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Lyrical Despair  作者: イリス
Dear my friends
7/8

女の戦い <前編>


 年中さんから年長さんに上がって、もも組になったばかりの春。

 貼り絵を作る時に先生からグループを作るように指示された。

 同じ組だった子が一人もいなくて、周りが知らない子ばかりだった自分は、なかなかグループの中に入れてと言い出せずに途方に暮れていた。それを察したみんなは自分においでと言ってくれたが、とても臆病だった自分はどのグループに入るべきか悩んでしまい、結果的に状況はあまり変わらなかった。そこへ、一人の男の子が自分の手を引っ張って、男の子がいたグループへ連れて行った。

 そのグループは男ばかりだったが、あのぐらいの年頃は男女の隔たりがあまり無かったからだろうか、誰もその事を気にしなかった。

 それがきっかけとなって、自分はその男の子とよく遊ぶようになった。男のグループの中に混じってサッカーを何度もした。幼稚園の近くの森に探検しに行ったこともあって、先生にすごく怒られたのも覚えている。

 夏に市民プールで男の子とばったり出くわした事もあった。その時に自分と男の子の親も仲良くなって、会う機会も多くなった。

 秋が過ぎて冬が過ぎ、また春が来て、自分達は小学生になった。

 小学生に上がってからも、いつも男の子と一緒に遊んでいたから女友達よりも男友達の方が多く、中でもとりわけ仲のいい6人組で徒党を組んでは色んな所へ行った。

 楽しかった毎日。鮮やかな日々。

 2年生になっても、3年生になっても、4年生になって5年生になって6年生になっても。ずっとそんな風にいられると、男の子と一緒だと思っていた。

 なのに、繋いだ手を先に振りほどいたのは、他ならぬ自分だった。



 風呂でうたた寝をするのも随分久しぶりだった。

 明菜は自分が一体どれくらいの間眠っていたのか気になったものの、まだ眠気が尾を引いてて浴槽から出て行く気にはなれなかった。

 静かに息を吐きながら浴槽に張られたお湯の中に深く身を沈めた。

 夢を見ていた気がする。

 内容は思い出せない。別に珍しくも無い事だった。いつも自分がみた夢の内容を思い出そうとすると、確かに見たという記憶だけはあるのに、それが一体どんな物だったのかが記憶に無い。楽しい夢だったのか悪い夢だったのかすら覚えていなくても、どんな内容だったのかが気になってしまうのはよくある事だ。

 あり過ぎて最近はもう夢を見たのかすらどうでもよくなっていた。

 明菜は鼻の下まで浸かりながら、今日のことを反芻する。

 セイレーンで恭也たちと分かれた後は、何も考えず真っ白な頭を抱えながら真っ直ぐ家に帰った。何もする気が起きず、何も考える気にもなれずにベッドに横になって、気がついたら外は夕暮れに染まっていた。その後はテレビを見て適当に時間をつぶした。夕食はカレーだった。カレーは明菜の大好物だったが、うまく喉を通らず、素直に美味しいと感じる事ができなかった。




   第7話 女の戦い -Lyrical distortion- <前編>




 体育館を過ぎ、並び立つ体育倉庫と弓道場を横切った先には、部室長屋と呼ばれる平屋の建物がある。

 12の小部屋からなるそれは、その名の(ごと)く飯嶋中学の部活動にそれぞれ割り当てられた部室が並んでいる。主に部活の道具置き場や更衣室、ダベり場として扱われるのはもちろん、毎年10月の頭に開催される文化祭では、部屋中をゴテゴテに装飾して、飲食店の店舗や作品の展示会場としても利用される。

 長年の部活動の統廃合と弓道・剣道・柔道部の部室移転などによって、現在三部屋が空いているはずなのだが、その内一部屋は鶴ヶ崎聡美によって不法占拠されており、学校内における活動の根城として様々な私物が持ち込まれていた。

「しかし、この暑さはどうにかならんのか」

「どうしようもありませんね」

 恭也の冷静な回答に対して、聡美もまた『どうしようもならんな』と冷静に返し、キュウリの棘をカッターナイフで削ぎ落とす作業を再開する。

 パイプ椅子に深く座する聡美の傍らの机の上にはキュウリがもう3本入ったビニール袋が一つ転がっている。言うまでもなく持ってきたは聡美だ。本人曰く『夏といえばキュウリ』だからと持って来たらしい。聡美の事だからキュウリぐらい平気で丸かじりするだろうと思っていたので、丁寧に棘を取り除いているのは少し意外だった。

「で、さっきの話なんだが」

 恭也はとぼけた。

「なんでしたっけ」

「カレーに何を入れるかという話だ。君は確か福神漬けと言ったな」

 恭也は椅子に座る聡美の後ろに立って、彼女の肩をもんでいる。オセロで勝負して負けた方が勝った方の言う事を一つ聞くという約束だった。聡美に完膚なきまでに叩きのめされた恭也は、実に晴れがましい笑顔でたった一言、『20分間肩をもめ』と命令されて現在に至る。

 聡美の肩をもむ恭也の姿はあまりにも無様だったが、もともとマッサージ師だった母の影響もあって、その手つきはなかなか手馴れたものだった。冬のマラソンの時期には一回二百円で翌日の筋肉痛から開放されるという事で、クラス中から重宝されている。

「美凪はラッキョウですけど」

「いや、カレーにはキュウリだ。異論は認めん」

 そう言って腕を組んだ拍子に豊満な胸が押し上げられて、その大きさが強調される。ブラウスを第二ボタンまで開けているので、僅かに谷間が覗いて、恭也の視線は一瞬で釘付けになる。

「福神漬けなど入っていてもなかろうと、大して変わらんだろ。ラッキョウにしても匂いが好かん」

「じゃあ卵とかはどうなんですか」

「論外だ」

 ふん と鼻から勢いよく息を吐く。

「ところでミリア君はどうかね」

「どうって?」

 ゆっくりと聡美の首が恭也を振り返る。二度ほど骨が鳴る音がした。

「そろそろ日本での生活には慣れてきたかね」

「だと思いますよ。味噌汁だけは苦手みたいですけど」

「味噌の見た目がアレだからな」

 そう言ってくっくと下品な笑みを浮かべる。

 ミリアがこの世界に来てから一週間と二日。流石に箸はうまく使えないものの、家に上がるときは靴を脱ぐのはちゃんと出来るようになったし、急須でお茶を淹れることも覚えた。恭也の家族らとの間も大して問題なく、至って円満だ。

