第十話「天才対悪魔」
意外と地味な音がオフィス街に響き渡った。
湿ってくぐもった、不快な音。
クロム・ネフューの顔面は、ゴム風船が押さえつけられた様に歪み、聖の爪先がさらに歪みを膨らませていく。
次の瞬間には、クロム・ネフューの体は聖の足から弾き飛ばされていた。
本物のゴム風船の様に跳ねながら、国道を横切り、小さな醜い身体は反対側のガードレールに叩きつけられる。
それを見送りながら、聖の身体は空中で美しく弧を描くと、優雅にアスファルトに着地した。
私は、ゆっくりと喫茶店の残骸から立ち上がると、少しでも聖に近付こうとゆっくり足を踏み出した。
頭が回る。
ふらつく身体を必死で正し、私は崩れた喫茶店をやっとの思い出抜け出した。
外気は思いのほか冷たかった。
一陣の風が私の身体を包み込む。
私の身体がそれだけ火照っていることに気付いたのは、風が通り過ぎてもなお、凍えたような心持ちが残っていた時だった。
ガードレールの前に倒れ伏したクロム・ネフューの身体が小さく動き始める。
私は、少しだけ全身が硬くなるのを感じた。
「ただの人間かと思ったら・・・・」
聖の肩が一度大きく動くと、ゆっくりと足を開き腰を落とした。
「まさかこんな肉弾戦が出来るなんてね」
クロム・ネフューがガードレールの前に立ち上がった。
その顔には、先ほど聖の蹴りを受けた形跡など全く見られず、何事もなかったような元通りの赤鼻があるだけだった。
聖の背中が少し動く。
赤い塊がアスファルトに吐き出される。
「本当は、あんな蹴りは僕には当たらないんだ。ただね、少し受けてみたくなったから」
そういうと、ピエロの身体が大きく振動を始めた。
「僕に物理的な打撃は効かない。だけど、条件を合わせることは出来る」
見る見る間に身体が膨れ上がっていく。
膨れた肉塊には、物凄い速度でエンボスが刻み込まれ、私達がよく知っている、人間の肉体が作り上げられていく。
身の丈はゆうに2メートルを越え、広がる肩幅の周辺には、隆々とした筋肉がまとわりつく。
瞬きし、次に目を開いた時には、私達の前に立っていたのは、顔は元ののっぺりしたピエロのままなのに、肉体だけは筋肉の鎧に覆いつくされた、ボディビルダーも真っ青の筋肉ダルマと化したクロム・ネフューの姿だった。
「これで君と条件は一緒だ。これは、君みたいに物理的な戦闘が得意な奴とやる時の形態でね。ま、この姿になるほど価値のある奴は、そうはいないが。そういえば君らの世界の妖怪でも、この技を使えるのがいるみたいじゃないか」
声も身体に合わせ、低く野太く変化している。
「身体だけじゃなく、おしゃべりにもなったんじゃないか」
聖の声が聞こえた。
その声には、ふたりで喫茶店で震えていた時の怯えはなかった。
確固とした精神の現れ。
聖の精神は、既に戦いに入っていた。
「上等だ」
クロム・ネフューが微笑を浮かべた。様な気がした。
聖がアスファルトを蹴る。
同時に、クロム・ネフューも大きな身体を前に押し出した。
聖の方が速い。
クロム・ネフューが三車線の一車線目も通り過ぎないうちに、聖は筋肉ダルマの足元に滑り込んでいた。
スライディングの様な格好で、クロム・ネフューの足元に近付くと、聖はその脛に向かって鞭のように撓る蹴りを叩き込んだ。
しかし、クロム・ネフューの身体は微動だにしない。
腕を使い、逆立ちの形に身体を押し上げると、聖は一旦巨体の下から抜け出す。
普段の喧嘩なら、最初の足元への攻撃で大概は地面に倒すことが出来るはず。
一度倒してしまえば、あとはこっちのものなのだが。
聖が瞬間先までいた場所を、クロム・ネフューの大きな足が踏み潰す。
