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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

パイプライン

作者: 斉藤ハゼ

 空は雲七割、青三割。梅雨の晴れ間、雨の降る気配はないけれど、湿度が高くて息苦しい。さっきの会話の空気みたいだ。


「せめて、終業式までいられたら」

「いろいろご迷惑おかけしました。夏休み中に隙を見てまた来ます」


 学校を出てもまっすぐ帰りたくなかった。帰る? どこへ?

 そんな遠くへ行くわけではないけれど、住み慣れた町を離れるというのは子供にとってなかなかの一大事だ。この制服ともお別れかな。青緑のベスト、ブラウスに臙脂のリボン、青緑のボックスプリーツスカート。通称アオミドロ色。

 普段と違う道を使うようにと、くどいほど念を押されていたので、通学路と外れた道をぶらぶら歩く。先生、泣いてたな。いいんだよウチヤン。最初はあなたに話すつもりはなかったし、平等じゃないにせよ、三十三人の子供を見る立場からしてみれば、私一人の小さな変化に気づけという方が無理だ。


「お、そうだ」


 この道の先に、一度行ってみたかった素敵ポイントがあったのを思い出した。マニア心に訴えかける存在だ。どうせ今日でこの辺りとはお別れなのだ、いっちょ行ってみるか。よーい、ドン、と頭の中で景気づけの号令をして、走りだす。今日のスクールバッグは軽い。ロッカーの中身は送ってもらえるので、バッグはほとんど空。携帯電話と筆記用具と、そんなもん。自慢じゃないが私の足は速い。あっという間に、茶色の建物の入り口まで辿り着いた。古い感じのするマンション。この辺りでは目立って背が高い。何階建てだろう、八階……かな。これくらい古けりゃオートロックはない。ま、あっても大丈夫だけど。エントランスをくぐる。ずらりと並ぶステンレスのポストと、名字のプレート。一つ一つに誰かの生活。その中を抜けて、奥にエレベーター。どこのマンションも大差ない。後に鉄筋マンション造りなんて呼ばれて、その時代の私たちみたいな子供がそれを暗記するのだろうか。

 誰もいないエレベーターに乗り込む。階数表示は1、2、3、4、5、6、7、8。欠けることなく、八階建て。大当たり。迷わず8のボタンを押す。まるでここにずっと住んでるみたいに、すっと指をまっすぐ押せたことに満足する。耳を澄ませると、キリキリギリギリと何かのきしむ音がする。ロープが巻き取られて私の身体が上っていく。

 チーン、と想像よりもずっと高い電子レンジみたいな音がして、びくっと身体が跳ねた。せっかく綺麗にボタンが押せたのに。これじゃやっぱり不法侵入者みたいだ。

 経験上、行き方は中から行くか外から行くかの二種類だ。もちろん前者が望ましい。この建物の古さなら期待できそうだと、マンション育ちの勘が告げている。なんとなく、わかる。友達を訪ねてきたような顔をして八階の回廊を巡っていく。佐藤さん、長束さん、海野さん。いろんな表札。エレベータを出て右に半周したところで、それを見つけた。目的地への扉だ。ノブにそっと手をかける。鍵はかかっていない。珍しい。くすんだ鉄扉を押し開けて、埃くさい階段を登る。不思議なほどそわそわする。最後の扉を一気に開ける。そこにはうすぼんやりとした空と、物置があった。


 マンション育ちにして屋上マニアの私に言わせれば、屋上に物置ってのは確かに珍しい部類ではあるが、かといってさほどのレア物件というわけでもない。ここはわりと人の出入りがあるタイプの屋上なのだろう。ラッキー。だけど、周囲はしっかりとした金網のフェンスで区切られている。ややがっかり。せっかくの景色が金網ごしにしか見えないなんて。


「ぬう」


 フェンスの高さは学校のドアなんかと同じ、一メートル八十センチといったところで、ジャンプすれば囲いのない町の風景を見られるかもしれない。バッグのポケットから携帯電話を取り出して、カメラをなんとかフェンスの外に出せるよう、ジャンプを繰り返す。

 ところが、撮れた写真はどれもこれもひどくぶれていて、私の願っていたような写真は撮れそうにもない。


「ぬぅ」


 空がみたい、区切りのない空がみたい。空とつながった海や、空に手の届きそうな山をみたい。


「よいしょっと」


 面倒くさくなってフェンスを登ることにした。水に泳ぐ部だが、高いところだって大歓迎だ。バカだからな。ぎゅっぎゅっ、と金網を鳴らしながら空へ近づいていく。


「やめてっ!」

「わぁ!?」


 半分も上ったところで、いきなり腰を強く引っ張られた。危ない、死ぬ!


