自転車チェイス <後編>
6月最後の日。
恭也とミリアがファミリーレストラン『サインフェルド』に着く頃には、既に聡美はテーブルの上に山と並ぶ料理を貪っていた。
明太子パスタにシーフードドリア、サンドイッチの盛り合わせ、大盛りのライスに加えてスープバーが並ぶ様を見て、ミリアは少しだけびっくりした様子を見せ、恭也はやれやれと溜息を吐いた。
日は既にその身を西の彼方に並ぶ山々の更に向こう側に埋めて、全身から漲る赤い光を仄かに見せるばかりで、東の空は地平線から這い出た夜の闇が覆い被さり、遠くでネオンが輝いている。
恭也とミリアが半径2メートル内に近づくよりも前に聡美は二人に気が付いて、食器を持っている手と反対の方の手をぶんぶんと振る。恭也は席に着いて、持って来た荷物を傍らに置き、それに倣う様にして隣の席にミリアが着いた。間もなく二人の前に水と氷がなみなみと入ったグラスを置かれる。
「なにか食べておくかね」
「さっき家で食べてきました」
母は町内会で帰りが遅くなるかもしれないので、出かける前に夕食にとまたカレーを作っていて、それを食べてきたのだ。ミリアの口にカレーが合うかどうか心配だったのだが、結構気に入ったらしかった。
それにしても、この人は食べすぎだと思う。これから行う事に備えての腹ごしらえのつもりだろうが、満腹になんかにしたら、いざという時に素早く行動できないかもしれないではないか。もっとも、彼女にとってこの量は朝飯前なのだが。
「それで、道具とかは」
「店の前に私の自転車が停めてあったろ。それに積んで来た」
不躾にもフォークで店の出入り口を指し示しながら言う。
そういえば変な袋を無理矢理ロープでくくりつけられた見覚えのある自転車が停めてあった気がする。
「ま、ラインパウダーは自転車に積める量には限界があったんで、いくらか体育倉庫から失敬することになるな」
わざわざそんな物を積んできたのか。
ちなみにラインパウダーとは、グラウンドにラインを引くときに使う粉末のことである。一般的には石灰と呼ばれる。
「メンバーも全員揃ったところだし、ではいよいよ出撃するとしよう」
テーブルに並ぶ料理を一気に平らげて、ぐーにした左手をぐいと目の前に突き出し
「来生くん、時計を出したまえ。時間を合わせる」
別にこれから秒単位で行動するような事もないし、そこまで切迫した状況でもないのだが、聡美は超大真面目である。
左手は付けにくいと、腕時計を右手に付けている恭也はのろのろと右手を出す。
「3、2、1、0!!」
その瞬間、聡美は脱兎のごとき勢いで伝票を引っつかんでレジへと向かい、異様な丁寧さで清算してドタドタと騒がしく店外へと躍り出る。恭也は置いたばかりの荷物を持ち上げて駆け足で追い、ミリアもその後をついて行った。ミリアが店の外へ出たときには、既に聡美は自転車のサドルに跨り、恭也は自転車の鍵を外してスタンドを上げているところだった。
「座って」
そう言いながら恭也は、自分の自転車後部の荷台を示す。ミリアは、スカートを気にしながら二人乗りの体勢で座る。ミリアの搭乗を確認した聡美は自転車のベルをけたたましく鳴らしながら地面を思いっきり蹴って自転車を発進させた。少しは恥や外聞というのを気にして欲しいと思いながら後ろを振り返り
「しっかりつかまってて」
ミリアは小さく頷き、恭也に被せられたヘルメットのズレを気にしながら、細い腕を恭也の腰にまわす。
危なっかしくバランスを取りながら、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
ここから飯嶋中学まではそう遠くない。坂道も車の通りも殆ど無くて、右を見ても左を見ても田んぼが延々と続くような、典型的な田舎の道だ。人も滅多に通らないものだから、街灯の類は数十メートルに一つぽつりと立っている程度でしかない。自転車に標準装備されたダイナモライトでは如何せん、光量に乏しく、夕闇の中の薄明かりだけがせめてもの救いだった。
よく整備されていない道は、所々に小さな段差があり、そこを通って衝撃がくる度に、ミリアの腕にきゅっと力がこもった。
恭也はそれをちょっとだけ可愛いと思った。
第5話 自転車チェイス-Lyrical Blast- <後編>
3人が飯嶋中学に着いた頃には既に辺りは夜の闇に包まれていた。
十字路の一片に設置された街灯の真下に自転車を止めて、石灰の詰まった袋を、荷台に縛り付けているロープを解きながら、山の頂上に到達した人みたいに鼻から大きく息を吸い
「明る過ぎず、暗過ぎずの丁度良い明るさだ。この冷たい空気の感触もまたいい」
今にも大声を張り上げそうなぐらいご機嫌だ。
恭也はそれを尻目に、外から敷地の中を覗いて様子を伺う。グラウンドに人影は無く、校舎のどの窓からも光は一切漏れていない。この学校に宿直というものが無く、警備員もいないというのは周知の事実である。つまり今、学校の敷地内は全く無人のはずだ。
フェンスに手をかけて、手馴れた身のこなしでフェンスを乗り越える。聡美に付き合わされて、このフェンスを越えるのもこれでもう何度目になるだろうか。
最初に侵入した恭也は、外からでは確認できない範囲を探って安全を再確認する。ほどなくして、フェンスの外で待機している二人に向かって親指を立てる。
クリア――――安全が確認された。
すぐさま聡美がフェンスへ駆け寄って袋を中へと放り込んだ後、素早い動作で音も無くフェンスを越えて行く。着地の時すら殆ど音を立てていない。この人は忍者かと本気で思ってしまった。
ミリアを最後にしたのは、彼女が初めてであるからというのもあるのだが、何よりもミリアを先に中へ侵入させると、万が一見つかってしまった時にフェンスを乗り越えるのに手間取って、外へ出る前に捕まってしまうかもしれないからだ。仮に先に侵入した二人が見つかっても、外にいればすぐに走って逃げれる。