「どうした?そんな下らない蹴りじゃあ、僕は殺れないぜ?」
聖は、腕で身体を支えたまま身体を翻すと、クロム・ネフューの丁度死角になる位置。斜め後方に着地する。
体勢を整え、絶妙な反動をつけたハイキックをクロム・ネフューの側頭部に打ち込む。
鈍い音と共に、クロム・ネフューの頭が揺らぐ。
が、何のダメージもないかの様に、大きな掌が聖の足首をガッチリと固定した。
「捕まえた」
逆バンジーの如く、聖の身体が浮き上がる。
いくら聖が軽いとは言え、それでも40キロ代半ばはある。
その身体を、木の枝でも振り上げる様に、軽々と頭上に掲げ上げたのだ。
このまま地面に叩きつける気だ。
私は戦慄しながら一歩踏み出した。
クロム・ネフューが叩きつけるために反動をつけ、その力を溜める為に一瞬動きを止める。
その一瞬を聖は逃さなかった。
聖は腕にしがみつくと、タイツごと靴を脱ぎ捨て、がっちり固められた掌から抜け出した。
そのままその腕の先を掴んだまま飛び降りると、そこを支点に振り子の要領を使った膝蹴りを、またしてもクロム・ネフューの顔面に叩きつけた。
クロム・ネフューの身体が反り返り、またさらにグラリと揺らいだ。
聖は出来る限り最短距離で地面に着地すると、間髪いれずに左足を踏みしめた。
と同時に、クロム・ネフューの身体が体勢を立て直した。
そこを見逃さなかった。
勢いよく戻ってきた顎に向けて、聖は渾身の力を込め右後ろ足でかち上げた。
全力を込めた聖の後ろ蹴り。
派手な音だけが響いたが、それでもクロム・ネフューは倒れなかった。
完全に頭に血が昇ったかのように、聖はさらに攻撃の手を休めなかった。
素早く引き戻した右足を支柱に、今度は回転をつけ、左足を大きく振り上げると、先ほどと全く変わらぬ位置に後ろ回し蹴りを叩き込む。
今度こそ、顎の砕ける気色の悪い音が、オフィス街に響き渡った。
クロム・ネフューの膝が、がっくりアスファルトの上に崩れ落ちた。
当然だ。
普通の人間なら、聖のあの殺人メニューを喰らってまともに立っていられるはずがない。
下手をしたら、本当に相手を死に至らしめるコンボなのだ。
一発目を喰らった時点で、起き上がってこれる事自体が以上なのだ。
私はいつの間にか、中央分離帯のつつじの茂み辺りまで歩みを進めていた。
もっと近く。
もっと傍で。
心の中でそう繰り返しながら、私は聖の元へと近付こうとしていた。
私が、茂みの段差から足を下ろした時だった。
膝を付いたままのクロム・ネフューが、左足を戻したばかりの聖の身体をガッチリと両手で捕まえていたのだ。
「甘いよ、聖ちゃん。そんな軽い蹴りじゃあ、僕はまだまだ倒れないよ」
聖の腰辺りを押さえつけたまま、クロム・ネフューは聖の顔面に、額を打ち付けた。
鈍い音と湿った音と、聖の短い呻き声が私の鼓膜を刺激する。
真っ赤な血しぶきを噴出し、聖の頭が勢いよく反り返った。
クロム・ネフューが、またあの無邪気な笑い声を上げた。
が、聖も負けてはいない。
反り返った動きを利用、もう一度顎を狙って両足を突き上げた。
この意外な動きには、さすがのクロム・ネフューも虚を突かれたらしく、口があるべきあたりから、血とも涎ともつかない液体が飛び出した。
ダメージあり。
更には握力も緩み、聖は回転しながらまたしても腕から逃げ出す事に成功した。
「いてぇ!」
聖が声を荒げる。
聖の顔は、流れ出た鼻血でドロドロになっていた。
「この野郎!!」
感情むき出しで、膝立ちのクロム・ネフューの頬めがけ、蹴りを放つ。
その感情が裏目にでた。