「わっ死ぬっ死ぬっ!」

「死なないで!」


 金網にしがみつきながら振り返ると、同じくアオミドロ色を着た女の子が私の腰にしっかりと手を回していた。ぐいぐい私の身体をフェンスから引きずりおろそうとしている。


「ま、待った待った、引っ張るのやめて!」

「ダメーっ!」

「ダメなのはこっちだー!」

「ダメったらダメー!」

「だぁぁぁ!」


 つま先が金網からぽこんと外れて、そのままコンクリートの上にもんどりうつ。尻が痛い。尻以外も痛い。携帯電話どっかに飛んでった。なんなんだ。投げやりな気持ちになって寝転がっていると、ぎゅっと手をつかまれた。温かい。


「死なないで……?」


 真上から覗きこまれた。逆光でよく見えないけど、さらっさらの長い髪、目に涙を溜めた純真。


「だから死なないってば」

「だって、さっき死ぬって」


 そりゃおまえが引っ張るからだ。


「あー……私三年の関端。生徒会長ですが」


 もう辞任だけど。


「生徒会長さんが死のうとするなんて」


 死なないっての。


「で、えーと?」

「あ……三年……の、ナツカ」


 同学年か。よく見れば名札のラインが三本だ。やっと彼女が腕を離してくれた。仰向けにごろり、と寝転がる。やあ、空がバカみたいに綺麗だぜ。曇ってるけど。


「はぁあ……」


 背中のコンクリートがほかほかと気持ちがいい。これが昼間だったらあっという間に汗が噴き出して、女学生の干物ができるところだが、まだ七月だし日も西へ傾いている。少しだけ昼間の青より薄い空。


「えーと……ごめんなさい、でも死んじゃ、ダメです」

「死にませんてば」

「じゃあ、どうしてフェンスなんか登って」

「そりゃあ……フェンス、邪魔だったんだもん」

「なかったら危ないじゃないですか」

「でも、さ」


 私と空の邪魔をするんだもん。あの錆びた野郎どもが。


「あ、そこの携帯とって」


 コンクリートに転がっていた携帯電話を指さす。やけくそのように付けた着ぐるみキューピー軍団がぶらさがっているので、すぐに見つかる。たらこを着たやつ、カニを着たやつ、マリモを着たやつ。キューピーとキティは衣装を選べ。


「はい」

「サンキュ」


 すぐにバランスを崩したがる携帯電話を開いて、さっき撮った写真を見せる。


「何ですか、これ」


 画面に写っているのは、灰色と錆びた緑のぐちゃぐちゃにぶれた何か。これでわかったらエスパーだ。


「フェンスのない、風景を撮った、つもりなんだけどさ」


 よいしょっと反動をつけて飛び起きる。フェンスへ近づいて高く手を伸ばす、が、無情にもフェンスのてっぺんには遠く手が届かない。自慢じゃないがチビなのだ。


「こうやって、手を伸ばして携帯電話を持っても、まだ、フェンスが越えられなくてさ」


 その場で、軽く跳ねてみせる。


「こう、」


 ぽーん。スカートと前髪が跳ねる。


「やって、撮っ」


 ぽーん。キューピーもてんでに跳ねる。


「った……わけ」

「はぁ」


 彼女は、珍しい動物を見たかのような顔をしていてた。ツチノコとか。ツチノコを着たキューピーとか。


「会長さんて、もっと、いろいろ考えてる人だと思ってました」


 どういう意味だそれは。


「何も考えてないよ。テストの点数もよくないし、勢いで生きてる」

「あ、そうだ。肩車……しましょうか」

「え」


 向かい合って立ってみれば、彼女の身長はゆうに百七十センチ近くありそうだ。私と二十センチ以上の落差。


「や、肩車はこわい、かな」

「じゃあ、おんぶとか」

「うーん」


 おんぶってすごい久しぶりに聞いた響きだぞ。どんな感じだったか、もう思い出せない。よし。靴をぱっと脱ぎ捨てる。ハイソックスで立つと、足の裏にも日中のぬくもりが伝わってくる。