ミリアは全身を強張らせ、緊張あるいは恐怖からか微かに震えている。
大丈夫だよ と優しく言い聞かせると、ミリアは不安そうな顔をしながら、ノロノロした動作でフェンスを登り始める。そのあまりに危なっかしい様子に、恭也は一度外に出てから後ろで支えてやった方がいいんじゃないかと思った。やっとの事で、肩までの高さしかないフェンスのてっぺんまでよじ登り、その上に馬乗りになる形になったのだが、いざ降りる段になって怖くなったのか、今にも泣き出しそうな顔をしだした。
恭也は両手を差し出して、怖くないから と呟く。その言葉がミリアの耳に届いたのかどうかは分からないが、もの凄くゆっくりとフェンスの外にある右足を上げてフェンスの中の方へと移す。ミリアの両脇に掌を入れて身体を支えてやりながら、ミリアをゆっくりと地面に下ろした。
予想以上のタイムロスだが、仕方が無い。
見つかりはしないかと焦ったせいで乱れた呼吸を整えながら後ろを振り向くと、さっきまでそこにいたはずの聡美の姿が無かった。とはいっても、聡美が今向かうであろう場所など一つしかないだろう。
「行こう。先輩が待ってる」
そう言って、グラウンドへ行こうと一歩踏み出したとき、ミリアにシャツの裾をつかまれた。
暗くて怖いのかもしれない。そう思い、恭也は裾を持っているミリアの右手をそっと握った。
案の定、聡美はグラウンドにいた。
それもど真ん中に。仁王立ちで。とても正気の沙汰とは思えないが、言ってみればそれは学校内に誰もいないという自信の表れであり、その事が恭也とミリアをほんの少しだけ安心させた。
「作戦内容は昨日話したとおりだ。ちゃんと覚えておるかね」
体育倉庫からライン引きを(無断で)借りて、聡美が持ってきた石灰で件の図案をもとにしてミステリーサークルをグラウンドいっぱいに描く。
一見、単純で簡単に思えるが、広いだけが取り柄の田舎くさいグラウンドに描くとなると、相当大変な作業になるだろう。なにしろ円一つだけでも、その円周はかなりの長さになるのだ。材料調達の折に、恭也は別に小さくてもいいのではと進言したものの、大きい方がインパクトがあって面白いし、中途半端な大きさでは格好悪いだろうと、聡美は頑として譲らなかった。
「よし、では行動開始だ」
聡美の号令と共に3人揃って体育倉庫へと向かう。体育倉庫のドアはかなりのボロで、どんなに鍵穴に鍵を突っ込んで回しても、決して鍵が掛からなくなってしまっている。修理した方がいいのではという声もあったのだが、別に倉庫の中の道具を盗み出すような輩はいないだろうし、今までそういう前例も無かったので、そのまま放置されていた。
何の疑いも無くそのドアは不審者の侵入を許し、入り口を開放する。倉庫内特有の、ぷん とした臭いが鼻についた。
鼻をつままれても分からないような真っ暗闇だった。恭也の左手を握るミリアの手に力がこもる。
恭也は肩にかけたバッグから取り出したマグライトで闇の中を照らす。右へ左へとライトを振りかざして目当ての品を探し始める。恭也はホラー映画のように橙色の光の中に異形の姿が照らし出されるという妄想をして一人で顔を蒼くする。幸い、暗闇の中であるお陰で聡美もミリアもその事に気づいた様子は無かった。
「あれだ」
聡美がさっき恭也が照らしていた闇の先を指し示す。すぐにライトをそちらへ向けると、青く塗られたラインカー―――――――またの名をライン引き が隅のほうに無造作に置かれていた。
これが無くてはグラウンドに白線は引けない。
引っ張り出したラインカーに石灰を詰めて、ちゃんと線が引けるかチェックする。3台とも問題はなかった。
「よし、まずは円を描くことから始めよう」
そう言って、バックの中から3台のトランシーバーと、30センチぐらいのアルミ製の棒と、随分長いロープを引っ張り出した。アルミ製の棒はロープの一端が結ばれている。
「ミリア君は中央でこの棒を地面に刺して固定してくれ。私はロープのもう一端を持ち、ロープがピンと張った状態を維持しつつ円を作画する。来生くんは校舎の屋上から形が崩れたりしていないか確かめてくれ」
恭也はすぐに反対した。
一人で校舎に入って屋上へ向かわないといけないのが不安であったが、ミステリーサークルをこの手で描けないのが少し残念でもあったが、何よりもグラウンドで聡美とミリアを二人っきりにしてしまうのが一番の心配だった。そもそも自分がミリアの参加に反対していたのも、ミリアの素性が聡美に知られるのを避けるためだ。なのに、これでは返って会話する機会を与えてしまっている。屋上にいては二人の会話は聞き取れないだろうし、ミリアがボロを出した時のフォローも出来ない。
何が何でも一番避けたい、最悪の状況だ。
「あの、棒を固定する役は僕がしますよ」
「年端の行かない少女を真夜中の校舎を一人で歩かせるつもりか」
反論できない。
「じゃあ石灰が切れたら、それを詰める役しますよ」
「そんなに頻繁に詰め替えるもんでもなかろう」
そうかもしれない。
「だったら僕が線を引きますよ。先輩が屋上から指示を出す役で」
どうせすぐに反論されるかと思っていたら、代わりに唸り声を聞いた。
これならいけると思った恭也はすかさず畳み掛ける。
「指示するのは僕より先輩の方が巧いと思いますよ。それに先輩が一番完成に近いイメージを持ってるはずですし」
唸り声が更に大きくなったかと思ったら、「うん」と一言呟いて
「それもそうだな。よし、では君がミステリーサークルを実際に作画する係だ」
傍らに置いていたラインカーの一つを恭也の前に置き、二人に1台ずつトランシーバーを手渡すと、すぐさま踵を返して体育倉庫の裏へと向かっていった。しばらくすると、4メートルほどの高さの梯子を持ってきて、それを体育倉庫の壁に立てかけた。
