熱いシャワーを目一杯出して、私は頭から浴びた。
涙が止まらなかった。
続く。
|