「想像より重かったらごめん!」

「がんばります!」


 彼女が背中を私に向けた。肩に手をかけて、せーのっ、で反動をつけて腰骨のあたりにうまく乗るように意識する。


「わ!」


 ナツカさんの足元がちょっとふらつくが、すぐに私の尻の下に手が組まれた。安定感。


「重くない?」

「大丈夫!」


 ぐっと高くなった目線。フェンスを越えることはできないけれど、彼女の肩に顔を近づけると彼女と同じ目線になれる。彼女が数歩フェンスに近づいてくれた。


「ここでいいよ」


 片手で携帯を取り出して、高く天へ差し上げる。私の腕がフェンスを越えた。


「すぐ撮るから」


 画面も確認しないまま、シャッターボタンを連打した。ピロリン、ピロリン、ピロリン、と愉快な音が鳴る。たぶん、一枚くらい何か撮れているだろう。


「降りるよー」

「どうぞ」


 飛び降りようかと思ったら、彼女がうやうやしく床に膝をついてくれた。お姫様みたいだ。その仕草につられて、私もゆっくり丁寧に降り、携帯&キューピー軍団をバッグにしまう。


「あれ、写真、見ないんですか?」

「うん、なんかもったいないから、あとで」

「ああ、そうだ。会長さん」


 彼女が私にくるり、と向き直った。長めのスカートが綺麗に回る。ちょっと儀式めいた仕草。創作ダンスみたいだ。


「いらっしゃいませ」

「あ、あ、お邪魔してます!」


 にっこりと笑われた。なんだか急に不法侵入してきた自分が恥ずかしくなる。


「あの、せっかくなので、なにか飲み物でも」

「冷たいもの大歓迎」

「わかりました」


 彼女が物置の方へ向かって駆けていった。物置だと思っていたが、入り口はガラスの引き戸でご丁寧にカーテンまで掛けてある。ちょっとした家みたいだ。

 靴下のまま、またコンクリートの床にごろりと寝転がって空を見る。いい眺めだ。空を見るなら高いところに限る。だけど、どこまで登れば空にたどりつくんだろう。


「こんなのしかなかったですけど」


 缶コーヒーを差し出された。ほっぺたにあてる。


「ひゅう」


 よく冷えている。冷え冷えだ。コンクリートに寝そべった私のそばにナツカさんもぺたりと座る。プルタブを引く破裂音が二つ、空に響く。


「いただきまーす」


 と、景気よく言ったものの、一気に飲み干すこともできず、腹ばいになってちびちびとすする。名前のクセに私はコーヒーが苦手だ。なぜ人は苦いものを飲むのだ。薬か。薬なのか。彼女もゆっくりと飲む。白い喉。上品だなあ。


「あのう……会長さんは、どうして、ここに」

「屋上っていうか高いところが好きなんだよ」

「だからって、フェンスを越えたらダメです」

「じゃまだったんだもん」


 あのフェンスのやつが、私と景色を分けへだつのが気に入らなかったんだ。


「フェンスが?」

「フェンスが」

「受験の重圧で、自殺を考えていたわけでは……?」


 おっと。今とびっきりステレオタイプな何かが通り抜けていったぞ。


「ないですねえ」

「ほんと?」

「しにません」


 彼女はふぅ、とため息とも笑いともつかぬような息をもらした。


「勘違い、してました」

「いえいえ、こちらこそ」


 元はといえば、他人のお宅でフェンスに登っていたほうが悪いわけで。


「あれ、秘密基地みたいでかっこいいよねー。ナツカさんの部屋?」


 物置? を指さす。屋上に自分の部屋があるなんて超サイコーじゃないか。


「部屋というか……そうですね、勉強部屋」

「ここのマンションに住んでるの?」

「はい……ここは、祖母が大家をしていて、それで私が勉強するための場所として作ってくれたんです」

「見ていい?」

「変わったもの、何もないですよ」

「でも見たいな」


 ガラス戸を開くと中は四畳半ほど。殺風景で、飾り気も統一感もない部屋だ。壁は白い板で出来ていて、こういうのをプレハブっていうのだろうか。家具は小さい冷蔵庫、クッションが二つ、ダンボールが一つ。それだけ。ローテーブルの上には参考書やノートが広げられていた。壁に二枚だけポストカードが貼ってある。山からの眺め、海の眺め。たわいもない風景写真。