聡美がやろうとしている事はすぐに分かった。
「校舎の屋上から見るんじゃ?」
「こっちの方が近いだろうが」
まさか真夜中の校舎を一人で歩くのが怖いだけじゃないかと思ったが、聡美は夜中の墓場や心霊スポットのトンネルでも我が物顔で入っていくような人だ。それっぽっちの事を怖がるわけが無い。ただ屋上まで歩いていくのが面倒なだけなのだろう。興味がある事ならば体力底なしで、如何なる労力も惜しまないが、
興味のない事は徹頭徹尾やりたがらないのが鶴ヶ崎聡美である。
聡美はグラウンドのド真ん中――――さっき聡美が仁王立ちしていたあたりにロープを結んだアルミ棒を地面に突き刺す。
「サークルの中点はここだ。しっかり押さえるよう頼むぞ」
ミリアは黙って頷く。恭也の左手から手を離して、グラウンドに突き刺さるアルミ棒の横にしゃがみこんだ。聡美からロープを受け取った恭也はラインカーを引き摺りながら配置につく。
ロープには所々に赤いビニールテープが貼られ、それぞれに番号が書かれている。複数の同心円を描く上で、それぞれの円の半径ごとの長さの場所に目印として貼っているのだ。
恭也が配置に着いた頃、聡美は既に倉庫の屋上に上がっており、暗闇に目が慣れてきたのか、50メートルほど離れた彼女の姿を、ぼんやりとだが確認する事が出来た。
「配置に着いたな。準備はいいか どうぞ」
首から提げたトランシーバーからノイズ混じりの聡美の声が聞こえた。
「準備オーケーです。どうぞ」
「ミリアくんはどうだ」
暗闇の中で、見た事の無い機械からいきなり声が聞こえてきたことに驚くミリアが微かに見えた。慌てた様子でトランシーバーを構えて
「だだだい大じょ 大丈夫です」
どもりまくりだと苦笑する聡美の声が微かに聞こえた。
「よし、はじめたまえ」
ラインカーをゆっくりと押し始める。コンパスの要領で、緩やかな純白の曲線が大地に描かれていく。
この曲線は、やがて書き始めのところに帰って来て一つの円へと生まれ変わる。そしていつしかたくさんの兄弟と、彼らを彩るように無数の紋様達と共に意味不明の謎の模様の一部となって、この地面に刻み込まれる。
月が沈み、日が昇って、朝一番に学校に来た教員は、すぐにはその姿に気が付かないだろう。朝錬を始めようとグラウンドに集まったサッカー部の連中が、意味不明に書かれた白線に気が付き、その全貌を確かめようと校舎に上がる。登校してきた者達も次第に集まり始め、彼らは皆一様に、グラウンド側の窓に張り付いて、突如として出現した謎の図形を目にするのだ。誰かの悪戯だと言う者もあれば、宇宙人からのメッセージだの、新手の心霊現象だのと冗談で騒ぐ奴も出るだろう。多分、朝のホームルームではミステリーサークルに関する説明を求められ、教師の何人かは答えに困って狼狽するかもしれないし、適当なジョークで笑い流すかもしれない。
誰もこれを作った張本人が誰かは分からないだろう。そして自分は真相を求めて騒ぐ連中の姿を見て、密かにほくそ笑む。
これは俺達が作ったのだ、と。お前達には出来ないだろう、と。
白線を引きながら、そんな事を考えていると自然に顔面の筋肉が緩んでしまうのを意識しながらも、それを直す気はおこらなかった。
やはり自分は、こういう事をする事のが好きなのかもしれない。
遠瀬駅前の商店街の隅にある炭山駐在所で、青宮巡査は殆どスープだけになったラーメンの器の中身をまじまじと見つめながら、葉山巡査部長に聞き返した。
「はい?」
「だから、こないだのUFO目撃事件」
もともと都心部の警視庁にいた青宮が遠瀬市に配属されたのは、去年の5月の頭のことである。
上層部の不祥事の処理の一環として行われた大規模な人事整理に巻き込まれたのだが、上司と衝突の多かった青宮は、半ば八つ当たり同然に、ここへの異動命令を下された。
事実上の左遷である。
エリートコースを歩もうと画策していた青宮にとって、こんな田舎に転属になった事は、彼のプライドに大きな傷を付けた。青宮は南東に遠く見える高層ビルの群れを目にする度に、その腹いせだと言わんばかりに、中指を突き立てている。
典型的な田舎で、知人が住んでいるわけでもない遠瀬市の事を、初めは気に入らなかったが、葉山のことだけは、彼のその人柄のおかげか、割とすぐに馴染んで受け入れる事ができた。
葉山は今年で警官歴25年を迎えるベテラン警官である。齢50を超えるその面立ちには、『やさしいおまわりさん』と言っても差し支えの無い人情味が溢れていた。彼は遠瀬市で生まれ育ち、今でもこうして警官としてこの町の治安と市民の生活を守っている。だからこの町の事なら何でも知っており、時折近隣の農家から貰った野菜を分けてくれたり、生活用品が都会よりはるかに安い値段で買える店を教えてくれたりした。
植物や虫の名前も大分覚えた。都会育ちの青宮は、素手で虫に触れる事に抵抗があったが、いつの間にか、毛虫やムカデ等でなければ大概のものは掴めるようになっていた。
「やっぱ近所でも話題になってるって。こんな田舎だもの。珍しいものがあれば、みんな興味をそそられるんだよねぇ」
青宮は適当に相槌を打った。
「青宮も、そういうのに興味は?」
「ないっすよ。俺も一応、それ見たんすけどね。チラッと。やっぱあれって飛行機じゃないですか?」
「いいやぁ、この町の上は飛行機なんか通らないよ。たまに自衛軍の空港から飛んできた演習機が来るぐらい」
だったらあれも、その演習機か輸送機の翼端灯の光ではないだろうかと思うが、口にはしないでおく。
そもそも青宮自身、UFOなるものの存在については否定的である。非現実的なオカルトなど、根拠に乏しい古臭い迷信も同然だ。都市伝説みたいに無責任に言いふらして、適当な話題のネタにする程度の代物に過ぎない。