 以前、菜月はミリアに外で同い年の子と遊ぶ事を薦めていた。

 いつも恭也と一緒にいて、外に出る時もほとんど恭也と一緒なのだが、逆に恭也が学校に行っている間は家にいることが多い。菜月が買い物に行くときにミリアを連れて行くこともあるが、ミリアの長い金髪はどうしても目立ってしまう。ミリアがその事で気後れを感じてしまう事もあって、無理強いは出来ずにいた。

 恭也としてはミリアを他人と接触させる事はなるべく避けたかった。

 確かにミリアを外に連れ出して、近所の子供とたくさん遊ばせてやりたいとは思う。ミリアもきっとそう思っているだろう。しかし、それは多くのリスクを伴うし、外国人で通っている以上はそれなりのレッテルを貼られてしまう。

 どうにかしてやりたいとは思う。

 しかしどうすればいいかが分からなかった。

「それで、ミリア君に友達の一人でもできた様子は」

 恭也の考えを察したのか、丁度恭也が考えていた事に関する話をふってきた。どうすればいいか聡美に尋ねればいいのではないかと思うが、彼女の訊いた所で大した答えは返ってこないとも思う。彼女の普段の行動指針がその全てを物語っている。

 やりたい事があるならやればいい。

 自分が正しいと思うのならそれを行動に移せ と。

 確かにそれはすごく正しい意見だ。ミリアの事を想うのであれば、それこそ行動を起こすべきである。だがそれが出来るのなら、そもそも初めから悩んだりなどしていない。

 暗い気持ちで目の前の聡美のつむじを見つめる。

 人の髪の毛を観察するような趣味は無いものの、聡美の髪は本当に綺麗だ。女の子である以上はそれなりに手入れをしているようだが、染髪料や整髪料を一切使わなかったり、髪形をキメたりしないという意味では、聡美は髪について殆ど無頓着である。だからこそ髪に余計なダメージを与えることは無い。生まれつきのものもあるだろうが、何より彼女はよく食うし、大したストレスも感じていなさそうだし。

「難しいみたいですよ。ほら、ミリアってちょっと内気だから」

 仮にミリアを自由に外出させて他人との接触をフリーにしたとしても、そもそもミリアの小動物のような性格で果たしてまともに友達を作れるかどうか怪しいものだ。

「外国人だからってちょっかい出されたりするんじゃないか不安みたいで、こっちもそういうのが心配だから無理に外へ連れ出したりもできないんですよ。なまじ金髪だから結構目立つし」

 聡美は『難しいか』と呟いて、あらかた棘を切り落としたキュウリを一口かじる。

 遠くでじわりとセミが鳴き始めた。

「もう夏だな」

「先輩は今年の夏休みはどこか行く予定とかあるんですか?」

 聡美はむっとして、

「なんでそんな所に行かにゃならんのだ」

「いや、だって夏ですよ。去年は夏休みの間ずっと乙山にこもってて、どこにも行かなかったでしょ?」

 聡美は去年の夏休みの全期間を通して乙山の中腹(ちゅうふく)に巣を張って、心霊写真を追い求めていた。というのも、炭鉱では落盤事故やガス爆発などで亡くなった人が少なくない。炭鉱のあった乙山では幽霊の目撃証言が度々出ており、聡美はそういう場所ならきっと心霊写真の一枚も撮れると思ったのである。無論、恭也はそれに強制参加させられ、その年の夏休みの大半を聡美と二人っきりで過ごしていた。

 フィルム40個分にも及ぶ大量の写真を撮り、それらを現像してみたが、どれもそれらしい物は写っておらず、結局一月半に及ぶ努力は徒労に終わったのだった。とはいえ、幽霊探しの合間に狸を餌付けたり、麓の公園のアベックにロケット花火を投射したり、聡美の生着替えを目撃したりと、全く無意味に過ごしたわけではなかったと思う。

 ただ気になっているのは、1個だけネガが破損していて現像できなかった物があったらしい。そのフィルムにはどんな写真が収められ、何が写っていたのかは分からない。

「それはそうと来生くん。今日は早く家に帰らなくていいのか?」

「何でです?」

「いや、最近忙しそうだから」

 恭也は最近の自分の行動について振り返ってみた。確かに聡美に呼び出されたとき、忙しいと言って断っている。というのも、ミリアがもとの世界に帰るための手掛かりを探して、乙山を中心にして散策や実験をしているからだ。無論、その事は二人だけの秘密であり、表向きはミリアに町を案内している事になっている。

 一日でも早くミリアを帰してやりたいのだが、聡美の呼び出しを毎回断っていたら、いずれ聡美に疑われてしまう可能性があるので、今日は呼び出しに応じる事にした。

「ミリアにこの町を案内してあげてるんですよ」

 聡美は一瞬だけ訝しげな目で恭也を見て、しばし沈黙した。

 椅子の上にふんぞり返って天井を見上げていた恭也はそれに気付かなかった。

「そういう事なら仕方ないな。美凪くんも一緒か?」

「いえ、僕とミリアだけです」

「女である美凪君を連れて行った方がいいんじゃないのか?住む国は違えど同じ女だろうに」

「きっと嫌がると思いますよ。僕と一緒に出歩くのが恥ずかしいって言ってたから」

 美凪は中学生になってからというもの、恭也と妙に距離を置くようになった。今は多少は落ち着いて、そこそこ会話を()わすようにはなったが、ノックせずに部屋に入れば物を投げつけられるのは変わっていない。

「先輩もそういう風に思ったりするんですか?」

「なんで」

「いや、なんでって。先輩も兄がいるでしょ」

 すると聡美は一瞬だけ虚を衝かれたような顔をしたが、すぐに不機嫌そうな顔になって、スポーツドリンクを二口ほど飲んだ。荒っぽく飲んだものだから、口の端から水滴が垂れて、スカートに落ちた。

「そんなもんは関係無かろう」

「一応、妹として何か参考になるような事とか無いんですか?」

「ない」

「僕にもドリンク分けてくださいよ」

「やらん」

 いつもこうだ。聡美は兄の話になると、急に態度を硬化させて(へそ)を曲げてしまう。嫌っているわけではなさそうなのだが、どうも苦手意識を持っているらしい。だったら尚更、美凪の心情について参考になりそうな気がするのだが、あまりしつこいと聡美が可哀想だし、聞いても答えてくれないと思う。