聖の蹴りにはキレがなく、更には狙いもズレていた。
クロムは瞬時に腕を上げ、がっちりとガードを固める。
「甘い!」
クロム・ネフューの右腕が聖のボディを狙って繰り出される。
息を吐き、聖は身体を目一杯ひねり上げる。
クロム・ネフューのボディブローは空を切り、今度はクロム・ネフュー自身のボディがガラあきになる。
しかし、聖も回避でバランスを崩し、すぐには反応出来ない。
と、思った。
私は、聖の超人的な格闘センスをなめていた。
聖はバランスを崩したままアスファルトに両手を付くと、すっぽりと空間になったクロム・ネフューの顎に向けて、思い切り身体中のバネを開放した。
渾身のバナナキックが、クロム・ネフューの顎を捕らえる。
全身の筋肉という筋肉、バネというバネをフル活用したこの蹴りは、ダメージのあるクロム・ネフューには、充分過ぎるほど重い攻撃となったのは間違いない。
あのクロム・ネフューの身体が、浮かび上がる。
聖の身体が真っ直ぐに天を付き、浮き上がったクロム・ネフューの身体は見事に空中に投げ出された。
まるでスローモーションのように、クロム・ネフューの身体が宙を舞う。
聖は美しく伸び上がった肢体をたたむと、弧を描いてアスファルトに舞い降りた。
その背後には砂埃を巻き上げた、クロム・ネフューの巨体が突っ伏していた。
「ほぅ・・・」
聖はゆっくりと息を吐き出し、肩を落とした。
「終わった・・・・」
「まだだよ」
聖が振り返ると、そこにはまったくダメージの見られないクロム・ネフューが仁王立ちしていたのだ。
聖の身体が硬直したのに気づいた。
聖が全精力を注いで放った、全力の蹴りだったのだ。
それを喰らっても、何のダメージもないなんて。
聖の身体が震え始めたのが分かった。
大きく震え、頭が背中に隠れ見えなくなる。
「ふう。それでも少しは痛かったかな。なかなかいい蹴りしてるじゃないか」
クロム・ネフューは茶化したような口調で言い放った。
完全に聖を煽っている。
聖の頭が再び私の視界に現れた。
「うあああああああ!!!!!!!!!!」
聖の絶叫がこだまする。
聖が再び地面を蹴った。
見る見る間にクロムとの距離を詰まる。
クロム・ネフューの豪腕が、再び聖を襲う。
「うああああああ!!!!!」
走りながら拳を避けると、聖は懐に潜り込む。
膝に足をかけ背に回り、その巨体を器用に昇ってゆく。
聖はクロム・ネフューの肩まで登りつめると、太い首をガッチリと両足で挟みこむ。
そして、そのまま聖の上半身は真っ逆さまに地面へと落ちていった。
「うおおおおおおおおお!!!!!!!」
聖の身体が、空中で弧を描く。
それに伴い、クロム・ネフューの身体がゆっくりと宙へ投げ出される。
弧は回転に変わり、聖の胸辺りを中心に聖の身体とクロム・ネフューの身体が繋がり、大きな車輪となって、冷たい空気を切り裂いていく。
そして、クロム・ネフューの巨体は思い切りアスファルトの地面に叩きつけられたのだった。
聖は、首から足を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
肩で息をし、身体を大きく震わせ、感情の昂ぶりを背中で必死で抑えていた。
聖はゆっくりと私の方へと振り向いた。
その顔には、鼻血がべっとりとこびりついていたが、その笑顔は美しかった。
今度こそ勝った。
聖はそう思っただろうし、私も信じて疑わなかった。
クロム・ネフューの巨体が、聖の背後で起き上がるまでは。
続く。
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