葉山は割り箸を割り、豚カツの一切れを挟んで、適当にUFOの動きを表現しながら
「あれがただの飛行機の光か人だまかは分かんないけど、もしもだよ。もしもあれがUFOだったらさぁ」
カツを皿に戻し、ソースを真上からチョボチョボとたらす。
「どっかにメッセージ残してたりすんのかな?」
「ミステリーサークル?」
「そう、それ。そのミステリーサークルが田んぼの真ん中とかにあったらさぞ面白かろうなぁ」
あ、でもそれだと稲が傷んじゃうな と、禿げ上がった頭をペチンと叩いてしゃがれた笑い声を上げる。
青宮は後ろの葉山を無視して、インスタントライスを電子レンジの中に放り込み、タイマーをセットした後、加熱ボタンを力いっぱい押し込む。そろそろこの電子レンジも交換した方がいいかもしれない。一部のボタンの反応がひどく鈍い。
思えばこの建物自体もかなりの年代ものだ。この街が炭鉱で栄えていた頃に建てられたらしく、確かに当時の繁栄振りをうかがわせる様な所もあるが、今となっては埃が積もり、錆び付いて、もはや見る影もない。
黄ばんだ天井を見上げながら、椅子の上にふんぞり返ると、すぐ横で電話が鳴った。
びっくりして、椅子ごとひっくり返りそうになるのを抑えて、受話器を取る。
「はい、こちら炭山駐在所」
決まり文句を受話器に向かって言うと、受話器から中年女性と思しき声の返事が戻ってきた。
「あらー、その声 青宮さんじゃない。こんばんは、園原です」
こんばんは と答える。つい、少しきつい口調になってしまうが、受話器の向こう側は気にする様子もなく、朗々と話し始める。
「今日の夕方のニュース見ました?またこの間のUFOがどうのって。北が作った新兵器じゃないかって言ってたけど、ありえないわよねぇ。あの国に限って。ねえ」
胃の底がキリキリと痛むのを、はっきりと感じる。ここは駐在所で俺らは警官だ。あんたら国民の暇をつぶすための窓口じゃねーんだぞ。そう言ってやりたくなるのを抑えつつ、何があったんですか と、出来る限り穏やかな口調で心の棘を覆い隠す。
「そうそうそう。さっき買い物の帰りに、飯嶋中のフェンスから中の様子を伺ってる人がいたのよ」
「・・・はあ」
「三人ぐらいだったかしら。暗くてよく見えなかったけど、確か一人だけ大きな袋みたいのを背負ってたわねぇ」
不審者の通報か。
確かに今ぐらいの時期になると、不審者の目撃件数は増加する。暖かくなって、暇人が外を出歩くようになるからだろう。
「飯嶋中の近くで不審者ですね。分かりました、すぐに向かいます」
「ええ、お願いします。では」
向こうの受話器が置かれる音と、回線が切られる音が同時に聞こえると、青宮は溜息を吐きながら受話器を直す。
何で110番じゃなくて、わざわざうちに電話をかけてくるんだ。その考え方が理解できない、したくもない。
「不審者?」
「飯嶋中で三人だそうです。一人はでかい袋を担いでたそうで」
「ふぅん」
まるで興味がないように、葉山は豚カツに向き直る。
「って、行かなくていいんすか?」
「大丈夫、だぁーいじょうぶ。いつものことだからさ」
そのあまりに暢気な物言いに、青宮は苛立ちを覚えた。
「一応、確認ぐらいはしときましょうよ。車使えば5分もかかりませんし」
「どうせ近所の悪ガキが、グラウンドにでっかい落書きしたり、度胸試しをしたりしに行ったんだろ」
そんな前時代的な話があるか。いくらここが田舎だからって、今日びの子供がそんな事して遊ぶわけがない。
豚カツを食い終わった葉山は、湯呑みに注がれたお茶を音を立ててすすり、机の上に静かに置き
「ま、夜も遅いし、危ないぞって言うてやらんとな」
と言いながら、よっこらせと立ち上がる。
青宮はすぐさま引き出しの中からキーを取り出し、隣に停めているパトカーに乗り込む。差し込んだキーを回してエンジンをかける。のんびりと葉山が火の元と戸締りを確認している間、運転席で青宮は、遠瀬市へ異動される前の、警視庁にいた頃のことを思い出していた。自動車の排気ガスの臭いと、昼夜を問わぬ騒音が懐かしい。青臭い木々の臭いも、騒がしい虫の声も、もううんざりだ。
一刻も早く、あの薄靄のかかるビル群の中へ戻りたい、戻らなくてはならない。
瞬く間にグラウンドの中心に描かれる巨大なミステリーサークルが完成した。
長くなるだろうと思っていたのに、作り始めてから完成までには、大して時間が過ぎていないような気がした。右手につけた腕時計のバックライトをつけると、デジタル表示で9時41分を指していた。作り始めたのは確か6時半頃だったはずだ。3時間半もかけて作った事になるのだが、恭也にとっては『たったの』3時間半に過ぎない。それほどまでに時間の経過が早いように感じたのだ。
殆ど中身が空のラインカーを体育倉庫の出入り口の脇に置き、ゆっくりとグラウンドを振り返る。丸めたロープを抱えたミリアが恭也の傍に駆け寄り、同じくグラウンドを振り返った。
「屋根に上れ。ここの方がよく見えるぞ」
頭上とトランシーバーから発せられる聡美の声に従い、恭也とミリアは、立てかけられた梯子を上った。
体育倉庫の屋根の上から見た、眼下に広がる光景は、まさしく非現実の化身そのものだった。
月光に照らされた大地に、ぼんやりと白い影が浮かんでいる。誰もいない、それも夜の学校のグラウンドに刻まれた幾本もの白い線は、現世に在りえぬ者の輪郭である。ある者はこれを見て、宇宙人からのメッセージととり、ある者はさ迷える霊の怨念ととり、ある者は異世界へと続く扉のキーととるだろう。つまりこれは、見た者の記憶の中に生きる数多もの非現実の世界が集う指標となるのだ。
非現実を求めて駆け抜ける女が発案し、非現実そのものの少女が形を作り、非現実を信じる少年が描いた一つの図形はそれほどの魔力を全身に漲らせていた。