 何の前触れも無く、部室のドアがノックもされずに開かれた。

「ちょっといいかな」

 柚野美穂だった。半開きの扉から半身だけを出して部屋の中を窺っている。

 目の前の二人の異様な光景にすぐに気がついて、

「何してるの」

 無理もない。男子生徒が女子生徒の肩を揉んでいるということ自体が珍しい光景である。ましてやその女子生徒が学校内でその名を知らない者はいない奇人こと、鶴ヶ崎聡美であればなおさらだ。

 加えてここは本来使われていないはずの部室。そこに男子と女子が二人っきり。何やら不純な何かが絡んでいるのかと思うのが自然だが、カッターナイフと食べかけのキュウリを持つ聡美と、聡美の両肩を掴んだままの恭也の間にはそれらしいものが全く見当たらなかった。

 奇人少女こと聡美はキュウリとカッターナイフを机の上に投げ出し、腰巾着の恭也の左手を無理矢理自分の胸に押し付けた。

「あああ待て待て、待ちたまえ来生君。若いから気が急くのも分かるが物事には順序というものがあるだろう。キスも何もすっ飛ばしてにいきなりなど私は許さあいででで」

 右手の親指で力いっぱい肩を押して聡美を黙らせた。

 ほどなくして美穂は物がゴロゴロ転がっている部室の中へ足を踏み入れ、部屋の隅から隅までをじっくりと観察し始めた。一体何の用事なのかと二人が思い始めた頃、美穂の視線が恭也とあったところで固定された。

 目を大きく見開いて、ずかずかと恭也に詰め寄る。

 綺麗よりも可愛いという形容が似つかわしい美穂にタバコ一本文もないほどの至近距離から見つめられて、恭也は思わずたじろいでしまう。しかもその目はひどく真剣な色をしていた。

 何なんだ一体。

 そこでいきなり我に返った美穂はすぐに3歩後ろに下がって大根役者みたいな咳払いをして、机の方に目を向けた。白いビニール袋の中からキュウリの緑の頭がはみ出ている。

「ここって使われてないはずでしょ?二人ともこんな所で何してるの?」

 実に教師らしい目つきで二人に尋ねた。恭也は怒られるんじゃないかと、この前のバインダーチョップを思い出して少し青くなる。その一方で聡美はまるで臆する事も、気兼ねする様子も無く、キュウリをボリボリかじりながら答える。

「別に(やま)しい事をしている訳じゃありません。ただ来生君に肩を揉んでもらってるだけです」

 その言葉に、美穂は聡美の胸に対して恨めしそうな視線を向ける。美穂のそれも決して小さいわけではないのだが、聡美と比べれば勝敗は明らかだった。

「それで、こんな所に一体何の御用で?」

 訊かれてから用事を思い出したらしく『ああそうだった』と呟いて、

「だから、何か電気が点いてたから、誰かいると思ったから見に来たのよ。誰かがタバコでも吸ってるんじゃないかって」

 何だそんな事か と恭也と聡美は互いに顔を見合わせて肩を竦めた。

 ご丁寧にも放課後の校内見回りをしていたらしい。美穂の生真面目な性格を考えれば分からないでもないが、どちらかと言えば新米ゆえの初々しいハリキリという奴だ。彼女が生徒によくからかわれているのは、自分がまだ若くて少し童顔だからだと思っているが、実際はその初々しさが主な原因であり、本人はそのことに気がついていない。しかし同時にそれが彼女の魅力でもある。

「とにかく。二人とも部活には入ってないんでしょ?だったら早く帰った帰った」

 恭也と聡美を部室から追い出そうと、一歩踏み出して恭也と聡美の肩を掴んだかと思いきゃ、急に何の前触れも無く動きを止めた。

 聡美と恭也は異変に気がついて不審を顔に表す。何か見つけたのかと思って、美穂の視線の先を見る。目覚まし時計が床の上に横向きに転がっている。

 5時8分。

 美穂は『やばい』と呟き、とっとと家に帰れと二人に言いながら足早に部室を後にする。

 一体何なんだ、と言いたげな目つきで聡美の方を見るが、『そんな事知るか』と返された。





 来生家の前でベルを鳴らすのを躊躇(ためら)って立ち尽くしていた明菜は、自分がもう1年近く恭也の家を見ていないのを思い出した。

 やっぱりやめようと思って、踵を返そうとした寸前に目の前で鍵が開けられ、遠慮なく扉が開け放たれて明菜はひとたまりも無く石と化した。対する美凪も思いがけない出来事に遭遇して、口を半開きにしたまま硬化する。

「な、なに?」

 先に沈黙を破ったのは美凪の方だった。学校の制服を着ていて、長さが1メートルほどの茶色の筒を斜め掛けしている。それが矢を入れる矢筒であると気づくには少し時間がかかった。

 丁度、部活に向かうところだったのだろう。

「お兄ちゃんなら、まだ帰ってきてないよ」

 そう言って、明菜の脇を通り抜け、足早に停めていた自転車に近づいてスタンドを起こす。

「いや、別にそんなのじゃなくって」

 照れ隠しに弁解をしようと手を伸ばしかけるが、美凪は聞く耳を持たずに自転車を走らせて行った。

 美凪の姿が見えなくなったところで、ようやく手を下した。

 ゆっくりとベルに向き直る。

 緊張のあまり、全身が強張るのを感じながら、右の人差し指を伸ばす。指先が震えているのが傍目にもよく分かる。情けなくて顔が赤くなっている気がする。

 ボタンを押す。

 ベルの音が鳴った。

 諦めとも、安堵ともつかない溜め息をついた。

 しかし目の前のドアが開く気配は無く、ただ明菜の心に不安が募るばかりだった。もしかしたら留守ではないのかと思うが、自分が立ち去った後から誰かが出てきたら悪いので、そのまま居続けざるを得ない。

 あまりの居心地の悪さに気分が悪くなってくる。

 ベルを鳴らしてから30秒が過ぎたところで、留守なのだと判断した明菜は、踵を返した とほぼ同時にドアが開いた。驚いて前につんのめりそうになりながら振り返る。

 少しだけ開けられた扉の隙間から、ミリアが半身を出した状態で、怯えた目つきで明菜を見ていた。

 身長は明菜の方が圧倒的に上だから、明菜はミリアを見下ろし、逆にミリアは明菜を見上げる形になる。場所が上の方が優位な立場に立てるというのは犬猫でも一緒だ。それに相手は明らかにビビっている。誰がどう見ても自分の方が有利だ。