「へぇぇほんとに勉強部屋! だ」

「うん。毎日伯父さんが掃除にくるし」

「うぉっと!?」


 私はあわててばっと身を起こした。今にもその人が来そうな気がしたのだ。


「大丈夫、だいたい午前中だから」


 そりゃ一安心だ。


「勉強中に邪魔して悪かったね」

「いいんです、どうせ勉強くらいしかすることないし」

「志望校とか、もう決めてる?」


 私の問いに、ナツカさんは黙って首を振った。


「私、高校生になる頃どこにいるかわからないので」

「引っ越し?」

「ううん」


 彼女はまた首を振る。長い髪の毛がさらさらと揺れる。プールの塩素で焼けた私の髪と大違い。


「会長さんは」

「その、会長さんっていうのもいつまでも違和感があるので」

「じゃあ……たしか、セッキーさん」


 うっ。去年の自分よ、なぜ生徒会長選挙にあだ名で知名度アップ戦略を取った。


「あの、できれば、セッキーでお願いします」

「それも恥ずかしいので」


 セッキーは恥ずかしいあだ名だったか。


「セッキーさん、はどこか行きたい高校、とか」

「うーん……真似じゃないんだけど、私も引っ越すんだ。でも、行きたい学校はある、かな」

「水泳の強いところとか?」


 おお、今年の大会には出なかったのに、私が何者かよくご存じだ。


「や、その。そういうんじゃなくってさ……笑わないでほしいんだけど」

「笑いませんよ」


 ちびり、とコーヒーを口に含む。


「高専に行きたいんだ、私」

「セッキーさんは理系、なんですか?」

「うんにゃちっともさっぱり」


 あえて五教科限定で得意を挙げるなら社会。


「ああ! ロボットを作りたいとか」

「ウチヤン先生も同じこと言ったよ」


 そうだよな。やっぱり高専に行きたいなんて言ったら、みんなそう思う。なにか、やりたいことがあるのだと。


「寮に……入りたくて」

「寮、ですか」

「うちの県の公立校で、寮があるのって高専だけなんだ。だから」

「寮、ですか」

「そう、学校の寮」


 彼女が手の中の缶を見つめながら、何度も寮、そうか、寮、とつぶやく。


「えーと、ナツカさん?」

「私も受けます、高専」

「えぇぇっ!?」


 今の話の流れで言ったら、ナツカさんも寮に入りたいってことでいいのか?


「セッキーさん……私も、寮に、入りたいです」


 彼女がまっすぐ私を見ていた。


「ちなみに高専、山のほうと海のほうと二つあるよ」

「えっ! セッキーさんはどっちにするんですか」

「まだ、決めてない」


 どっちでもいいんだ、山だろうが海だろうが。自分の意思でどこかへいけるならさ。


「海ならたくさん泳げるかな。でもねえ」

「でも?」

「笑わないでほしいんだけど」

「笑いませんってば」

「私、海に行ったことないんだ」

「水泳部の部長さんが?」


 やっぱり言われた。


「プールでなら、毎日何キロも泳いだけどね」

「そっかぁ」


 この町から海は遠い。どこまでも見える気がするこの屋上だって、家、田んぼ、そんなものが続いているばかり。かろうじて遠くに電車が見える。そして山の連なり。後ろは川と、やっぱり、家、田んぼ、山でおしまい。


「ここは山も海もないよねえ」


 ごろごろと転がる私を真似するように、彼女もおずおずと寝転がる。スカートがぱっと広がるように、少し足を広げてみる。雲からこの屋上を見たら、アオミドロの花が二つ咲いているみたいだろう。


「空は、あるのに」

「空しか、ないですね」


 夏一歩手前の空気。まだ梅雨の香りがする。これがもっと暑くなると、とたんに土臭くなる。

 雲の切れ間に出来たささやかな青空に、綿菓子のようなうっすらとした雲が浮かび、ゆっくり形を変えていく。何の形にも似ていない、しいていえばナデシコとか曼珠沙華とか、ああいう線香花火みたいな花に似ている。