猛烈な感動と同時に、腰が抜けそうになるほどの達成感が一気に押し寄せてきた。歪んでいる部分が所々にあるものの、それも気にならないほど、よくできていると思う。誰が見ても魔法陣に似た立派なミステリーサークルだ。
これを自分達3人だけで、一晩で作り上げたというのが、とても誇らしくて、嬉しくて、今すぐにでも頭上の夜空に向かって叫んでやりたい。
「素晴らしい。実に素晴らしい。これなら異星よりの来訪者も興味を持つだろうな」
あんたの狙いはあくまでそれか と思う。だが、この手の事では徹底的にこだわる聡美が満足しているという意味では、恭也にとっては褒詞の極みだった。
なんとなく、隣で立ちつくすミリアを横目で伺う。
ミリアはグラウンドを見てはいなかった。
その視線はその遥か左の、校舎へ向けられていた。校舎の影の植え込みが周期的に赤い光に照らされる。グラウンドを隔てても微かに聞こえるタイヤが砂をかむ音とエンジン音から、その光がパトライトのものであるとすぐに分かった。
警察が来た。
「やる事はやった。撤収だ」
この期に及んでもなお、落ち着いた様子で指示を出す。
一方、突然の事態にパニックに陥った恭也はそれを聞くよりも先に体が動いていた。急いで梯子を降りようと駆け出そうとした拍子に足がもつれ、不様に尻餅をつく。立ち上がるまでの間に、聡美は恭也の頭上を飛び越えて、梯子を滑り降りていった。
尻の痛みに顔を顰めながら、立ち上がる。すぐそこにミリアが立っていて、格好悪いところを見られたのだが、とにかく焦っていたのでそれどころではなかった。急いで梯子を降り、ミリアが降りてくるのを待つ。エンジンの音が止み、車のドアが閉められる音がした。早くしろと怒鳴ってやりたかったが、それではかえって警察をこちらに呼び込む事になる。
体育倉庫のドアが開け放たれたままになっていて、ラインカーも放置したままなのに気がつくが、今更なおしている暇はもう無いだろうし、無意味な行為である事は間違いない。
ミリアが梯子を下り終えると、すぐにその右手を掴んで、つんのめる様にして走り出した。振り返るって見ると、グラウンドの隅の方で人影が動いているのが見えた。彼らが既にこちらの姿を見つけ、今まさに自分達を捕まえんと迫っているかのように錯覚した。しかし実際は、グラウンドの向こうにいる恭也達を見つけられるほど暗闇に目が慣れてはいなかったし、残っている職員がいないかどうかを、校舎の明かりの有無で探っていた。
体育館の裏手に回り、目的の脱出経路を探す。体育館裏のフェンスには一部分だけ、人一人がくぐり抜けられる穴が開けられている。フェンスの先には雑木林があり、その中に逃げ込んで学校から離れた所から外に出て脱出することができる。脱出経路はこの他にもいくつか用意していたはずだったのだが、どうしてもこのルートしか思い出す事ができなかった。真っ暗な中をおぼろげな視界を頼りに走り回るが、どうしても見つからない。ライトを点けないのは、その光で見つかるかも知れないと思ったからではなく、バッグの中から引っ張り出している余裕が無かっただけだ。
どこからか人の声が聞こえた。数名の警官が何事かを話し合っている。そう遠くは無い。
フェンスにへばりつくような格好で、開けられた穴を探し続ける。もういっそのこと、フェンスを乗り越えた方が早いんじゃないかと思い始めた頃、ようやく、ぽっかりと切断された箇所を見つけた。
バッグを外に放り込み、先にミリアを脱出させる。
そのときのフェンスの音で気取られたのか、警官の足音が駆け足で近づいてくる。
心臓が別の生き物のように暴れまわるのを全身で感じながら、フェンスの穴に勢いよく飛び込む。バッグを拾い上げ、ミリアの手をとって、雑木林の中へと躍り込んだ。
木々の枝や背丈の高い草に全身を打たれながら、斜面に対して平行に――学校から出来るだけ遠ざかるように走った。
森の青い臭いと、乱れた呼吸で息が詰まりそうになる。
視界がぐるりと大きく回転し、枯葉が厚く積もった地面に顔面から倒れこみ、そのまま斜面の中を二人して転がり落ちていく。どちらが先に転んだのかも分からないまま、ミリアは恭也にしがみ付き、恭也はミリアを庇う様に抱き締めた。
気がつくと、林の横の草むらの上でミリアに覆いかぶさるような形で倒れていた。
二人とも体中に枯葉や植物の種をつけ、泥だらけになっている。
全身に感じる打撲の痛みに顔を顰めながら、左手だけで支えながら上体を起こす。近くで虫の声が聞こえ、それを除けば辺りは全くの無音。人の気配すら無い。
ふと恭也は、自分が何故こんな所でこんな事をしているのかと不思議に思った。
ああそうだ。確かミステリーサークルを学校のグラウンドに描いてて、完成した頃ぴったりに警察が来たから、学校の裏の雑木林に逃げ込んだ。
焦りと混乱で、どうも記憶があやふやになっている気がする。自分がどうやってここまで来たのかさえも、はっきりとは覚えていないし、どれぐらいここで転がっていたのかも分からない。
「あの、」
恭也の下から蚊の鳴くような声がした。見下ろすとミリアが頬をほんのり紅潮させながら恭也を見上げていた。
「・・・重たい、です」
その一言で我に返って、弾けるようにして横へ飛び退いた。また地面に尻を派手にぶつけて、そのまま後ろにひっくり返ってしまった。死にたい。何度もミリアにみっともない姿を晒してしまう自分が死ぬほど情けない。
痛みと疲弊で全身から力が抜けて、地面に寝転がったまま星の瞬く夜空を見上げた。
ミステリーサークルは完成させた。警察からもうまく逃げ遂せた。警官達がミステリーサークルに気がついたとしても、わざわざご丁寧に消したりはしないだろう。警察が来るのは予想外の出来事だったが、何はともあれ結果オーライだ。