 そう思って、怯みかけた自分を鼓舞した。

 臆する道理も、気後れする理由もない。

「なんですか?」

 と、十何秒も過ぎてからようやくミリアが沈黙を破った。

 唾を飲み込んで、何の前触れも無く唐突に笑顔をつくる。

「これから何か用事とかある?やっぱここに来たばかりだから、ほら、色々なお店とか教えてあげようかなって」

 ミリアは表情一つ変えないどころか、身じろぎすらしない。ただひたすら、二つの目玉が明菜を凝視している。

 腹の底がねじれそうになる。

「どのくらい日本にいるのか分かんないけど、折角来たんだから色んな所を見て回ったりしなきゃ損だと思うの。恭也と一緒に出かけたりしてるみたいだけど、恭也は男だから女の子向けの店とか(うと)いでしょ。恭也よりも私の方がそういうの詳しいから、私が案内した方がいいじゃない。どうせ日本に来たんだから思い出たくさんつくらなきゃ。それに、私もミリアのこと色々知りたいし。仲良くなりたいし」

 全ての言葉が嘘という訳ではない。日本人として、ミリアに日本に良いイメージを持って欲しいと思うし、思い出は一つでも多いほうが良いに決まってる。それは言い訳のような気もするが、何の動きも見せないミリアが怖くて明菜はひたすら喋り続けた。それももう限界だった。これ以上ミリアの石みたいな視線を受けていたら頭がどうかなりそうだったし、いつまでも笑顔をつくり続けるなんてできない。

「で、どうなの?」

 言うべき事は全て言ったのだ。後は野となれ山となれ と半ば自棄になりながら返答を待った。

 それから長い逡巡の果てに、

「行きます」

 一言だけ、蚊の泣くような声で呟いた。




 そしてそれから数十分後。美凪は飯嶋中学の駐輪場に自転車を停めているところだった。

 普段は弓と矢筒は道場に置いているのだが、この間の定期的な大掃除でそれらを全て持ち帰らなければならなかった。弓は2メートル近い長さがあるから目立つし、自転車通学でどうやって運ぶかを考える必要があったから忘れなかったものの、矢筒の方は今朝は急いでいたので背負い忘れてしまったらしい。

 とはいえ、部活が始まってから指摘されて初めて気がつくのは流石にどうかと思う。

 恥ずかし半分、我が事ながら笑えると、自然と口元が緩んでしまう。周りに誰もいないのに鼻をこするふりをして口元を隠した。チェーンロックをかけて、鍵を制服のポケットに押し込んだ。

 そこで思い出した。

「あ」

 課題のノートを教室に置き忘れていた。

 ただの気のせいかもしれないが、本当にそうだったら少し困る。しかし、放課後の教室は居残りや部活に使われない限りは鍵を閉められているので、一度職員室へ行って鍵を取りにいかなければならない。なによりそれが面倒だし、職員室に入ること自体があまり好ましくない。部活が終わってから取りにいこうと思ったが、多分忘れてしまうだろうから、やっぱり今すぐ取りに行く事にした。

 矢筒を背負い直し、美凪は昇降口へと向かった。上履きに履き替えるのが面倒だったので、スニーカーを下駄箱に入れずにその場に置いた。

 少しホコリっぽい廊下を靴下で歩いて職員室へ向かう道中で、話し声が聞こえた。

 グラウンドから聞こえる野球部の罵声と、剣道場から聞こえてくる剣道部の雄叫びだけが聞こえる他は、ほとんど静寂な廊下の中にあって、その声は一際目立った。正確に言えば、それは話し声ではなく、電話で相手と言い合っているような声だった。

 確か昇降口から職員室への間には公衆電話が二台設置されている。主に生徒が家と連絡をする時に利用されるものであるが、その内の右の電話は故障しているらしく、十円玉を飲み込んだり、テレフォンカードを入れても繋がらなかったりするらしい。

 少し気になった美凪はその場に立ち止まり、耳を澄まして会話を盗み聞く。

 若い、女の声。

 生徒の誰かが電話しているのかと思って、曲がり角からそっと覗き見た。生徒ではなかった。先生の誰かだ。その後ろ姿と声に覚えがあるのだが、誰だったか思い出せない。

 気になったのは、女が右側の電話を使っていることだった。もしかしたら修理されたのだろうか。或いは、たまたま調子が良いだけなのか。

 覗き見たままで、じっと耳を澄ます。

「だからこっちだって忙しいのよ。あんたと違って、こっちは仕事がみっちり詰まってるんだから」

 苛立たしげな口調であるあたり、何か口喧嘩をしているのだろうか。

 女は溜め息をつきながら『はいはい』と言って、

「それで、こないだ言ってた子なんだけど。その子やっぱりうちの生徒だったみたい」

 一言分ぐらいの間。

「さっき会った。使われてない部室で女の子の肩揉まされてた」

 相手が何か変な事を言ったのか、吹き出したような笑い声を上げる。

「さあ?そういうの事は無いんじゃない?だって相手はあれよ?『要注意人物』なんだから、多分そっち方面には行かないわよ。ついこの間にミステリーサークル描いて警察沙汰になりかけるような子がぁ」

 それから電話の相手が何か話し始めたらしく、時々相槌を打つ。

 電話の相手は誰なのだろう。

「そういえば、あんたあの子とどんな話したの?」

 十数秒ぐらいの間。

「なにそれ」

 再び間。

「なによそれ。何でそんなくっだらない話したのよ。そりゃ見ず知らずの男にいきなり身の上話されたら怯えるに決まってるでしょ。私だったら真っ先に逃げ出すわよ」

 笑いをこらえている様な声を漏らしながら電話の相手の話に聞き入る。

 かと思いきゃ、急に真剣な口調で

「ええ、もう少し様子を見るわ。そっちも急いで。あんた達が思ってる以上に、学校の先生って大変なんだから」

 溜め息混じりに言う。

「ほんと。子供の頃に学校の先生になるーなんて言ってたのがバカみたい」

 『じゃ』と言って受話器を置き、吐き出されたテレフォンカードを引き抜く。そのままの体勢で大きく溜め息をつく。その時に何か呟いたような気がしたが、聞き取る事ができなかった。

 女がゆっくりと振り返った。慌てて頭を引っ込めて隠れるが、足音が近づいてくるのに気がついた美凪は隠れているのは不自然だと思って、たまたま通りがかったフリをして通り抜けてしまおうとした。女は美凪が曲がり角から出てきたのを見て、少し驚いた様子を見せたが、すぐに平然とした顔に戻った。

 美凪はその時初めて、女が柚野美穂であることに気がついた。2年の国語を担当しているので、顔を合わせることは殆ど無いものの、就任式でド派手に転んだのがあまりに強烈だったので、名前と顔は覚えていた。