 すっと、私の指先に彼女の指先が触れた。


「あの……セッキーさんは、自分のお名前、気に入ってますか?」

「名前かー。うーん、よく読み間違えられるのがヤだけど、それをのぞけば好きでも嫌いでもない。もう、私の名前! って感じ」

「お名前、聞いてもいいですか」

「んーとね、萌えるに、果物の果って書いて、モカ」

「モカさん」

「よくモエカって言われるけどね」


 私たちの年頃には、萌ちゃん萌美ちゃん萌絵ちゃん、そんな名前の子供が多い。


「ま、ちょっと変わってるかなあ。ナツカさんは?」

「私は……あの。えーと。愛に里、木偏に西って書いて、栖っていう字で」

「アリス?」

「ううん、アイリス」


 そりゃ珍しい。私たちの年の頃から変わった響きの名前の子供が増えてきたそうだけど、それでもまだ萌、美咲、葵、そんなものだ。


「その名前、気に入ってる?」

「うーん、正直、微妙だとは思ってます。ただ、父も母も別々の人と再婚した都合上、祖母の養子になるかもしれなくて」

「ようし?」

「養子。戸籍上は、祖母が、親になる……のかな。そういう手続き」


 なんか急に重い話になってきたぞ。


「あのさ、私はいいんだけど、ナツカさんはいいの? 私なんかにそういう大事な話」

「話す相手、いなくて」


 自分にとって切実なプライベートの重みを誰に話したらいいかは、私もずいぶんと悩んだ。

 先生に家庭の事情はあまり話せない。親に「よけいなことを子供に吹き込んだ!」「家庭の事情に口を出すな!」と教育委員会にでもクレームを言われたら大事だ。先生だってモンスターから身を守らなくてはいけない。そう思った私の配慮がウチヤンを泣かせてしまったけど、でも、半年しか付き合いのないウチヤン先生には、私だってなかなか話せなかった。

 かといって、クラスや部活の友達がそうした相手にふさわしいかというと。高速で飛び交うメールはつながってるっていう安心感はくれるけれど、心の奥底の本当の悩みはうまく伝わらない、気がする。少なくとも私はバカだから、うまくメール用の言葉にならない。

 自分の心の奥にある言葉にならない淀みを、友達に見せて、嫌われてしまったらどうしようとも思う。あくまで、お互いに気分よくおつきあいできるから、お友達なのかもしれないし。私は、水泳部の連中が相談にのってほしいって言ったらうれしいけど、向こうが同じように思っているかはわからない。

 怖いんだ。本当は脆いつながりだって、知るのが怖い。


「だからね……よかった。セッキーさんが来てくれて」

「うん……」


 彼女の指先を軽く握り返す。時間から考えれば、日はそろそろ落ちるはずだが空は奇妙に白く白く明るい。夜が来ないんじゃないかと誤解しそうなくらいに。


「あ、あのさ、私も、セッキーじゃなくなるかも。ちがう苗字に変わると思う。だから……モカでいいよ」

「モカさん」

「ハイ」

「私は……苗字は変わらない、かな」


 彼女が空を見上げた。絡めた指をもっと深く組み合う。


「ただ、祖母が……私の名前を嫌いで。私が小さい時から、ずっと、『アイ』ってしか呼んでくれない。ママのことが嫌いだから、ママのつけた私の名前も嫌いみたい、で。あなたの名前はよくない画数だとか、苦労するでしょうとか、似合わないわよ、とかさんざん言って、裁判所に申請したらそんな変な名前変えられるから、変えなさい、お祖母ちゃんが素敵な名前にしてあげるから、って」


 彼女の顔は見えないけれど、気持ちはよく見える気がした。指先から、悲しみや苦しみや、言葉にならない電流が伝わってくる。小さくふるえる彼女の身体。


「ね、こっち向いて」


 私が小さく呼ぶと、彼女は身体ごと私のほうへ向き直る。口づけるまで、あと十センチの距離。綺麗な頬にひとつだけぽつんと差したニキビの赤らみ。その上を涙がすうと通っていく。不思議に胸の奥が痛い。彼女の小さな頭を、涙ごと抱きかかえた。ブラウスの胸元が少しだけ濡れる。私の心臓の音、聞こえるかな。