青草の臭いの満ちる草むらの中で夜空を見上げながら、何ともいえない安堵感を感じていた。
隣でミリアも同じように草の上に仰向けになったままで空を見上げていた。
「怪我してない?」
「え、あ 大丈夫です」
派手に坂を転げ落ちたから心配だったが、ミリアを庇ったのが功を成したらしい。ミリアが痛みを我慢している様子もないし、見える範囲では怪我をしたりしている様子は無かった。こんな時間に外に連れ出した事だけでもまずいのに、怪我をさせたりなんかしたらどうなる事やら。考えるだけでも恐ろしい。
右腕を目の前に掲げる。9時57分32秒。完成したのは確か9時45分ぐらいのはずだから、あれから10分以上経っている。
そのまま腕を目の上に下ろし、空に向かって息を吐き出す。
疲れた。いっその事このまま寝てしまいたいとさえ思う。
「ほーれ、言わんこっちゃない」
体育倉庫の脇に無造作に置かれたラインカー達を照らしながら、葉山は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
青宮と葉山が通報を受けてから、飯嶋中学に到着したのは9時44分。まずは不審者目撃の通報があった事を学校に伝えるべく、残っている職員がいないかどうかを、校舎の明かりの有無で調べる事にした。結局、職員がいないと分かった葉山はとっとと撤収する事を提案したが、青宮はそれを拒否して、誰かが何処かに隠れていないかどうか確かめようとした。
だが二人が着いた頃には既に何者かが立ち去った後であり、体育倉庫の扉が開け放たれ、屋根まで届く梯子が立て掛けられ、ラインカーが放置されているだけだった。
「やっぱりグラウンドに落書きしとったんだなぁ」
懐中電灯でグラウンドを照らしながら言った。
そこには円と六芒星らしきものと奇妙な幾何学図形が組み合わさった巨大で奇怪な模様が石灰で描かれている。
それはまさしくミステリーサークルそのものだった。
「夜中にこっそりでっかい絵を描いて、次の日の朝になって学校のみんなを驚かそうって魂胆だったんだろうなぁ」
ラインカーを直している葉山の顔は、とても嬉しそうだった。まるで孫を慈しむような、心からの笑顔だった。
一方の青宮は、これをバカバカしいと思いつつも、心のどこかでこれを描いた連中が羨ましいと思っていた。自分の学生時代にはこんな出来事はなかった。ただ淡々と学校に通い、適当に日々を過ごすばかりだった。そりゃ多少は大なり小なりのイベントはあったが、これと比べると遥かに劣っている。
「不審者らしいのはおらんな。んじゃ、帰るとしようか」
「え。でも」
パトカーへ戻ろうとする足を止め、青宮を振り返る。
「近所の悪ガキが学校に忍び込んで悪戯しとった。それだけ」
そう言って黄ばんだ歯を見せてニカッと笑う。『やさしいおまわりさん』よりも『下町のおっさん』の方がずっと似つかわしい、親しみを感じる笑顔。あるいは純粋な少年のそれのようでもあった。
葉山の後に続いて青宮もパトカーへと戻る。グラウンドを過ぎて、パトカーに乗り込む直前に背後のグラウンドを振り返る。闇夜に慣れた視界の中に、うすぼんやりとした白いシルエットが浮かび上がっていた。
「すみません」
突然の背後から声に、反射的に背筋が伸びる。振り返ると、黒のタイトスカートと白いブラウスを着た女性が立っていた。20代くらいだろうか。色白でセミロングの綺麗な黒髪に、まだ少し垢抜けない雰囲気に、青宮はわずかに胸がときめいた。
「ここの職員の方ですか?」
「ええ。春から教員になったんです」
どうりで若いわけだ。
「近くを通りかかったらパトカーが停まってるから何かあったのかって心配になって―――何かあったんですか?」
「いえ、あの。近所の方から不審者を目撃したとの通報を受けまして」
女性と接する事にあまり慣れていないせいか、それとも彼女の容貌のせいか、みっともなくもしどろもどろになってしまう。自分の顔が上気してしまっているような気もするが、こう薄暗くては相手に悟られる事もないだろうから気にしないでおく。
「着いた頃にゃもうだぁれもおりゃせんかったですよ」
パトカーの助手席から葉山が顔を出した。
「後日こちらの方で連絡しときますんで、気を付けてお帰りください」
窓から首を出した様は不気味というか滑稽だった。
女はありがとうございますと一言言った後、深々と頭を下げて夜の闇の中へと消えていった。青宮は思わず彼女の姿が見えなくなるまで、その背中を見つめ続けていた。その事に気がついた葉山は首を突き出したままの状態でケタケタと笑う。
「綺麗な人やったなぁ。あんたもご縁があるといいな」
「そんなわけないでしょ。とっとと戻りますよ」
青宮が運転席に乗り込むと、葉山は首を引っ込めてシートベルトを装着する。青宮も同じくシートベルトを締め、挿したままのキーを回してエンジンをかけた。
時計は9時53分を指していた。
9時59分。
「そういえばさ」
草の上に二人して寝転がったままで、恭也はミリアに問いかけた。
「どうしてミリアは魔法使いになろうって思ったの?」
聞くところによれば、ミリアの住む世界では魔法自体は大して珍しいものでもないらしい。魔法の技術を応用した道具は一般に広く流通しているし、魔法を学ぶための学校もあるらしい。魔法は日常生活のすぐ傍に、当たり前のように存在しているそうだ。
そんな世界で、何故ミリアが魔法の道を進もうと思ったのかずっと気になっていた。
「どうして魔法使いに・・・ですか」
空を見上げたまま黙り込んで、答えを必死に探す。
数字に表せば大して遠くない過去を、本人にしてみれば結構な昔の事を思い出そうとする。
やがて、黄色がかった乳白色の半月を見上げながら、恭也の問いに答えた。
「立派な魔法使いになろうって、思ったからです」
よっぽど恥ずかしいのか、ボソボソと口ごもっていた。