 内心でビクビクしながら軽く会釈をして美穂とすれ違い、4歩ぐらい進んだあたりで息を吐いて緊張を解いた。

「ちょっと」

 心臓が跳ね、背筋が凍りついた。

 盗み聞きしていたのに気が付かれたのだろうか。もしかしたら人に聞かれると色々とまずい話をしていたのかもしれない。

 恐る恐る、震える唇を噛みながら振り返る。

「上履きは?」

 意外な言葉に思わず自分の足元を見た。

 優しげな口調で、しかし顔は怒った表情で美凪の足元を指して『ちゃんと上履きを履きなさい』と釘を刺した。なんだ と美凪は安心し、『すみません』と言って昇降口へと足早に戻った。

 美穂は二たび美凪を呼び止めることは無く、黙って職員室へと歩いて行った。




 駅前のバス停で降りた明菜とミリアは、大通りと国道の交差点に位置する喫茶店『フェリチターレ』の前で足を止めた。

 フェリチターレは主に女性をターゲットとした喫茶店であり、ケーキやパフェなどのお菓子に特に力を入れている。店内は基本的に普通の喫茶店であるが、ケーキの入ったショーケースがあるのが特徴である。誕生日やクリスマスケーキの注文も取り扱っており、()わば喫茶店プラスケーキ屋な感じだ。少し値が張るのがネックであるものの、充実したサービスと平均以上の味で人気のある店らしい。町の情報誌にも毎回掲載されている。

 実を言うと、明菜もここに来るのは今回が初めてだった。前から行って見たいと思っていたし、丁度いい機会だということで、まずここへ行こうと決めた。

 明菜はしばし店の看板を見上げた後、ミリアを振り返り、

「ここって私も初めて来るんだけど、ケーキとかがすっごく美味しいんだって」

 出発してから今に至るまでの間、ミリアの表情は怯える様子こそ薄れているが、子供らしくはしゃいだり、楽しそうな様子を見せることは一切無かった。明菜の質問への返答を除けば、一言も喋ったりもせずに黙々と明菜の後ろを歩き続けていた。

 どうせここで何か言っても返事は返ってこないだろうと判断した明菜は、踵を返してフェリチターレの店内へ足を踏み入れた。

 応対に出た店員の案内に従って席に着き、突っ立ったままのミリアに目を向けて

「座ったら?」

 言われてからようやく、片時も視線を明菜から外さずに凝視しながら真正面に座った。表情は相変わらず固く、全身に傍目にも容易に見て取れるほどの力をこめていた。

 メニューに目を走らせる。まず値段を見て少しだけ驚いた。同じような料理でもサインフェルドの1.5倍近い値段なのだ。予想はしていたものの、少しだけ後悔せざるを得ない。

 目だけを動かしてミリアの様子を窺う。じっと上目遣いで明菜を見ていたミリアは、それに気がつくや否や顔を伏せてしまった。ミリアに(さと)られない様に静かに溜め息をつき、メニューに視線を戻した。

 さっきまで平静を保っていたはずの頭の中が急に混乱し始めている。混乱のあまり、意識の一番奥にまで沈み込んでいた、本来気づくことの無い本音が、はっきりと意識された。ミリアを誘ったのは、彼女の事を色々と知りたいというのがまず一番の理由である。それは紛れも無い本当の事だ。しかしその裏に不純な動機が隠れているというのもまた事実だった。ミリアと一緒にいる恭也を見た時に脳裏に浮かんだ、幼い頃の自分と恭也の姿。もうあの頃には戻れないと分かっていながら、心のどこかで戻れればと願っている自分がいる事に気づいたとき、真っ先に浮かんだのはミリアだった。何故ミリアのことが頭に浮かんだのか、自分が一体何をしたいのか、それらがはっきりしないまま、行動を起こした。自分で自分に歯止めをかけることが出来なかった。もしもミリアが誘いを断っていれば、きっとそこで潔く諦めることができただろう。

 だが、もう遅かった。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 驚いたあまり、声が出た。取り落としてしまったメニューを急いで拾い上げた。

 いつの間にか店員が来ていて、明菜とミリアの返事を待っていた。

「えっと、ストロベリーワッフルとアイスティーを一つ」

 明菜の注文を復唱して、視線をミリアに向ける。まだ何を注文するか決めていなかったらしく、慌ててメニューのあちらこちらに視線を泳がせ、みっともない位に焦りながら考えに考え抜いた挙句、不測の事態に()って、とっさに口をついて出たかのように

「ぁああの、その、今のとおな、同じのをお願いします」

 店員は営業スマイルではない、本心からの笑みを浮かべながら二人の注文を確認して、店の奥へと足早に引っ込んでいった。

 そして再び二人の間に沈黙が満ちていく。

 その沈黙を埋めるために、明菜はテーブルの上に少し身を乗り出しながら話し始めた。

「ミリアって日本語話すの凄く上手だよね。小さい頃から日本語の勉強してたの?あの、ほら。外国人の日本語って、アクセントとか発音とかに特徴って言うのかな、クセがあるでしょ?そういうのがあんまり無いし、日本語を話す事にも慣れてる感じだし」

 ミリアは俯いたまま黙りこくっている。全身を岩の如く固まらせながら、体に対して大きな椅子の上で明菜の言葉にひたすら耐えていた。

「何か聞きたいこととかある?この街の事とか、私の知ってることなら何でも教えてあげるから」

 そっと顔を上げて、呟いた。

「恭也さんのこと」

 瞬間、腹の底に釘を打ち込まれたような感じがした。

 よりにもよって。

「恭也のことって」

「恭也さんと、どういう関係なんですか?」

 深呼吸をして平然とした様子を作り上げる。

「恭也と?うん、恭也とはね、幼馴染なの。幼稚園ぐらいの頃に知り合って、友達になって、しょっちゅう一緒に遊んでた。学校では恭也といつも一緒にグループつくってたし、恭也と一緒に下校して、恭也と一緒に遊んで、恭也と一緒に秘密基地作ったりもしたし、恭也と一緒に釣りとかもしたかな。夏祭りなんかも恭也と一緒に行ったし、何度かお互いの家に行った事だってあるし」

 自分は何故ミリアにこんな事を話しているのだろう。どういう関係なのかと訊かれただけなのだから、幼馴染と言いさえすればいいものを、何も恭也との関係の詳細を教える必要はないはずだ。もしかしたら自分はミリアに対して線引きをしようとしているのだろうか。会って一週間そこらのミリアに、10年近い付き合いの自分との格の違いを教え込んでやりたいとでも思っているのだろうか。