「モカ……さん」


 ただ、ぎゅうっとしてあげたかった。こういう気持ちになんて言葉をつけたらいいかわからない。誰も自分の都合でだけしか、彼女を見ていない。『愛里栖』なんてちょっと生きるのが面倒くさそうな名前を平気でつけるお母さん。彼女を置いていってしまったお父さん。彼女の名前すら否定してしまうおばあさん。


「アイリスって、いいじゃん。かっこいい」


 背の高い彼女が立った様は、青紫のアイリスさながらにすっとしていた。ぴったりの名前だと思う。


「モカさんだって」

「でもさぁ」


 ちょっと顔をはずして目を見る。頬は少し涙の跡が残っていたけど、今はもう大丈夫、泣いていない。


「私、また、笑わないでほしいんだけど」

「笑いません」

「コーヒー、飲めないんだ」

「えっ」

「母親がコーヒー好きでさあ、それでこんな名前ついてるけど、私はぜんぜんダメなの。あ、缶コーヒーはまだいいんだよ」


 遠くの評判の店から豆を仕入れ、ごりごりとアンティークな手動ミルで挽く。それをサイフォンにセットして、息を詰めるようにお湯を注いで、香り高いこだわりの一杯が生まれる……のはいいのだけれど、私は母渾身の味がまったく美味しいと感じられない。とにかく苦いし、ちょっと酸っぱいし、お腹が痛くなる。牛乳や砂糖を入れることなど絶対許されない。それは『冒涜』なんだそうだ。


「ね、こうやってくっついてて、暑くない? あと私、汗くさくない?」

「ううん、モカさんとは……平気」

「よかった。汗っかきなんだよね。早く泳ぎたいなー」

「もう学校のプール、始まってないですか?」

「あ、あのね」


 彼女には嘘を言う必要もないや。ベストを脱いで長袖のブラウスのボタンをぷちぷちと外す。全部外して、背中が見えるように脱いでしまう。中はスポーツブラしかしてないけど、どうせ周囲にこの建物より高いものはない。


「モカ、さん?」

「首の下のとこ、これは火傷の跡。コーヒーかけられた」

「コーヒーって!」

「そう」


 彼女ならわかってくれるだろうと思った。私は母に暴力を受けている。父が五年前に死んで以来、私は母と二人きりで暮してきた。だから、私は母から自分を守る術がわからなかった。


「これでもね、だいぶ綺麗になったんよ。去年はもっと……傷だらけだった」


 去年頃から次第に母が荒れ、しばしば私に手を上げるようになった。私の身体には傷が目立つようになり、次第に泳げなくなってしまった。水着姿になれば、傷を隠しようがない。


「私ねぇ、今日は学校にお別れに来たんだ」

「え!」

「生徒会長なのにね。ま、家庭の事情ってやつで転校するの」

「ひょっとして……お母さんから逃げるためですか」


 わかる人にはすぐわかっちゃうな。


「うん。お父さんの弟って人が助けてくれてさ」


 私が児童相談所に一人で電話をかけた時、誰か信頼できる大人はいませんか、と言われて真っ先に思いついたのが、毎年お父さんのお墓参りに来てくれる叔父夫婦だった。


「傷、痛みますか」

「たまに、ね。でも、もう触るくらいならへいき」

「触っても、いいですか」

「……いいよ」


 火傷でひきつれた肉の盛り上がりに、おそるおそるといった風で彼女の指が触れた。私には見えない柔らかな隆起を何度も、丹念になぞっている。ぞくぞくとした感じが背中を伝う。


「ひどい」

「大丈夫、もう、痛くないから」

「でも」

「大人になれば、だいぶ目立たなくなるってお医者さんも言ってたし」


 私のむき出しの肩に両手が置かれた。さっきよりもっと熱と湿り気を帯びた、柔らかい何かが傷の上を這っている。


「ん……」


 少し、ひりひりする。彼女の吐息が間近にある。


「はやく、なおりますように」


 柔らかな髪が背中を時折、くすぐる。


「はやく……なおりますように……」


 ああ、私、キス、されているんだ。この優しい何かは、彼女の唇、彼女の舌。


「今度は、私がぎゅうっとしてもいいですか」

「うん……」


 後ろから腕が回される。ナツカさんの中にすっぽりと包み込まれた。彼女の手をそっと握る。胸のあたりがぎゅっと痛くなるような、目の奥が熱くなるような。首筋にまた、何かが優しく通り過ぎていく。