一方の恭也は思わず吹き出してしまうのを抑えきれなかった。いくらなんでも『立派な魔法使い』はメルヘンにもほどがある。頭の中に天使が住まうような小学生でもそんな事は言わない。
「だから言いたくなかったですよぉ・・・」
情けない声を上げ、恥ずかしい事を言ってしまった事を散々後悔している。耳まで真っ赤にしている。
上体を起こして、真っ赤にしているであろうその顔を拝んでやろうとすると、もぞもぞと丸くなって顔を隠してしまう。その様子はダンゴムシに見えなくもない。
思わず悪戯心がくすぐられて、人差し指で背中の中央をなぞってやると、素っ頓狂な声を上げながら背中を弓なりに反らせて、顔を隠して横になったままゴロゴロと逃げていく。
「どうしてそう思ったの?」
ただの興味本位からか、それともミリアをもう少し苛めてやろうという下心からか、もう少し踏み込んでやろうとする。
「言いたくないです」
胎児のように丸まった状態で呟く。その口調は怒っているというよりも、いじけているようだった。少しやり過ぎたかもしれない。
反省とも、諦めともとれるような溜息を長々と吐く。
沈黙が耳についた。
それからどれだけの時間が経ったのか分からなくなり、恭也が聡美と合流しなくてはと思った頃、ミリアが口を開いた。
「笑ったりしませんか?」
普段のミリアからは想像もつかないような、強い口調だった。丸まったままの状態で、いつも肌身離さず持っている蒼い宝石のついたペンダントを取り出す。目の前で固く握った拳を見つめる。
内容如何によっては絶対の自信があるわけではないのだが、今のミリアの様子からして、とても笑えるような話ではないだろうと直感していた。吹き出すのも、背中をなぞって茶化すのも許されないような、本人にしてみれば切実な話であると理解した。
「笑わないよ」
横なったまま、ミリアは深呼吸をする。
「約束をしたんです」
魔法を使うには魔力適性っていう、魔法を使うための資質が必要不可欠なんです。
魔力適正は基本的に先天的なものだから、適性を持つ人と持たない人がいるし、持っている人の中にも適性の高い人もいれば、低い人もいます。だから魔法は誰でも使えるわけじゃないんです。適性の良し悪しは、その人が保有する魔力の総量が基本となるけど、術式の構築と実行速度、行使の正確性、適正な量の魔力放出などの様々な技術を総合的に見たものが魔力適性の値になります。
適性値はその人の魔法の才能とイコールになるから、適性が高い人ほど優秀な魔導士ってことです。
私の家族は高い魔力適正を持っていて、特に祖母は稀代の天才魔導士と呼ばれるほどの力を持っていました。
「だけど、そのお婆ちゃんの血を引きながら、私の適性はあまりに低かったんです」
その口調は淡々として、それでいて強い意志を感じられた。
「魔力適性は遺伝が大きく関わるものだと言われています。適性の高い者を親に持つ者は、先天的に高い適性を持っています。ときどき、適性を持たない非魔導血統と呼ばれる家系から適性を持つ子が生まれる事もありますが、それはごく僅かな例で、その値も大して高くはならないんです」
仰向けになって、ペンダントを煌々と輝いている半分になった月の前にかざす。その月光を浴びた蒼色のクリスタルが仄かに輝く。
それはミリアが魔法を使うときの発動媒体であり、ミリアが魔法使いである証でもある。
「お婆ちゃんは本当は非魔導血統の出身でした。だけどその魔力適性は歴史的に見ても、それに勝る人は一人としていなかったそうです。偉大な大魔導士と称されながら、それを鼻にかけず、自らの魔道に驕ることもなく、ひたすら世界のために―――皆の幸せのために尽くしていました。だから魔法学会内だけじゃなく、世界中の人々から魔導士のあるべき模範とたたえられ、何人たりとも寄せ付けぬ『魔導の王』とも、世界を紡ぐ『英雄』とも呼ばれていました。だから、その孫である私も高い適性を持って生まれ出るはずでした。だけどさっき言ったとおり、適性は必ずしも親から子へ遺伝するとは限りません。適性を持たない親から適性を持つ子が生まれるのとは逆に、適性を持つ親から適性を持たない子が生まれる事もあるんです」
握り締めたペンダントに意識を集中させると、はめ込まれた宝石が内側からほんの僅かだけ柔らかな光を放つ。
「私がまだ小さかった頃に、お父さんとお母さんが亡くなり、それから私はお婆ちゃんと二人で暮らしていました。魔法使いに憧れ、魔法を勉強しようとしていた私は、お婆ちゃんの勧めで魔法学校に入学しました。入学したばかりの頃は、偉大な大魔導士の孫娘だというだけで、あたかも天才魔導士であるかのような扱いを受けていましたが、私の魔力適性の低さが知られると、私を囲む視線は羨望から侮蔑へと立ち代っていきました」
不出来な子だと。出来損ないの天才だと。
やがて、その陰口の対象は私だけじゃなく、祖母にも及びました。
孫一人すら優秀な魔導士に育てられない。非魔導血統は一発屋。自分の地位を利用して孫を入学させたと。
祖母へ向けられた、それらの謂れの無い誹謗と中傷の言葉を耳にする度、私はひたすらに自分を恥じました。あれほどの魔法の資質を持ち、美しく綺麗な心を持った祖母をこれほどまで貶める自分自身を恥じました。
祖母が後ろ指を指される度に私は祖母に何度も何度も謝りました。私の魔力適正が低いばかりに、あんな悪口を言われてしまうのだと。
けれども祖母は私に優しく笑いかけ、穏やかに私の頭を撫でてくれました。
"たとえ貴女の魔導で私が貶められようとも、貴女は私を憎みはしない。
貴女は私の誇り―――たった一人の孫娘なのだから。
貴女は貴女の道を往きなさい。他者に何と言われようと、貴女が目指す道を進みなさい。"
それは祖母が信条とする魔導の姿でもありました。