 だとすれば、信じられないくらいに馬鹿馬鹿しい。

 相手は年端も行かない子供だ。子供相手にムキになってどうする。そもそも相手は対等に喧嘩をする術を持っていないのだから、喧嘩を売ったところで、初めから勝負にすらならないのだ。

 頭の中の混乱を、震える息と共に吐き出す。

「でも、最近はあんまり会ってない。お互い、色々と忙しくて遊んでる暇とかもあんまり無くて」

 まるですれ違っている夫婦か恋人みたいな言い草だ。が、しかし自分と恭也がすれ違い始めているのは間違いない。

 ただ、忙しいというのは言い訳だと思う。

 本当は自分が恭也と一緒にいるのが気恥ずかしくなっただけだ。男と女が一緒に遊んでいるというだけで、そこに色恋沙汰があろうと無かろうと、そういう目で見られるのは避けられない。中学校に上がった頃になってようやくその事を意識するようになった。そうして自分は恭也を意識的に避ける様になり、いつまでも鈍感な恭也が家に来たりしても適当に追い帰していた。そうすると流石に恭也も気がついたのか、それとも避けられていることが癪に障ったのか、顔を合わせる事も自然と少なくなり、学校の廊下ですれ違ったりしても、ろくに会話すらしなくなっていった。

 原因は自分にある。

「それで、他に何か聞きたいことってある?」

 どうにかして話題を変えようと試みるが、ミリアはうんともすんとも言わずに黙りこくってしまった。

 息が詰まりそうな沈黙が訪れようとした矢先に注文した料理が運ばれて来た。

 気を取り直して明菜はフォークを手に取り、ワッフルを無作法な手つきで一口大に削り取って口に運ぶ。まずワッフルの生地の柔らかさが来て、それから少し控えめな甘さのクリームと、イチゴの酸味が広がる。噂に違わず上品な味だ。

 明菜が顔を上げた頃になってようやくミリアはフォークを手に取って、黙々とワッフルを食べ始めていた。彼女の手には少し大きいフォークが使いにくそうではあるものの、その手つきは意外と手馴れていて、明菜の目には少し上品そうに見えた。

 それに見とれている内に、ミリアは皿に盛られた二つのワッフルの一つを食べ終えてしまった。負けまいと、変な対抗心を燃やした明菜は、慌ててワッフルにフォークをどかりと突き立てて、そのまま豪快にかぶりついた。咀嚼もそこそこに丸呑みして喉を詰まらせそうにしながらも一個を食べ終える。

 その頃にはミリアは既に二個目に取り掛かっており、明菜は猛然とスパートをかけ、それに呼応するかのように、ミリアもペースを速めた。

 ミリアに追いつこうと頬張った物をまともに噛みもせずに飲み込むが、出だしの遅れは如何ともし難く、明菜が食べ終わる頃にはミリアは既にフォークを空になった皿の上に置いていた。

 更に上目遣いで『どうだ』とでも言いたげな視線を向ける。ミリアの蒼い瞳は僅かにだが、はっきりとそう言っていた。

 こめかみに青筋が浮かびそうになるのを懸命に堪えながら、無理に笑顔を取り繕って

「じゃ、じゃあさ、これからどうする?何処か他の所に行くんだったら、どんな所に行きたい?」

 相変わらず返事は無かった。



 弓道では基本動作を学んだ後に、ゴム(きゅう)と呼ばれる、20センチほどの長さの棒にゴムチューブを結びつけた簡易の弓で練習をする。いきなり弓で実践しようとすると怪我をしてしまうからだ。

 5月の終わり頃からゴム弓を使っての練習を始めて、大分慣れてきた最近では実際に弓を持って引く素引きという練習をすることもある。今日はその素引きをする日だった。

 正直、憂鬱(ゆううつ)な気分だった。

 実際に本物の弓を引くというのは最初は楽しみだったのだが、実際にいざ引いてみると、これがまた辛い。学校にある中で一番軽い、8キロの弓でも重くて引けない。おまけに顧問が、手を離すと(つる)で耳がちょん切れるなどと脅かすものだから、大きく引くのが怖いのだ。

 弓を引くときは肩の力を抜けと口酸っぱく言われるが、力を入れないと全然引けない。そして引いた後に肩の関節が痛むのも嫌だった。

「初めはみんなそんなもんでしょ」

 一緒に弓道部に入ったクラスメートの千紗は美凪の愚痴をその一言で総括した。

 三人いる一年生の中では千紗が一番遅れている。もともとの姿勢が少し悪かったのと、すり足が下手くそだったせいで、ゴム弓の段階に入るのが最後になってしまったのだ。それを意識してか、彼女は毎日自主的に練習をするようになって、常日頃から自分の姿勢に気を配っている。

 たとえ今は上手くできなくても、一生懸命やれば出来るようになると信じて日々邁進している。

 自分にはそんな真似はできない。

 無理だと思ったらすぐに諦めてしまうのは悪い癖だとは常日頃から考えているが、癖というより性格に近いそれを正すのは、そうそう易いものではないのだ。

 先輩達の射を遠い目で眺めながら美凪はそう思った。

 もう7月になって日に日に暑さが増していくが、弓道場が風通しがよく、道着自体がもともと夏向けであることから、同じ運動部と比べると随分恵まれているといえる。逆に冬場は凍えるような寒さになるのだが。

 美凪たちが道着を買ったのは5月末の頃で、弓道具店の人に納品がてらにサイズの確認を兼ねて着付けてもらった。姿見で初めて着る弓道着に身を包んだ自分を見た時の感動は今でも昨日のように覚えている。嬉しさのあまり、家に帰ってからもう一度着てみて、調子に乗って兄に見せびらかしたほどだ。ただ『馬子にも衣装』と言われてからは一度も弓道着姿を見せていない。

 よく考えたら、あの時は一体どうやって自分一人で道着を着たのだろうか。未だに帯の結び方もよく覚えておらず、一年生同士で協力し合ってどうにか着付けているのに。

 思い出したことからくる気恥ずかしさで、思わず口元が緩みそうになるが、目の前の現実への気不精さで、それもたちまち霧散する。考えるのをやめて、少し外に出ることにした。

 梅雨明けの湿度はそのままに、気温が日に日に上がっていくものだから、最近はひどく暑くなってきている。弓道場はその形態上、内外の気温などに違いは殆ど無い。ただ風が吹いてくる分、中と比べればずっと涼しかった。