「こうして誰かとくっつくのって、いいね」

「子供の頃、誰かがしてくれたはずなのに、はじめてのような気がします」

「今だって、子供なのにね」

「そうですね」

「いつから、大人になれるのかな」

「大人に、なりたいですね」

「うん……」


 どんなことがあっても心を痛めない大人に。誰かのつらさを抱きしめるだけじゃなくて、もっと具体的な何かで救える大人に。

 彼女の身体にもたれかかってみる。重たいかもしれない、でも、今は寄りかかりたかった。髪の毛を手にとって、さらさらともてあそぶ。指からするりとすぐに黒髪が流れて落ちてしまう。いい匂いがする。香水や制汗剤のような人工的な香りではなく、人らしいふわりとした何か。


「私さー……屋上が好きなんだ」


 彼女に身体を預けたまま、空へ両手を伸ばす。


「屋上へ行けば、どこか、知らないところに行けるような気がしてさ。おかしいよね。屋上は行き止まりなのに」

「私は……牢屋、みたいだと思ってました」


 金網に囲まれた空。眺めはいいけれど何も手に入らない。


「今日で引っ越すのに、そこじゃないどこかへ、行きたいんだ」

「どこかって、どこへ」

「そうだなあ……山かな、海かな、とにかく自分で決めたとこならどこでもいい、どこか」


 何も追ってこないところへ。自分の願いがかなう場所へ。どこまで行けば、約束の地へたどり着くのだろう。独立して暮らせばいいのだろうか。まだ誰かの保護下にあるという事実は、消えるものではない。今すぐ、この子供の衣を脱ぎ捨てられさえしたら。


「そうだ、キス……しようか」

「ん、いいですよ」


 ナツカさんとが笑って、私のブラウスを肩にかける。彼女の袖をつかむ。目がきらきらと濡れている。おとがいをあげて、目をつむる。どっちから近づいたらいいのかな、私か、彼女か。ゆるゆると頭が動く。そっと、触れ合う。三秒、息を止める。大人に近づくための証を交わす。波が静かに引いていくように、離れていく。


「苦い……ね」


 彼女の唇はほのかにコーヒーの味がした。


「私は、甘かったですよ」


 ふわりとナツカさんが笑う。


「大人になれたかなあ」

「どう、でしょうね」


 少しだけ彼女の笑みが曇る。


「パイプライン、って覚えてる?」

「あの、石油を運ぶ太いパイプですか?」

「ううん、そっちじゃなくてさ」


 パイプラインとは、パソコンのプログラムで使われる記号だ。縦に一直線の棒。意味は『OR』


「はじめて、聞きました」

「あれ、総合学習で、インターネット検索習う時、言われなかった?」

「私……三年になってかずっと、学校に行っていないんです。毎日、学校のかわりに、ここに通っていて」


 彼女が急にぎゅっと私を強く抱きしめた。私の首筋に顔を埋めて、震えている。


「午前中は、伯父さんが来て、勉強を教えてくれます」


 うめくような声の硬さにどきりとした。それは、本当に、勉強なのか。

 私を助けてくれた児童相談所の人が言っていた。心まで踏みにじられた子供は周りに嘘をつく。自分が何でもないように見せかけようとする。私もそうだった。ずきずきと頭の芯が痛む。


「アイリス」


 事務所で手続きを待っている間、いろんな子供の話が漏れ聞こえてきた。食事ももらえない子供、置き去りにされる子供、そして……。


「逃げよう」


 逃げよう。誰も傷つけるもののいないところまで。


「無理、です」

「どうして」

「逃げたって……どうせ」

「そんなことない!」


 アイリスは曖昧な、ぼんやりとした顔をしていた。この表情は知っている、鏡の中で見たことがある。悲しみや辛さを押し殺して、誰にも見せまいとする顔。


「永遠に、パイプラインの上に、細い細い棒みたいなあやふやな上にいるような気がしてる」


 将来の夢は何? 進路はどうする? お父さんとお母さんどっちが好き? 