私は更に自分を恥じました。そして、私は自分の信じる魔導の道を歩む事を心に誓いました。
祖母の誇りを一身に受けた我が身、我が心に依って、祖母が望む世界を共に叶えようと。魔導に因る哀しみのない世界を―――誰もが幸福で居られる世界を創ろうと。
不出来で出来損ないと蔑まれ、大魔導士の誇りでもある我が魔導の全身全霊を以って、その道を進もうと誓いました。
「そのために、立派な魔法使いになろうと?」
ペンダントに灯っていた光が一瞬だけゆらぎ、ミリアは静かに首を振った。
「あのときはまだ、立派な魔法使いになるというよりも、お婆ちゃんと一緒に世界のために尽くそうとだけ思っていました。誰からも認められるような魔法使いになろうとまでは考えてはいませんでした」
息を整えるように、深く息を吐く。
「私が立派な魔法使いになろうと決心したのは、それから暫く後の事です」
その頃、世界中の国々で小さな紛争がいくつも起きていました。
勢力均衡の崩壊、政治の駆け引き、国政への不満、土地や資源の奪い合い、宗教観の違い、植民地からの独立。
紛争の理由は様々で、規模も大小ありましたが、どれも初めはごく小規模なものでした。けれど、その内のいくつかは規模が拡大して他の紛争とも絡んでいったことで次第に争いは大きくなっていき、やがてそれらは一つの大戦争へと収束していきました。
術者自身の体内、あるいは大気中に含有される魔力素を用いて様々な作用を発生させる技術体系―――魔法。
適性によるものが大きなウェイトを占めますが、その理論を正しく理解した上で、使い道を誤りさえしなければ、とても便利で、この上なく素晴らしい技術です。
ですが、逆に魔法はとても大きな危険性と問題を抱えています。
魔法は武器としても優れているんです。
魔力の伝導性の高い物であれば、何であろうと魔法の発動媒体として使う事ができるので、剣などと比べて持ち運びに優れ、隠すのも簡単です。魔力の刃を発生させれば簡単に剣になりますし、弾丸を作り出せば遠距離から正確に相手を撃ち抜くこともできます。資質が高ければ、媒体がなくても魔法の発動が可能なので、術者自身が凶器となり得るのです。
その戦争では、優れた魔導士が何人も戦場に赴き、魔法を駆使して戦いました。魔法で身体能力を高めて白兵戦を仕掛ける者。膨大な魔力を放射する砲撃魔法で敵を薙ぎ払う者。様々な魔導士が様々な魔法を用いて多くの命を奪いました。
その魔導士たちの中に、私の祖母がいました。
何故、祖母が魔法を以って戦場に赴いたのかは分かりません。
あれほど魔法の素晴らしさを説き、人々の幸福のために魔法を行使してきた祖母が何故、人の命を奪う戦場に立ったのか理解できません。
魔法によって人の命を奪うためではなく、魔法によって戦争を早く終わらせたいと願ったからでしょうか。だとしたら何故、"戦場"に立ったのでしょうか。
戦場に立てば否が応でも人を傷つけてしまうはずです。祖母はそれを理解していたはずです。それなのに、祖母は戦場に赴きました。
初めは後方で怪我人の治療に従事しているのだと思っていました。けれど祖母は常に戦場の最前線に立っていたそうです。
「戦争が終わって、お婆ちゃんが帰ってきたら、どうして戦場に立ったのかを訊こうと思っていました。だけど結局、その理由を訊くことはできませんでした」
言葉の意味を、恭也はすぐに理解した。
「ただ、お婆ちゃんが戦場に行く前の日にこう言いました。魔法は人を幸せにするためにあるもので、人を不幸にしたり傷つけるためのものではない と。そしてお婆ちゃんは、絶対に魔法を傷つけてはならないと、何度も何度も繰り返して私にそれを約束させました。それは多分、自分が魔法で人を傷つけてしまう、人の命を奪ってしまうことを理解した上で、それと同じ事を私が繰り返してしまわないようにするためなんだと思います」
灯っていた光が徐々に薄らいでいき、やがては完全に消えた。
「今までこの話は誰にもしたこと無かったです。この事を思い出すと、どうしても辛いから。でも実際に恭也さんに話したら、少しだけ気が楽になった気がします」
ペンダントをしまう。
「笑わないで最後まで聞いてくれて、ありがとうございます」
とても笑えるような話じゃない。
才能があまり芳しくないばかりに周囲からは散々に言われ、それを自分だけではなく、唯一残された誰よりも尊敬していた家族にも言われ、更にその家族すらも戦争で喪った。
どこを笑えと、何を笑えというのか。
頭の中に天使が住まうような小学生でも考えないような、メルヘンにもほどがあるようなミリアの夢の中には、本人にしか分からない痛みが深く刻まれていたのだ。ミリアが自分の夢を話したときに恥ずかしそうに顔を隠していたのは、あるいは泣き出しそうな自分の顔を隠そうとしていたのかもしれない。
恭也はゆっくりと立ち上がり、バッグを拾い上げた。
満天の星空の中に、半分に欠けた月が、ミリアのペンダントの放つのとよく似た光を静かに放っている。その光を頼りに雑草の生い茂る斜面を下って道路の上に出る。
「先輩と合流しなきゃ」
実際のところ、この場の雰囲気にいたたまれなくなった事への言い訳なのだと思う。
ミリアは両手でごしごしと目を擦りながら立ち上がり、恭也の元へと駆け寄った。さりげなく差し出されたミリアの右手を恭也は優しく手に取り、青白い光に照らされた道路の闇の中を歩いていった。
セミが鳴いていた。
夏が近い。
という訳で『LyricalDespair』第5話でした。
今回の学校へ忍び込む過程は、ここだけの話私の実体験をもとにしています。 さすがに警察が来る様なことはありませんでしたが、警報装置を鳴らしてしまって猛ダッシュで逃走していました。
恭也の反応はある意味私のリアルな反応でもあります。
それでは次回をお楽しみに。