 戸の横に座り込み、背中を壁に預けながら空を仰ぎ見る。

 鮮やかな水色と、柔らかそうな白い雲。夏独特の色彩に少しだけアイスが食べたくなった。



 思い出す。

 生まれて初めて着る制服に袖を通して、新生活への期待も不安も薄らいできた頃。小学校来の親友に加えて新たな友人も出来た頃。

 『学校では絶対に話しかけないで』と、兄に何度も何度も言い聞かせていた。

 兄弟で同じ中学校に通うなんて珍しくも無いし、それを言うなら小学校の時も一緒だったということぐらい、頭では分かっていた。それでも思春期ゆえの過剰な自意識は、それを良しとしなかったのである。

 さすがにトロい兄も分かってくれたらしく、(おの)ずから毎朝の登校時間を数分ずらし、学校で会ったりしても他人のフリをしてくれた。それでも学校では絶対に近づかないようにと、何度も何度も厳命しておいた。トロい兄のことだから、常日頃から言っておかなければ、余計な事をしでかすのではないかと安心できなかった。

 そうした涙ぐましい努力を続けていれば、何事も無く平穏無事な暮らしを送れるものだと信じきっていた。

 一週間も経てば学校の事はあらかた見知るようになり、無論"あの"鶴ヶ崎聡美の話も耳にするようになった。

 ―――連日のように奇行を繰り返す、校内に並ぶ者なき変人の3年生。

 当時の美凪の聡美に対する認識はその程度で、変わった人がいるもんだと思っているだけだった。

 そしてその日、事件は起こった。

 友人同士寄り集まって弁当の包みを開いている時、廊下から聞こえてくる昼休みの喧騒が水を打ったように引いていくのに気がつくと同時に、教室の後ろの扉が吹っ飛ぶような勢いで開かれ、


「1年3組37番!来生美凪君はおるかね!来生恭也の実の妹の来生美凪君!恥ずかしがらずに手を上げて返事をしたまえ!」


 予想すべき事態だったと思う。

 兄が中学に上がってからというものの、部活にロクに入ってないのにも関わらず、先輩に呼び出されて何処かに出かけ、泥塗(どろまみ)れになったり、ずぶ濡れになって帰って来ていた。あれはこの事への伏線だったのだ。

 それからしばらくの間、兄とは一言も口をきかなかった。話しかけられても徹底的に無視を決め込んで、部屋に来ようものなら物を投げつけて追い返した。兄に学校で話しかけないでと要求する理由は、『兄妹で同じ学校なのが恥ずかしい』から、『"鶴ヶ崎の腰巾着の妹"という烙印を押した兄と関わりたくない』へと変わっていた。

 そんな事などお構いなしに、聡美は毎日のように兄を呼びつけ、学校の内外を問わずに数々の問題行動を繰り広げていた。その事は当然美凪の耳に届き、何度か目にもした。聡美の楽しそうな笑顔と、聡美に呼び出されて家を出て行く兄の背中を見るたびに彼女を呪った。

 しかし怒りというものは一時(いっとき)しか続かないもので、半月も経つ頃には美凪の兄に対する態度は以前どおりに戻っていた。しかし兄への仕打ちによって二人の間に生じた(みぞ)は完全には埋まらず、ぎくしゃくした、どこかよそよそしい関係が続いた。

 それから時は流れて6月23日。

 学校の帰る途中で兄とばったり出くわした。何食わぬ顔をして、とっととその場から離れようと店を出ようとしたが、何を思ったのか後ろから呼び止められた。振り返った先には、両手にアイスを持った兄が立っていて、一緒にアイスを食べようと、わざわざ買ってきたらしい。

 しかし自分はそれを無視して踵を返して黙って去った。

 兄は何も言わなかった。

 見上げれば、鮮やかな水色の空に、柔らかそうな白い雲が浮かんでいた。

 家では前と同じように仲睦まじいのに、一歩外を出れば無関心を装わなければならないのが辛かった。昔と同じように、何時(いつ)でも何処(どこ)でも一緒で、仲良く遊んでいる頃が懐かしかった。

 多分、これからもずっとこうなのだと思う。

 いつまでも兄が自分の横に並んで歩いてくれるわけではない。いずれ兄は自分より前を歩き、少しずつ離れていってしまうのだろう。



 そんな事を思い出しているものだから、目の前の人が立っているのに気がついたときの動揺は大きかった。

 部活の先輩か、あるいは顧問の先生かと思い、慌てて顔を上げた。

 まず何よりもアオリから見る胸元のボリュームに驚いて、それからようやく女子生徒であることに気がついた。

「君はこんな所で何をしとるんだ」

 聡美だった。

 逆光が眩しくてよく見えないが、彼女は実にいい顔で笑っているに違いない。いつもそうだ。聡美が美凪と会った時は十中八九、それは嬉しそうで楽しそうな喜色を浮かべている。それこそ、初心な男子が見たら一発でオチてしまいそうな笑顔を。だがそれも美凪にとってはストレッサー以外の何者でもなく、聡美への嫌悪を増長させる大きな(いん)でしかなかった。

 こいつとは関わりたくないと思いつつも、黙って逃げたら、それはそれで何か負けたような気がして、あえて聡美に挑みかかった。

「何か用?」

 と、思いっきり嫌そうな顔をしてみせるが、聡美は全く臆した様子も無く、きっぱりと言い切った。

「何の用も無い」

 だったら話しかけるなと思ったが、言っても無駄なので腹の中に押し留めておく。

 今すぐこの場から立ち去ってしまいたいと思うが、聡美に背を向けて道場の中へ逃げ込んだら、その段階で自分の負けが決定してしまう。どうせ張り合ったところで自分に勝ち目が無い事は分かっているが、それでも自分から負けを認めるような事だけは絶対に嫌だった。

「来生君を見なかったか」

 鶴ヶ崎聡美は来生恭也のことを『来生君』と呼んでいる。

 彼女がその人の苗字に敬称の『君』を付けて呼ぶのは、老若男女を問わず誰に対しても共通していえることだが、恭也の妹こと来生美凪のことは『美凪君』と呼んでいる。

 これは、二人が同じ『来生』姓であるが故に、同じ呼び名では当然、どちらを呼んでいるのか分からないので他の呼び名を使うことにしているからだ。一時期は『来生くん二号』とか『来生妹くん』とか呼んでいたが、その度に美凪は聡美に猛抗議し、議論の末、現在の呼び名に落ち着いた。