 選べ、選べ、選べと、言われ続ける日々。でもパイプラインの上は細すぎて、いつも願う前に、決める前に、ふらりとどこか、他人が用意した選択肢に落ちてしまう。


「でも、さ。アイリス、逃げていいんだ。私たちだって、好きな選択肢を選んでいいんだ」


 海でも山でもいい、ここではないどこか、好きなところへ。耐えなくても、こらえなくてもいいどこかへ。


「モカさん、ありがとう」


 アイリスの顔がくしゃくしゃに崩れる。目のふちまで涙を溜めて、口は笑って。


「私……そう、言ってもらえただけで、嬉しい」

「行こう!」


 ゆっくりと彼女は立ち上がり、フェンスに指を絡めた。錆びた網が彼女の手の中で鳴る。ねえ、アイリス、背中を向けないで、私のほうを見て。


「どこへ行っても、うまく、いく、ような気がしないんです。……ううん、何がうまくいくってことなのか、何が私の願いなのか、それさえも、わからない」


 背を向けたアイリスが、両手でフェンスを握りしめる。おんぶしてくれた時と違って、とても小さく縮こまった背中。

 私はいい、助けてくれる人がいた。相談所の人も、ウチヤンも、叔父さんと叔母さんも、みんなで一丸になって、私を母から守ってくれた。傷だって私のはきっといつか治る。だけど、アイリスは真っ暗い中にひとりぼっちだ。心の希望まで吹き消されて。


「私を見ろ!」


 無理矢理、彼女と金網の間に潜り込む。背中で金網がたわんだ。チビで良かった。精一杯背伸びして、顔をつかんでキスをする。やり方なんか知らない、ただ荒々しく。


「やめて……!」


 彼女に肩を押さえられて、すぐに引き剥がされる。頭の上に、熱い雫が降ってくる。


「もう、今日、お別れしたら、二度と会えないんだから……優しく、しないで」

「二人で一緒の学校に行って寮に入ろう! 山でもいい、海でもいいから!」

「……パパもいつか迎えに来るって言った。ママだって何度も言った。でも、二人とも、遠くの町で別々に家族がいるって! 私のことなんかいらないって! だから……」


 つながりが消えるのは痛い。どうせ消えてしまうつながりなら、最初からつながらなければいい。私も、最初そうやって大人の助けを拒んだ。どうすれば今日知り合ったばかりの私が、アイリスの手を離さないって証明できる。子供の私が、どうやったら彼女の心を離さないと証明できる。


「……そうだ」


 乱れていたブラウスを直し、床に放り投げていたベストも着る。アオミドロ色。


「今すぐ、行けるとこがある。私も……前、行こうと思ってたところ。誰にも追いつかれない。誰にも傷つけられない」

「そんなとこ、あるの……?」


 彼女の疑問に行動で答える。金網に指をかけて登る。決めてしまえば越えるのは簡単だ。フェンスの内側でアイリスが戸惑っている。私は金網に背を預け、空に向かって座る。


「私もさ、正直、不安でね」


 あれほど親身になって助けてくれようとした大人を、心のどこかで信じられなかった。今は本気で心配してくれているのかもいれない、けど、明日は。明後日は。一年後は。私のことを忘れたり、疎ましく思うかもしれない。あんなに大切に育ててくれたのに、私を罵り、殴るようになった母みたいに。


「だからさ、行こうよ、一緒に。今すぐ」


 今、お互いのことを大好きでいる今すぐ、一緒に行けばいい。簡単なことだ。


「今、すぐ?」

「今すぐ」


 エレベーターのボタンを押すように、すっと空を指さす。振り向くと、きょとんとしていた彼女の顔が一拍置いて、ふわっと笑った。


「ありがとう」


 フェンスごしに気持ちがぴたり、と添ったのがわかる、そんな笑顔。アイリスはゆっくり時間をかけて、こちら側へやってきた。

 背の高い彼女と私、二人で並ぶ。何にも遮られていない空。少しだけ暗くなってきたけど、まだ色はわかる。青三割、雲七割。不思議と怖くない。

 風がスカートを揺らす。指をからめてしっかり手を繋ぐ。


「あ、さっき撮った写真、見るの忘れた」

「きっと、綺麗に撮れてますよ」

「そうだね」


 そして、私とアイリスは目線を交わし合った。

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