 美凪は声に出して答える気すら起きず、黙って首を振る。聡美はフンと鼻を鳴らして『やっぱり帰ったか』と呟き、踵を返して歩き始めた。

 よせばいいのに、美凪はそれを呼び止めた。

「どこ行くの」

「家に出向いて直接、用件を伝える」

 急ぎの用でもなさそうだし、明日にでも伝えればいいのに。

 しかし、聡美は基本的に必要の無い『待ち』が嫌いである。いちいち明日になるのを待っていられなくて、今日伝えれるのなら、今日のうちに伝えてしまおうというのだろう。今出来る事は今のうちにやってしまうのが彼女の主義だ。

「電話すればいいじゃない」

「電話は好かん」

 案の定の返事だった。

 聡美が電話を使う事を嫌っているのは分かりきった事だったが、それでも言っておかなければ気がすまなかった。前みたいに電話を使うことが万が一にでもあるかもしれないし、出来る限り聡美が家に来るのを阻止したい。

 それにしても『電話は嫌い』とは、お前は人見知りの子供か。

 立ち上がって、尻の砂埃を払いながら後を追った。



 14歳の明菜は、食べ盛りである以上に昔から大飯喰らいだ。

 さすがに聡美ほどではないが、それでも食事の量は男子に勝るとも劣らないほどで、小学生の頃はよく給食のおかわりの争奪戦に加わっていた。だから彼女の弁当は普通の女子の弁当よりも大きい。初めは通常の2倍近い大きさだったものの、最近では女の子らしくないとの指摘を受けて、一回り小さい大きさのものになっている。それでも大きいことに変わりは無い。

 明菜が追加の注文をしたのは、ワッフル一皿如きの量では物足りなかったのもあるが、ミリアに対する再戦申し込みと、空威張りとしての意味合いが強かった。

「『白桃のムース』と『茄子とベーコンのトマトソーススパゲッティ』と『ミニエビピラフ』を一つずつ」

 付け合せとか合う合わないなどは度外視して、よさそうだと思ったものを3つ適当に選び出した。

 その無茶苦茶な注文に注文をとっている店員も少し引き気味だが、そんなことはどうでもいい。

 ミリアに目を向けると、やはり無茶苦茶な注文に目を丸くしている。どうしようもない事でも『勝った』という気持ちがして、胸がすく。あの小さい身体に、これほどの量は入るまい。同じ注文をして勝ち誇ったような顔をしたことへの仕返しだ。

 店員が念のためにとミリアに注文の有無を確かめる。するとミリアは暫し考え込んで、考えに考えた果てにようやく顔を上げて深呼吸一発。

「同じのをもう一つ」

 再戦申し出受諾。

 空になった皿を下げ、厨房へと向かう店員の背を見送り、ミリアの方に向き直ると、目が合うと同時にミリアは顔を伏せて視線をそらした。

 脳みその糸がちょん切れる音が聞こえたような気がした。

 何か言いたい事があるのなら言葉に出して伝えればいいのに。黙って大人しくしていれば、誰かが助けてくれるとでも思っているのか知らないが、そんなものはただの甘えでしかなく、いつまでもそれが通用していると思ったら大間違いだ。そう言って啖呵を切ってやりたかったが、そんな事をすれば、それこそ自分が不利になるだけだ。

 注文した料理が来ると、大して広くも無いテーブルの上はたちどころに埋まってしまう。

 全ての品が並ぶと同時に掴んだフォークをスパゲティの山のど真ん中につき立てた。いちいちパスタを巻きつけるのも煩わしく感じて、そのまま蕎麦みたいに食おうと思ったが、目の前のミリアが丁寧に、パスタをフォークに巻きつけているのが視界の上隅に見えたので、やめておいた。

 フォークにパスタを巻きつけ、それを口に運ぶ作業を繰り返す。もはやゆっくり味わって食べる考えは少しも無い。とにかくミリアよりも早く食べ終えるという事が最優先だった。

 スパゲッティが残り三分の一にまで減った頃、ある事に気がついた。

 ミリアの食べている『茄子とベーコンのトマトソーススパゲッティ』の皿の隅の方に、輪切りにされた茄子が寄せられていた。初めからそういう風に盛り付けられていた訳ではなく、明らかにミリアの作為によるものだ。

 つまり、

「茄子嫌い?」

 ミリアの手が止まる。肯定の意思も否定の意思も見せずに、そのまま硬直する。

「食べなきゃダメだよ」

 静かに諭すように言った。

 ミリアも食べなければならない事は承知しているようだが、それでも食べたくないらしく、フォークを握り締めて茄子と睨み合ったまま、少しも動かない。

 やっぱり子供は子供だった。

「あ、どうしてもって言うなら、私が食べてあげよっか」

 半分は虚勢だった。明菜はそんなに茄子が好きではない。どちらかと言えば嫌いの部類に入る。

 逡巡の果てに、ミリアは小さく首を振って、黙々と茄子をよけつつスパゲッティを食べるのを再開した。明菜も同じくそれに没頭する。ミリアが茄子を残している時点で明菜は勝ったも同然なので、先に食べ終えようと急ぐ必要は無い。悠然と自分のペースで料理を食べていく。

 そして明菜がスパゲッティを食べ終え、エビピラフを半分ほど食べ終えたあたりで、ミリアが追いついた。スパゲッティの皿の隅には茄子が丸々残っている。

 気にせず食べ続ける。ミリアも少し不満げな目をしながら食べ続けた。

 同時にピラフを食べ終え、揃ってムースの器を手にとって、見事に同じペースで平らげていく。

 器を置くのもほぼ同時だった。

 今回ばかりは、あの『どうだ』と言いたげな目はしなかった。

 そして重ったるい沈黙が満ち満ちていく。

「あのさ」

 深呼吸。

 息を吐いて、心を落ち着かせて、明菜は静かに席を立った。

「じゃ、次行こうか。早くしないと日が暮れちゃう」

 そう言って、引きつった笑顔を見せ、さっさと踵を返して会計を済ませに行った。




 前回の更新から既に二ヶ月以上が経過して、ようやく第8話が書き上がったので、第7話を上げることができました。

 相当な時間をかけた割には、大したものにはなってないのですが。


 今回は美凪と明菜の二人にスポットを当てて、恭也との関係をメインをしています。

 どうも心理描写は難しいです、はい。



 第8話はいつものように、9話が書き上がってから更新します。多分、三ヶ月ぐらいは先に事になるだろうと予測しています。出来る限り、早く書く所存なので、気長に待っていてください。



 それでは次回を(三ヶ月間)お楽しみに。


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